寡黙庵 2017年10月の動き    トップへ(もくじ) 
 
                (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名)    
   
                       
  

・2017年2月
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2017年9月


やんばる学研究会へ


2017年10月31日(火)

 ここしばらく恩納村から離れている。各字(アザ)の名称さえおぼろ。恩納村の神アサギに目を通して恩納村史編さん室へ(打ち合わせ)。一項目の原稿を書き上げて伺いたいのだが、お土産はありません。以前、塩屋に神アサギ二ヶ所」と記したような。それは「真栄田村に神アサギ二ヶ所」である。ならば、塩屋と真栄田が一村であったり、二つの村が独立したりしていたことの説明がつく。恩納村の神アサギで塩屋村に神アサギ二ヶ所と記したのは訂正。


2017年10月30日(月)

 台風22号の後片付、老体に響いている。「山原の地割」について脳裏をかけめぐっている。昭和60年頃に「山原の地割」についてかじったことがある。今帰仁の地割は、「貧富割」「貧富および耕耘力割」「貧富および人頭割」「人頭割・年齢に関せず」とあり、村(ムラ)によって異なっていて、そのムラの地割基準だと個々に説明する必要があり、今帰仁では、名護市では、恩納村ではと、一言で言うことができないことに気づかされたことが思い出される。それ以来、各ムラは異なるのだとの視点で見るようになったことがある。

 大宜味村は地割の基準が「人頭割、年齢に関せず」のみである。その「村史」や「字誌」などの中に「お腹の中にいるときから土地が与えられていた」「あのおばあにも与えられていたよ」など。キナバルなど山手にあり、杣山の焼き畑と関わる地名があり、それは地割と関わる土地である。地割から土地整理(明治32~36年)、土地整理に関わった役人の辞令書、間切図面などがあり、そのことがムラ(社会)の動き(移民や出稼ぎ)や人々の生活にどう影響しているのか「まとめ」てみるか。今月の業務日誌も忘れずに提出せねば。原稿の校正も。二ヶ所の字誌も。


           ▲山原の地割基準

2017年10月29日(日)

 台風がそれたのか、我が家は被害がほとんどなし。屋内に所狭しと避難させていた鉢類を元の場所へ戻している奥さん。「何しているの!」の声が飛んできそう。私は「寡黙庵」の台風の後片付けへ。時間がないので過去のメモ。よく問い合わせのある「番所(役場)移転」と源為朝上陸址碑」について再度掲げておくことに。

2003.12.11(木)メモ
 
 今帰仁村の役場は現在字仲宗根にある。近世から大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)は今帰仁の東側の運天港にあった。大正5年に運天にあった役場が今帰仁村の中央部の仲宗根に移転する。その後押しは大正2年8月15日の「沖縄毎日新聞」(今帰仁通信)の記事ではなかったかと考えている。

   [役場移転問題]
     本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲
     し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里等交通運輸の便
     なきのみか僅にニ三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓
     を負ひ前方屋我地島と相対して其間運天港を擁し極めて寂莫荒
     廖の一寒村に候
     予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要
     あるかを怪しむ者に候 今泊在の吏員に至りては早朝家出しても
     役場到着は十時頃になるべくそれより汗を拭き去り涼を納れて卓
     に向へば時辰は十一を指すべし 一時間にして食事をなし更に
     二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし 然れ
     ば毎日の執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候
     加之人民の納税、諸願届書類の進達等学校に各字の小使派遣
     等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と傷害を受け居る
     かは門外漢の想像し得ざる所に有之候
     曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為に
     遂に沈黙の悲運に逢着したりと 些々たる感情の為めに犠牲とな
     る村民こと不憫の至りに候 


その記事が出て三年後の大正5年に今帰仁村役場は運天から中央部の仲宗根に移転する。

2003.12.10(水)メモ

 次のような文章が目についたので紹介しましょう。運天隧道(トンネル)や源為朝公上陸之跡碑などについて説明することは度々あるが、当時の様子を記した記録がほとんどない。自動車道と上陸記念碑の祝賀会や除幕式などが行われていて興味深い。除幕式は大正12年6月23日である。

    大正初期に村役場は運天から仲宗根に移され、仲宗根の大井川町から運天
    まで自動車の通れるような道路が出来、その開通式と為朝公上陸記念碑も建
    立されたので、その序幕式を兼ね盛大な祝賀式典が挙行されました。当日の
    祝賀会において源為朝公を偲ぶ歌を記して

     一、鎮西八郎為朝公 東南の勇士止み難く大海原を船出して着し所は運天港
     二、運天森の松風と 高く聳ゆる石踏は、為朝公が上陸の跡をば永久に語るらん
    三、英雄逝て七百年 うるま島の裏波は 君が功を賛えつつ調べも高く歌うなり

     斯して式典は恙なく余興としてハーリー競技に始り、夜は古典舞踊や為朝公上
    陸記念祝賀会にふさわしい余興がくりひろげられ有意義な催であった。

         「ふるさと今帰仁の思い出」諸喜田武吉(『アルゼンチン国 今帰仁
          村人会誌』)


2017年10月28日(土)

 台風の接近で、過去の2011年の調査記録(2011年10月)(奄美の辞令書/沖永良部島/北山神社/イタリアへ/国頭村比地/国頭村のムラシマ/名護湾岸のムラ・シマ/名護神社建建(島袋源一郎)/中城ノロコモイの嘆願書など)を振り返る。


