寡黙庵 2017年11月の動き      トップへ(もくじ) 
 
                (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名)    
   
                       
    
     ▲大宜味村謝名城の城ノロ殿内の遺品。根謝銘(ウイ)グスクの祭祀の要になった城ノロ)


・2017年2月
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・2017年9月  ・2017年10月

やんばる学研究会へ(案内へ)



第24期 山原のムラ・シマ講座】      (平成2912月9日開催) 

       
    期 第7回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
 

平成29129日  9時 歴史文化センター集合 

      ・出席の確認
      ・運天の歴史(レクチャー)

 1000分 運天港へ

1230分    歴史文化センター着(予定)


 今回の「ムラ・シマ講座」は今帰仁村運天です。運天には港(津)があり、数多くの歴史を秘めた場所です。運天と関わる数多くのことを書き留めてきましたが、歳月がたち記憶の彼方に行ってしまいました。そこで、運天と関わる出来事を掲げ、運天の歴史を紐解いてみます。その後、運天港に行き潮風に吹かれてみましょう。 

[歴史を秘めた運天港】 

 運天港は沖縄本島北部の今帰仁村にある港です。運天港は古くから知られ、『海東諸国紀』(1471年)の「琉球国之図」に「雲見泊 要津」と記されています。「おもろさうし」で「うむてんつけて こみなと つけて」と謡われています。それより古くは12世紀頃、源為朝公が嵐にあい「運は天にあり」と漂着したのが「運天」の名称になったといいます。その話は運天で終わることなく、為朝公は南に下り、南山の大里按司の妹を娶り、その子が瞬天王となり、浦添城の王(英祖王)になったといい、為朝は妻子を連れて大和に帰ろうとするが、出て行こうとするたびに波風が立ち、とうとう一人で帰っていった。妻子が待ち焦がれた場所がマチナト(待港、今の牧港)だといいます。運天に為朝公が一時期住んだというテラガマがあり、また「源為朝公上陸之跡碑」(大正11年)が建立されています。

 北山・中山・南山の三山が鼎立していた時代の北山の居城は今帰仁グスクでした。最大規模を誇る今帰仁グスクの北山王は「明国」と貢易をしています。その時の港は主に運天港だと見れます。今帰仁グスクの麓に親泊がありますが、進貢船規模の大型船の出入りできるクチがありません。大型船は運天港に着き、そこから小舟で親泊まできた荷物の積み卸しをしたのでしょう。

 運天港は1609年の薩摩藩(島津軍)の琉球侵攻の時、こほり(古宇利島:郡)と運天港が船元になった場所です。70,80隻の船が古宇利島から運天港あたりに帆を下ろし碇泊したとあります。一部は羽地内海の奥まで散策したようです。他の多くが今帰仁グスクを攻め入り焼き討ちにしています。薩摩軍は、南下し首里城に攻め入り琉球国は征伐されます。時の王は尚寧である。薩摩軍に捕虜として薩摩へ連れて行かれる途中、再び運天港を経由して薩摩へ帰っていきます。

 その後、運天港は薩摩へ運ぶ米(仕上世米)を積み出す港の一つとなります。仕上世(しのぼせ)米を積み出す四津口(那覇・湖辺底・勘定納・運天)の一つが運天港です。 

 運天には百按司墓があり、第一監守時代あるいはそれより古い時代の墓と見られます。今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司一族の墓が1722年頃、今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあった按司墓を運天港に移葬している。1742年に大島から琉球の運天港に回送された唐船があった。修理する間、運天で40人余の唐人を収容した。その時、三司官を勤めていた蔡温も訪れ指揮を執っています。また、運天には大和人墓が二基あり、一基は屋久島の宮の浦の船乗りだったと見られます。もう一基は安政五年の年号があり、それも大和人の墓である。運天港が薩摩と琉球をつなぐ港として機能しています。

 1816年にはバジル・ホールが運天港を訪れている。当時の運天の様子を描いている。また1846年にはフランスの艦船が三隻運天港に一カ月程碇泊し、琉球国と条約を結ぼうとした。その間に二人の水夫が亡くなり、対岸にオランダ墓をつくり葬ってある。ペリーの一行も運天港を訪れます。その時、島津斉彬は運天に出島をつくりフランスと貿易をする構想がありました。中国の冊封使が琉球にやってくると、大和船は運天港に着け、薩摩役人は浦添間切の城間村へ隠れ、琉球国が薩摩に支配されていないとカモフラージュする役割を果たします。

 運天港には今帰仁間切の番所が置かれ、行政の中心となった場所です。番所(役場)は大正5年まで運天にあったのを仲宗根に移動しました。今帰仁の行政の中心は運天から仲宗根へと移ります。また、かつての運天港は運天新港(浮田港)や古宇利大橋の開通でフェリーの発着場としての機能は失ってしまいました。しかし、今帰仁廻り(神拝)で訪れる人々の姿が見られます。そこには琉球(沖縄)の秘められた歴史があり、肌で感じ取ることができます。

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    ▲運天の集落               ▲源為朝公を祀った祠

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   ▲源為朝公が一時住んだというガマ           ▲大北墓
     

・源為朝公渡琉伝説
・「おもろ」の「うむてんつけけて こみなとつけて」
・1416年北山の滅亡
・1471年「海東諸国紀」の「要津 運見泊」
・1500年(弘治13年)の運天の百按司墓
・1605年 百按司墓の修復
・1609年島津軍の古宇利(郡)、運天港への駐屯、今きじん城への放火
・1665年監守一族首里(赤平)へ引揚
・1666年今帰仁間切番所は運天へ。
・1742年唐人が漂着(唐船が大島から運天に回送)
・大北墓が運天に移葬される。
・1768年の大和人墓
・1855年の大和人墓
・明治39年 「琉球と為朝」
・源為朝公上陸址碑

など。


2017年11月29日(水)

