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2017年3月27日(火)

  伊是名島へ

 明日から伊是名島へ。ちょっと下調べ。今年はグスクのどこまで登れるか。天気しだい。諸見・仲田・伊是名・勢理客で何を考えるか。まずは訪れてから。画像の更新ができず!







2017年3月26日(日)

 大宜味村内のビジュルとカンジャヤー(鍛冶屋)跡の確認調査(足腰を鍛えるため)。

【大宜味村のビジュル】

 大宜味村にビジュルやビジル(フツキヌメー)の拝所がある。沖縄本島各地でみられる石信仰である。豊作や豊漁、子授けやどの祈願がなされる。16羅漢の一つの賓頭盧(びんずる)がなまった言い方だという。大宜味村にあるビジュルやビジルは祠の中に、石や石筍(コケシの形)などが置かれている。

 屋古のハーミンヌマーの祠には石筍が二、三置かれて、旅たちや兵隊へいくとき、小石を三個持って行ったという。向かいの方に伺うと、個人的に拝む。あるいは神人達がムラの行事として拝むという。

 塩屋のハーミジョーの中腹あたりいにビジン神が祀られているようだが、ビジンはビジュルと同様か。根路銘のビジュルは旧道を少し入ったところにあり、祠の廻りに10本ばかりの福木があり、その中に祠があり、その中に石が一つ置かれている。

 大兼久のビジルは海に浮かんでいた石を、小さな祠内にビジルとして祀ってある。饒波のハーバタ(屋号)にもビジル(神石)があり、ビジル石(神石)に伺いをたて、願いがかなうと神石が軽く、かなわない時は重かったという。吉凶を占うのに利用。

 根謝銘(ウイ)グスクへ上がっていう途中にあり、持ちあげて吉凶を占ったという。


 
   ▲屋古のハーミンヌマーの祠           ▲祠内の神石(石筍か海石)


 ▲根路銘のビジュルが置かれている祠       ▲祠内のビジュル石


  ▲根謝銘(ウイ)グスク登る途中にあるビジュル


【鍛冶屋跡】
(カンジャヤーの屋号調査も必要)

  
 (工事中)

. 
        ▲鍛冶屋にまつわる図像と大きな箱はフイゴ、左側に金床(田港)

 
  ▲塩屋のカンジャヤー跡(箱は鞴)

 
   ▲根路銘のカンジャヤーの祠          ▲祠内に金床や鞴置き場

【根路銘の石敢当】
 根路銘の集落内の道路からの突き当たりに「石敢当」が見られる。「石敢当」と刻字したのがほとんど。石敢当の側に石が置かれたのもある。刻字の石敢当が設置される以前は、その石が魔物を跳ね返す、あるいは避けさせる役割を果たさせたのであろう。


2017年3月23日(金)

 午前中、大宜味村の神アサギを踏査する。『大宜味村史』の「民俗・言語」編の調査の一コマである。
  ・津波の二つの神アサギ(平南と津波の合併)(大宜味村の神アサギ
  ・白浜(渡野喜屋)
  ・平良(現東村)(『琉球国由来記』(1713年頃は大宜味間切)
  ・川田(現東村)((『琉球国由来記』(1713年頃は大宜味間切)
  ・田港
  ・屋古(屋古前田)
  ・塩屋
  ・根路銘(公民館に組み込まれている)
  ・大宜味(大兼久)
  ・饒波(アサギマー)
  ・喜如嘉(神アサギ跡)
  ・謝名城(城・根謝銘・一名代)(グスク内の神アサギ)
  ・田嘉里(屋嘉比・親田・美里)
  (宮城・江洲・大保・押川・上原には神アサギなし。その理由は?)    
         ▲田港の神アサギ
             ▲根謝銘(ウイ)グスク内の神アサギ
 

  19年前に大宜味村津波についての記事がある。その原稿をだし、20年近く経ってどう記すかのテストでもある。神アサギひとつとっても生き物であることを実感させられる。

【1998年2月に記した大宜味村津波】

1998年2月17日は月曜日。大宜味村(ソン)の津波(ツハ)と大宜味、時間がれば大兼久まで足を伸ばす予定。月曜日に訪れるのは、歴史文化センターが休館日であることに起因している。来観者のレファレンスや電話など対応に煩わされることなく、一人で歩くことができるからである(もう、何年も続いている)。

 
今、山原のムラ・シマを行くことは9月の初旬に予定している「山原の神アサギ」をテーマにした展示会に向けての調査でもある。
歴史文化センターから車を出し、仲宗根・湧川、そして名護市を仲尾から仲屋次・稲嶺・源河を通り、大宜味村に向かう。津波は大宜味村の一番南側に位置し、名護方面からすると最初の字(アザ゙)である。国道58号をを国頭方面に北上するのであるが、左手に西海岸を眺めながら車を走らせた。