【旧羽地村川上(谷田)をゆく】2003.9.30(火)メモ

 旧羽地村川上(現在名護市)まで車を走らせた。先日、通ったとき谷田神アサギあたり工事が入っていた。昨日「完成したかな?」と立ち寄ってみた。

 旧羽地間切の谷田村は『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』に「こくてん村」と「川上村」と登場してくる。『琉球国由来記』(1713年)でも「谷田村」「川上村」が独立すて出てくる。その後の 『御当国御高並諸上納里積記』(1738年以降)には「川上・谷田」と二カ村が併記され、同じ頃の『琉球一件帳』でも川上村と谷田村が出てくる。「具志堅の歴史」でもそうであるが、どうも近世末に村の統合が各地であったようだ。それを直接示す史料に出会えていないのだが・・・。

 谷田村は明治初期(近世末か)には川上村に統合されたとみえ、『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃調査)の川上村に「神アサギ二箇所、川上嶽、谷田嶽」などと記されている。谷田村が川上村に統合されて、そう歳月が経っていない時期の資料であろう。明治の初期以前に統合された村の神アサギが現在まで残されている。具志堅の真部と上間の神アサーギは昭和16年頃に統合され、今では神ハサーギの跡が辛うじて伝わっている。

 谷田村はホードゥと呼んでいる。ホードゥに何故「谷田」の文字を当てたのか。かつての谷田あたりの地形を想像してみると、羽地大川流域の水田の広がる地域である。水田地帯に田の字を当てたのは理解できる。ホーが谷とどう結びついてくるのか?地形的には小さな谷の多くあった場所である(現在では土地改良で、その姿は消えてしまったが)。「水田と谷の多い」村ではあるに違いないが、ホードゥと谷田と結びつけるには方音の紐解きが必要のようだ。

 それは別にして、ホードゥヌ神アサギが新しく作り変えられたのである。

.
 ▲新しく完成した谷田の神アサギや鳥居   ▲右側のコンクリート建てが神アサギ


【山原船や与論船などの汐懸かり地と関わる記事】

【国頭村鏡地】
 ・鏡地港は波静かで深く、那覇や与論・沖永良部島などと往来する山原船の停泊地。
 ・国頭間切沿岸に標着して救助された乗組員の多くは鏡地港から運天港などへ送還された。(1794年安田村漂着朝鮮人
  は陸路鏡地浜へ。長三間、横九尺程の小屋に滞在。泊港へ。1854年10月、徳之島で難破した生き残ったイリリス人(19人)
  も鏡地港に送られ、そこから泊ま港へ。
  鏡地に塩田があり、薩摩への上木税として123俵余を上納。  

 ・国頭村鏡地は山原船で賑わった船溜まり。戦前は材木や蔬菜などの積み出し、山原船の出入りが活発。
  現在は港としての機能は低下。(浜漁港あり)
 ・フーヤー(帆屋)、赤丸崎の岬に船の帆で小屋をつくり住んでいた人が開拓のはじめ(明治の初期)。
 ・赤丸崎はおもろで謡われる。

【国頭村半地】
 
【国頭村浜】
 屋嘉比川河口は入り江になっていた山原船の出入りしていた。浜に国頭間切の番所があった時期があり、間切の中心地。
 林業が盛んだった。林業は杣山(公有林)から材木や薪を伐るだす山原船に売っていた。
 伐採した材木は肩で担いで運び出し、あるいは山中の河原におろし、川つたいに引ってくる。林業は次第にすたれる。
 戦前は糸満の漁夫に年期奉公をさせた、その関係あkら漁業が広まる。現在漁港があり盛ん。

【国頭村比地】
 農業の他に、林業に依存していた。材木や薪や竹などは地舩(山原船)で泊や那覇へ運ばれた。
 1849年(嘉永2)福寧府に漂着した国頭間切舩は比地舩である(球陽)。比地のびんの嶽と中の宮に奉納されている石灯籠
 と石香炉は乗組員が接貢舩で無事帰国したことを国頭王子正秀が神に感謝し、乗組員だった神山仁屋・山川仁屋・□□大
 屋・山城仁屋らが寄進したものと見られる。

・【国頭村桃原】
 桃原は平坦な土地のこと。辺土名兼久に伸びる砂丘地帯。地籍は奥間であるが、行政上は独立していた。大正9年(1920年)
 に完全に独立する。赤丸崎は大部分は桃原、一部は辺土名である。赤丸崎は屋嘉比港に出入りする船の航海上の目標であ
 った。国頭間切西海岸の上納物は、そこから積み出された。積み出しの保管場所として桃原地内に倉屋置かれた。倉番が置
 かれた。

【国頭村辺土名】

【国頭村宇良】

【国頭村伊地】

【国頭村与那】

【国頭村謝敷】

【国頭村佐手】

【国頭村辺野喜】

【国頭村宇嘉】

【国頭村宜名真】

  (工事中

【国頭間切の汐懸地】
 ・1847年 国頭間切      沖永良部船 道之島船 大和船
 ・1848年 国頭間切      道之島船
 ・1849年 国頭間切      与論船・徳之島・道之島船
 ・1849年 国頭間切      大和船
 ・1850年 国頭間切      与論船・道之島船
 ・1850年 国頭間切安波村 大和船
 ・1851年 国頭間切     与論島・沖永良部船・徳之島船・道之島船
 ・1852年 国頭間切     与論船・道之島船
 ・1853年 国頭間切     与論船・道之島船
 ・1854年 国頭間切     与論船・沖永良部船・唐馬□舩
 ・1855年 国頭間切     与論舩・沖永良部舩・道之島船
 ・1856年 国頭間切     与論舩
 ・1857年 国頭間切     沖永良部舩
 