 明治12年(廃藩置県後)の沖縄県と道の島との往来の様子が知れる。廃藩置県以前の制度が踏襲されている(旧慣温存期)。逆に近世の様子を知ることができる。

[国頭港と辺戸港](廃藩置県後の様子)

 本県最北端にして与論島と相対し僅かに十八、九里を隔つるのみなれば、此地より輸出するもの亦少からずという。
 以上列記(島尻地方大里間切与那原港、中頭地方美里泡瀬港、中頭地方与那城間切平安座村、国頭地方本部間切渡久地港、国頭間切運天港)する所は単に推測に出づるのみにあらず頃者与論島の実況を聞知するに同島は実に千二百有余の人口を有するも酒類の供給は悉く本県に仰くものにして其の中正当の手続きを経たる者は、実に僅少にして皆脱税酒類にあらざるはなんと云う、亦以て密輸出の歩を進めつつあるは得て証するに足るべきなり。今此勢を以て推すときは、本県附近の各島徳之島、沖永良部島等所謂道の島なるものは、大概本県酒類を供給し居るばきは、亦疑を容れざる所なれば、臨時委員を派遣し、(道の島は毎月一回の定期航海便あり)その実況を視察せしめられ、尚進んで鹿児島県と交渉し、共に取り絞まりを立てられんこと、最も望む所なりとす。


2017年11月28日(火)

 山原船が往来していた津(港)について見てみる。

[山原地方と道の島との関係]

 琉球形船舶もしくは通常日本形船を以て航するものは、皆路を山原に取り漸次道の諸島を経て鹿児島に渡航するを例とす。殊に国頭地方辺戸と唱ふる所より与論島に航するか如きは海上僅かに十六海里に過さざる程にして山原地方の土民は常に刳舟を以て容易に渡航し酒類を産牛と交易するもの古来習慣の如しと云う、また以て酒類輸出に対する関係を想見するに足るべし(明治25、26、27年度による)。以上の実況に依り推究するときは、
 イ、管外に於ける酒類の需要は益増加しつつあること
 ロ、製造高に対し売捌高の増加しつつあること
 ハ、道の島に於ける出港酒類の減したること
 ニ、酒類売捌高の増加あるに拘わらず山原地方など津口手形に依り輸送せる酒類の減少したること
 ホ、然れども山原地方の需用は敢て減少したるにあらざること
      (以下略)
 運天港の明治の末の運天港の様子である。海上には山船三艘と天馬舟あり、山原船は海上に碇泊、天馬舟が海岸と碇泊中の山原船との間を往来して荷の積み卸しをしている。下右は干潮時の様子である。どちらも船は接岸せず、テンマー舟で荷下ろしをしている。山原地方のほとんどの津(港)は接岸できる港ではないことに注意。    (工事中)


 
▲明治末頃の運天港(山原船が沖で停泊、舟底の平なテンマー舟で荷の積み卸し)(写真「望郷沖縄」より)

2017年11月27日(月)


やんばる学研究会(あいさつ文へ)

 やんばる学研究会参加者のみなさんありがとうございました。

2017年11月24 日(金)

 近世から明治にかけての「山原」を見ていくには、山原船が往来した港(津)や積荷の品々を見ていく必要がありそう。

【与那原港】(大里間切与那原)

 与那原港は那覇港につぎ山原船の出入り最も頻繁なる良港にして、常に数十艘の船舶輻輳せり。本港には船舶取締所ありて、与那原村一ヶ村の出入り山原船を検査す。仝所の取り調べによれば、輸出の主なるもんは焼酎にして、輸入の主なるものは薪炭とす。而して其の焼酎の出港先は主に国頭、久志、金武の三間切に向かうものにして、本港より直に道の島に向かって航行するもの等は未だ発見する能はず、然れども本港には道の島より、日本船の入港することも亦少からざれども、是等の船舶に向かっては何等の規定なきを以て出入り港の度数たるに知る能はずと言う亦遺憾極まれりと言う。
 本港に接続小那覇下と唱う所あり、西原間切小那覇村に属す


・陸揚げする物品の種類(数量略)
  ・薪
  ・木材 
  ・檸
  ・竹茅
  ・製藍
  ・せん板
  ・炭
  ・桃皮
  ・製糖
  ・米


・輸出物品の種類(数量略
  ・焼酎
  ・茶
  ・素麺
  ・昆布
  ・塩
  ・味噌
  ・醤油
  ・石油
  ・煙草
  ・蕃藷
  ・米

  ・白大豆
  ・石灰
  ・豚
  ・粟
  ・小麦
  ・種子油
  ・板
  ・甕


【泡瀬港】(美里間切)


【平安座村】(与那城間切)

【名護湾】(大兼久・城・東江)

【勘手納港】(羽地間切仲尾・仲尾次)(仲尾・源河・稲嶺)

【渡久地港】

【運天港】

【テー港】(今帰仁間切、崎山・平敷・謝名・仲宗根)

   (以下工事中)


2017年11月21 日(火)

 山原の津(港)の名護湾、安和、瀬底二仲、渡久地港、並里、備瀬、親泊(今帰仁村)、与那嶺長浜、テー港、運天港、湧川、古宇利島のウプドゥマイ、勘定納港までいく。本部半島の渡久地港や運天港は、山原船の往来もあるが、大和船の出入りがあり、村々の津より大型化した港である。そこには本部間切の番所、運天港には今帰仁間切番所がある。両港での輸出・輸入の品々をみると、東海岸や国頭・大宜味の津(港)の山の産物(木材・薪・竹・炭など)とは異なり、生活用品が目につく。山原の津(港)から明治から戦前までの様子が見えてくる。無言の津(港)に歴史を語らせることの面白さ。どんな歴史を見ることができるか。

  


