寡黙庵 2017年12月の動き      トップへ(もくじ) 
 
                (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名)    
   
                       
    
     ▲大宜味村謝名城の城ノロ殿内の遺品。根謝銘(ウイ)グスクの祭祀の要になった城ノロ)


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2017年12月29日(金)

 『玉城の字誌』の編集会議で紹介した寒水集落一帯のまとめ(2015年5月22日)にかかったことがある。ほったらかしたまま、故仲松先生の「大井川の地理的研究」から仲宗根のマチ以前の玉城のフルマチ(寒水:パーマ)について整理。仲松先生は今帰仁尋常小学校に赴任し、この玉城に間借りしていたことがあったと。「大井川の地理的研究」(昭和8年)はそのときにまとめられたものと思われる。






2017年12月28日(木)

 2017年はどうにか過ごすことができそう。前半はごまかしごまかししながら過ごしてきました。一年間を振り返る時期に来ています。過去の記録を振り返ることの多かった年でした。

 二日間草木の伐開をしながら、小中学校時代のことを振り返っていました。大島原に自宅(今の寡黙庵)があり、そこで中学時代体験したことが地域研究のベースになっていることに気づかされています。

 まず、大島原という地に家があったこと。大島原の集落を中心に前原・前田原・仲原・越地などの地名がつけられています。古くはムラ(集落)の中心部を基本に地名がつけられています。集落の後方にウタキ(グスク)があり、南斜面に集落が発達し、神アサギなどの祭祀空間が集中してあります。グスク時代以前の遺物が散布していること。集落の南斜面の低地に前田原の地名があるように水田が広がっていました。沖縄のフルジマ(古島)の条件を満たしています。そのこともあって故仲松弥秀先生が研究者や学生をつれて訪れています。それと母が島袋源一郎の妹であったこともあり、いろいろな方々が訪れており、幼いながら側でイヤイヤながら話を聞いていました。

 それと仲原家が神人をだす家であったこともあり、裏座で神行事を見聞きしていました。家の側に神アサギがあり、五年マーイの豊年祭がアサギミャーの舞台で行われます。家にすわって豊年踊りの見学ができる場所にあります。いろんな方が訪れてきますので家を閉めることがありませんでした(巡査屋ということもあって)。

 伐開している場所は大島集落を出て行く通り道にあり、イモや葉タバコ、砂糖キビを植えていたことがあります。作物の植え付けや収穫は父の指示で、ほとんど経験のない母がやっていました。

 伐採地はウンジョウヘー、その名称はなんだろうかと中学生の頃から意味ときをしていたような。未だに自信のある解答を見つけていません。集落後方にウタキ(グスク)があり、その東側にウンジョウヘーが位置しています。ジョウに門の漢字を充てるのが一般的です。ウンは御、ジョウは門、ヘーは辺(あたり)。その解釈には納得できず、そのヒモ解きをはじめたのは中学の頃からでした。グスク(ウタキ)の東側にウンジョウヘーがあり、グスク(ウタキ)内を何度も踏査し、数カ所の人工的なテラスを確認しました。

 
謝名の大島原は古島集落、ウタキ(グスク)、グスク以前・グスク・近現代の遺物、神アサギ、旧家など歴史・民俗の宝庫であることに気づいたのは、昭和60年頃に「じゃな誌」の執筆・編集に関わったことから。。

 そんなことを思い浮かべながらの作業でした。疲労はなし。

 
      ▲今帰仁村謝名の小字(大島原に寡黙庵あり)                ▲大島原のウンジョウヘー
        
 
  ▲大島原遺跡から表採された遺物

2017年12月27日(水) 

 一足先に休み。昨日から放置してあった畑の伐採。牧草地を10年あまり放置してあったので牧草が砂糖キビや枯れた竹状態。場所によってはカヤが重なり積って竪穴式住居状態になっていました。デジカメを持参していなかったので様子を見せることができず残念。100坪程度ですが、花畑にでもしようか。

 正月休み中に形にしてみるか。三年前の正月休みは竹垣づくり。今年は花畑つくりか。「寡黙庵」と200mばかり離れたところにあります。そこは、かつてハブの通り道でした。タイワンハブのすみかになっているのではと用心しながら。ハブと出会うことなく一安心。一帯の森は昭和60年頃「印部石」を探し回った場所である。

 苗の調達にでも出かけるか。それと玉城字誌原稿の画像と原稿の執筆と整理。


      ▲放置してあった畑の伐採(二筆)(何を植えようか?)