 津波の集落に入る。集落の中を南北に旧道が通り、海岸線を新しく国道が通っている。津波公民館の前に車を止め、少し北側から山手の方に小道を行くと山の麓から水が豊富に流れている
。いくつも水路が集落の小道に沿って海岸の方へ走っている。しばらく行くと、古めかしい石垣の屋敷があり赤瓦屋根の家がある。その隣に丸い半円をした湧泉を見つけた。それはヌルガーであった。ヌルドウンチと少し離れている。ヌルガーの上に御嶽かグスクらしき森がある。草の茂った旧道が御嶽(グスク?)ヘと通じているようだ。そこまで登るのはあきらめた。ヌルガーの方から南側の方に進むとウイバルガーがある。砂防ダムで土砂が流れるのを防いでいるが、そびえたったコンクリートの壁は風情かない。砂防ダムの裾野から水が流れている。集落が山に迫っているので、土砂崩れの危険に脅かされているのであろう。

 
         ▲津波・平南の神アサギ                ▲津波のヌルガー 
 
 ウイパルガーから水源地まで行ってみようと登ってみた。途中に上の方からパイプがひかれた貯水タンクがあり、水源地はもっと上流のようである。ウイバルガー沿って少し下り、金網の小さな渡しを渡り、石垣沿いの小道を通り南側へ行くとアサギミャーに出た。一瞬、ホ~と言葉を発した。アサギミャーには大木があり、湧泉の跡、ウドゥン・神アサギなどの拝所がある。神アサギの前方には、舞台があり2年回りの豊年祭が行われる場所である。二つの村(ムラ)が合併し、二つの神アサギが併存してあるのは、今婦仁村の今泊や諸志と同様である。行政は一つになるが祭紀は一体化せずの原則である。

 さて、津波は1673年以前は羽地間切(現在名護市)の村(ムラ)の一つであった。1673年に国頭間切と羽地間切の一部を裂いて田港間切(後に大宜味間切)が創設された。その時、羽地間切の村であった津波村は大宜味間切の村に組み入れられた。その後、大宜味間切(後の村)の村(後の字)となり現在に至っている。その間に平南村(『琉球国由来記』(1713年に出てくる村)が津波村と隣接する形で移動している(今のところ年代は不明)。
 平南について『沖縄県国頭郡志』は、「羽地村源河より平南を経て津波に至る海岸一帯は甚だ潮水の急速なる所にして古来屡々海嘯に襲はる。平南は即ち古への平南村の古祉なれども民屋悉く海中に掻浚はれ遂に其故地のみ津波に併合せられたるなり。又津波も数度侵蝕せられ、現在の海浜は旧時部落の中程に当りし所なりといふ」(328頁)。

 「平南は昔時津浪のさらふ所となり。其故地を津波村に合せりといふ」(38)と記してある。現在の津波は平南と合併村落のため、津波のアサギミャーの側に建っている神アサギは二つに区切られ(向かって左側が津波の神アサギ、右側が平南の神アサギ)、合併村落の面影を遺している。津波村は津波巫の管轄で平南村は『琉球国由来記』に登場する村ではあるが巫管轄については記されていない。津波のヌルドゥンチで旧地に向かって遥拝することからすると、当時から津波巫の管轄だったのであろう。

 ヌルドゥンチは二方壁のない瓦屋根の建物になっている。中に火神の石が置かれている。ノロの継承者かいないのか、往時のノロ屋敷の面影がない。隣接してヘナンウヘーフの祠があり、火神の石が置かれている。津波では祭紀が衰退しつつあるが、祭祀場がかろうじて残り、かつてのムラ・シマの形態を甦らす手がかりを残してくれている。「井 つは原」と「ユ あさか原」の原石が現存している。


2008年2月26日(火)メモ

 戦後すぐの土地測量に関する「備忘録」(仲里:1947年)がある。仲里朝睦氏が今帰仁村崎山に住んでいた時にコピーさせてもらった資料である(後に糸満市に移り住み、『風水卜易関係資料』としてマイクロ化されている。戦後すぐの土地測量についてのメモである。仲里氏(朝睦氏ではない。土地所有委員を務めたのは仲里源五郎氏か)は土地をどのように測量したのか。昭和22年当時の測量状況が把握できるメモ書きである。

 「備忘禄」(1947年:仲里)
  土地所有委員出席 1月28日 1月29日
  食糧調製会 1月25日役場、26日字、27日事務
  1月28日
    図面作製準備品  間縄 60k、30k、15k
    ポール 2k 1.5k 1k
    図紙台 2尺×4尺
    縮尺 1200分の1 5厘1間
    巻尺
    鉢ニ三本
    簡易測量
      1.前進法
      2.光線法
      3.オブセット法
    平坦部 内則法 外則法
    製図(図省略)
       凡例 郡界 町村界 字界 小字界 図根点 道路 河川 溝渠
    求積 三角形 梯形 普通面積計算 
  調査員
   一、各大字ハ小字及各地図ノ調査ヲナシ置イテ、各小字ノ境界ヲ明ニ入スル
   一、地主ヲシテ立札ヲセシメル事
   一、境界争ヒノ分ヲ明瞭ナラシメル事

     
  所有者住所氏名
 一、指名ハ近親者ヨリトシ所有明記シ代理人続柄氏名 印
 一、未青年ハ名記セヌコト
     父母ニ記入スル事無キ場合ハ後見人ト名記スル事
 一、共有地(字有地トシテ)名記村長ニスル事