   ▲羽地内海(湧川港と勘定納港)                     ▲運天港


2017年11月19 日(

 明治14年11月から12月にかけて山原地方を巡回している。巡回の経路を通して津(港)と山船が繫留している様子などが記されている。その様子から山原船が果たしていたこと、造船の手続きの事、その船の税率(月税、航海税)、賦課税徴収、船舶の検査、手形、杣山産物の処分などについてまとめる。その前に、上杉県令が巡回した港(津)を再度踏査から。

 膨張(フク)港、久志村(小島あり、独木の漁舟、側を過ぎる刳舟八九艘、大浦港、そこから羽地番所へ、そこから大宜味番所(渡舟)、対岸の宮城島に山原船五艘停泊、屋嘉比港/カガンジ港へ(小島に山原船停泊(ハン崎は帆崎のことか)、辺土名港(伊是名・伊平屋島が望める)、辺野喜港(山原船停泊、砂糖樽桶を積み込み那覇港へ)、安田港(山原数艘碇泊、随員は別舟、山中腹に猪垣をみる)、安波港(山原船四艘碇泊、舟を捨て川に沿って上り津波村へ)。国頭番所から勘定納港(羽地仲尾)にでる。運天港(源八郎為朝伊豆の大島より漂流のこと、坂道途中に鍛冶場があり)、湖辺底港(名護間切)へ(山原船八、九艘、海上に漁舟が浮かんでいる)、恩納港へ。

 明治初期の山原の津(港)を、まず頭に描きながら他の資料をみていくことに。(本島周辺の島々も)

  ※先日国頭村安波で話を伺う。安波から与論や沖永良部まで舟を出しているとのこと(エンジン付きのボート)。


                              ▲シークタナカ(瀬底二仲)

2017年11月18 日(土)

 山原(やんばる)の東海岸の津(港)を行く。西海岸は大宜味村の延長で度々踏査しているが、国頭村安波で夕暮れとなり、あるいは体力が限界となる。そのため、今日は名護市街地から東海岸の大浦にでて久志間切番所のあった瀬嵩、汀間、三原、天仁屋などの港(津)にたりより高江で時間をとる。さらに国頭村安波まで。山原舩が行き来した津である。。
 ・杣山の制度
 ・山原舩が往来した山原の津(港) 

 1999年(平成11)に『なきじん研究―山原の港―』(第9号)でまとめたことがある。ここで「山原船」を中心にまとめていく。その前に山原の港を踏査してみた。山原のムラ・シマの歴史を紐解く上で、山原船、山、カー、津、山の生活は重要なキーワードである。

 山原船で、薪、木炭、竹などを積み出した東海岸の現在の港(津)を踏査してみた。

 
      ▲東村の高江の海岸                 ▲国頭村安波の河口付近
   

  
 ▲主に林産物を運ぶ山原船              ▲タムンザー(薪の集積場)

2017年11月16 日(木)

 数個のテーマを抱え、並行して資料に目を通している。
 

大宜味間切の地割(『饒波誌』『大宜味村史』より)

 地割の方法は間切によって異なっていたが、大宜味間切の場合は、満三年つまり四年目ごとに割り替えるのを原則としていた。地割の仕方は村毎に幾分かの違いがあったが、一般的には次の通りであった。

 まず、割り当てを受ける農家の負担能力(稼働者数、老若男女の構成、貧富)を勘案した上、それぞれの農家夫持(ブームチ)何人と評価する。次の割り当てる土地の地質・条件(地味・水利・場所・距離)を評価し、上中下の等級に分け、各戸の夫持に応じて、三人持地、五人持地等と査定して一筆毎に区割した。総筆数は、村の総戸数と一致していたが、各戸の一人当りの割り当て坪数はまちまちであった。

 地割は、まず最初に各村の配当地の区域分けを行うことから始める。大宜味・大兼久・饒波の三か字は、それぞれの村の総ズリー(総会)を開いて、全員納得の上、村分けを行った。次に各村では、各バール(斑)毎に幾つかの地組みを対象に大割し、それから戸数に小割した。大宜味・大兼久の農家が饒波川沿いに土地を持っているのは、このためである。

 最後の地割を行った時に大宜味・大兼久の土地が饒波に存在することになった。

・原山勝負(共進会の事)

・山原の杣山

『東村史』第一巻通史編 200頁参照 

・東村太鼓村は林業村である。昭和30年代まで続く。18世紀当時から経済生活の基盤となっていた。
・林地から伐採した木材は山原船で搬出されたため太鼓村は山と海を往来する歴史である。
・1745年に太鼓村に「津口番」(林産物検査役)が置かれ、宝暦3年(1753)には「船出入改方」を兼ねる
 「山奉行筆者」が加えられる。
・林産物搬出の山原船寄港地は幾度か生活自給の困難にあっている。

【高 江】

・海岸から海抜90メートル以上の台地上に集落が散在する。
・高江は三方山林に囲まれており、林業を営む。
・回りの山林の殆が村有林野と国有林野で占めていたため個人が勝手に山入りして木を
 伐採することは許されず、一定の期間、区域等を定めて部落又は何人かの団体で国有
 林野の払い下げを受け、その区域に限って入林が許された。

東村の林産物生産高(1952年7月~1953年6月)(1箇年)

        用材(石)    薪(束)    木炭(俵)   竹(束)
 ・有 銘    1,152     108,000     10,800     3,600
 ・慶佐次     32      46,000      ―       ー
 ・平 良     234     425,500      ―       120
 ・川 田    1,167     163,600      ―       500
 ・宮 城    3,190     504,000      ―      3,600
 ・高 江    1,620      15,000      ―      6.500
   計     7,395     1,262,100    10,800     14,320

【木炭の製造と槫板(くれいた)製造】

 明治37~38年(1904~5)日露戦役後の景気は北部の三村においても、薪、木炭、くれ板(砂糖たる用)など林産物の大きな需要をもたらし、特に木炭は煙の出ない薪として都市地区から木炭をもとめて東村や久志国頭村、各部落の山原船津口へ、その運搬のために常時帆船が出入りしていた。