2017年12月25日(月)

 明治の地割が行われていた頃の戸主の番号、土地整理の地番、本籍、住所との関係を問われることがよくある。戦後間もなく班を使っていたことがある。明治34年の砂糖消費税の名簿の番号、明治36年以前は海外移民の戸主の番号、土地整理の地番(本籍地番)、明治の一筆限帳や地租名寄帳の戦後の地番など、行政区によって異なるようである。個人情報に関わる部分があるので、その変遷のみ。

【大宜味間切の地割】
 地割はまず最初に各村の配当地の区分けを行うことから始まった。例えば、屋嘉比三ヶ村、根謝銘三ヶ村、大宜味饒波二ヶ村、塩屋根路銘四ヶ村、津波二ヶ村などそれぞで関係村の惣ズリー(集り)を開いて全員納得の上、村分けを行った。次に、各村では各バール米のいくつかの地組を対象に大割し、それから各戸に小割した。
 地割に付される土地は、百姓地・地頭作得地・オエカ地などで、間切の竿入地の役八〇%の面積を占めていた。

  以下の図は明治36年の土地整理の区画を示している。ただし、地番がその時のものか。土地整理期の間切村図があるので、それとの比較確認中。大宜味村史編纂室で「大宜味村の地割や土地整理」の名残を収集している。そのことを含めて整理中。

 渡名喜村西字の地番と屋敷図を参考に大宜味村の字大兼久の屋敷番と地番を比較してみる。

  
   ▲大宜味村字大兼久の屋敷と地番           ▲渡名喜村西字の屋敷と地番
 


2017年12月24日(日)

 
小春日和。年末の清掃でもしようかと庭を回っていると、イチゴが色づいている。クリスマスケーキにそえようか(持ち帰るのを忘れ画像のみ)。ユリの芽が出ている。肥料入れておくか(5月に開花)。伸びすぎた枝を切り落としているとメジロが泣きわめいている。巣でつくるのかな。自然の動植物の春は早いです。年末の一息。
 
  

  

2017年12月23日(土)

 
簡易水道の件で学生がやってきた。謝名のカーのこと、今帰仁村兼次のウイヌハー、具志堅の大川まで。兼次のウイヌハーは昭和60年に聞取りをして報告したことがある。ムラ・シマ講座でも何度か訪れている。その後、簡易水道に関する興味深い資料を手にした。字誌の方で紹介。ウイヌハーから第一、二、三タンクまで。第三タンクでムラの方からタンクの水について、現在は兼次バンタの上のタンクに第三タンクから水をあげて、流しているとのこと。「丸いタンクですか?」と伺うと、「そのタンクでは水圧が弱く、もっと上にタンクをつくり、そこから流しているよ」とのこと。その後、第五タンクまで。(第四タンクは校内に設置されたが必要なくなったので撤去したとのこと)

 ウイヌハーから水をひいた水道管や土管を使っている。当時使った水道管が放置され姿をみせている。土管について伺ってみた。「どこかにかあるはずよ」「土管のつなぎはセメント(漆喰?)で詰めていたよ」とのこと。土管は捜してみよう。なんか字の簡易水道の資料を提供。

 
▲「なきじん研究11号所収」      ▲ウイヌハー近くに水道タンク敷設当時の水道管


     ▲本部町具志堅の土管 

2017年12月21日(木)

 大宜味村の地割、土地整理、土地制度直後の様子、明治41年の間切が村、村が字となる移り変わりを資料で、その実態をみていくことができるのではないか。昨日大宜味村の公民館資料をみる機会があった。50近い戦前(昭和4年)から戦後資料まで。
 
 (まだ、未開封のまま)


2017年12月19日(火)

 小雨、原稿渡しと一部受けとり。パソコンの調子が悪く、校正ができず。第10編の産業でも手をつけようか。「寡黙庵」の庭にはミカンの実、イチゴが花を咲かしている。ちょっと季節を感ずる量。ユリが一気に芽を吹き出してきた。来週あたり肥料を播いてみるか。カマキリは冬支度か。

  
    ▲イチゴに花が咲き出した      ▲シカヮーサーが色づく

 
 ▲カマキリがノソリノソリ

2017年12月16日(土)

 「玉城の字誌」の原稿を執筆中。玉城ノロは玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字を管轄する。ノロはいつも四カ字のすべての祭祀に出席するわけではない。玉城ノロが謝名・平敷・仲宗根まで回るのは大折目(ウプウイミ)のみである。

