寡黙庵 2017年6月の動き        トップへ(もくじ) 
 
          (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名348番地)    
   
                       
 

               
2月の動き ・3月の動きへ ・4月の動き ・5月の動き 今月(6月)


2017年6月30日(金)

 2010年8月の記録をみると、国頭村与那の海神祭、イベとウタキの区別、今帰仁のクボウのウタキ、中城ノロ家の伝世品の調査、飛んで佐賀県の佐賀城跡、長崎の出島、唐津城、名古屋城跡などを訪れている。そこでいろいろなことを考えている。一つひとつ振り返り記憶を呼びおこしてみる。7月の予定が次々と入ってくる。ちょっとした気分転換。


2017年6月29日(木)

 10年前に座間味村(島)を訪れている。記憶が薄れてしまっている。今年の夏には再度訪れることができるかな。座間味村メモへ


   ▲ヌル宮(ヌルドゥンチをお宮にした?)   ▲学校の後方にあるマカー(座間味の御嶽?) 


2017年6月28日(水)

 7月、8月と夏場はフィールドワークの季節です。過去のメモを復活させ積み残しの確認。

・シヌグ・ウンジャミ(調査メモ )
・山原(やんばる)のノロドゥンチ(調査メモ)


2017年6月27日(火)

 午後から会議あり。事務局の後押し。民俗編の「もくじ」たての説明。住んだことのない地域の民俗編の編集を進めているが、その大半が消えてしまっている。それを掘り起こしていく作業である。戦争体験のない世代が、また戦前、戦後復帰まで生活の様子を記録し、次の世代へ伝えていく役目だとの思いでの編集・執筆である。会議の前に「もくじ」に掲げた項目の中身に目を通しておく(その多くが体験のない項目であるため職員や訪れる方や、出会う方々に伺いながらの作業である)。

 「寡黙庵」に立ち寄るとパッションフルーが10個ばかり自然落下していたので試食。形は悪いが、少し酸味があり、まあまあ、いける。

 

大宜味村び民俗編」(もくじ案)
 ・村の変遷
 ・寄留(ヤードゥイ)のムラ
 ・湧泉
 ・交通(海上・陸上)
 ・交易の品々
 ・土地利用
 ・各字の公共施設
 ・各字の屋号

一、農 業
 イ、稲 作(水田地帯・稲の変遷・稲作の道具)
 ロ、甘藷(イモ)(焼畑)
 ハ、甘蔗(サトウキビ)(種類・製糖小屋)
 ニ、ソテツ
 ホ、作物

二、林 業
 イ、山地の民有化(山の管理、材木の切り出し・運びだし)
 ロ、炭焼き(タンヤキ)
 ハ、炭焼の方法(鍛冶屋用、民家用・炭焼小屋) 

三、漁 業
 イ、イザイ(漁り)突き漁(イグミ)
 ロ、アニク漁
  ・ナガリアニク(流れアニク) 
 ・ビシアニク(座シアニク) 
 ・ティルチキヤーロッカクー(六角)
 ハ、イカ釣り
 二、ササ入れ (いろいろな漁具)
 ホ、網に漁
   ・地引き網
   ・投げ網
 ヘ、海豚(イルカ)

四、大工(セーク)

五、鍛冶屋(ハンジェーク・イシジェーク)

六、土地制度(地割から個人所有地へ)
   大宜味村には地割の痕跡が残っている。
  (土地整理の時の図面と関わった人物の辞令書あり)

  (臨時事務局当時の「辞令書」(十五点あり)

七、賦(ブー制度)(総動員賦:道路・公民館建設など)
  事例
  ・拝所建設・公民館建設・道路工事・灌漑工事・海岸の防風林植付など

  ・ターガイ賦(他のネズミとり)・用水路修理や川さらいなど

八、字費(字運営費)
   藁算(ワラザン)、スーツマー

九、共同作業
  ・イーマール(イーセー)(田植えや甘蔗の収穫)
  ・建築のイーマール
  ・芭蕉の伐採(喜如嘉)
  ・作り分け(ツクイワーキ)
  ・ハネー(田畑を質にして使用権を与え、利息分を使用権を与える)
  ・イシジャ(身売り)
  ・日雇人(田畑の少ない貧農や農家の者が収入を得るために日当をもらって、その日その日の労働を提供していた)
  ・ゲーン(所有権の目印)

十、部落内法

  イ、イシナギエー

  ロ、フダ制
  ハ、家畜家禽取締り札
  二、山林原野保護取締り札
  ホ、風紀取締り札
  ヘ、消費、節約取締り札

十一、計算方法

  イ、お金の単位
  ロ、スーツマーによる金銭の計算方法
  ハ、ソテツの葉による計算方法
  二、藁算(わらざん)
  ホ、稲束や田地の面積の計算方法
  ヘ、布や糸の売買の計算
  ト、物の数・回数・月数・期間・穀物や酒の量・重さ
  ・竹や甘薯の節・束の数・袋の数・荷物の数・家の数

十二、食べ物

  イ、常食 ・サンクェー(参食)
  ロ、味噌の作り方(ソテツ・米)
  ハ、豆腐の作り方(マードーフ・チヌマタ豆腐・モーイ豆腐)
  ニ、酒の造り方
 ホ、季節的食物、嗜好用食べ物、飢饉用食物
  ヘ、その他(調味料・弁当・離乳食・老人用食・食器類

十三、住 居

  イ、家屋の種類
     ・瓦葺きの家 ・茅葺きの家(アナヤー・ヌチヤー)・ターチヤー
  ロ、家屋の配置図と屋敷図
  ハ、間取り(各部)の名称
  ニ、建築儀礼
    神人たちによる儀礼・丑の時の御願・お招きの神々
  ホ、ヤーフキユエー(家葺き祝)
  ヘ、大工の建築儀礼(ヂーチヌウガン:土地引き御願:地鎮祭)
   ・手斧入れ(ティンダティヌウガン)・タティユエー(建て祝)
    ミマールユエー(三廻祝)・棟上げ祝(ムノイアゲユエー) ヤーフキユエー(家葺き祝)
    茅葺屋根(イカヌユエーは頂上部分けを葺き終えたとき)
    ヤーフキユエー(家葺き祝)建築工事が全て終了した日の夕方。
十四、衣
   イ、衣生活について
   ロ、寝具
   ハ、下着
   ニ、おしめ
   ホ,生理帯
   ヘ、笠
   ト、履き物
   チ、雨具
   リ、手ぬぐい
   ヌ,筵家へ、無事結婚式を済ませたことの報告。
    ・ニビキの三日後
    ・ニビキ唄
    ・針突(入墨)

十六、産育
   イ、妊娠
   ロ、出産
   ハ、満産祝
   ニ、命名
   ホ、生年祝
      ・一年目 ・ミタンカー ・十三スーガ(十三才の祝) 

十七、葬 制
   イ、死の与兆(人の鳴き声・タマガイ・ヤマタガイ 
     ・
ヤーフキタマガイ・葬式の行列らしき幻像が見られる)
   ロ、日常の現像や夢によってみる死の予兆
     ・ユーガラサー・烏が鳴き叫ぶ ・メンドリがオンドリの鳴き声をする。
     ・夜、梟やこうもりなど夜鳥が家の中にはいる
     ・野鳥やバッタ類が家に入ってくる
     ・他の家の家畜が屋敷内に迷い込んでくる。しっぽを切りとって追い出す。
     ・歯がぬける夢は親類の者や家族内から死者がでる予兆。
     ・病人が死期が間近になると、その家の近くで火の玉がみられる。
   ハ、死の原因
   ニ、臨終
   ホ、沐浴
   ヘ、死装束と供物
   ト、通夜
   チ、相互扶助
   リ、装具
   ヌ、野辺送り
   ル、副送品
   ヲ、クラソージ(屋外に向けて塩をまく)
   ワ、清骨(シンクチ)
   カ、物忌み
   ヨ、供養
    ・野辺送りの翌日から七日まで
    ・七日の焼香
    ・年忌焼香
     ・ミチャヌミー(葬式の二日目の墓参り)
   タ、厄払い
   レ、禁忌俗信
   ソ、ナキダマシ(泣き魂)  

十八、特殊葬法
  イ、胎児葬法
  ロ、七才以下の子供葬法
  ハ、ナンブチャー(癩病者)の葬法
  ニ、妊婦又は偶数名の死者の葬法
  ホ、猫の葬法
  ヘ、嫁の葬法
  ト、お盆の日の葬法

十九、墓 制 
  ・墓の場所
  イ、墓の種類
  ロ、共同墓
  ハ、門中墓
  ニ、人墓
  ホ、シルピラシドゥクル(ユンシリグヮ)
  ヘ、童墓
  ト、フーキバカ(流行病)
  チ、その他(骨場:クチバ・ガンサなど)
  リ、グソーミチ(後生道)
  ヌ、墓の清掃
  ル、ガンヤー
  ヲ、禁忌俗信
  ワ、墓造りの儀式 