 帆の大きさによって十二反帆、八反帆と船の呼び名が違っていた。大形の十二反帆船は奄美大島まで、竹材(砂糖たる用)の買い付け搬入をしていた。

 東村の津口から与那原や泡瀬まで、風向きによって片道三日間~一日間であった。

 砂糖景気の出たその頃用機材として使用する雑木のくれ板の需要がも多くなってきたが、山元で手斧の造材ではとうてい間に合わず、また原木を那覇まで運ぶのも容易なことではなかった。

 明治末から大正の初期には東村高江新川原に水車製材(当時の水量から30~45馬力位か)が、現地での第一号の製材所であったとと思われる。

 事業主は他県人の佐々木某であった。この水車製材は導水用のトンネルを掘った為に、現在も旧小学校近く、教職員住宅の裏側の岩陰に当時のトンネルが残っていて、昔をしのばせている。明治末の高江は、薪、木炭、くら板などの運搬人が国頭・大宜味から集まってきて小屋掛けをなし人口も1500人位に膨れ上がり、下新川原の海岸近くにはさかな屋も三軒もたち繁盛していたという。

 昭和に入って県有林で木炭ガス発生用木炭の製造とくれ板、鉄道枕木製品用のヤンマー発動機や黒炭製造の炭がまは三ヶ年で216ヵ所にもなり、県はこれに対して補助事業として策がま費の四の一以内で補助金としてだしていた。

【竹林の造成】

 竹林造成は砂糖樽製作用の輪竹としてなくてはならないものであったが県内産で間に合わず、年々大量の竹材を移入する状態であった。また若竹(クンジャンダキ、ホウライチク)は藩政時代から河川堤塘の保安林やその他の用途に使用する為に植えられ、現在もその痕跡を残している。

 大宜味村田港と東村川田に「根謝銘屋」(ニジャンヤー)がある。両家の伝承は根謝銘(ウイ)グスクの歴史をみていく上で興味深く、北山の盛衰にまつわる伝承である。ここでは現大宜味村田港の根謝銘屋(ニジャンヤー)部分を取り上げることにする。この伝承は時期を分けて見て行くことにする(仲地哲夫沖国大学名誉教授)。

【北山の興亡と大宜味の歴史】(素描)(二ヶ所の根謝銘屋)、

一、怕尼芝(はにじ)が北山城主(北山王)になった時から攀安知(ハンアンジ)が中山に亡ぼされるまでの約半世紀。

 ※中北山と呼ばれ、その時代に一度離散したことがあり、名護按司のもとに逃げのびていた者たちが復襲の時期を待っていたが病死し本懐を遂げることができなかった。息子らは屋部に移り住むが、長男は男の子を二人(思五郎金と真三良金)を残して、それまた病死したので、次男(思徳金)が甥たちを育てていた、その時、中山の軍勢が攻めてきたので、北山は亡ぼされた。そのとき、思徳金達三人はその戦闘に出仕することができ、ハニジ・ミン・攀按芝に仕えた。 

二、中山(尚巴志)の連合軍に攀按知王が亡ぼされた後、北山に監守(第一・第二)を置いた時代。攀安知王が1416年に中山の連合軍に亡ぼされ、第一監守時代まで北山王から第一監守の時代まで仕えた。その後、第一監守から第二監守に変わったとき(尚円のクーデーター)の時、あおりをくって、一族は名護や大宜味に離散した。 

三、大宜味に離散した一族が根謝銘に隠れるが、根謝銘(ウイ)グスクはすでに、国頭按司の領地なので、そこから国頭へ。さらに川田と田港に落ち延び村立てをする。 

  両家には、その伝承の証として古刀や黄金の簪や絹の衣類などの遺品がのこされているという。また、その伝承の人物一族の墓とされるのが田港と川田にある。

 

・久志村(現東村)川田(根謝銘屋)
  同家には絹地の衣類、古刀、黄金のかぶの簪

大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・
以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。
・・・・」

とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。

・大宜味村田港(根謝銘屋)
  田港の根差目屋(本家)に絹衣数種、黄金カブの簪一個(秘蔵)。


2017年11月15日(水)

 少し、頭に隙間ができたようだ。明治、それ以前、地頭代は租税の徴収の義務があった。どのような方法で間切内の各村から租税を徴収し、滞納者がいる場合はどうか。地人と士族の租税の徴収の仕方、あるいは個人の場合は仕明知行、請地、払請地によって異なっているようだ。これまで持っていた自分の常識が覆る場面が度々。少し掘り下げ、具体的な事例を捜してみるか。面白そう。一部原稿だしをしたので、次の原稿へ。


2017年11月14日(火)

 今帰仁村字玉城の字誌原稿出稿。100ページ(あいさつ文、戦争、民話、民俗、伝承)。編集に集中!


2017年11月11日(土)

「ムラ・シマ講座」 本部町嘉津宇へ。集落の様子(故地同様盆地状)、水田があった(天水田)、神アサギ、殿(トゥン)(昭和11年修復)、ウタキ(イベ)、旧家の上原門中の屋敷(石柱)、ユレーヤー(仲村家)の拝所まで。シマの二人の方と話をしていると、興味深い歴史のことが聴けた。今では行かないが古嘉津宇から、そこに来たことと、海の方(桃原)から来たという話。つまり、シマには寄留の方々が住み着いていること。興味深い歴史を持っていることに気づかされる。

  
    ▲神アサギと殿(トゥン)        ▲ウタキの中心部(イベ)         ▲ユレーヤーの按司位牌


2017年11月10日(金)

【造船の制限】
 船舶制限の為めに杣山良村か消費せらるゝこと頗る多く殊に杣山地方は凡て海運の便を有し林産物の他
地方に搬出さるゝは殆ど全く船舶に頼るの状態なるを以て船舶の自由製造を許せは良材濫伐の弊害を生するびぬばらず林産物を過多に輸出するの恐れあるを慮り遂に琉球藩庁は大木を原料として製造する刳舟(丸木舟)を禁止猶ほ他の船舶に対して種々の制限を加えたり左に掲げたり、左に掲くる所の令達は即ち之に関する規定なり。
 ・唐舩
 ・くり舟
 ・琉球形舩
 ・馬艦舩