 昭和40年代に体験した今帰仁村謝名の大島(ウプシマ)周辺での祭祀を思い起こしてみる。謝名での年中祭祀をあげてみる。祭祀を流れで押さえてみることに。謝名の祭祀を管轄するノロは玉城ノロ。玉城ノロが四ヶムラの祭祀と関わるのはウプユミのみである。その流れは玉城→(謝名を通過)→平敷→謝名→仲宗根→玉城の順である。謝名の他の祭祀は謝名の神人を中心とした祭祀である。

 1月(初ウガン)
   根神殿内→オミヤ(謝名神社・ウタキ)→桃原家→仲原家→世神殿内→シカ→区民館

 2月(ウマチー)(旧暦2月15日)
   神アサギ

 3月(ウチマチ)旧暦315
   神アサギ

 4月(タキヌウガン)(旧暦415日)
   玉城のスムチナウタキ→サンケーモー

  麦御願(旧暦4月の大安の日)(旧暦515日)
   オミヤの後(イベ)→桃原家の東側→仲原家の門の側の石→神アサギの東側→神アサギ
 
 5月(ウマチー:稲穂のウガン)
   神アサギ

 6月(ウチマチ)(旧暦6月15日)
   神アサギ
  ウユミ(旧暦6月25日)
   神アサギ→世神殿内

 7月(大折目:ウプユミ)(旧暦7月の後の亥の日)
   桃原家の庭→桃原家の東門→神アサギ

 8月(八月十日のウガン)(旧暦8月」10日)
   桃原家の庭→桃原家の神門側からオミヤへ遥拝(下の画像)→神アサギ
  
  十五夜(旧暦8月15日)
   根神ドゥンチ→オミヤ→桃原家→仲原家→神アサギ→世神殿内→シカー→公民館

 9月(九月のウガン)(旧暦9月の最後の大安の日)
   オミヤの後(イベ)→桃原家の東側→仲原家の門の横→神アサギの東側

 10月神行事なし

 11月(ウンネーウガン)(旧暦1115日)
   桃原家→神アサギ
 
 12月(フトゥチウガン)(旧暦1224日)
   年神殿内→オミヤ→桃原家→仲原家→世神殿内→公民館

 
    ▲謝名の神アサギ傍の根神屋(1972年)      ▲謝名のペーフ屋で(玉城ノロも参加)

2017年12月15日(金)

 地域調査をしていると「原山勝負」という言葉が出てくる。具体的ないどういう事なのか。原山勝負というと、馬や牛や豚などの審査、砂糖キビ、イモ、カボチャなどのの出来具合の勝負。審査結果で優秀者に賞状や褒美を授与する。原山勝負の審査規定がある。原山勝負の差分けの会場となったのは馬場である。

  [審査項目]                  [過怠金]
・灌漑手遅れ                      十銭
・水田除草手遅れ                一坪五厘 
・水押堀手直遅れ                一ヶ所二銭
・田畑荒らし                   一坪五厘
・堤畦切取                    一間五厘
・潮垣明間植樹遅れ              一間二銭
・溝湊へ遅れ                   一間五厘
・諸作物除草遅れ                一坪五厘
・官公有地切取                 一坪七銭
・田畑崩手直遅れ                一間一銭 
・里道作道着取                 一間六銭
・堆肥を耕地に溢し置くこと          一積一銭
・ヤハタ草放置スルコト             一ヶ所三十銭
・鼠捕殺不足                   一疋五厘
・道路側刈手遅れ               一間五厘 
・道路上小破手直遅れ            一間五厘
・畦の破損手直遅れ              一間二銭
・橋堤川面破損手直遅れ           一間二銭
・潮垣破損修復遅れ              一間三銭 
・道路溝渠の無断作り替え           一間三十銭
・蟻象鼻虫の喰害せる甘藷の放置      一積三十銭
・屋敷周囲間明植樹遅れ            一間五厘
・屋敷内掃除遅れ                一坪五厘
・屋根修繕遅れ                  一ヶ所四銭
・飲料水小屋作遅れ               一軒十銭
・水肥溜破損手直遅れ             一ヶ所十銭
・水肥小屋修繕遅れ     
        一ヶ所十銭

 以上の外学齢児童の不就学、租税その他公課の滞納等を加える地方あり。而して審査員は各字の区長その他字の重立ちたる者を以て組織し之れに町村勧業主任一名宛を附し各自居住区域の審査を忌避して他の区域の審査を担当せしむるを以て相競って審査を厳密校正に行う・・・・・