二十、遊び

二一、年中行事
  イ、十二月二四日(火神の昇天)
  ロ、十二月三一日(年の夜:トゥシヌユル、大晦日の事)
  ハ、一月一日(正月)火の神の降臨)
  ニ、一月二日(ハーウガン) 
  ホ、一月二日(初起こし)
  ヘ、一月三日(初畑)
  ト、一月七日(ナンカンシークー)
   チ、一月十四日(ソーグヮチンクヮー)
  リ、一月十六日(ジュウロクニチー)
  ヌ、二月(彼岸祭り)
  ル、三月三日(清明祭:シーミー)(サンガチサンニチー)
  ヲ、三月(フシユフイ)
  ワ、三月(田の祝い)
  カ、四月十五日(シガチウマチー)
  ヨ、四月(畔払い:アブシバレー)
  タ、五月十五日(グンガチウマチー)
  レ、六月(新米:ミイーメー)
  ソ、六月(明け折目:アキウイミ)
      (神ウタあり)
  ツ、七月十三日~十六日(旧盆)
    十三日(ウンケー)十五日(ウークイ) 十六日(終わりの遊び)
    ネ、ウンザミ(ウムイあり)
  ナ、八月十日(柴差)
     柴差しのウムイあり
   ラ、八月十五日(彼岸)
   ム、八月(若草)」
   ウ、九月九日(ハーウガン)
   ヰ、十月(種取り)
   ノ、十一月 ウニウイミ(藷の折目)
   オ、十二月八日(ウルムッチー) 

二二、信仰
   イ、イッキジャマ信仰(生き邪魔)   
   ロ、生き邪魔抜き
   ハ、ファナシャミ
   ニ、シッキー信仰
   ホ、ビュル信仰
   ヘ、ブナガヤ信仰 

二三、大宜味村のウンガミ
  イ、田嘉里(屋嘉比)のウンガミ
  ロ、謝名城のウンガミ

  ハ、大宜味の
  ニ、塩屋のウンガミ
  ホ、ウカタビ
  ヘ、ハンサガ

二四、その他
 ・大宜味村の猪垣
 ・大宜味の地割の痕跡
 ・明治36年の土地整理
  (図と辞令書)

 ▲田嘉里で飼われている猪

二五、民俗地図の作成


2017年6月25日(

 「寡黙庵」の屋敷の草刈りと片付け。30袋ほどの量。軽自動車で2回搬送。紫外線を避けなければならないが、そんなこと言っておれません。時々休憩。四日間の連休ではあるが、日焼けしています。ぶりかえさないように、気をつけよう!

 合間をぬって『大宜味村史』(民俗編のもくじ)(案)作成。本格的に原稿の編集・執筆にはいります。二、三項目モデル原稿を形にしていきます。


2017年6月24日(土)

 6月22日墓調査あり、ちょっと時間があったので本部町渡久地、浜元を回る。浜元は来月のムラ・シマ講座の踏査地にすることに。渡久地と浜元は具志川村から分離した村である。具志川村時代に任命された「ぐしかわのろくもい」の辞令書が残っている。2008年に以下のテーマで浜元を踏査している。本部町渡久地にあるオナジャラ墓(ノロ墓と呼ばれる)墓を開ける機会があったので、前回の講座で崎山の按司墓などについた紹介した。按司墓やノロ墓と呼ばれる墓が今帰仁はテー港、今回は満名川の河口の渡久地港周辺に主要な墓があることの理由づけ。17世紀の伊野波間切の創設と士族の寄留が一つの墓づくりの特徴を示している。浜元には葬制の変貌を示す過渡期の墓が今も残っている。

浜元(はまもと)の概況(がいきょう)

・浜元はハマムトゥと呼ばれ本部町の字である。
・字名は集落が海に面していることに由来する。
・浜元は本部高校近くの具志川ウタキ(グシチャーウガン)付近にあった。
・1700年代に具志川村の一部が移動して浜元村をつくる(一部は渡久地村へ)。
・神行事を行う神人は具志川ノロである。
・旧暦5月と9月にウフウガンがあり、ウタキまで行ってウガンをする。
・浜元の集落はアガリンバーリとニシンバーリに分かれる。
・具志川ノロの男方は間切役人をつとめ唐旅をして「土帝君」をもってきて祭っている。
・具志川ノロはニシンロウヤから出ていたことがある。今は辺名地の仲村家(カラマヤー)から出ている。
 ノロ辞令書が残っている。(浜元にあったノロ家跡と唐帝君)
・今帰仁間切と本部間切の番所(役場)をつなぐスクミチが通る。
・泊原に集落があり、そこはハルヤーと呼ばれ旧士族の人たちが住んでいる。
・旧6月25日の夜に毎年綱引きが南(ペー)と北(ニシ)に分かれて行われる。
・むかしはミージナ(メス綱)とヲゥージナ(オス綱)があったが、今では一本綱。
・海岸にリュウグウの神を祭ってある祠がある。


 
    ▲浜元の旧公民館               ▲神アサギと並んで殿(トゥン) 

 
    ▲過渡期の墓の様相をみせる      ▲神社化されたが元の配置を残している

2017年6月23日(金)

 両墓に葬られている一族は寄留士族と見られる。一族の寄留は1666年の伊野波間切(本部)が創設された頃からの寄留とみられる。それらの寄留人は伊野波(本部)間切に居住し間切役人を勤めたと見られる。本来間切役人は地人からなるのであるが、伊野波(本部)間切創設当初から土着し間切役人への道が開かれたのであろう。本部に寄留した士族一族の墓とみなしてよさそう。墓は門中墓や村墓というより翁氏、顧氏と関わる一族の共同墓とみてよさそうである。翁氏の祖が国頭按司と関わり、国頭按司の鼻祖とされる鮫川大主、顧姓氏も同様。それが鮫川大主につながるのではとのことがあり、それを証明しようと、墓をあけたようです。その報告にあるように、それを証明するには至らなかったとと。

 二つの墓の銘書の年号は古いので雍正(1723~1735年)、その後の乾隆以後の年代である。出身村をみると石嘉川、備瀬、渡久地(1666年ころは具志川村、渡久地村は1713年以前に具志川村から浜元村と渡久地に分離、辺名地、堅健、具志堅、並里などに広がり、村墓でもない。寄留士族の共同墓とみるべきであろう。

 おなじゃら墓と呼んでいるが、57基の厨子甕があるというが、銘の不明のもあるが、具志川のろ関係はわかっているのは2基である。のろやのろの娘が葬られているために「のろ墓」と呼んでいるのであろう。ほとんどが男子やその妻などである。葬られている方々は、前者の按司墓同様本部間切多くの村に広がっている。この墓ものろのみでなく、また女子のみもないので、寄留士族の間切役人を勤めた一族の共同墓とみることができる。

 この二つの墓から墓について、山原の墓と寄留士族の墓との違いをみせ、山原の墓の常識とは異なる様子が伺え興味深いものがある。


2017年6月22日(木)

 
本部町渡久地大多良原にある「御夫人御墓」(おなじゃら墓)を開ける。調査体制と厨子甕数の多さ、足の踏み場もないほどなので詳細は昭和49年の銘書記録にゆずることに。内部の様子を確認するのみとする。昭和49年の調査記録(銘書)を仲村家が持参しておられたので撮影。それらで墓の性格や様子を整理することに。

 大正時代に開けた墓は「安司多部御墓」(あすたべ墓=按司墓)、按司墓と呼ばれる墓。)



 


2017年6月21日(水)

 
本郡町にある志なきらゑ原(現在この原なし)にある「おなぢゃら墓」を開けるので立ち会ってほしいとのこと。按司墓とおなぢゃら墓についての報告書は目にしていた。按司墓は大正7年に内部の調査がなされている。「おなぢじゃな墓」は昭和40年に内部の厨子甕の調査がなされ報告されている。報告書の記録は下のに掲げておいた。デジカメで写した画像から読み込んだので不十分なものである。その資料を持参してくだされば抜けた部分や読み間違いについて訂正したい。

 大正7年のl調査は、「沖縄県国頭郡志」の按司墓が米須里主の墓(按司墓)は、一門の鼻祖としていることがほんとうだろうかとの疑問があり、一部ではほんとうであろうとの期待を持っての調査であった。そのことについてのコメントは後にするとして、今回開ける墓の米須里主の夫人が葬られている「おなぢゃら墓」である。この墓は昭和49年に開墓され報告されている。まずは、墓の内部を拝見してから。両墓の報告に目を通して墓調査(調査はできず)にのぞむ。

本部の按司墓とおなぢゃら墓按司墓について(2014年11月16日(仲原メモ)

【按司墓】(渡久地)(国頭郡志による)

 渡久地の村後丘したに普通の墓所と趣を異にする古墳あり。俗に按司御墓と称う。これ尚円王の兄に当れる米須里主(顧姓久志氏等の租也)の墓なりと称う。里主は元伊平屋の人にして中山尚徳王に奉仕せしが、文明元年徳王廃せられ、尚円王位につきしかば、先王に対する節義を重んじ、かつ弟に仕ふるを耻ぢ家を捨てて北山に隠退し、而して具志川ノロクモイ(今の浜元)を妾として、この地に老を養へり(そのノロの墓はヲナヂャラ御墓といい、渡久地港北岸にあり)、米須の長男は喜界島大屋子を勤めその子孫、今同地八十戸を算すという。

 
       ▲渡久地の按司墓             ▲米須里主の墓碑

翁氏の鼻祖(大米須並をなじゃら)御墓発掘報告書(大正7年:昭和49年)