【家屋の制限】
 家屋建築の為めに杣山樹木が多額に消費さるゝや論を待たず故に琉球藩庁は之に対して亦た極端なる消極的制作を執りて家屋の構造方法に制限を設けたり
 一、(略)百姓等家、蔵普請定法無之甚杣山締方之故障相成且又分限不相に致普請
   身上為方不罷成候に付き(中略)下記の通り申渡候事
 一、百姓大家一軒はぎ共長三間半(6.3m)横三間(5.4m)以下
 一、同台所一軒長二間半横二間以下
 一、同蔵一軒長二間半以下
    (宝暦十一年十二月制定久米島杣山公事帳)

2017年11月9日(木)
 
 これから「国頭村辺戸」の安須森へ。頂上部まで登れるか。天気はよさそうだが、体力的にどうか。10年近く頂上まで登っていないのでどうか。楽しみだ。辺戸のウタキ(イベ)を特定するに四苦八苦した記憶がある。安須森はクニレベルのウタキ、ヒチャラウタキは辺戸ムラのウタキと分けたことが、思い出される。そのことは今でも強調している(クニレベルの祭祀とムラレベルの祭祀は分けて考えるべきだと)。過去の調査メモを掲げ思い出してみる。

 安須森に登ることができた。頂上部は心地よい風がふいていた。辺戸の安須森は「おもろ」や『琉球国由良記』(1713年)や神道記(1605年」などの記述と現地との整合性が不十分である。年間の神行事の流れで押さえることが可能かもしれない。(上り下りで膝がガクガクして考える余裕なしでした)

 旧暦9月は辺戸の安須森に「君真物」の神の出現、ウランサン(冷傘)が立つ季節である。今帰仁間切謝名のアフリ嶽、今帰仁グスクの近くのクボウの御嶽に伝達するという伝承あり。


 ▲辺土岬からの安須森(遠景)       ▲安須森から辺戸集落   ▲公民館の屋根色はこのウタキ(イベ)の色?
                     
            

【国頭村辺戸の安須森(アスムイ)】(2004年7月25日)メモ

 安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。

 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れるの王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」

の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。

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    ▲辺戸岬から見た安須森                 ▲辺戸の集落から見た安須森

【辺戸のシチャラ嶽】

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

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  ▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)遠望              ▲御嶽のイビヌメーだとみられる

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   ▲御嶽の頂上部にあるイベ            ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある 

【国頭村辺戸】(2005年6月24日)メモ

 沖縄本島の最北端の国頭村の辺戸と奥の集落までゆく。「山原を見るキーワード」を探し求めて。もう一つは与論島に渡る予定が日程があわずゆくことができなかったため、辺戸の安須杜(アスムイ)から与論島と沖永良部島を見ることに。昨日は青空があり、何度か方降り(カタブイ)。こっちは大雨、あっちは青空状態。与論島と山原をテーマにしていたが与論島に行けず。それで与論島が見える安須杜から。

 空の様子をうかがいながら、まずは辺戸岬から安須杜を眺め、目的より頂上まで登れるかどうか、体力が心配。息ハーハー、膝がガクガクしながらではあるが、どうにか登ることができた。後、何回登るだろうか。

 安須杜はクニレベルの御嶽と位置づけている。辺戸には安須杜とは別に辺戸集落の発生と関わるシチャラ御嶽がある。安須杜は呼び方がいくもあり、ウガミ・アシムイ・ウネーガラシ・クガニムイ・アフリ嶽などである。ここで特徴的なことは、辺戸村(ムラ)の祭祀はないということ。だからクニレベルの御嶽だということではない。

 『琉球神道記』(1603年)や『琉球国由来記』(1713年)に、

   新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ即、
    アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆ヒ尽ス。
    八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。時ニ、
    託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘
    三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。

とある。国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。

     

  ▲宇嘉からみた安須杜(アスムイ)              ▲辺戸岬からみた安須杜(アスムイ)


  ▲安須杜からみた辺戸の集落と与論島           ▲辺戸岬からみた与論島


   ▲国頭村奥の集落、海上に与論島が            ▲国頭村奥の港(干潮時)


2017年11月7日(火)

 特に山原の村々は杣山の管理と切り離して考える訳にはいかない部分がありそう。詳細な厳しい規定をだし、杣山の管理を間切、村に義務づけている。(工事中)
 ・国頭間切山勝負審査事項
 ・恩納間切山勝負審査事項
 ・金武間切山勝負審査事項

 杣山の監督を山奉行、山筆者、在番な役人を派遣し、以下の15項目をあげ監督をさせている。
 1.杣山地盤の保管及び処分に関すること
 2.杣山管理区域の争論にかんする事
 3.造林の方法を指定し並びに其の作業に関すること  


 7.御用木、禁止木の培養、保護、伐採に関すること
 8.船舶の製造、制限に関すること

 14.杣山仕立費の下付に関すること
 15.間切、島、村に於いて徴収する杣山取締内法科銭、科米の支出に関すること
 16.杣山地方を往来する船舶の積荷検査に関すること