2017年12月14日(木)

根路銘の船溜まり場                                                            

  根路銘の船溜り場は、蔵ン当前から下門前までのスーミーという砂地の深みであった。明治345年頃根路銘に4、5隻の船があり、活躍していたという。明治35年、仲小(ナカグヮー)の山城と前当小(メートグヮー)の金城が仕立てた船は十反帆で、国頭佐手の船大工が上門小の浜で造った。明治40年に十反帆の二号船が上門下で造られ、泉屋の船頭は仲門小の高江洲、西ン門の浜元、新地の宮城などであった。この船は明治45年頃、那覇の三重城のヤラザで座礁 し、沈没してしまったとの記録がある。また、明治40年に照屋と塩屋松根と組んで十反帆の船を造り、明治44年まで順調に航海していたが、下門前の海で大波にさらわれ波打際に船体をたたきつけられ船底が破損してしまうという事故があった。大正元年に上門小下の浜で新しく八反帆の船を造り進水するが一航海もせず他人の手に渡ったという。

  明治頃の船の帆はハブマーであった。ガマ(蒲)の草を編んで作った帆のことである。大正の初め頃、布地が急速に普及し帆に用いられるようになった。布地の反数によって八反帆・十反帆・十二反帆と船体を表していた。大正2年に巨大な十三反帆の船を造るが、この船から布帆に変わったという。その船に用いた帆柱は大宜味の松並木から切り出したが、その船は大正8年に大島で遭難してしまう。

  大正8年頃から運搬船として動力船が物資を運ぶようになり、第二名護丸が 運航する。依然として陸路は不便で、当時根路銘から徒歩で塩屋までいき、二銭の船賃を払って渡野喜屋(白浜)までいき、そこから歩いて名護まで歩いて名護で名護丸に乗り那覇までいった。根路銘から羽地村仲尾次まで刳舟で渡ることもあった。

 
  ▲明治34年、35年頃四、五艘の船の「船溜まり」となったスーミー(砂地の深み)(根路銘海岸)


2017年12月12日(火)

 塩屋湾を明治から昭和初期にかけての様子をみる。塩屋湾岸や宮城島に碇泊している船はマーラン船やヤンバル船とあり、また大和船とも出てくる。湾内を往来する刳舟も登場。積荷をみても当時の様子が伺える。

塩屋湾

  塩屋港は沖縄本島北部の西海岸、大宜味村塩屋湾にある港である。方言ではサーインナトゥという。サーは塩屋、インナトゥは港の意である。『ペリー提督訪問記』にはシャーベイ(Sha Bay)とある。東シナ海に面し、湾口をふさぐように宮城島が浮かぶ。塩屋湾の奥の方に大保川(大保大川)が流入し、湾岸の地質は、湾口が中生代砂岩、奥の方は古生代石灰岩と一部沖積土質からなっている。    

  組踊(「花売の縁」)に            

    「まこと名にあふ塩屋港、入船出船絶え間無く、
        浦々諸船の舟子共、苫を敷き寝に梶まくら」
とある。

  王府時代の塩屋村(ムラ)に17世紀末頃から大宜味間切番所が置かれ(田港→大宜味→塩屋)、首里王府への貢物や薪や木炭を運ぶ山原船マーラン船が出入りしたようである。現在番所跡地は学校になっている(平成27年まで)。「花売の縁」の主人公、森川之子は塩屋で塩を焼いていたといわれ、同劇の最初の場面で「宵も暁も馴れし俤の立たぬ日や無いさめ塩屋の煙」と謡われ、塩焼きの跡に小さな祠が立てられている。

  咸豊3(1853) 年にペリー一行は沖縄本島の資源調査を行い、塩屋湾には石灰層があると報告している。『水路誌』に「此の湾は全く陸地に囲繞せらる。然れども湾港方面に礁脈あるを以て和船より大なる船を入る能はず。湾口付近は距離半浬若しくは一浬の処まで浅水なり」と記されているように、大型船は入れない。湾岸沿いに塩屋のほかに屋古・田港などの集落があり、塩屋には間切 番所、後の役所もあったが、一帯 は陸上交通の不便なところであった。

  昭和37年に宮城島の南側に宮城橋ができ、また昭和35年に塩屋大橋の架設工事が始められ、同38年に開通した。塩屋橋は橋長308m、橋幅8mである。昭和50年に本部大橋が完成するまでは沖縄第一の大橋で、中南部からの観光客が訪れた。塩屋大橋の完成により、湾岸約7kmを迂回しなくても、津波から塩屋へ行くことができるようになった(『角川日本地名大辞典―沖縄県』)。