2017年10月27日(金)

 国頭村安波について。国頭村には明治13年の廃藩置県後、さらに明治36年の土地整理にかけて、国頭の居住人が船を所有する者や比較的土地を所有する者がおり、富農(ウェーキ)が出てきた。
http--yannaki.jp-sin2011nen2l.html

 ・浜の浜端、比地の田ン原、辺土名の仲間、宇良の上門、与那の仲、佐手の前、奥の金城、安田の古堅屋、安波の大城は間切一の豪農などがいた。これらのウェーキは常に十数人のシカマ(身売り人)やピヨー(日雇)が働いていた。宇良の上門小は掟した大城親治の時代に財産を築いたという。男女身売人15人くらい、日雇20人くらいが使役されていて仕明地の開墾にあたっている。集落後方の宇良山では藍の製造をし、藍玉は与論・沖永良部島・徳之島に売り、牛を購入してきた。

 佐手の前は山原船を三隻持ち町屋を経営、常に男五、六人と下女四、五人がいた。所有船は奄美大島や与論を渡航し、行きは建築材や藍玉を積み、帰りは牛や豚を仕入れてきた。木材や薪を河口におろし、山原船に積み込んだ。

 奥のアサギンシーは奥川河口付近に仕明地を開き、また山原船で与那原や那覇を渡航し店を経営していた。奥には与論島から年期奉公人がはいてきた。

 安波の津口に大和船が汐懸けすることがあり、船の中の者をとらえ、間切より夫を雇い、賃を受けとり、その問答を那覇の役人(御物奉行)へ知らせていた。


 ・百姓の屋敷(100坪)、屋敷内に浮得税の対象(棕櫚・蜜柑・芭蕉苧などを植える義務あり)と狭い
 ・蔬菜の栽培、牛・馬・豚小屋・山羊などの小屋
 ・母屋は四間三間、台所二間二間
 ・用材について制限があり、樫やモッコク(いく)などは禁止
 ・瓦葺きは堅く禁止


2017年10月26日(木)

 数年前の記録に目を通してみる。久米島と北山の歴史などである。これから、地割の実態と山原船についてまとめる必要があり、その準備にはいる。それから1673年以前の「国頭按司」の動き。それと山原から首里・那覇へだす材木について、また与論島と東海岸の村々との関わり。興味深い出来事が数多くみられる。(今日は時間がないので、そこでストップ。宿題をいくつも抱えている)


2017年10月25日(水)

 大宜味村田港で聞き取り調査を行う。高齢者から若い頃の調査は困難である。しかし、断片的ではあるが戦前、戦後の田港の姿が引き出せた。
   ・大正生まれの方は、小学校の頃はほとんどが裸足、鹿児島から地元に引揚げてきていたので私は靴であった。
     裸足から草履となり、昭和30年代になると靴で通学するようになった。
    ・学校への弁当はイモ、カーサーバー(芭蕉の葉)に包んで持っていった。先生は白ご飯であった。
    ・学用品はフロシキに包んで通学をしていた。
     ・ムラ(集落)の後方は段々畑。イモ栽培が中心であった。ティールに肥やしを入れて段々畑を何回も通った。
     ・低地に田んぼがあった。デークマタに畑をもっていた。
    ・家の周りに棕櫚があり、その皮で繩(スルガー)をなったり、簑がさをつくったりしていた。
    ・ダキガーに学問のある坊主がいた話は聞いている。なた棚原ペークという大きな人物がいた話。
    ・海岸に船着き場があって山原船がつき薪や竹を積んでいた。
    ・田港は竹(マンタク)が豊富だったのか、割った竹を床にし、その上にニキブックを強いていた。
   ・穴屋、貫家のこと。
    ・学童は、ほとんどが、バサージンであった。
   ・お産のこと(産婆は塩屋からきていた)
   ・満産から(祝い)
   ・学校や畑への途中でイチゴやクビやバンシルー(グヮバ)などの実が季節になると採って食べていた。
   ・猪は今でも山から下りてくる。
    ・戦前、カイコを飼い糸を紡いでいた家もあった。桑の実はおいしく口の回り紫色になるほど食べていた。
   ・集落の前方の海岸は、潮がひくと貝がよくとれ、お汁にすると美味しかった。いつの間にかとれなくなった。
   ・対岸まで泳いだという。
   ・田港はキジムナーは見たことないよ。あれは喜如嘉や蛇名城のこと?
   ・樟脳のことか。ダチガーに水車があり、木を削っていた。楠を削ってチップにしていたか(確認のこと)。
    ペーガサが出ないように楠の葉をお湯にいれて体をふいていた。
  ・バナナは庭先に植えて、よく食べていた。
  ・カンジャーヤーの祠があり、鍛冶屋道具がある(フイゴ・金床・風吹き口など)
  ・鍛冶屋跡を示す図像があり(大破)
  ・昭和30年代の田港の写真あり。段々畑や茅葺き屋根の家、セメント瓦の家など。山手への道筋が確認できる。
  ・集落の海岸に船着場があり、山原船か。
  ・鍛冶屋の向かいに首里から拝みにくる祠がある。田港に番所があった頃の話か。役人をして首里に引揚げ、その
   一族が拝みにきている。
  ・根謝銘ヤーのこと。川田の根謝銘ヤーも清明祭のとき思徳金一族の墓にお参りにくる。
  ・ハジキ(針突き)のこと。断髪のこと。
などなど。^