【杣山管理】(国頭郡ニ於テハ)
 イ.恩納間切ハ富着、前兼久二村共同シテ一区ヲ管理シ其ノ他ハ各村独立宛ノ管理区域アリ
 ロ.名護間切、国頭間切、金武間切ハ各村独立ノ管理区域ニ分割セリ
 ハ.本部間切、今帰仁間切ハ元各村各々其ノ管理区域定アリタル明治二十七年乃至三十年ノ開墾許可ニ
    依り杣山ノ面積甚だ減少セルヲ以テ間切管理スルコトゝナレリ
 ニ.羽地間切ハ数区ニ分テ其一区ハ間切管理トシ一区ハ真喜屋、稲嶺ノ二村、一区ハ屋我、済井出二村ノ
   共同管理トシ其他ハ各村別ニテ管理セリ
 ホ.大宜味間切ハ七区ニ分テ第一区ハ津波村第二区ハ塩屋、田湊、屋古前田、渡野喜屋ノ四村第三区ハ
   根路銘第四区ハ大宜味、大兼久、饒波ノ三村第七区ハ見里、親田、屋嘉比ノ三村ニ於テ各々管理セリ
 ヘ.久志間切ハ大浦、瀬嵩ノ二村及ヒ平良、川田、宮城ノ三村ハ各々共同シ他ノ各村ハ独立ノ管理区域ヲ
   有スル規定ナルモ実際ニ於テハ凡テ其ノ管理区域ヲ村別ニ分割セリ尤モ平良外二村ハ其ノ村附近ノ杣
   山ハ分割セルモ村ヨリ凡ソ一里以上離レタル部分ハ共同管理ナセリ

 (以下工事中)

2017年11月6日(月)

 大宜味村白浜(渡野喜野)の聞き取り調査(村史編纂室藤田・新城)に参加。話し手は島袋一男氏(昭和3年生)と白浜親川区長)。

 1945年3月の戦争の状況、昭和の初期まで名護から自動車が往来していた頃の集落の様子、村の踊り、東村川田から一門がいること、塩屋湾に浮かぶ山原船、村墓(共同墓)、製茶、津波集落内にあった学校のこと、宮城島と津波側とをつなぐ渡し舟のこと、白浜にノロ地あり、食生活、イルカ狩り(湾内ではない外海で)、イルカ狩りのモリが公民館に置いてあり、数頭捕獲すると字民だけでは多すぎて、周辺のムラへも配っていた、田があった場所の確認、日々の生活などについて伺うことができた。それとは別に公民舘内に展示されている写真は、昭和30年代までの風景の風景や村踊りの出演者の集合写真、背景の公民館はまだ茅葺き屋根。宮城島から写真には宮城島の塩田があり、聞き取りの手がかりを与えてくれる。

 明治14年に上杉県令が宮城島の対岸に五艘の山原船が停泊、宮城島に小集落があり、渡し舟が往来していると。上杉県令の問答から、当時の生活の様子が伺える。
  
  ▲白浜の公民館で       ▲村踊りの集合写真(プログラムが)  ▲宮城島からの塩田と地滑りの白浜のサバガー

 明治17年の「津口手形」があり、四端帆舩は大宜味間切渡野喜屋村地舩である。乗組人は大宜味間切市塩屋村□十三番地平民、舩頭 宮城 常、加子は同間切渡野喜屋村九番地 平民 仲門 蒲、同間切津波村四番地 平民 島袋 樽とあり、村舩は渡野喜屋村舩であるが、乗組員は塩屋村、津波村の人々である。

 今般商いをし、別紙に記載した品物を積んで、大宜味間切渡野喜屋村へ向けて航海したい、物品などの検査の上、津口手形を下付されることを願いでいる。(他に大宜味間切大宜味舩、大宜味間切根路銘地舩(二枚)が大宜味村史で紹介されている)。(詳細は略)

2017年11月5日(

 今年はダメかと思っていたら、庭先にオオゴマダラが花の蜜をすっていた。暗くなるまでゆらり、ゆらり。オウゴマダラの食草となるホウライカガミは6月に数本植えた。一メートル余りと成長している。幼虫の餌には、まだ量が足りないかも。チョウの産卵は見られなかったが、来年の初夏には、ゆらりゆらりとオウゴマダラの舞いが見られるかもしれません。


          ▲オウゴマダラがやってきた!                 ▲6月に植えた食草のホウライカガミ

2017年11月4日(土)

 今回のムラ・シマ講座は本部町嘉津宇です。嘉津宇村は1719年に移動してきた村である。それと北山と関わる伝承があり、伝承と関わる遺物(刺繍の衣服)がある。嘉津宇のユレヤーだけでなく、歴史的な伝承をもつ旧家に現に遺物を持っていることに注目したい。歴史的伝承を持っていることと遺物(簪・勾玉・刀・衣類など)がある、あったことが今に現存していること無縁ではなかろう。その一例が嘉津宇(ユレーヤー)の刺繍の衣服である。それらの伝承や遺物が、どれだけ歴史を伝えているのか興味深いものがある。過去に紹介した事例があるので一部紹介しましょう。(文章はそのまま掲載)


2011年8月26日(金)メモ

 本部町嘉津宇に「刺繍」をほどこされた服がある。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている。その後、『服飾の研究』などで紹介されている。『沖縄県国頭郡志』の以下の文面を手掛かりに検討してみることにする。

 その前に、これまで『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている遺物や旧家などがどうなっているか、その確認をしておく必要があることから、その調査を進めてきた。嘉津宇の服や布片などの確認もその一つである。その現物の着物を見学する機会があった。服や模様や刺繍などについて全くの素人なので触れることはできない。

 首里王府から献上された山原の旧家が持っている(いた)情報を掲げてみる(他の資料については別稿でまとめることにする)。基本的に衣類や布地は首里王府からの献上物である。ただ、伝承では北山の滅亡との関係で捉えられているのが目につく。他の地域に残る古い衣装類はどうだろうか。

・国頭村奥間座安家(アガリー)
  尚円王より拝領の伝承:黄冠・水色の絹衣黄色絹帯地及黄金カブの簪

・国頭村辺戸の佐久真家  
  70年前(大正8年から)まで王の衣冠宝物保存

・本部村(町)並里(満名)上の殿内
  按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)繻子の古帯一筋、
  羽二重の襦袢一枚を秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が隠遁せるのか)

・花の真牛(本部町伊野波)
 真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の真牛が絢爛
 なる七つ重ねの礼服
をする。