 現在の塩屋大橋について・・・・・
  

2017年12月11日(月)

 昨日、今帰仁村謝名の大島原から表採された遺物の中にカムイヤキがある。徳之島は数回訪れている。カムイヤキの窯跡へ。「琉球と徳之島」講演でも。辞令書や勾玉や簪、天城町の銅山跡や大城など。しばらく訪れていない。西郷隆盛の居宅や公園。奥深い山手の黒ウサギ。伊仙町の面繩はオンナと呼ばれる。フェリーから眺めた地形は広い台地状地形をなしている。同時にオンナの呼称。そこから恩納村の恩納は、「広い台地状の地」と語義論を展開したことが思い出される。

2011年10月31日(月)メモ

 27日から徳之島。徳之島町の資料館へ。そこには「手々ノロの辞令書」と漆の櫃が展示(徳之島町指定)されている。琉球のノロ関係資料を見るには、奄美のノロ辞令書に入れる必要があるからである。それと手々ノロを出した手々までいく。手々ノロの遺品は徳之島の亀津の資料館(徳之島生涯学習センター内)に置かれている。今回はノロ辞令書を目にするだけで十分。

 手々村は徳之島の北端に位置し、辞令書が発給された頃(万暦28年:1600)「とくのにしめまきり」(徳之西銘間切)の内である。近世の手々村は岡前噯(現天城町内)で、手々が現在の天城町域、あるいは徳之島町内になったり、間切(方切)の変更があり、深見家文書の辞令書の外にノロに関わる近世資料からノロの祭祀や継承についてみていく必要がある。

 首里王府と徳之島手々村との交流(首里王府の奄美の統治)。1500年代首里王府は辞令書を発給し、奄美の島々(徳之島)をどう統治していたのか。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北が薩摩化されていくが、このノロ制度、ノロ家の遺品が今に伝えられ遺されている。琉球的な多くのものが消されていく過程で、このノロ制度が生かされてきたのは?(明治以降の琉球・沖縄におけるノロ制度の廃止に向けての流れと道は一つのような・・・) 

・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)

  しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     てゝのろハ
       もとののろのくわ
   一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日


 
  ▲「徳の西銘間切手々のろ職補任辞令書(1600年)(徳之島町立郷土資料舘)


  掟大八の屋敷の説明板          掟大八の力石(徳之島町手々)


2017年12月10日(

 今年は大仕事を二件残しているが、ここで一服。「寡黙庵」の庭の片付け。片隅に30年前『じゃな誌』の執筆や調査をしていた時期がある。その時に隣の(故)仲宗根氏が集めてきた考古遺物を袋に詰めて持参し、父に預けていたものが出てきた。考古に関心のないころ。あの頃(昭和51年頃)、沖縄研究に手を染め出した頃である。出てきた遺物を目にしながら、当時を振り返ることができそうである。

  
        ▲グスク土器・カムイ焼き・石斧・陶磁器類                   ▲キセルの雁首(土焼き)

 寡黙庵と自宅の年末の片付け。自宅の庭の松の剪定をしていたらキジバトの巣があり、一部残しての枝切りでした。巣に一個の卵。ヒナをかえし巣立つまで残して置くことに。剪定の途中と、ハトの巣立ちまでできるか(途中で放棄するかも)気がかり。手を休めて孫娘のピアノと歌声を聞きに。ピアノ楽しい? あんまり、歌は楽しいよ! 食べながら、起きている間、切れ目なくお話をしている。ちょっと待て、待て、考えてから話しなさい!

 


2017年12月9日(

 「ムラシマ講座」は今帰仁村の運天。パワーポイントがうまく作動せず。どうなることやら!



・運天の歴史 ・歴史を秘めた運天港 ・運天・上運天のタキヌウガン ・運天のクンジャー
 ・運天の百按司墓 ・今帰仁村運天のカンナミガマ


運天の歴史
 運天港は沖縄県今帰仁村(なきじんそん)にある港です。12世紀初頭源為朝公が「運は天にあり」と漂着したことから名付けられたと伝承のある港です。為朝公がしばらく住んでいたという洞窟(テラガマ)があります。その森は運天と上運天の御嶽(ウタキ)となっていて、洞窟の中にイベがあります。また、「おもろ」で「うむてんつけて」と謡われています。