 
     ▲田港公民舘にある田港の貴重な写真         ▲田港の後方の畑を通る道筋(現在)の確認

 
           ▲大宜味村田港での聞き取り(村史編纂室)

2017年10月24日(火)

 大宜味村田港でどんな話が聴けるか。

 ここに「援助物資需給カード」(昭和41年か)と鼠の後尾徴収簿」(1960年9月30日~61年6月30日)がある。戦後15年後も援助物資や害虫のネズミを手づかみで退治していた社会である。このような時代が来ないように。

「援助物資はアメリカ国民からおくられたものであります。これが取扱について下記のことを守って下さい。
    注意事項

1.このカード所有者は援助物資を受けることができます。
2.このカードは紛失や汚損しないように所持し他人に譲渡又は貸し付けしてはならない。
3.受領した食糧物資は、他人に売ったり、譲ったり、交換したり又は食糧以外に使用してはならない。
4.
5.
6.援助物資は無償であるから、あなたに対して金銭の負担はありません。

 援助の品目はバルザー・メリケン粉・サラダ油である。



「鼠の後尾徴収簿」
 1960年9月から翌年の6月までのネズミの尾の徴収簿である。字民40人の徴収惣計は702である。

   (工事中)


2017年10月23日(月)

 ムラ・シマの内情を見ていく。どうしても字(ムラ)を書き記していくとき、バックボーンとなる一年間の動きを念頭に入れておく必要がありそう。花木の捕植や育ちを見ながら、足が地について資料をみていくことに。


 ▲雨で潤った地に補植      ▲台風の余波の雨で一気に伸びる  ▲数本のホウライカガミが成長


     ▲あるムラの1948年11月~1949年12月一年間の動きをみる。

2017年10月21日(土)

 「寡黙庵」へ来客。頭の中は講演の続きを語っている。台風が沖縄本島東側を通過との予報。髪をカットして気分転換。時々降る雨で花木に勢いがでてきた。手入れでもするか。(少し疲れ気味)


2017年10月19日(木)

 加計呂麻島(西部)の神アサギ(トネヤ)へ。


2017年10月17日(火)

 10月20日(金)の講演のレジメ作成。午後から大雨なので籠もっている。演題は「山原の社寺と民間の建造物」である。山原にある社寺は数件である。まずは並べてみることに。社寺の紹介はできるが、建造物としての話はお手上げです。(工事中)

 ①金武寺 ②久志権現堂 ③久志観音堂 ④屋部寺(凌雲院) ⑤照太寺(権現堂) 

間切番所
 ①金武番所 ②恩納番所 ③運天番所 ④伊江島番所

山原の神アサギ
  ①『琉球国由来記』(1713年)→明治17年→明治36年→現在
  ②グスク内にある神アサギ
  ③御嶽(ウタキ)内にある神アサギ
  ④旧家の屋敷内の神アサギ
  ⑤茅葺き屋根の神アサギ
  ⑥明治以前の村の創設と祭祀と神アサギ
  ⑦神アサギの構造の変遷
  ⑧合併村の神アサギ
  ⑨租税の一時集積所
  ⑩神アサギとウタキの神社化
  ⑪建造物の規制

④旧家の屋敷内の神アサギ

⑦神アサギの構造の変遷

⑧合併村の神アサギ


2017年10月15日(日)

 講演に登場する国頭村のムラ・シマの確認。辺土名の上島の神アサギから。神アサギまでの道筋の草木が刈られているので今年の海神祭が行われた痕跡がある。

・国頭村辺土名の神アシャゲ
   戦後ブロック造りで改築。間口三間奥行二間余で、四隅はブロック造りの壁なっていて、その上にセメント瓦の
   屋根を葺いてある。床も天井もなくノロ達の集まる時は莚が敷かれている。


 辺土名の「世神の宮」、宇良、伊地、建てかえられた与那、そこから横断して安波、安田、楚洲、奥まで。
奥は資料館とハガキを頂いていた島田さん宅まで。奥ノロ殿内、辺戸ノロ殿内などの調査のこと(紹介していただけることに)。安田の辞令書のあった家の確認ができたらと。(奥間・辺土名・与那・安波・辺土のノロ家の遺物の一部、調査に関わったことがある)(国頭村のノロドゥンチの調査は、目ぼ前のものを片付けてから) どの神アサギにも思い出があります。その話は講演で。

  
   ▲国頭村安波の神アサギ       ▲国頭村安田の神アサギ         ▲国頭村与那の神アサギ

2017年10月14日(土)