・久志村(現東村)川田(根謝銘屋)
  同家には絹地の衣類、古刀、黄金のかぶの簪

・大宜味村田港(根謝銘屋)
  田港の根差目屋(本家)に絹衣数種、黄金カブの簪一個(秘蔵)。

・大宜味間切根差部親方
  ・・・其の衣類は根謝銘大城某の宅に保存せり。
  
・国頭村字安田(屋号:川口)
  仲今帰仁城主の一族の伝承あり。黄金の男差簪、古い短刀一振。古文書(辞令書)

・名護間切名護村長寿大城
  尚敬王34年次良大城101歳に黄冠を賜い、絲綿一把綿布二端を賞与される。

・金武村(現在町)金武宜野座及び安次富家
  両氏は歴史上の人物阿波連親方の後胤なりしの伝承。宝石絹服等を秘蔵。

・今帰仁阿応理屋恵按司家(阿応理恵御殿)(所蔵目録)
  ・冠玉たれ一通 ・同玉の緒一連 ・王の胸当一連 ・王の御草履一組 ・玉かわら ・同玉かわら
   一大形 ・二十二小型水晶の玉百十六。

・大宜味村田嘉里のノロ殿内の遺品
・大宜味村謝名城のノロ殿内の遺品
・大宜味村田港のノロ殿内の遺品


【本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家】

 同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて左の遺物を納めたり。
 一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
 一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)
 一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)

 同家の口碑に依れば阿応理恵按司の礼服なりしという。又北山滅亡の際貴族此家に隠遁して世を避けたりとも伝う。然るに右遺物の保存せらるる外何等の記録なく従って其の人物の当家との関係及び墳墓等全く不明にして五里霧中に葬らるるのみ。

 


【2014年6月9日】メモ

 2014年6月9日(月)本部町嘉津宇を踏査する(雨)。目的は嘉津宇ムラは1719年に伊豆味の古嘉津宇から現在地に移動。その故地の確認。故地に手がかりとなる拝所やカーなどの確認はできなかったが、盆地になっている古嘉津宇の撮影はオッケー。

 現在の嘉津宇の公民館へ。その前に神アサギとトゥン、その後方にウタキのイベあり。具志堅の地内に移り、明治36年に具志堅村と合併するが、戦後もとの嘉津宇となる。

 嘉津宇の公民館、神アサギ、ウルン、ウガン(イベ)、ウプヤー(上原門中)、ユレーヤー、クランモーなどの確認。ユレヤーの仲村翁とであり、話を伺う。近いうちに、衣装の件で伺うことを約束する。門の前に車を降りると「仲原さんね」と、仲村さんの方から声をかけてくれた。雨が降り出したので家で話を伺う。詳しいことは、改めてということで短い時間。

 ユレーヤーの前の祠を見せてもらった。『沖縄県国頭郡志』に「按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて」とある按司位牌は、この二つと見られる。「古櫃一個」は前の祠から家の中に移し、衣装を入れてあるとのことことであった。それは改めて拝見させていただくことに。

  
   
▲嘉津宇区公民館           ▲神アサギとトゥン         ▲ウタキのイベ

  
    
 ▲ユレーヤー前の祠内                   ▲二つの按司位牌

 
▲嘉津宇の故地とみられる伊豆味の古嘉津宇        ▲天底の故地と見られる伊豆味の内原一帯

 24期ムラ・シマ講座(案内文書)


2017年11月2日(木)

 ここ二、三日で「大宜味間切の地割」と「恩納間切の地割」について整理してみる。両村とも明治32年~36年の土地整理期の「間切村全図」を所蔵している。各村の地割基準を手がかりに地割の痕跡(短冊形の土地区画とは別)を見つけ出していく。

 どうまとまるか。

2014年9月の動きの運天のタキヌウガンで「ウタキのイベ」が洞窟の内部にあることに気づかされる。恩納村の瀬良垣も運天のウタキとイベと同様。そのウタキをみるとき、杜全体がウタキ、ウタキの内部のイビ。ウタキとイベとは区別する必要があることに気づかされる。大宜味村の根謝銘(ウイ)グスク、グスクのある杜全体がウタキ(グスク)、グスクの内部に大城嶽と中城嶽がある。二つの嶽はウタキの中のイベと位置づけている。大城嶽(イベ)は屋嘉比ノロ管轄の田嘉里(屋嘉比・親田・見里)のウタキのイベ、同じウタキ(グスク)内にある中城嶽は城ノロ管轄の謝名城(根謝銘・城・一名代)のムラのイベである。ウタキに複数のムラのイベがあるタイプである。

【島袋源一郎】について(大工事中)

 どんな活動をしたのか、系統Jだててまとめたことはありませんが、数カ所の理事や役員をしていたことで多忙だったと聞いています。源一郎関係を急遽取り出してみました。

 具体的なことは、昭和10年~15年頃の「沖縄人名録」で確認してください。手元にないので確認ができませんが。 


その他に、学校現場でも勤務しています。

 博物館のみの業務をしていたわけではありません。その間に、
  ・『沖縄県国頭郡志』(大正7年)
  ・『沖縄善行美談』(昭和6年
  ・『沖縄案内』(初版昭和7年)
  ・『伝説補遺沖縄歴史』(初版 昭和7年)
  ・『新版 沖縄案内』(昭和17年 改訂五版)

 出版物については10冊ほどだしています。また「沖縄教育」では論文を数多く発表しています。 

 博物館関係は東恩納寛惇へ調査記録(玉城朝薫の墓、護佐丸の墓のスケッチ)を送っています。東恩納文庫に入っています。東恩納寛惇の書物のグラビアにある百按司墓の木棺や石棺の写真は、首里城内の博物館での撮影です。それは首里城で数多くのノロ関係の品々で展示会を開いています。