 『海東諸国紀』(1471年)の「琉球国之図」で「要津 雲見」と記され、当時から広く知れわたっていたようです。1609年には薩摩軍の琉球侵攻の時の沖縄本島への足掛かりとなった場所です。運天港の出口に古宇利島があり、近世中頃(1730年以降)から今帰仁間切の地頭代のお抱えの島となります。古宇利島は運天港と対になる役割を果たしています。今帰仁間切が1666年に今帰仁間切を分割し、伊野波(本部)間切を創設した後、今帰仁間切の番所(明治30年頃から役場)が置かれます。

 今帰仁グスクと関わった按司の墓と見られる百按司墓(ムムジャナハカ)や第二監守時代に今帰仁グスクで監守(今帰仁按司)や今帰仁アオリヤエ(三十三君の一人:女官)などが葬られた大北墓(ウーニシバカ)などがあります。大和人墓も二基あります。

 近世末には1816年のバジル・ホール、1846年にフランスの艦船、ペリー艦隊の探検隊などが訪れています。また、1742年に奄美大島に漂着した唐(中国)船の乗組員を収容し、船の修理をした港です。そのような歴史的な出来事の痕跡を遺している港です。

【歴史を秘めた運天港】 

 運天港は沖縄本島北部の今帰仁村にある港である。運天港は古くから知られ、『海東諸国紀』(1471年)の「琉球国之図」に「雲見泊 要津」と記されている。「おもろさうし」で「うむてんつけて こみなと つけて」と謡われている。さらに古くは12世紀頃、源為朝公が嵐にあい「運は天にあり」と漂着したのが「運天」の名称になったという。その話は運天で終わることなく、為朝公は南に下り、南山の大里按司の妹を娶り、その子が瞬天王となり、浦添城の王(英祖王)になったという。為朝は妻子を連れて大和に帰ろうとするが、出て行こうとするたびに波風が立ち、とうとう一人で帰っていった。妻子が待ち焦がれた場所がマチナト(待港、今の牧港)だという。運天に為朝公が一時住んだというテラガマがあり、また「源為朝公上陸之跡碑」(大正11年)が建立されている。

 北山・中山・南山の三山が鼎立していた時代の北山の居城は今帰仁グスクである。最大規模を誇る今帰仁グスクの北山王は明国と貢易をしている。その時の港は運天港だと見れる。今帰仁グスクの麓は親泊があるが、進貢船規模の大型船の出入りできるクチがない。大型船は運天港に着き、そこから小舟で親泊まで荷物を運搬したのであろう

 運天港は1609年の薩摩藩(島津軍)の琉球侵攻の時、こほり(古宇利島)と運天港は船元になった場所である。70,80隻の船が古宇利島から運天港あたりに帆を下ろし休息をした。一部は羽地内海の奥まで散策したようである。一部は今帰仁グスクを攻め入り焼き討ちにしている。薩摩軍は、南下し首里城に攻め入り琉球国は征伐された。時の王は尚寧である。薩摩軍に捕虜として薩摩へ連れて行かれる途中、再び運天港を経由して薩摩へ向かった。

 その後、運天港は薩摩へ運ぶ米(仕上世米)を積み出す港の一つとなる。仕上世(しのぼせ)米を積み出す四津口(那覇・湖辺底・勘定納・運天)の一つが運天港である。

運天には百按司墓があり、第一監守時代あるいはそれより古い時代の墓と見られる。今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司一族の墓が1722年頃、今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあった按司墓を運天港に移葬している。1742年に大島から琉球の運天港に回送された唐船があった。修理する間、運天で40人余の唐人を収容した。その時、三司官を勤めていた蔡温も訪れ指揮を執っている。また、運天には大和人墓が二基あり、一基は屋久島の宮の浦の船乗りだったと見られる。もう一基は安政五年の年号があり、それも大和人の墓である。運天港が薩摩と琉球をつなぐ港として機能していたことがわかる。

 1816年にはバジル・ホールが運天港を訪れている。当時の運天の様子を描いている。また1846年にはフランスの艦船が三隻運天港に一カ月程碇泊し、琉球国と条約を結ぼうとした。その間に二人の水夫が亡くなり、対岸にオランダ墓をつくり葬ってある。ペリーの一行も運天港を訪れている。その時、島津斉彬は運天に出島をつくりフランスと貿易をする構想があった。中国の冊封使が琉球にやってくると、大和船は運天港に着け、薩摩役人は浦添間切の城間村へ隠れ、琉球国が薩摩に支配されていないとカモフラージュする役割を果たしている。