墳墓発掘の原因

 □も発掘の動機は翁氏の先祖国頭親方の尊父は大米須公なりと伝られしが近頃歴史家の研究する所に依れば大米須と国頭親方の年齢は殆ど九十余年の差あるを以て御親子にあらずして、或いは国頭親方は大米須の御孫にあらずやとの疑念を惹起し、墳墓を発掘し、具体的調査するの必要を認め一門協議会を開き詮議の結果鼻祖大米須公並御夫人(をなぢゃら)御墓を発掘し、緻密に調査するに決定し、其の調査委員は永山盛廉、安谷屋盛堅、東恩納盛起、久志助英等を選定し、本部村渡久地に派遣せらるや、歴史家真境名安興氏に立会を乞い同伴して渡久地に至り大に利する所ありたり。

墳墓発掘ノ日時

 最初は大正七年旧暦八月六日墳墓発掘することに定めたりしが、天天候荒立ち海陸共に旅行し難く八月十一日に延期したるに、尚ほ天気静穏に復せず不得巳、私事の為め曩に出発せる安谷屋盛堅並びに渡久地松太郎等に電報を以て依頼し、十一日午前七時は阿さたひ御墓、仝日午前十一時はをなぢゃら御墓を発掘着手の義式丈を行はしめ、十二日午後一時より調査委員が墳墓を発掘せり。

安可多部御墓の状況(按司墓)

 その位置は国頭郡本部村渡久地うゑの原という山の麓にあり。亥に近き方に向かい渡久地の裏路通りに沿へ天然の洞穴を利用し少しも人工を施さず檀もなく至て質素の感あり。而して石棺十二個あり、陶製の逗子四十個ありて、墓内に厨子を以て充満し、或いは厨子を重ねおきて多し、奥面には数人の骨を混合して堆積せり。

 中央に安置せらるる石棺の蓋に大米須の三字を書し、その中には「乾隆三十九年甲午八月十二日翁氏国頭親方の御親父の由承之」と書したる。木札を発見せり。然し厨子に銘書あるものは土地の人民なるものの如し。又銘書なきもの六個ありて大米須の御子孫なるや否判明せず。従って調査の目的達する能はずるは遺憾に不堪なり。

 古老の伝ふ所に依れば墓内に石碑を入れたる趣き、調査したるも是亦発見する能はず。石棺に乾隆三十九年午八月十二日云々と書したる木札と、今回延期に延期を重ねて午年八月十二日に発墓したると仝年月日も相当したるは実に寄寓の感あり。今回記念の為め左の通り木札に記載し大米須の石棺に入れたり。

 大正七年九月十六日(旧暦七月十二日)一門立会の上御嶽墓を発掘す。古老の指示に従い墓内に入れ置きたりという。石碑を捜索するも発見すること能はず。当時石棺十二個陶製厨子四十個あり。銘書明なるもの及び不明のものも一々謄写し置きたり。

 大米須の石棺に別札乾隆三十九年八月十二日云々の木札ありしに依り其のまま複製し、原文の通り書し入れ置けり。
  大正七年九月十六日
  立会人
   歴史家  真境名安興
   翁氏   永山盛康

         安谷屋盛堅
         東恩納盛起
   顧氏   翁長助持
         普天間助宜
        久志助英
 今回墳墓発掘の際本部村渡久地百三番地島袋盛三郎より願出に依り厨子一個渡せり。


御夫人御墓の状況(おなぢゃら墓)

 その位置は国頭郡本部村渡久地志なきらゑ原という山の麓にあり、渡久地川に面し未申の中に向かい阿さたび御墓(按司墓)とは梢差向かふの方に1檀あり。阿さたか御墓と比し堅牢にして且つ結構なり。外部を高地にして好景色の感あり。墓内は厨子以て充満し、少も余地なし。石棺六個陶製角形六個、厨子五十七個あり。火葬して数人混合して大壺に入れたるものあり。上檀の中央に安置せらるる石棺に二人合納せらるるも銘書判然せざるは最も遺憾とする所なり。下の中央にある石棺には具志川のるくむひと銘書あり。或いは大米須の御妾たりし具志川のるくむひと推察せらる銘書不明のもの十一個ありて、御夫人の御骨を確実に認むる能はず嗚呼。


 裔孫たるものは一生涯遺憾千万なり。期して願くば尚一層研究を重ね探索を継続して鼻祖御夫人の御骨を確認せられんこと

  附言
本部村渡久地二十三番地士族名城政致より申出に依り厨子一個を渡せり

阿さたひ御墓(按司墓)に入れたる厨子に銘書ありて村民との関係者の様に認めらる者の様に認めらるもの左の如し。

一、満名村松田にや              一、具志川のろくもい女子 まうし
一、乾隆三十九年五月浜元村              健堅親雲上女房 
    唐山仲宗根               一、伊野波村仲程
一、嘉慶十七年大辺名地村               渡真理親雲上妻
    唐山蒲渡久地              一、乾隆三十八年三月廿五日
一、乾隆十九年死去八月廿一日洗骨            伊野波村加那玉城
  浜元村辺名地親雲上アンシ             一、渡久地村前石嘉波親雲上
  乾隆○○○○丁亥謝花掟              妻
一、金状 松                  一、道光三年未八月浜元村
   浜元村前並里親雲上                          上渡久地妻
一、乾隆五十六年戌浜元村           一、道光十七年丁酉二月十九日死
  石嘉波大屋子                   浜元村満名村大屋子 妻
一、浜元村                   一、乾隆三十五年庚寅二月七日
  並里親雲上                     浜元村島袋筑登之の妻
一、乾隆三十六戌 浜元村            一、嘉慶七年三月
  浜元にや 石嘉波大屋子               浜元村渡真理親雲上
一、伊野波村仲程                一 ○○○○親雲上
  渡真理親雲上                   伊野波雲上妻
一、嘉慶元年辰六月九日             一、辺名地村當山辺名地親雲上
   辺名地村辺名地親雲上母             男子  女加那覇
一、辺名地村                  一、前辺名地親雲上 男子
  辺名地親雲上 妻                 太良にや
一、志ひら下こうり浜元村             一、乾隆十六年辛未
  辺名地親雲上妻                  大掟文子
一 浜元村                    一、伊芸親雲上
   並里親雲上妻                 一、渡久地村仲宗根方
一、大辺名地仲村渠親雲上                玉城にや
   具志川のろくもい女子             一、乾隆十四年寅十四日
一、タンチャ掟                     辺名地村辺名地親雲上
   渡口村                    一、渡口にや女房
一、乾隆二十九年甲申正月十六日            武太父親
   浜元村渡久地大屋子
一、伊芸親雲上母
  真部親雲上
一、申八月廿四日
   筑登之親雲上女子ウシ             一、銘書不明十一個 
一、乙未
   辺名地掟女房

昭和四十九年四月十三日 旧三月二十一日
   ヌール墓を開けた。



2017年6月20日(火)

 大雨続きで「寡黙庵」に行けず、様子見に。まずは、タイワンハブが待っていました。度肝をぬかれる。ハブは何度もみていますが、タイワンハブの本物ははじめて。どなたかが、裏の通りで見つけ一撃したのであろう。駐車場に投げてあるので、タイワンハブが「寡黙庵近くにもいますよ」とのことでしょう。気をつけます。死体は役場の担当者が取りにきてくれました(感謝)。

 足下を気にしながら屋敷をまわると、両手におさまらないほどの熟れたパパイヤ、雨と風に揺さぶられて落下したパッションフルーツ。スイカは雨が降る前に収穫(ちょっと早いかなと思いつつ)。

 雨で伸びた庭の草刈り。一日寡黙に過ごした一日でした。

  
   ▲高い所に実っているパッションフルーツと落下していた実              ▲タイワンハブの死がい

 
    ▲庭に育ったスイカ(コブリ)       ▲少し早い収穫でした。

 
 ▲はち切れんばかりに実ったパパイア   ▲熟れたパパイヤ(味は?)

2017年6月19日(月)

 大雨つづきで、立ち止まって2009年9月10月の記録を振り返ってみる。


6月17日(金)

 明治の大宜味間切の様子を「問答書」から見ていくことに。伊江島や今帰仁間切、恩納間切は、一部触れたような。明治の習俗や民俗などをしる上で基本資料として押さえておく必要がある。(「大宜味村史」所収より)

 特に興味深くみているのは、大宜味間切から両惣地頭や脇地頭、聞得大君殿や佐敷殿などへの付け届けの品々である。


沖縄県大宜味地方旧慣問答書
(明治17年)

1.吏員の事

一問 筆算稽古人及び文子推挙の方法如何
  答 筆算稽古人は村々に於いて吟味の上家内柄並に人体見合せ、稽古せしむる人員の定なし。手習文子は村々筆算
     稽古人り志願の内人体見合せ、間切吏員吟味の上之を推挙する。而して手習文子より大文子までの役、上りは勤
     功を調べ、吏員中 にて取計い掟以上の役職も勤功(地頭代は尚人品をも撰ぶ)を以て進むを例とす(掟捌理夫地頭
     地頭代は言上惣耕作当惣山当は三司官印紙を以てなる〉
 

一問 地頭代以下の役職交代は凡そ年限の定りある本人の勝手なるや
  答 凡を定あり地頭代三年、勘定主取・惣耕作当・惣山当十四、五年位夫地頭二年、首里大屋子・大掟・南掟・西掟
     各一年、掟四、五年、文子三十
年位なり 

一問 旧地頭へ奉公するの手続、並び年限給料の有無又は掟へ採用の手続現今の人員若干なるや
  答 右は筆算稽古人之内より文子へ採用すること同しく続にて奉公せしむ年限は定るなれども雖とも凡そ三十年位にて、
     掟へ進む給料なし。間切よ
り正頭三分七厘三毛余を引く人員は両惣地頭へ六十七人なり。