 島袋源一郎がスケッチ(明治38年)「師範学校3年」の時とメモがあり、確かめたくて履歴を整理。

  ・明治18年(1885)10月8日 国頭郡今帰仁村(間切)兼次村に生れる。
  ・明治36年(1903)4月 沖縄県師範学校入学
  ・明治40年(1907)3月 師範学校卒業 名護小学校訓導拝命
  ・謝花小学校訓導
  ・沖縄師範学校訓導
  ・安和小学校校長
  ・屋部小学校 校長
  ・謝花小学校 校長
  ・大正9年(1920)8月 沖縄県社会教育主事(初代主事)
  ・大正12年(1923)4月 島尻群視学任命
  ・大正13年(1924)4月 沖縄県視学任命
  ・昭和2年(1927)3月 国頭郡名護小学校 校長任命
  ・昭和2年(1927)  沖縄県教育会主事拝命 
     (整理中)
  
昭和10年版(沖縄人名録)には、
  沖縄県教育会附設 郷土博物館(後に首里城内) 主事 島袋源一郎
  沖縄県郷土協会  幹事長’教育会主事
  沖縄県昭和会館 幹事長 教育会 主事
  沖縄県空手道振興協会(昭和会館内) 宣伝部長 教育会主事
  沖縄観光協会 理事 教育会主事
  沖縄廃酒期成会 副会長 沖縄県教育会主事
  沖縄M・L・T 教育会主事
  沖縄県連合青年団 幹事

     (前後確認中)

 戦前の首里城内の郷土博物館(北殿)開館につながる記事がある。「昭和会館」(昭和11年開館)に収蔵されていたことがわかる。その遺跡の案内や遺物の収集に島袋源一郎が関わっていたことで、昭和会館に収蔵されたとみられる。昭和7年調査の島田貞彦氏は勾玉の調査を行っている。「ノロに就いては既に伊波普猷氏をはじめ真境名安興氏、島袋源一郎其の他二、三の諸氏の研究ありて、・・・・・調査に於いては島袋氏の教示を基本として記述する」とある。また、百按司墓の木棺などは昭和9年に博物館に移管かとあり、戦前の郷土博物館の開館に向けての資料収集や沖縄の歴史などの発刊があり多大な力になっている。

 その他に、柳田国男、折口信夫、山崎博士などの案内を勤めている。(百按司墓の髑髏の件)

     (詳細は略)


▲このスケッチに「明治三八年八月島袋源一郎 師範学校三年在学中郷土調査の際、
  博物かに移管せしは和九年と記憶す」ととある。
  スケッチは「東恩納文庫」にあり(30年前にコピー) 


  ▲島袋源一郎よlり山崎正薫先生への書簡(愚息肺炎を患い、七高在学中)

 
2017年11月1日(水)
  
  11月スタート。

 2017年10月2日(月)大宜味村謝名城のノロ殿内の遺品の調査を行った。その現場での簡易実測図である(河津:大宜味村史編纂室)。「大宜味間切城ノロについて、明治43年11月28日(沖縄毎日)の記事で以下のようにある。

  謝名城の丘上に古城趾あり。今尚村民の崇拝する処にして遺物たる曲玉、今は野里氏の
  蔵するところたり」とある。勾玉があったことがしれる。

 他に「城ノロクモイ所蔵」として、以下のように記してある。
   一、宝物(黄金簪一ツ、花ノ周囲六寸五分、竿長三寸五分)
   一、水晶の玉(頸環)大四十九個、小五十一個
   一、絹衣 大一枚、小一枚
   ・サバネ
   ・ハビィル玉(謝名城)

上記のように勾玉や簪などが記されるが確認できなかった。今回確認できた遺品は以下の通りである(香炉は略)。

 ①漆器丸櫃(小:約高さ19cmか)黒漆に沈金、模様、内部漆の朱塗り
  ・蓋(黒漆塗り)(数点に壊れているので、図柄や模様については専門家に依頼予定)
 ②竹筒(2本)
 ③瓶子(対)(錫製)・・・の魚々子鏨が見られる。
 ④湯沸かしの蓋のみ(鉄製)
 ⑤茶択(四枚:黒漆塗)
 ⑥丸形の酒注
 その他(青磁の香炉と花瓶) 文書や勾玉などなし)

  
    ①沈金丸櫃(破損)     ②竹筒(大)        ②竹筒(小)            ③瓶子(対)

  
④湯沸かしの蓋(鉄製)     ⑤茶托(4枚)同大きさ)     ⑥丸形の酒注      ⑥沈金丸櫃の蓋か

 竹筒は屋嘉比のろ家の遺品にもあり、大の竹筒に「やかひのろくもい代合之時日誌」とあり、辞令書を入れるのに使っていたのかも。小は簪入れか。

 以前調査した「屋嘉比ノロ殿内」と、今回調査した「城ノロ殿内」の調査は、両ノロが管轄する六村(現在二字)と根謝銘(ウイ)グスクの歴史の一部を祭祀で見ていこうとすることを目的としている。

 グスクに按司が居住していた時代は発掘された遺物、あるいはグスクの構造や遺構などで、按司が首里に移り住んだ後の事は、「おもろさうし」や古琉球の辞令書、それと野史に書かれた伝承での人の動きなどの検証で。近世はグスク周辺の村々と祭祀、古墓との関係で描いていくことが可能であろう。16世紀に首里に移り住んだ「国頭按司」(王府)(ウドゥンニーズ、トゥンチニーズ)と結びつけているのは祭祀や上納や付届けなどである。按司やその一族が首里に移住した後のグスクは周辺の村々の祭祀が継承し活かし続けてきている。

【屋嘉比ノロ殿内の遺品の一部】

 屋嘉比ノロも根謝銘(ウイ)グスク内の大城嶽(イベ)での祭祀に関わる。そのウタキのイベは田嘉里(屋嘉比・親田・美里)村のイベである。グスク内でのウンガミ(海神祭)は城ノロ管轄の神人が神アサギの側で行う。屋嘉比ノロ管轄の神人達のウンガミは屋嘉比神アサギを中心に行っている。