 今回の「山原のムラ・シマ講座」は大宜味村白浜(渡野喜屋)です。平成28年の戸数が20,人口が32人規模の小さな字(アザ)です。『大宜味村史 シマジマ』(本編)を活用させていただきます。現在、字名は白浜ですが、昭和21年以前は渡野喜屋でした。果たして浜は白いでしょうか。潮の干満の関係で海岸が歩けるでしょうか。「ちょっと海岸歩きは無理かも知れません」との、白浜の区長さんからの連絡。さて、どうか。平成10年に再建されたかわいい神アサギがあります。

 白浜には色のつく地名があることを教えてもらう。赤崎・白浜・黒崎があると。


             ▲クルイシ崎(黒石)                ▲塩屋湾を眺めながら白浜の区長の解説


 以下の資料は『大宜味村史 シマジマ』(本編)から。





2017年10月13日(金)

 昭和30年代の山原の神アシャゲ(アサギ)の構造について調べた資料がある(『沖縄の古代マキヨの研究』稲村賢敷著)。昭和30年代から現在までの神アサギの変貌が見える。(工事中)

 ・今帰仁村玉城のアシャゲ(写真)
 ・上名護城の神アシャゲ(写真)
   上ナングスクの頂上にある広さ四反歩程の平地の西隅にある。戦後改築されてブロック造りの柱の上にセメント
   瓦で屋根をふき、
 ・羽地村真喜屋の神アシャゲ(写真)
 ・東村慶佐次の神アシャゲ
 ・大宜味村根謝銘の神アシャゲ
 ・国頭村比地の神アシャゲ(写真)
   小玉杜の頂上部にある。約三反歩くらいの平地になっていて、古代マキヨの遺跡である。神アシャゲは間口四間
   奥行三間位で八本のセメント柱の上に、セメント製の桁を渡し、セメント瓦で屋根を葺いてある。床も壁も天井もな
   い。よく古風をたもったセメント造りの神アシヤゲである。(二回茅葺き屋根に葺き替えてある。現在茅葺き屋根) 
 ・国頭村奥間の神アシャゲ
 ・国頭村辺土名の神アシャゲ
   戦後ブロック造りで改築。間口三間奥行二間余で、四隅はブロック造りの壁なっていて、その上にセメント瓦の
   屋根を葺いてある。床も天井もなくノロ達の集まる時は莚が敷かれている。
 ・国頭村宇良の神アシャゲ
  
 ・国頭村伊地の神アシャゲ
 ・国頭村辺戸の神アシヤゲ
   

  
  
 ▲今帰仁村玉城の神アサギ       ▲国頭村比地の神アサギ(1956年)直後瓦葺きへ 

  
   ▲名護グスクの神アサギ     ▲今帰仁村今帰仁(現今泊)    ▲国頭村宇良の神アサギ

2017年10月12日(木)

 さて、今日は?

 ものを造のに、どうしても道具がものをいう。いかに手に技があると言っても、道具がものをいう。「大宜味村に「役場旧庁舎」(国指定)がある。そこに48点の道具が置かれ、何に使う道具なのか説明されている。戦前からの大工道具もあり、使いこなされた手垢のついた道具を自然の光のもとで眺めていると、当時の大工の木造建築の緻密さと、その技術の高さが窺える。(画像大宜味村史編纂室提供)

 


2017年10月10日(火)

 山原には木々の山地でありながら、また技術を持っていながら建築の発展がなかったのか。そのことを資料を合わせ見ながら説明ができそうである。

 「杣山制度」に目を通してみる。
  ・杣山法式帳(元文二年:1737年)
  ・山奉行所規模帳(元文二年:1737年)
  ・杣山法式帳仕次(延享四年:1748年)
  ・樹木播植方法(延享四年:1748年)
  ・杣山惣計(寛延元年:1744年)
  ・山奉行所規模仕次帳(宝暦元年:1751年)
  ・山奉行公事帳(宝暦元年:1751年)

 詳細については後ほど述べるが、琉球国では人口が増え、首里・那覇での木材が欠乏するようになり、山奉行所を設置し山林の監督をさせる。家屋の制限や一本木での舟づくりの禁止。そのことが、山原での建造物の規制が建築技術を発揮する機会が失われてしまう。山原が材木の供給地となり、王府は杣山及び他の山野の管理、監督機関として山奉行所を設けた。

 山奉行所を国頭に3、中頭に1、山筆者を国頭に12人、中頭に2人配置される。その備考に「中頭郡へは仮山奉行を在勤せしめ、国頭郡は全部を三区に分け、一区に一名宛の山奉行をして監督せしむ」とある。王府から国頭間切を領地にした国頭按司が重宝がられた理由もそこにありそうだ。

 それだけ厳しく管理される中で村々にある「神アサギ」が許されたのとムラを見ていかなければならない重要な視点である。『琉球国由来記』(1713年)以後、現在に至って機能し、神アサギが残っている、残しているのは一つの文化だとみてよそうである。時々、「北山文化圏」や「神アサギ文化圏」と呼んでいるのは、そのような背景があってのことである。

 神アサギを謡ったウムイ(大宜味村喜如嘉)がある。
  エー我アサギ 真中に        エー我アサギ(神家) 真中に
  七尋アサギ このみみそーち    七尋アサギ(神家) 造り給い
  八尋アサギ このみみそーち    八尋アサギ(神家) 造給い
    (以下略)
と謡われている。七尋が1.8m×7尋ならば12m、8尋ならば14m余。「あまうぇーぬやじく」でも「七尋あさぎ」「八尋あさぎ」と謡われている。「新築の時のオモイ」(大宜味村大宜味)で「十尋屋 八尋や くぬまびーしが」(十尋屋 八尋や 造ることに」と謡われ、神アサギや家屋も規制されていたことがうかがえる。