一問 掟へ採用の手続如何
  答 掟へ採用方は、縦令ば甲年按司地頭より乙年惣地頭より両年間切より順番を以て人体勤功取調掟へ採用す

一問 吏員の中病気其他の事故にて、辞職の後病気快するときは、再び元役に復するか

答 辞職の後は再び採用することなし。尤も右等の場合に於ては壱年以内は吏員中吟味の上足勤(次後のものより順々
    に勤める)さしめ、本人全快
の時は即ち、足は引取るを例とす。一年以上の事故又は病気の節は両惣地頭差図の上
   其計ひを為する。
 

一問 地頭代以下役々俸給額如何
  答 手習文子  仮文子  相附文子    大文子  惣山当  惣耕作当        勘定主取 掟  捌 理 
        夫地頭    地頭代

    同なし
    同なし
    同なし
    同九升六合弐勺三才  
      同なし

    同九斗    同なし
    同九斗    同なし
     同壱石三斗四升九合弐勺四才 同なし
    同一石三斗四升九合弐勺四才 同なし
    同六年     同三石五斗五升七合七夕
    同壱石八斗  同三石五斗五升七合七夕
    同弐石七年  同三石五斗五升七合七夕
    同壱石八斗  役俸米五石五斗壱舛九合先免夫米四石弐斗先
    同三分 同三分五厘  同三分五厘 同壱人 同壱人 同壱人   
    同壱人 同壱人 同壱人 正頭一人
    両惣地代(ママ)
    奉公人
    同なし
    同なし
    同三分七厘
    三毛余

一問 吏員人員幾許なるや
   答 地頭 壱人 夫地(頭脱か)三人 首里大屋子・大掟・南掟・西掟各壱人 惣耕作・当惣山当 各三人  
      勘定・掟 七人 大文子 八人
 相附文子 四人  仮文子 五人 手習文子 一七人

一問 吏員の旅費は如(何 脱か)
   答 首里那覇登之時、左記の通り 一人に付一日分
    一米五合  一銭四貫文  一供弐人 一茶四勺 一菜種子油二勺  一薪二勺
    但地頭代
      一米五合  一銭四貫文  一供夫一人  一茶四勺 一菜種子油二勺  一薪木六勺
    但夫地頭代以下掟まで
      一米五合  一供壱人
    但文子

2.相続の事

一問 跡相続は必ず嗣一男に限るか
  答 然り嗣一男に限る 

一問 巳を得さる事情あるときは二男三男へ相続せしむるや、又二男三男へ相続せしむる父母の勝手するや
  答 已を得さる事情あるきは二男三男へ相続せしむる事あり。又嫡男に相続せしめざる時は二男三男の内孰れも
    父母の勝手なり。然し親類中へ一応協議
の上取計う。

一問のみにて男子なきときは如何
  答 男子なきときは聟養子す。血統の内より見合せ養子するもあり 

一問 女子に相続せしむる時あるや
  答 無し

一問 男子あると雖も長子女子なるときは女子へ相続せ(し脱が)むることありや
   答 然らず右等の事なし

一同 数人の兄弟ありて分家するときは其手続如何
   答 分家に付て手続等はなし。然し屋地等の割前あるを以て、必ず村方へ申出つ 

一問 分家するときは地所財産等分与するの慣例なるや。又は之を与ふと否とは父母兄の勝手なるや
  答 分家スるトキは資産の厚薄ニ従ひ夫々相応の分与をナス然シ是レは父母兄の勝手なり 

一問 右分与の多少ニ付苦情等差起る事はなきや
  答 右等の事はなし又苦情等申出ツる事は出来ザる習慣ナリ

一問 絶家再興は血統深き者より之を相続せしむべしと雖も事情に依リ血統薄縁なるも相続せしむることあるや
  答 都合に依リテは親類中協議の上血統薄縁なりてるも相続せしむる事あり 

一問 右等の者争を生ずるときは如何せしや
  答 其時は親類中より再三四説諭を加へ又村及間切より説諭し納得(せ脱か)させときは親類中より薄庁(ママ)
    訴へ出ず

3.模合の事

一同 模合の名称如何大模合小模合龕模合取り抜模合等凡そ幾種あるや
  答 模合は大模合小模合の外称なし

一問 大模合(小脱か)模合と組立方に異なる事あるや
   答 各組立方に異なる事なし 

一問 大模合とは総金額凡そ何位なるや
   答 模合は米にして凡そ五十俵より三十俵金にして百円より六十円位を云う 

一問 小模合は如何
   答 小模合は凡そ弐拾円以内 

一問 模合は一体何の為めに設けるか
  答 模合は貧困人を援う為に設けるものにて上納不足の時或くは父母疾病に罹り其他不意の災難に遭ひし
     とき
又牛馬等買入の為に設ける事もあり 

一問 模合は専ら男子間に行るか又女子間にも行るか
 答 模合は男子間に行れ女子間に行れず 

一問 模合取入の先後賦付方法如何
  答 右賦方は一番目は起し人へ相渡し二三番目は惣人数の内不便の軽重を見計リ預メ賦付其後よりは各番目
    
前年に鬮取りを以て相定め尤も不意の災殃等遭ひ番先出願の方は其情実協議の上鬮取リ無く直に相渡す 

一問 模合米出額は送前、掛前の区別ありや
  答 然り送前の者は一人分の出額に二割リ五分の利子
  一ケ年分相付差送り又掛前の方は一人分出額より売貨米〈一人の出額分〉割前高を減少して差出す 

一問 模合関したる苦情等も起る事あるか如何
  答 模合は預メ約条を定め夫々厳格に取扱うに付苦情等の起ることなし 

一問 模合の組立方且盟約等如何
   答 模定左の通

 模定
 一、此模合の義毎年上納米皆同相済次第取立方より五日前に触差出侯はば当日四ツ時分米持参を以て相揃侯
  事尤も時欠の方は一時に米壱升づつ日中差欠侯方は吟味次第科米召行侯事
 一、模合証文仕付の義慥ニ人体より四人づつ口入相立
 一、模合米不納の方は係前は掛捨送前は口入人にて相弁侯事
 一、焼酎壱升      但鬮当例物
 一、同弐升       但取目例物
 一、米壱斗先      但同上肴料
 一、米〈此の額模合米一人の出テ分〉但売貨
 一、焼酎ニ升      但事情に由リ番先出願の時鬮当籠て 

   証  文
 一、米        但弐割五分利

 右者無拠入用に付本行の員数模合相企何番目慥に受取申候尤送前の義は定日刻限通米何俵宛模合揃所へ堅固
 に相納可申侯若シ相違の義共出来侯は口入人にて少も無間違送前結構に首尾方可仕侯此上不届の義共侯は
 模合法様の科米召行侯上口入人誰ソ壱人の家財より
當高の分は不依同色に御引取可被成候其時一言も口能申上
 間敷侯為後証如斯御座候以上

     何年月日
               借 主
                 何  某
     模合人数      口入人
              何某々々 

4.付届の事

一問 文子以上後(役か)上リの時地頭代以下役々へ付届並に盆暮当役々へ付届の定例如何
  答 役々相互に付届けずる事なし 

一問 文子以上地頭代マテ役上リの時々両惣地頭其他へ付届の定例如何
   答 地頭代以下役上り時々付届の定例左の通リ
     両惣地頭へ             地頭代理
  一 肴拾斤づつ      一 焼酎弐合瓶一対ツヽ
  両惣地頭摘子元服次第 同人へ
  一 肴弐斤ツヽ   一 焼酎壱合瓶壱対ツヽ
  両惣地頭惣聞へ
   一 肴弐斤ツヽ
 下知役検者へ
   一 肴壱斤ツヽ 
  両惣地頭へ       夫地頭捌理壱人例并百姓位取の節同
   一 肴七斤ツヽ   一 焼酎弐合瓶壱対ツヽ
  右同嫡子元服次第同人へ
   一 肴弐斤ツヽ
 右同惣聞へ
   一 肴弐斤ツヽ
 下知役検者へ
   一 肴壱斤ツヽ
  掟壱人例並ニ百姓赤頭取リ節同 
  両惣地頭へ
  一 肴五斤ツヽ   一 焼酎弐合瓶壱対ツヽ
  右同嫡子元服次第同人へ
  一 肴弐斤ツヽ   一 焼酎壱合瓶対ツヽ
 首里那覇両宿並下知役筆者へ 役上リ人数模合にて
  一 肴五斤ツヽ
 ごり方へ筵ちんとして
   一 銭五貫文
 評定所公事持へ
    一 銭五貫文
 両惣地頭へ      大文子壱人例〈但相付文子以下は例なし〉
  一 肴壱斤五合ツヽ 一 焼酎壱合瓶壱対ツヽ
 右同嫡子元服次第同人へ
  一 肴壱斤五合ツヽ 一 焼酎壱合瓶壱対ツヽ
 右同惣聞へ
  一 肴壱斤五合
一問 役々より両惣地頭其他へ盆暮等付届の定例如何
   答 盆暮等は役々より付届の例なし 

一問 村又は間切より付届の定例如何
   答 左の通り 

 盆上物例
 両惣地頭へ       間切より
  一 薪木拾束ツヽ   一 明松三束ツヽ
  一 白菜壱斤ツヽ   一 角俣壱斤ツヽ
  一 ミミクリ壱斤ツヽ 一 辛子壱升ツヽ
  一 玉子五拾甲ツヽ 