 運天港には今帰仁間切の番所が置かれ、行政の中心となった場所である。番所(役場)は大正5年まで運天にあったのを仲宗根に移動した。今帰仁の行政の中心は運天から仲宗根へと移った。また、かつての運天港は運天新港(浮田港)や古宇利大橋の開通でフェリーの発着場としての機能は失ってしまった。しかし、今帰仁廻り(神拝)で訪れる人々の姿が見られた。そこには琉球(沖縄)の秘められた歴史があり、肌で感じ取ることができる港である。


などなど


2017年12月7日(

 昨日今日と「玉城の字誌」の出稿。出稿のときは徹夜状態が続く。これから芸能や学校教育や公民館資料目録など数編の出稿。
 
       ▲史劇大新城忠勇伝(玉城)               ▲獅子舞(玉城)

【造船の制限】
 
船舶製造の為に杣山内の良材が消費せらるること頗る多く殊に杣山


2017年12月5日(

 「琉球樹木の比重調査」(国頭地方の部)(園原咲也:農林技手)(唱和10年頃より30年前の資料)

 山原船(馬濫船)に関わる資料を捜していると「杣山惣計条々」によると、粟国、渡名喜、伊江三島は元来森林がないから、国頭中頭地方の杣山の材木を以て彼島々の需用を充す様に、又伊平屋、久米、慶良間の島々は相当森林も持合せ有ることであるから熱心に保護管理に努め造林を行い杣山を繁栄させ各島々の用木を時給自足する様」とある。

1.デイゴ木(デイゴ)(産地羽地)挽物・下駄・玩具 
2.ヨナ木(ヤマアサオホ/ハマボウ)(産地名護)下駄・蛇皮線(心材) 
3.ヤマフク木(ウラジロエノキ)(産地羽地)下駄・指物 
4.杉(カウヨウザン)(産地大宜味)建築その他一般)
5.山黒木(シマクロギ/ハマセンダン)(産地久志)下駄・指物


39.サボン木(ヘツカニガキ)(産地本部)耐湿用材(墓用材)
40.アカイジュ木(イジュ)(産地大宜味)良用材

追加あり(工事中)


2017 年12月4日(月)

 大宜味村喜如嘉で位牌(吉浜ノートを遺した方?の家:仲田)・ビジュル・印部石(報告済み)の調査。村史の民俗調査。(コメントは改めて)


                          ▲位牌の表       ▲位牌の裏
表  ①光緒三年丁丑正月廿五日      明治廿二年亥旧五月十八日
        平良親雲上                        仝人妻ナビ
   ②道光五年酉二月九日                同治二年亥旧四月三日
         前田親雲上            前田親雲上妻
   ③道光十年寅旧六月三日       道光五年酉二月二八日
         山城親雲上            山城親雲上妻
   ④乾隆五十一年八月七日       道光五酉二月廿一日
         松 糸数             松 糸数妻
   ⑤乾隆八年子四月廿七日       乾隆三十五寅正月□日
         樽 糸数             樽 糸数妻

裏  ①仲田幸地男子
       たま仲田             仲田ナベ

   ② 記名なし 

   ③ 道光四年申旧四月十六日
        目ざ志母親
   ④ 道光二年午旧三月八日
        幸地目さ志

   ⑤ 記名なし

  
 ▲喜如嘉の民家の屋敷にあるビジュル      ▲喜如嘉の民家の屋敷    ▲佐藤春男が訪れた家だという。

2017年12月3日(

 「寡黙庵」の庭の樹木の伐採をしているとポトンポトンとパッションフルーツ(果物時計草)が落下してくる。雨のせいか風か。真夏の二ヶ月ほど食事のレザートに、先月からまた二個、三個と落下している。粒が小さいので二期目か。成長し大分高い所で花を咲かしているのデジカメを向けたことがないが果物時計草と字を当てているので、時計の針面に似ているのか。(田港の画像は田港公民館提供)

 
▲茅葺き屋根や段々畑のある風景(大宜味村田港)    ▲二期目の収穫(果物時計草)