2017年10月8日(日)

 山原の神アサギは建造物としてとらえると比較的単純である。その単純な建物が『琉球國由来記』(1713年)から現在まで、山原ではほぼ継承されている。もちろん、かつての茅葺きから、赤瓦やセメント瓦やトタン屋根などに変っているが、神アサギそのものが消えることがない。建物が消えてもアサギマーやアサギナーなの地名に名残を留めている。少なくとも『琉球国由来記』(1713年)以降、300年余り消えることなくありつづけているのか。明治36年以降のムラ(字)の設立で神アサギを置かなくてもいい理由は。
 神アサギには祭祀空間ともう一つ上納の一時集積する施設だということに気づかされる。

      (工事中)

国頭の神アサギ(2002年調査)(未調査あり) (現在とは変わっています)
大宜味の神アサギ
伊平屋島の神アサギ(2003年調査)
恩納村の神アサギ


1.神アサギの分布と変遷

   『琉球国由来記』(1713年)
   「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年)
   土地整理(明治36年)
   現在
 
     (一覧表入れ)


2.古い形を残している茅葺き屋根の神アサギ

 茅葺き屋根の神アサギは、沖縄本島には本部町具志堅、今帰仁村崎山、国頭村比地、国頭村安田、恩納村恩納の五軒である。伊是名村の諸見、仲田、伊是名、勢理客、伊平屋村の我喜屋と島尻にある。

  
   ▲本部町具志堅          ▲今帰仁村崎山        ▲国頭村安田

  
  ▲国頭村比地           ▲恩納村恩納          ▲伊是名村伊是名


3.グスク内の神アサギ

  ・今帰仁グスク内
  ・羽地グスク内
  ・名護グスク内
  ・根謝銘(ウイ)グスク
  ・嘉陽グスク(神アサギは集落内へ移動)

 グスクは標高50m~100mの高いところにあり、そこは完全な祭祀空間である。

  
 ▲今帰仁グスク内の神アサギ趾   ▲根謝銘(ウイ)グスク内    ▲羽地グスク内の神アサギ


    ▲名護グスク内の神アサギ          ▲今帰仁城内の殿敷(神アサギ)(1743年)

4.旧家の屋敷内の神アサギ

 旧家の屋敷内に神アサギが置かれている場合がある。伊平屋・伊是名は『琉球国由来記』(1713年)ではヒャーの屋敷に置かれている。本島側では、瀬底の大城家、国頭村の宇嘉のニーヤー、奥間のノロドゥンチ屋敷、東村平良のノロドゥンチなどがある。

 
  ▲国頭村宇嘉の根屋の屋敷内     ▲伊是名島諸見ヒャーの屋敷


5.明治36年以前に創設された村と神アサギ

 今帰仁間切湧川村の創設は1738年である。その頃村を新設すると神アサギを置き、祭祀を行っている。ウタキを置き、神アサギを創設して祭祀を行っている。


 ▲今帰仁村湧川の神アサギ


6.移動村と神アサギ

 1719年本部間切から今帰仁間切の地に移動したのが天底である。移動地で神アサギをつくり、祭祀を行っている。神アサギをつくり祭祀を行う必要があった。村移動の願いは税が納めきれなかったことに起因している。祭祀は農耕暦であり、移動しても租税を納める義務があった。そのため、移動した地で神アサギをつくり祭祀を行う必要があった。




7.合併村と神アサギ

 ムラが合併しても祭祀は一帯化しない。そのためムラが合併しても神アサギは一つにしない。例えば、今帰仁村玉城は明治36年に合併するが神アサギは今でも三軒ある。今帰仁諸志は諸喜田村と志下真村が合併し、諸志となるが神アサギは二つある。本部町具志堅は具志堅・上間・部間の三つの村が合併、三村の神アサギの柱を集めて神アサギをつくってある。また、三つの村統合を記念して大川の中に九本の神木で三村の統合を、毎年三本づつ交換している。村は一つになっても祭祀は一体化しない。
  
               ▲今帰仁村玉城(玉城・岸本・寒水)の神アサギ

  
▲今帰仁村諸志の神ハサギ  ▲具志堅の三村の神木の取り替え ▲大宜味村津波・平南の神アサギ


8.ウタキ内にある神アサギ

 ウタキ(杜)の内部に神アサギがある。ウタキのイベや旧家跡などがあり、集落の源初的な形態をみせる。

 
▲国頭村比地の小玉杜内にある神アサギ ▲今帰仁村平敷


9.神社化された神アサギ

 昭和初期から神アサギとウタキが神社化される。ウタキを神殿、神アサギを拝殿とし複数の拝所を神殿に合祀される。

  
 ▲本部町の並里神社          ▲本部町謝花(拝殿と神殿)    ▲羽地の田井等(神社化)


2017年10月7日(土)

 連休で「寡黙庵」の鉢の土替えることに。


2017年10月6日(金)

 大宜味村押川の調査に参加する。押川は大宜味村のイメージを大きく変えたムラである。大宜味村の西海岸に沿った字(アザ)の集落調査が主であった。大宜味村の小字や杣山について調べていたら山の生活の字があることに気づかされたことがある。寄留してきた方々が山の生活を主としてきたムラがあることに気づかされ大宜味村のイメージが大きく変わったことが思い出される(まだ、三年)。