 脇地頭へ        村々より
  一 白菜半斤ツヽ   一 角俣半斤ツヽ
  一 ミミクリ半斤ツヽ 一 辛子五合ツヽ 
 
 歳暮上物例

  公義へ            間切より
   一 干猪肉拾八斤  一 □壱斗八升
  聞得大君殿へ         間切より
   一 干猪肉壱斤   一 □四斤四合五勺 

 佐敷殿へ           間切より
  一 干猪肉壱斤   一 □四斤四合五勺 

 両惣地頭へ          間切より
   一 □壱斗弐升ツヽ   一 代々九年母弐拾粒ツヽ
  一 焼酎八合ツヽ    一 猪シヽ拾八斤ツヽ
  一 銭弐百五拾文ツヽ

 右同嫡子嫡孫元服次第
  一 □弐升ツヽ  一 肴五斤ツヽ
 脇地頭へ          村より
  一 □五升ツヽ  一 焼酎弐合ツヽ
  一 代々九年母七拾粒ツヽ  一 肴七斤ツヽ
 下知役検者並ニ首里宿へ   間切より
  一 □弐升ツヽ  一 肴五斤ツヽ
 下知役検者詰所へ
  一 九年母五拾粒ツヽ
 筆者在番下知役筆者並ニ那覇宿へ
   一 □壱升ツヽ  一 肴弐斤ツヽ
 地頭代へ
  一 □弐升  一 肴弐斤
 捌理へ
  一 □壱升ツヽ  一 肴弐斤ツヽ
 勘定主取へ
  一 □弐升
 宰領人へ
  一 干塩肴五斤 

5.礼の部

6.冠

一問 男子は何歳ニシ(テ脱か)□髻を結ぶか
   答 十五歳正月朔日□髻を結う慣例なり

一問 □髻を結う時の祝儀は如何親類故旧等を招請するか酒肴等を排設し音曲を奏し舞踏をなすか夫れには
   定式の歌曲等あるか〈又酒肴モ定式の数ある
や〉
  答 男女元服するは、えぶし親〈筆算人より之れをなす〉より□髻を結ひ冠者装束してえぶし親の酌を取り霊前
     並火の神前に至リ瓶酒を飾り拝礼をなし済て酒肴〈豚肉、魚、豆ふ大根、昆布等にて定数なし〉排設親戚故旧
     を招き歌曲舞踏をなして祝儀を為(ママ)をなす〈歌は御前風を始め後は興次第〉
 

一問 女子も何にか笄札に当るべき式あるや
   答 右に当るべき式なし 

一問 同上の時間門に貼する朱紙の聯句式の文句あるか又門え止らず室内にも之を貼するか
  答 然れ聯句は貼せず

7.婚

一問 男子は凡そ何歳にして娶るか。女子は凡そ何歳にして嫁するや
  答 男子は十八、九歳より二十二三歳にして娶り女子嫁するも年齢大抵同 

一(問脱か)嫁娶は総て媒に頼るか野合して夫婦となるものあるや又は少小の時より父母預め婚約
  をなすものあるか

  答 嫁娶は各父母相談の上に頼るの定例なり婚約の比合は八九歳より十五六或クは其時差掛りなすものもあり然かし
    或は幼少にして両親を失ひ困窮にして奴僕となり
嫁娶の手術不行届已むを得ず密に夫婦となり又た互に情を□み
    父母の命媒約の言を待たして縁を結ぶ
ものも間々之れあり 

一問 然らは右様情を寄せ野合して夫婦となるものは如にか父母親類或くは村方に於て懲戒をなし等の事はなき乎
   答 然り懲戒を為なさず 

一問 従兄弟姉妹再従兄弟姉妹等親戚間に於て婚姻を結ふものあるか
  答 然り血統は再従、外戚は従兄弟姉妹よりは結をなす 

一問 夫婦の年の釣合は如何夫より長するを例とするか長せさるを例とするか
   答 夫婦年の釣合は同年なるを好とす 

一(問脱か)甲村のもの乙村のものと結婚し又は甲間切のものと乙間(切脱か)のものと結婚するの例あるか
   答 然り右様の例あり

一問 妻を娶る時は雑用等の名目を以て金円を女家へ送るの例なきか。其金額凡そ幾許ふ(ママ)るか。又離婚の時は
    其金は再ひ夫家へ返へすの例なきか。其外にも幣札等あるか

  答 別紙段雑用等の名目を以て女家へ金円を送る定式なし。或くは該家極貧にして奴婢等に成るものは見受米等
   送るものもあり。亦た右米は夫
より妻を好せすして離縁すれは返却せず妻夫に依リ休縁セは之を返還するを例とす。
   且つ幣礼とは称せずとも米一斗以内弐三升も家内柄次
第婚礼前々日前日に女家へ送る事あり 

一問 妾を置くものあるか妾は身代金として多少の金額を以て買ふの風にあらざるか
   答 妾を置くものなし 

一問 娼妓を以て妻となすのあるか
  答 なし 

一問 夫となる人婦の家に至り親迎する時の模様如何親迎して後両三日間遊郭へ留宿し家人も酒肴を携へ
    親戚故旧を迎へて遊興する等の例なきか

  答 夫となるものは婦家に至リ親迎することなし婦を迎るには夫家より再婚再嫁せすして子供多く出生せる
   夫婦一対或くは二対並に親類より両三人婦家ヱ至り持参の酒肴を以て婦の父母の酌を取リ済て婦を迎ひ
    婦家
よりも右同然附添へ夫家へ参リ婦□内室に入り夫ト一饌に食を共にし〈酌の取リ替へ□し礼教備はらす
    と雖水盛と称す〉父母並親類等より女家の親類等の酌を娶り夫々異りて歌に味線〈歌三味線のことか〉を興行
    し
儀を為す〈夫遊郭へ留宿することなし〉 

一問 親迎の後ち両三日間夫は他の家を借リ止宿等して遊ぶことなきか
  答 なし

一問 夫とより何にか婦の父母を見るの式はなきか
  答 あり婚礼の翌日夫、酒肴を携へ婦家に至り該父母の酎を娶る例なり

一問 父母の命を待たずして情を□み夫婦となるものも別段に婚姻の式を挙るか
  答 是は一定なら前項同断更に其式をなすものあり又たなさざるもあり 

一問 祝儀杯の時招きに預るもの何にか持参するものあるや
  答 然り男は酒〈一二合〉女は重の物〈豆ふ大根昆布杯の〆もの〉持参す 

一問 婦となる人始て夫の家に帰る時の衣服装飾其他の模様は如何
  答 其時婦の衣裳は紺地或くは色掛を着す途中に行くは夫方の親類を先にして次に婦其後より婦方の親類順序を
    為す而て婦の櫛箱並衣類入〈ひち小、庫理箱或は
風呂敷〉を婦の後より持行く 

一問 夫婦と公認するは何々の事を為して後なるや
   答 結婚するは別段村方に於て引合等も之れ無とも前項通媒に頼り公然縁組をなす上は村中其夫婦たるを能く
   之を認む
 

一問 婦夫家に帰り上は村方え届出等之れあるや 
   答 然り村方え口頭の届出なす 

8.喪

一問 人死すれば第一第二第三の手続如何僧を請するか。僧幾人と定りあるか
  答 人死すれば即ち号哭して第一屍を浴し髪を結ひ第二死差の衣服を被せ第三棺に収めて之を送る僧は請ふことなし 

一問 鉦は死すると直に之を鳴すか。●二点連三点連等の区別あるか
  答 鉦を鳴さず 

一問 棺は坐棺臥棺か
  答 臥棺なり 

一問 棺に用る木材に定りあるか
  答 然らず杦七分板並雑板 

一問 棺の大さ如何
   答 長さ三尺四寸四分●あ深壱尺四寸四分 

一問 屍を棺に収る時、屍の動揺せざる様物を棺中に詰るに何を以てするか
  答 臥棺にて何む詰る事なし

一問 存生中平生珎愛せし器物等は棺中に入れて送る等のことあるか
  答 煙草入並手掛は棺中に入れ外に入れものはなし

一問 親族の凡そ棺に入る事あるや
  答 右等のことなし 

一問 他の物品入る等の事あるか
  答 五穀の籾、針を紙袋に入死人の首に掛く 

一問 葬送の模様如何
  答 其模様四流旗燈炉位牌天蓋龕を備へ子孫親類号泣して村人等列送る 

一問 洗骨は何年の後之をナスカ其骨を始末スる方法如何
  答 三年後或くは七八年になすものもあり一定の年期なし其骨は壺に入て亦た之を墓内に収む 

一問 喪に居るものは簪を脱する等の事あるや
   答 然り喪中は簪を脱す

一問 喪中結髻等の事如何
  答 喪中結髻す。然し剃刀を遣り鬢附油等を用ひず 

一問 喪中他人に接するに平常と異なる事あるや
  答 喪中見舞人に接するの外他人に接せず、他人も輙く其家に至らず祭 

一問 人死して後ち三日或くは一七日目には吊祭((弔))の式あるか。其時は酒肴を備ふか、其外二七日
   三七日或は四十九日一周忌七年忌抔同断なるか

  答 葬送翌日墓参し、其後四十九日まで七日目に酒肴を備う。一周忌三年忌七年忌十三年二十五年右同断〈四十九
  日よりは霊前に於て祭る〉三十三年忌供物は前項に異なり〈豚魚、餅、吸物、●ニ汁一菜の膳〉
 