 このような風景の時代を過ごした方々から話を伺うことがある。作物や動物や染料などの名称やどんな用途なのか、少し知識を入れておく必要がありそう。

・ウコン(ウッチン) 食品の染料として使われる。(タクアン・カレー粉・マヨネーズなど)
・ヤマアイ(山藍・エー) 茎葉から藍色染料を採取し絹布や他の織り物の染色に使用。
・ソメモノイモ(ヤマイモ) 魚網や帆布の織物の染料に使用される。
・ビンロウジ(檳椰子) 未熟の果実は収斂性を有し染料に使う。叩きその液を煮詰めて
             エキス(抽出物)を制し漁網や衣類などの染料とする。
・木麻黄(モクマオウ) 成長が早く材質が堅く薪炭材として適する。荒蕪地の地力回復、
              海岸の防潮林、防風林、樹皮にタンニンが含まれている。
・ソウシジュ(相思樹) 荒廃山の最初の造林用に適している。製炭材に適し、樹皮にタンニ
              ンを含む、心材を細く切煮出したエキスは染色(何色?)に利用される。
・紅花(ハチマチバナ) 黄色素、紅色素を含有し、カルタミンは深紅色を呈し配糖体でフェノール
             の性質を有し種子には脂肪油を含有する。ベニ(紅)を製し、お菓子やカマボコ等
             の食品の着色に用いる。また婦人の口紅にする。古くから栽培し、紅型や花染手布
             の染料に用いられる。
・マングロアーブ
・ヤマモモ(揚梅)
・クチナシ
・フクギ(福木) 防風林や防火林として屋敷の周囲に栽植される。樹皮から黄色の染料を採る。

・パインアップル
・バナナ
・イチジク
・バンレイシ
・ビワ
・柑橘類(はねじみかん・かあぶち・おうとお・たるがよう・ひらみれもん・(シークァサー)
・マンゴウ
・リュウガン
・レイシ
・ブドウ
・パパヤ
・ザクロ
・フトモモ
・バンジロウ

・イヌマキ
・スギ(杉)
・モッコク
・シイ(椎)

・カシ(樫)
・琉球松

・マタケ
・リュウキュウチク(俗称・ヤンバルダキ)
・ホテイチク
・モソウチク


2017年12月2日(土)
 
 国頭村辺戸へ。国頭村辺戸までのルートは、西海岸沿いで。国頭村の西海岸の字名(ムラ)を思い出してみよう。大宜味村との境の浜から。半地、比地、鏡地、奥間、桃原、辺土名、宇良、伊地、与那、謝敷、佐手、辺野古、宇嘉、辺野喜、宇嘉、宜名真、辺戸、奥まで。各字の公民舘、神アサギ、ウタキ、津(港)、村墓、ノロ殿内などを思い出してみる。それらのキーワードで各字を調査してきたので思い浮かぶ。どれだけ言葉にできるか。過去に記した辺戸は目を通しておくことに。[国頭間切の辺戸港](廃藩置県後の様子)は先日紹介。

 本県最北端にして与論島と相対し僅かに十八、九里を隔つるのみなれば、此地より輸出するもの亦少からずという。
 以上列記(島尻地方大里間切与那原港、中頭地方美里泡瀬港、中頭地方与那城間切平安座村、国頭地方本部間切渡久地港、国頭間切運天港)する所は単に推測に出づるのみにあらず頃者与論島の実況を聞知するに同島は実に千二百有余の人口を有するも酒類の供給は悉く本県に仰くものにして其の中正当の手続きを経たる者は、実に僅少にして皆脱税酒類にあらざるはなんと云う、亦以て密輸出の歩を進めつつあるは得て証するに足るべきなり。今此勢を以て推すときは、本県附近の各島徳之島、沖永良部島等所謂道の島なるものは、大概本県酒類を供給し居るばきは、亦疑を容れざる所なれば、臨時委員を派遣し、(道の島は毎月一回の定期航海便あり)その実況を視察せしめられ、尚進んで鹿児島県と交渉し、共に取り絞まりを立てられんこと、最も望む所なりとす。

     国頭村辺戸参照

 天気どうかな?(今帰仁グスク学ぶ会の研修会、忘年会)
 

 辺戸公民館で宮城樹立氏(国頭村)から安須杜、ひちゃら御嶽の石灯籠、大川、ノロ殿内、神アサギ、松並木(抱護林:松並木)、シヌグ毛、星窪趾などのお話を伺う。

 神アサギマーから安須杜をみると、煙がたなびいている。ノロ殿内、神アサギ、松並木、シヌグドー、集落内を通り、星窪(ホシクボ)、義本王の墓、途中やんばる野生生物保護センター(ウフギー舘)まで。

  
▲ノロ殿内の屋根、安須杜にたなびく煙          ▲集落を散策      ▲松並木の大木は減少

  
       ▲集落内を散策         ▲竹藪に「星窪(窪地の縁)」の趾      ▲義本王の墓(上部に梵塔)