 『大宜味村史―シマジマ―』・の編集のとき小字(原域)の線引きで、押川一帯の杣
山の杉敷・楠敷・胡桃敷について気になっていたのでお聞きすることに。
 ここでは詳細に触れないが、炭・藍・竹・楠について伺う。学校への通路、塩屋小へ、一部が大宜味へ。魚などの行商が、竹買いや藍玉や炭などが押川までやってきて買っていったという。

 今では水が流れていないが、製糖工場があり、水車で回していたという。馬がいて大保や田港などへ運搬。字あげての神行事は少ないが、各地からの寄留なので各家庭での行事はしっかりとやっているとのこと。

 茅葺きの家の葺替えは共同作業(ユイセー)で行っていて、道路添いの草刈りは今でも共同で。樟脳製造は本土の方がやっていて、楠は成長が早かったので10年くらいではチップにして窯にいれ蒸留し、蒸留水を冷やして樟脳をとるという。

 押川の炭焼きは、鍛冶屋用と家庭用との区別せず焼いていたようである。用途は炭を買う人が選定していたようだ。

 
近世からの猪垣が今の押川集落添いの外側にあり、集落の周辺の田畑の作物の被害避けになっていないことがわかる。猪垣ができたあとに集落が垣根の外側に形成されたことがよくわかる。戦後になって大宜味村の猪追いだしがあって山からシチタンバク(石油缶)などを打ち鳴らし海岸まで追い出し捕獲したという。

 パイン・砂糖キビ・田などなどの栽培も行われていたが、時代の流れで途切れ途切れで行われていた。主食は芋。旧正月にはブタをつぶし、塩漬けにし、油をとって使っていた。

 押川に住む方々の人生模様(苦労話)など生活の様子をうかがうことができた。そのまとめは『村史』の「押川の民俗」に収録。聞き取り:編纂室、藤田・新城・川津)

 
  ▲押川の小字図             ▲公民舘前の通り(シークヮサーが実っている)      

2017年10月4日(水)

 今年度5回目の講座は大宜味村白浜の予定です。大宜味村白浜(渡野喜屋)です。昭和24年に渡野喜屋から白浜と改称しています。渡野喜屋村は「絵図郷村帳」(1649年)には「国頭間切とのきや村」と記されています。1673年に国頭間切が分割して大宜味間切を創設される以前は、国頭間切の最南端の村です。その南の津波は津波村と平南村は羽地間切(現名護市)から大宜味間切となります。

 渡野喜屋(白浜)、塩屋湾にあり王府時代の宿道(スクミチ)の陸路の終点となった村です。そこから渡し舟で塩屋へ渡ります。番所も田港から大宜味に移り、さらに塩屋へと移動します。さらに役場は現在地の大宜味へ移転します。この塩屋湾をめぐっていろいろな歴史的なことがあります。

 その一軒に1853年ペリーの一行が探検で塩屋湾におとずれています。白浜の対岸の塩屋の大川浜にテントを張り宿泊し、周辺の調査を行い様子を記しています。今回の講座はペリー一行が訪れ探検した塩屋湾をボートで調査しています、私たちもシーカヤックでの探検を予定していましたが、海岸線を徒歩で踏査することになりました。

  (シカヤックの予定は中止。下見をしたら引き潮や潮の流れが一定でないため、
   素人には無理だとのこと。キャンプ場の管理人から)

 先日の城ノロドゥンチの遺品調査の余韻がとれず、頭の切替えのため、塩屋湾での山原船の造船地、停泊地、ハンザキの銅の精錬所趾地の確認。それと小規模の集落形態をみていくことにします。


 ▲ぺりー遠征記の塩屋湾の図(1853年)  ▲白浜の集落図(屋号図)(『大宜味村史―しまじま本編』)より


2017年10月3日(火)

 10月2日(月)大宜味村謝名城のノロ殿内の調査を行う。調査者:前田國男氏(村史編纂委員長:文化財委員長)、藤田、川津、新城(村史編纂室)、仲原。

 
   ▲漆器の丸櫃の調査をされる前田氏       ▲今回調査記録をした城ノロ家の遺品

 ①漆器丸櫃(小:約高さ19cmか)黒漆に沈金、模様、内部漆の朱塗り
  ・蓋(黒漆塗り)(数点に壊れているので、図柄や模様については専門家に依頼予定)
 ②竹筒(2本)
 ③瓶子(対)(錫製)・・・の魚々子鏨が見られる。
 ④湯沸かしの蓋のみ(鉄製)
 ⑤茶択(四枚:黒漆塗)
 ⑥丸形の酒注
 その他(青磁の香炉と花瓶) 文書や勾玉などなし)

 (大量のゴキブリの糞を片付けて返換。遺物が失われているのが残念。字の方々が管理・見守っています)

 
(遺品の実測図を含めて詳細は大宜味村史編纂室でまとめることに。実測と一点一点の撮影は済み)

 今回、確認できたのは上記の遺品のみ。ケーの箱に納められているので神衣装も納められいたと見られる。「大宜味間切城ノロについて、明治43年11月28日(沖縄毎日)の記事で以下のようにある。
  謝名城の丘上に古城趾あり。今尚村民の崇拝する処にして遺物たる曲玉、今は野里氏の
  蔵するところたり」とある。勾玉があったことがしれる。