一問 酒肴を備へ墓所に至り祭をなすは何月何日なるか
  答 正月十六日なり

一問 清明彼岸等は如何
  答 右等祭は執行せず 

一問 祖先を祭は如何春夏秋冬を以てするか、或くは単に命(日脱か)のみなるか
  答 別に春夏秋冬並命日も祭ることなし。単に前項の祭りのみを執行す 

一問 盆祭リは如何の式あるや
   答 十三日晩方門左右に明松を燃し、主人出て拝してショウ・ラウを迎ひ入て霊前に香を焼き拝礼をなす茶湯
     果類(あた子並つぐの実、メヨウカ、コウガ、九年母、荻)を供し十四日朝晩茶湯並三度の膳(粥或は唐芋)を供し
    十五日右同断(晩膳は一汁一菜)酒、餅〆物(豚肉魚野菜)を備へ夜九ツ時分計り焼香拝礼して門外、或は浜辺
    まで送る。而て兼て飾置の果類其辺に送り置く例式なり
 

一問 地頭火の神土地君等のを祭るには其式間切を以てすか、其時はのろこもり主祭たるか、又のろこもりは
神歌を唱へ神舞等をなすか、其装束如何

 答 地頭火の神祭費は毎月朔望間切費年中麦の穂祭稲の穂祭稲の大祭は両惣地頭費を以てす。而して其祭は
のろこもり管せず。払除当之を任す土地君は祭らず〈根路銘村一ケ村は地頭火の神を祭る尤も祭費等も地頭
費村費の区別右同断〉
 

一問 地頭火の神を祭るには其式如何
   答 朔望は塩沙を供し麦の穂祭稲の大祭には美花米御五水を備へ払除当色掛を着し香焼き礼拝をなす(根路銘
     村火の神も其式同断)
 

一問 麦の穂祭りとは毎年二月何日に之を行うか、其日酒饌を備へ神を祭り百姓業を休む等の事あるか
 答 右祭りは二月中執行するとも、日は期定なし。又供物は酒美花米なり当日より翌日まで百姓稼業を休む 

一問 四月あぶし払同断
   答 前同じ 

一問 五月稲の穂六月稲の大祭も同断
  答 前同じ

(工事中)


2017年6月15日(木)

 大宜味村史の民俗編、挿絵を描く力量がないので、画像を差し込むことに。楽しい編集作業に没頭します。ここ数日、大雨がつづき外の調査ができません。昨日は古文書整理。判読できない文字が多いな。今日出勤して明日から連休(金土日)にするか。

 大宜味村の集落内を踏査していると、8基ほどのビジュル、それらしき石や祠がある。

 ①根謝銘(ウイ)グスクのビジュル
 ②ビジュルヌメー(根謝銘民家の屋敷内)
 ③インジュのビジュル(喜如嘉)
 ④ハーバタのビジュル(饒波)
 ⑤大兼久のビジュル
 ⑥ビジュル(根路銘)
 ⑦ハーミジョウの拝所
 ⑧屋古のハーミヌマー

 ・グスクのビジュルは神人が拝んだという。願いことや占いをする霊石で吉凶を占う。
 ・ビジュルヌメーのビジュルは海の神で、人々の善悪を占う霊石。
 ・海から流れてきた霊石を祀っている(喜如嘉)。
 ・大兼久のビジュルヌメーの霊石はプトゥキ(仏)に似た石、海に浮かんでいた石を持ってきたという。
 ・ハミヤーにある石、根路銘を守護する霊石、神人の引き継ぎのときにも拝む。
 ・塩屋のハーミジョウに中腹あたりにある祠。旅たちや帰郷のおり祈願する。三体の霊石が祀られている。
 ・屋古のハーミヌマー(旅たちや兵隊へ送るときに祈願する。霊石は石筍で人形の形をしている。
 ・ビジュル石は占い石、家の幸不幸、健康などを占う。
 ・謝名城のビジュル石は、大水のとき、水面を浮き沈みしながら流れていく石を見つけ、庭に置いて
  拝んだという。

  
  ▲根路銘のビジュル         ▲屋古のビジュル          ▲謝名城(ウイ)グスクのビジル


2017年6月13日(火)

 外は大雨。遅れ気味の字誌。はまって原稿の執筆校正と全体のページのつかみまで。手放すと手元にもどすまで三週間かかります。寄り道せずに!


2017年6月12日(月)

 昨日で頭を使う事は一区切り。今日は何も考えないことに。車検を理由に仕事はお休みします。悪しからず(車検でオーディオの修理などで一日拘束される)。今日こそは一日寡黙に。ハハハ


2017年6月11日(日)

 講演原稿やっと。充分に準備できず。10時には出ないと。最近、どれも準備不足。言葉がでてきません。




2017年6月10日(土)

 本日は「ムラ・シマ講座」、今帰仁村崎山である。先月は大雨に館内での話。晴天なので、フィールド。集落近くの拝所と古いお墓めぐりかな?

 





2017年6月8日(木)

 平良新助氏と移民や杣山事件のこと。戦後新助氏のこと。午後から玉城の字誌の進捗報告など。それと崎山のムラ・シマ講座、それと金城安太郎氏の挿絵について。さらには大宜味間切の山手のスクミチ(宿道)について思いをめぐらす。屋嘉比のろ殿内の古文書が証書。宮古南星園へ提供した画像の件。それらのことが頭をめぐり。気分転換のため「寡黙庵」で一服。

  
   ▲スイカの収穫間近(ただし一個)   ▲パッションフルーツは数十個の実が   ▲ホウライカガミ(数本植える)


2017年6月7日(水)

 明治15年、尾崎三良の「沖縄県視察復命書」に目を通してみた。尾崎三良が沖縄県内をどのように踏査したのか、その道筋を追ってみる。視察目的は明治12年の廃藩置県直後の士族の家禄処分や学校新設、郡村吏員監督の方法など、それらの実施による民情の調査である。

 時間がないので九月十六日(日)雨の記事に、「午前八時三十分名護番所を発す。降る雨甚きを以茅莚を以竹輿荷物等を包む。・・・・・晩刻西掟携へ村中徘徊村、役場(番所か)及神アサギ等を巡視神アサギには現に村の組頭等衆会、貢納精算に従事する所なり。村役所は畳床板及戸障子悉く除去し、殆ど廃屋の如し故を問う。曰本日貢納物調に付き皆神アサギに移転せり御用向済ば又村役場へ移すなり・・・・」とあり、神アサギが祭祀空間のみでなく「貢納精算」するところでもあったことがしれる。資料で、神アサギの機能が納税の精算所でもあった。

 屋嘉比のろ殿内の修了書など40点の一覧表の整理終わる。興味深い内容の証書がいくつもあり。文書は、これから(9点)。


2017年6月5日(月)

 大宜味村屋嘉比のろ殿内の古文書調査。これまで何度も古文書との出会いがあった。古文書との出会いは感動する。無意識ではあるが、姿勢を正し真剣に向き合っている。大宜味村史編纂室のメンバー(藤田、新城、河津)の感動のつぶやきが発せられる。その雰囲気と一枚一枚めくるは調査者にとって醍醐味である。

 古文書の文書のタイトルの確認中である。これらの資料は、所有者が一族の歴史をたどりながら、継承し続けてこられたことの証であること、そして誇りと自信が持てるようにと、お返ししようと考えている。祭祀が歴史を変化しにくい部分を今につたえているのだと。遺品も含めて。

 情報をくださった田嘉里の金城さん、屋嘉比のろ殿内の大城さんありがとございました。



 
 明治期の土地整理のとき、測量課に努めときの辞令書である(明治34年)

 
                          ▲ノロクモイ跡職ノ件ニ付申請書(昭和6年)


 以前紹介した屋嘉比のろの遺品を含めて紹介することに。http--yannaki.jp-takazato.html

 
 ▲二つの竹筒と簪と勾玉と水晶玉など                ▲脇差(刀剣と鞘と鎺(はばき)

 
     ▲勾玉と水晶玉(ガラス玉)                   ▲「四拾一年」の線彫

 
    ▲簪のかぶ部分                      ▲勾玉や簪などをいれた竹筒

2017年6月3日(土)

 金城安太郎の描いた《今帰仁城盛衰記》についての講演の打ち合わせで沖縄県立博物館・美術館へ。挿絵についてコメントできる立場にないので、どうしようかとの担当者と打ち合わせ。挿絵について意識して描いたり、書かしたことはないが、下に紹介する「為朝伝説」「北山の歴史」、「古利島の戦争」などについて、指導したことがある。その当時のことを思い出すために、当時のメモをとりだしながら、金城安太郎の挿絵について考えてみる。詳細は講演で。

 振り返ってみると、挿絵(ここでは紙芝居)を書くときに、物語の場所、歴史的な位置づけ(どの時代の話なのか)、当時の様子などを意識させながら、指導したことがある。そのことを思い出しながら金城安太郎氏の「挿絵」についてコメントをするヒントがあるかも。

 以下は、記憶を思い出すためのメモである。資料の提供をたただいたので、少しレジメに手をつけました。


2017年6月2日(金)

 ニュージラレンド(北島:オークランド)とオーストラリア(シドニー)を旅行でした。南半球は、これから冬。気温は両国で10度から17度でした。天気に恵まれ、スムーズに移動。それでも面積の広さと社会の動きにはついていけません。博物館や美術館などは建物の外見と名前を眺めるだけ。

 帰国すると講演依頼や移民や演劇のシナリオの件などの封書やメール。まだ疲れがとれていないので、しばらくお待ちください。開封していない封書や問い合わせメールもあり。

 そんな言いわけしている時間がありません。


(過去のメモ)

2004.1.22(木)(過去のメモ)

 午前中兼次小5年の総合学習「伝統文化」がテーマ。27年前の「神人」のビデオを見せて、そこに登場する棒術・踊り・ミャークニー・祭祀などから伝統や文化を実感してもらい、さらに11月に開催したミャークニーから三名の方々のウタを聴かせた。ミャークニーのウタに歌い手の思いが響いただろうか。

 午後から「徳川美術館友の会」のメンバーが来館。館内と今帰仁グスクまで。今年一番の寒さか。北風がビュービュー。名古屋は今朝雪が舞っていたそうですが、十度前後の沖縄も寒いそうです。


 5時前に天底小学校の6年生が、「源為朝渡来伝説」の紙芝居をするので、見て欲しいとのこと。新聞紙半分くらいの用紙数枚に為朝伝説にまつわることを絵にしてありました。29日に発表会だそうです。ゆっくり、はぎれよく発表してくれたら大丈夫なり。

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         ▲今帰仁グスクへの桜が見頃となりました(今日)。


2004.1.14(水)(過去のメモ

 山原のあちこちでヒカン桜(カンピ桜)が咲き出しています。今帰仁グスクへ登る道沿いに早割きのが二、三本あります。それは七分。回りの桜は、まだつぼみ状態。でも、つぼみは大部膨らんでいます。沖縄では桜が咲いたら「春だ!」では必ずしもありません・・・。しばらく、暖かくなったり寒くなったり。

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    ▲カンピ桜がチラホラ・・・       ▲目立ちがりやの二、三の木は六分七分・・

 4時半頃から兼次小の先生方が来館。ウウウー。まとめや総合学習の学習発表だそうです。4年5年6年生。4年生と6年生は一学期にテーマを与えてあったのでその確認。4年生は「民話」を紙芝居方式でまとめていく。その模擬発表会をすることに。6年生はもう一度復習ということに。今帰仁グスクで。5年生は伝統文化と芸能のテーマ。それは工夫が必要です。即座に棒や空手、踊りの出来る子がいるかな。

 ほとんど準備なしで、課外授業をやることになります。子どもたちを引き込んで、理解させて、即座に発表させることになります。以下の三つのテーマをどう進めていくか、頭が回転はじめています。古宇利島のことでパクパクしていた頭が、小学生の総合学習で・・・。浦添市の原稿校正がストップしていますね。それと図像も・・・。
     ・16日(金)・・・・6年生(北山の歴史)
     ・22日(木)・・・・5年生(伝統文化・芸能)
     ・29日(木)・・・・4年生(民 話)

2004年1月16(金)(過去のメモ)

 古宇利島の「島を区分する19の小字(こあざ)」図を作成してみました。小字も島を知る重要なキーワード。現在の19の小字は明治36年の小字を踏襲しています。古宇利島の5基の原名の「いれ原」と「あらさき原」は現在の小字にはありません。但し、いれ原(立ち原の現場に原石あり)は西原だと思われますが、現在の西原とは場所が異なるので、もう少し検討を要します。現在の「立ち原」一帯も西原(いれ原)に入っていたのかもしれない。「あらさき原」の原名も現在の小字にありません。但し、灯台近くに「あらさち」の小地名(現在の流し原)があるので、付近に「あらさき原」があったにちがいない。

 印部土手(原石)が立てられた1743年頃(今帰仁間切は)と現在の小字域(原域)を比較してみると、組み変えが行われています。「あがれ原」の原石は、現在の東原にあり、「あがれ原」を踏襲しているでしょう。



 
午前中、停電あり。兼次小6年生の総合学習。今帰仁グスクの大隅郭(ウーシミ)で「北山の歴史」を通してやってみました。結果は?予行演習のようなもの。今帰仁グスクの中でやるというのは、生徒達はなかなか凛々しい。時代を8つに分け、それぞれの時代をグループごとで発表。今日は、7月にやったことの復習。ハンタ道歩きで一度。そして今回で三回目。ボツボツ全体像がつかめたかな?

 今日やったことを、それぞれ分担の時代を自分の言葉で発表できれば上等。ちょっと歴史の主人公になれたでしょうか?!来月の発表、頑張れ!

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2004.1.12(月)(過去のメモ)

 古宇利島の祭祀について編集してみました。マップはタキヌウガン。ムシバレー・サーザーウェー(ピローシ)・プーチウガン・ウンジャミは写真で。タキヌウガンは全行程を地図で。島を一周するコースにもなります。(島の全体図が未:イラストを描く時間がありません)


                  

【古宇利のタキヌウガン】メモ

 タキヌウガン(嶽の御願)は旧暦の4月と10月の吉日に行われ、島の人達の健康と五穀豊穣の祈願である。神人(カミンチュ)達がムラヤー(サブセンター)に集まり、線香や米や酒や半紙などの供え物を準備する。供え物の準備が整い、神人が揃うとお宮から順次御願をしていく。赤丸が七森七御嶽である。さあ、嶽の御願のコースを回ってみるか。

①お宮

 あれ、お宮の前に鳥居があるね!中をのぞいてごらん。大きな石が置いてあるがなんでしょう。火神?どうも大きな石はカマドに使っていた石のようだ。小さいのは火神でしょうか。

②マーハグチ
 
最近マーハグチまで行けるようになった。岩の下に石が積まれている。お墓?中に頭蓋骨があり、むかしは清めていたそうだ。犬などに蹴散らかされるので石でふさいだという。

③トゥンガヌウタキ
 
トゥンガというと台所のことでだが、台所と関係あるのだろうか?大きな岩陰に石が一個置いてあり、そこに線香を供える。

④ソーヌウタキ
 
ソーヌウタキまでは行くことができない。ソーは小さな谷間のこと。谷間にあるウタキのことだろうか。ウタキまで行けないので道路から遥拝(ウトゥーシ)をする。

⑤プトゥキヌメーヌウタキ
 
一周線から階段を上っていく。岩場の半洞窟に丸っこい石があり、ビジュル石のようだ。神人達の意識にビジュルメー(ハマンシ)が女、プトゥキヌメーが男の神との認識を持っているようだ。

⑥プトゥキヌメーの御願をすませクヮッチモーの手前で神人が横一列になって御願をする。「自分の勤めをちゃんとしました」との報告だそうだ。

⑦クヮッチモー
 
クヮッチはご馳走のこと。モーは広場や丘のこと。持参してきたご馳走を広げてウサンデーをする。最近の弁当の中身はスシ・かぼちゃの天ぷら・タコの味噌炒め。飲み物は酒やジュースなど。

⑧ビジュルメーヌウタキ(ハマンシ)
 
ビジュルは人形の形をした石。別名のハマンシは浜(海岸)の石に因んだ呼び方のようだ。縦穴の小さな洞窟にビジュルが数個ある。神人はプトゥキヌメーが男神、それに対しビュルメーは女神との認識を持っている。

⑨イソーバイ(神人が横一列になって祈る)
 
ビジュルメーでの御願をすませマチヂに至る途中で神人達が横一列になって御願をする。「自分の勤めをちゃんとしました」との報告だそうだ。

⑩マチジヌウタキ
 
集落の上の方にあるマチヂヌウタキのイベまで最近開けられた。大きな岩の下でウガンをする。マチヂは集落から上の方に位置し、チヂは頂上やてっぺんのこと。ウタキの名称は「上の間(空間や広場)」の意味なのだろうか。

⑪神アサギ
 島一周のウタキを回ってくると神アサギにいく。女神人達が到着すると、フンシー神と合流する。神アサギの中からナカムイに向かって祈りをする。

⑫ナカムイヌウタキ
 
ナカムイのイベまで登らず、神アサギの中からナカムイに向かってウガンをする。ナカムイへのウガンが終るとタキヌウガンは終わりである。


2004.1.10(

 時々、雨がポツポツの一日でした。卒論や修士論文でしょうか。三、四名の学生がテーマをひっさげてやってきました。また、以前に百按司墓の木棺の調査したメンバーも。また熊本大学の木下教授が勾玉の実測調査で来館。勾玉について示唆あるご教示をいただきました。ありがとうございます。

 古宇利島しまづくりの資料も作らないといけませんが、来客の対応で遅々とすすみません。その中で、「古宇利島の移り変わり」(歴史)の整理。島の現況を見ていくと同時に「島の移り変わり」も知る必要があろう。

 島の過去の出来事を並べることは、歴史を読取る作業でもあるが、それは同時に島の将来を考える手掛かりにつながります。以前、「古宇利の歴史」で作った年譜を左に置いて、歴史に登場する出来事に関わる資料や地図や物(写真)を並べてみました。うん、なかなか面白い(一人で楽しんでいます)。足が地についたマップになるかも。(却下されるかもですが)

 古宇利島の全体マップと祭祀関係マップがまだですね。ボツボツ!