 他に「城ノロクモイ所蔵」として、以下のように記してある。
   一、宝物(黄金簪一ツ、花ノ周囲六寸五分、竿長三寸五分)
   一、水晶の玉(頸環)大四十九個、小五十一個
   一、絹衣 大一枚、小一枚
   ・サバネ
   ・ハビィル玉(謝名城)

【大正の頃の城ノロクモイは平良カマド】(平良家世襲)(「国頭郡志」による)(大正8年頃)
   平良カマド→旧姓平良信子

 二本の竹筒が黄金の簪(カブ)を納めるのに、水晶玉の類が漆器の丸櫃に納められていたこがうかがえる。サバネとハビィル玉と小刀の写真(カラー)の提供をうけたことがある。「ノロ制度の終焉」で紹介した記憶がある。サバネやハビィル玉などの所在が確認できるかも。




2017年10月2日(月)

 伊江島番所、今帰仁間切番所・今帰仁村役場、兼次公民館、与那嶺公民館、諸志のサーターヤー建設(戦前)、勢理客公民館などの建設建設の様子を思い浮かべながら、源河ウェーキの家跡へ。、そこから今月のムラ・シマ講座(歴史文化センター主催)の下見で大宜味村白浜(渡野喜屋)へ。塩屋湾岸辺が歩けないか(ペリーの地図で塩田の確認)、白浜集落の様子(神アサギあり)、白浜のマチがあった風景(渡舟)、山原船の停泊地など。

 それから二つの村が合併した津波の神アサギ、神アサギの建物は失うがアサギマーの地名に残っている根路銘、饒波、喜如嘉へ。グスク内にある謝名城(根路銘グスク)の神アサギへ。山原の神アサギ的でない建物である。茅葺き屋根の時と現在とでは内部の回り一部に床が敷かれ、そこは神人が座る、他の神アサギで見られるタモト木に相当している。謝名城(合併村)の神アサギの形は山原では一軒のみであるが、奄美大島の加計呂麻島の西部にある神アサギと類似している。


 

名護市教育委員会説明版より

  源河ウェーキは国頭地方一、沖縄の三大ウェーキの一つだといわれている。明治14年11月上杉県令一行が羽地間切から大宜味間切への途中、源河ウェーキで小休止している。「国頭地方、第一の金満家」と表現している。その建物の建設は明治初期の近世の民家の制限が解除になった直後とみられる。上杉県令が訪れた時に休止した建物はこれだろうか。昭和30年代の写真があり、戦争で破壊がなかったのか?

【津波村と平南村が統合し痕跡を残す津波の神アサギ】

 
▲二つの村が統合された津波の神アサギ      ▲津波村の神アサギ   ▲平南村の神アサギの礎石

【グスク内の神アサギ】(山原の神アサギの構造の特例)

 グスク内にある神アサギは根謝銘(ウイ)グスク、羽地グスク、名護グスク、今帰仁グスク、嘉陽グスクがある。グスクは高地にあり、祭祀空間としての役割とみていい。集落内の低地にある神アサギは、明治36年までの祖税は物納である。平地にある神アサギは祭祀空間と税を一時集積する役割を果たしていたと見られる。

  
  ▲グスク内の神アサギ(正面)           ▲神アサギの側面     ▲神アサギの内部(平成元年一部改築)

 朝食をとらずに出発したので、根謝銘の神アサギのスケッチをしている最中にフラフラ。実測せずにグスクを降りて奥間の道の駅に駆け込む。二時以降はの二種類のソバのみ。体調不良の時のソバはダメであるが、そうは言っておれず流し込む。とは、言っても物との対話(一人ごと)なのであきないで続けている。


2017年10月1日(日)

 10月に入ります。頭にある予定が満載。一つひとつ片付けていくことに。20日に報告する「神寺や民間の建造物」については先月ほぼ踏査し報告の骨子は固まる。建造物の構造や技術的なことは語ることはできないので他の報告者にゆだねることに。民間の建造物も数多くあるが、特に戦後の公民館や役場を建築する様子、ムラのウタキや神アサギを神社化された建造物(神社やお宮)、「琉球国由来記」(1713年)から300年余継承されつづけている神アサギ(特に山原)。神アサギで行われる祭祀は消滅の危機にありながら、失うことなく今にある。そんなことを報告することに。100余ある神アサギのすべてを紹介することは、出来ませんので、①茅葺き屋根を残している神アサギ ②グスク内にある神アサギ ③集落内の神アサギ ④合併したムラの神アサギ ⑤大正・昭和に新設された字(神アサギなし) ⑥祭祀は神遊(今の休日)である 

 神アサギは山原の「村(ムラ)の歴史(形)」をたどる重要なキーワードである。さて、どんなまとめとなるか。これから山原の神アサギを踏査しながら考えてみることに。

 さて、そのことをまとめるために山原の神アサギを踏査してみるか。
 先日訪れた伊是名島の神アサギを掲げていきましょうか。

  
   ▲伊是名村諸見の神アサギ       ▲伊是名村伊是名の神アサギ        ▲神アサギ内部の骨組

  
 ▲伊是名村勢理客の神アサギ      ▲伊是名村仲田の神アサギ         ▲勢理客の神アサギの内部