                【島の移り変わり】
(工事中)


2004.1.9(土)(過去のメモ)

 
ムラウチ集落のマップを編集してみました。原図はA3版です。縮小してあるのでボケーとしています。そんなレイアウトになりました(未完成)。火曜日までに4枚しあげましょう。作業の過程や裏までみせています。ハハッハ



 島を理解するには、いろいろな視点があっていいと思う。
古宇利島は一島一字(アザ)である。その土地を知ろうとするとき、小地名(しょうちめい)もあるが、小字は押さえておきたい。小字名をつけ方島の人々のシマ空間の認識をしることができるからである。古宇利の字(あざ)は、さらに19の小字からなる。小字はさらに一筆ごとに地番を持つ。島(字)を構成している19の小字を紹介してみましょうか。古宇利島には元文検地に使った印部土手石(原石)が五基現存する。小字を理解するのに役立つ資料である。


    
   古宇利の小字(こあざ)マップ

①横太原
 島の集落の東側に位置し、現在の今帰仁村古宇利農村環境改善サブセンターや古宇利大橋の橋詰などがある。この原の多くが兼久(砂地)である。島人たちが飲料水や生活用水に利用したイリガーとアガリーの二つの井戸がそこにある。漁港やヌル墓やムラ墓など古墓がある。ムシバレーの時、虫を乗せた船を流す場所がある。

②古宇利原
 島の南側に位置し、港があり斜面に集落が発達している。古宇利原にある集落をムラウチと呼ぶ。古宇利小学校、かつてのムラヤー跡、桟橋やフェリーの発着場がある。祭祀の大事な場所となるナカムイや神アサギやお宮、フンシヤー・ウチガミドゥンチ・ヌルヤーなどがある。シラサ(岬)やチグヌ浜などもある。

③東 原
 ムラウチ集落の東側に位置する。緩やかな傾斜地をなし、七森七御嶽のマーハグチ・トゥングヮ・ソウの三つの御嶽がそこにある。海岸には小さなソウヌ浜がある。「に あかれ原」の原石がある。「あかれ」は東のこと。

④上 原
 ムラウチ集落の上の方に位置する。古宇利小学校の後方で標高45mから85mの緩やかな傾斜地となっている。

⑤中 原
 ムラウチ集落の後方に位置し、標高50mから90mの傾斜地となっている。七森七御嶽のひとつマチヂがある。その森は緑地をなし、マチヂの後部一帯は中原遺跡となっている。

⑥喜屋原
 ムラウチ集落の西側の一部が喜屋原にはいる。小学校の西側に位置し、標高40mから80mの場所にあり、緩やかな傾斜地をなしている。畑は主にサトウキビが植えられている。

⑦西 原
 イーバイやイリバイと呼ばれ、ムラウチ集落、あるいは島の西側に位置することに由来する。一帯はハマンシ(浜の石)と呼ばれ、海岸に石が多いのであろう。七森七御嶽のひとつビジュルメー(ハマンシ)の御嶽がある。二

⑧野路原 
 ノロ地に因んだ原名かもしれない。

⑨根ガ底原
⑩雨底原
⑪宇辺ノ花原
⑫大当原
⑬仏ノ上原
 
島の北東部に位置し、原名は七森七嶽の一つプトゥキヌメーがあり、仏に似た小石がいくつもあり、祭られている。原名は仏に似た石が祭られていることに因んだ呼び方であろう。海岸線に渡海からつづく浜があり、数多くのポットホールがある。

⑭城 原
⑮宿ノ前原
⑯立ち原
⑰道ノ下原

⑱流し原
 ナガシバイと呼ばれ島の北西部に位置する。北は海に面し、段丘になっている。南側にも二段目の段丘がある。二段目の段丘地域は緑地となっている。キータイイシ(火焚き石)と呼ばれる場所があり、火をおこして旅人や那覇港を出港した船を見送る場所だという。古宇利島を一周する道路が通り、数件の家があり、そこはシチャバル(下原)の集落である。

⑲渡海原

 トゥケイと呼ばれ、島の北側に位置する。海岸線に砂浜がありトケイバマという。海岸一帯に円筒状も空洞になった岩が数多くありポットホールと言われている。つの段丘があり、畑はサトウキビと芋が植えられている。原野も多い。



              
▲古宇利の小字マップ

    
2004年1月8(金)メモ

 先日(3日)、古宇利島のムラウチ集落の歩いた部分を整理してみた。島を歩くとき、これまで港を基点として学校へ、あるいはウンジャミ(海神祭)が行われる神アサギやナカムイへと向かうコース。古宇利大橋が開通すると、島や集落への導線が自ずと変ってくる。そのため、大橋の橋詰や今帰仁村農村環境改善サブセンターが島への玄関口となる。いくつかの流れが想定できる。その一つ、集落内を散策できるマップを作成してみた。マップ情報をいれるためにムラウチ集落を散策をしたものである。

  「何をしているの?」
  「そこの石垣が傾いている屋敷があるでしょう。そこはよ。
  スントーヤー(村頭:掟が村頭になり区長となる)というよ。
  ウチのムトゥヤー」

などと語りかけてくる。散策しながら島の人達と一言でも言葉を交わすことができればもうけもん。

   「あっ、診療所の先生の住宅だ!きれいに掃除してあるな。
   石垣があるぞ。石敢当も設置してあるワイ。お医者さんも魔
   物が怖いのだな」

 
              
▲古宇利島のムラウチ集落マップ
  

       ムラウチの集落

 古宇利島の南斜面に集落が発達し、ムラウチと呼んでいます。ムラウチ集落は、さらに東側(アガリバーイ)、中(ナカバーイ)、西側(イリンバーイ)の三つに分かれています。

【アガリバーイ】
 アガリバーイには今帰仁村農村環境改善サブセンター(公民館:ムラヤー)があり、古宇利大橋を渡ると橋詰広場の隣にあります。一帯が島への、そして集落へ玄関口となります。サブセンターの前の崖の中腹にムラ墓やヌル墓があります。アガリバーイに入ると福木と石垣の屋敷が目につきます。福木と石垣のある家が落ち着いた集落をなしています。それとオカミ石もあります。(イラスト:写真入る)

【ナカバーイ】
 ナカバーイには、民宿があり石垣や福木のある屋敷と出遭うことができます。屋敷のアタイグヮー(小さな畑)には野菜が植えてあり、家庭菜園となっています。空き家になっていますが、セメント瓦の落ち着いた家もあります。港があり、近くにムラヤー跡があります。かつての島の中心部です。港から学校へ登る途中に古宇利小学校発祥の地の石碑があります。坂道を登りきると古宇利小学校に着きます。(イラスト:写真入る)

【イリンバーイ】
 イリンバーイにはナカムイや神アサギ、ノロやウチガミやヒジャヤーなどの神屋、そしてシラサの岬の降り口にお宮があります。シラサは海神祭のとき、神人達が神送りをする場所になっています。ナカムイと神アサギとの間の広場(アサギナー)で海神祭や豊年祭が行われます。海岸にチグヌ浜があり、死者を送るハンジュ?の洞窟(抜け穴)があります。シラサの岬に人類発祥伝承の男女が生活したという抜けた洞窟があります。(イラスト:写真入る)
2004.1.6(火)メモ

 7日(水)は沖縄県立博物館で講座があります。
  「地域博物館の活動と理念―今帰仁村歴史文化センターの事例―」報告する予定なり。レジュメはできたのですが、非常に退屈しそう。ならば、半分はスライドでもやろうか?! スライドの選び出しに2時間はかかりますが・・・。

歴史文化センターは今日が仕事初めです。休館中の事務処理(苦情も含めて)に追われています。年末から周辺整備できょ工事があわただしくなり、歴文への出入りに支障をきたしています。早速、来客;への導線の貼り紙から。3月まで迷惑をおかけします。
 
 正月元旦の日の出を見届けた後、名護市呉我まで行く。元旦の朝、十年余り朝日を見に行っている。ここ三、四年は一人で。いつの間にか子供たちはついてこなくなっている。それに連れも。お陰で朝日を確認して、自由奔放に麓の羽地一帯の集落を歩いている。

今年は呉我まで。呉我に気にいった長閑なカー(ビーガー)があり、正月の若水を汲みに来る方が今でもいるのか(途中で気づいたが、それは旧正なのだ)。ビーガーは清掃され水を汲む柄杓が供えてあった。側にハミダー(神田)があるが、田植えはもう行っていないようだ。旧暦の二月の大安にビーダウグヮンが行われる。

途中、呉我の神アサギに立ち寄るとムラの方々がアサギナーにゴザを敷いて新年の祈願祭が行われていた。古宇利島でも新年のウガンをお宮の前でやっているようだが、名護市呉我でも行っている。

呉我の集落の後方の鍛冶屋原(カンジャーバル)までいく。『沖縄県国頭郡志』に、   
       呉我の後方に鍛冶屋原があり、古へ官立の鍛冶職を置きたる所
       なり。元各間切の農具は官給にして人民は、その代償として一定
       の租税を納めたりしが、後更めて各間切に鍛冶職を置き、而して
      人民の利便を図れり。県下各地にカンヂャーヤー原といえる地名、
      あるいは多くの其の跡地なりという。寛文九年(1667)十二月三十
      日附御教書の一節にいう。

    此中諸間切遣候、鍬、へら、はいし賃として百姓一人に付米一升五合づつ相掛、
    半分は公儀半分は鍛冶細工へ相納候処、百姓疲申候付未之春頃右出米差免、諸
    間切へ鍛冶細工二人づつ立置、夫引合相定候事


とある。呉我は1736年に今帰仁間切地内から現在地に移動した村である。上の文書(1667年)と呉我村(1736年に移動)の鍛冶屋の成立とは時代が異なる。1736年以降に呉我村に鍛冶屋が置かれたことに因んだ原名なのであろう。果たして鍛冶屋跡地を見つけることができるか?