 摘要ノ件
 一、現況ヲ書ク事
   ◎軍要地、公用地、道路
     名称ト坪数ヲ書ク事
   ◎保証人
 一、交換ニハ保証人出来ズ
 一、或ル土地ニ対シ立証不可能ノ場合ハ字ノ委員会カラ二人ニスル事
   ◎図 面
 一、千二百分ノ一 五厘一間ノ事
 一、各地目毎ニ等級別
   ◎地積筆数
 一、字委員 委員長ヲ定メル事
 一、地目ガ同人ノ土地多数連続シタル時申請ハ一綴ニシテ申請スル事
     但シ図面ハ一括ニシヨロシイ 
  ◎田畑原野
 一、同一等級ナラバ一筆シテヨロシイ
 一、字境界小字境界ハ変更セヌ事
 一、地番ハ字ヲ単位ニシ地目毎ニ附ス事(通番号)
 一、部落カラスル事
 一、地番ガ漏レタ場合ハ官有地取上ケナルカラ注意スル事
   ◎有祖地、無祖地
 一、有祖地
    田畑、宅地、塩田、池沼、共同井戸、山林、原野、雑種地
  ◎無祖地(公用地、墓地、公共用地、道路)
 一、戦□地通ズル新道路ハ何坪、地目、何坪トシ道坪ハ摘要ニ入レル事
 一、保安林ハ別ニ申請スル事
 一、拝所ハ(字有ハ字名ニ入)右管理者村長某
 一、戦前の地目デ変更手続未済ノモノ其地目ハ差□ナシ
 一、地目ハ前通リ申請スル事
   ◎地 積
 一、坪ハ六尺四方ノ事
 一、坪未満ハ記入セヌ事 但シ、端ノ事
 一、坪デ単位スルコト
  ◎等 級
 一、等級ハ各人申請セズ委員会決定申請ノ事
 一、等級ハ地価ニシ一筆毎附スル事
  ◎程 度
 一、田畑五等迄デトス 其他二等迄デトス
 一、等級ハ字単位ニスル事
 

                  ▲昭和22年に作製された地堰図の一部

2017年3月22日(水)

 『伊江村史』に「歴代住持年譜」がある。年譜には僧名や在寺年が記され、さらに事項が記されている。
  ・仮寺を建てる、古鏡は洞中に奉斉(嘉靖33:1554年頃) 
  ・寺の改修(崇禎11:1638年)
  ・寺で死去、ヰイ墓に葬る(座墓のこと、西江前内にある)(康煕22:1683年)
  ・小松苗150本植付け(□正2:1724年)
  ・水車仕立て、寺囲いをする、寺修理、小松150本植え付け)(□正6~9、1726~1731年)
  ・小松300本植付け、石碑建立(乾隆37~40、177~1775年)
  ・寺庭造替え、小松150本植付け(乾隆55~仝56、1790~1791年)

 寺囲い植樹のこと(1732~1735年)
  お寺囲い植木無之に付風屏の為めにがじまる木枝を五十八本並にうすく木枝二十二本、
  福木八十本植付其首尾方も申上候処、甚だ暑く挿木にして四十五本植付盛生承り候間
  時節御見合を以て植付られ度候。

※この年譜から1724年ころには、伊江島では小松苗の植付けがなされている。また1732年ころには
  福木などが植付けられている。注目したいのは、屋敷囲いに「屏風」風に福木などが植えられている
  こと。

  伊江島へ 


2017年3月19日(日)

 国頭村に入る前に大宜味村喜如嘉、謝名城、田嘉里へ。1673年に国頭間切は大宜味間切と国頭間切に分割される。間切分割前の国頭間切の中心、グスク時代の国頭地方の拠点は根謝銘(ウイ)グスクと見られる。その位置に、『海東諸国紀』(1471年)で「国頭城」とあり、グスク時代の拠点になっていたことができる。今回踏査の目的は、グスク時代の国頭地方の歴史を描こうとするものである。

 国頭地方で吐出したグスクである。現大宜味村津波に津波城嶽、石城嶽があるが、1673年以前は羽地間切の領域であった。1673年国頭間切を分割した時、田港(後に大宜味)間切として番所を田港に置いたのか。そのことが気になり、根謝銘(ウイ)グスクから田港方面がどう見えるのか。グスクから田港(屋古)への山道があったのではないか。田港にしたのは、1665年今帰仁間切に置かれた北山監守が首里に引揚る。そのとき監守の引揚は時期尚早と反対した人物の一人が田港の滝川に隠居した場所である。その出来事と無縁ではなさそう。

  大宜味村田港に伝わる下の伝承は非常に興味深い。それは1665年に今帰仁グスクで君臨していた山北監守
  (今帰仁按司)が首里に引き揚げていった(廃止)時の様子を示したものである。尚真王の三男尚韶威(今帰仁
  王子)を今帰仁グスクに派遣し、、その一族が七代(従憲)まで今帰仁グスクで監守を勤めた。首里に引き揚げ
  るとき、意見が分かれたようで「山北の地は遠いので、まだ教化されていない」からとして監守制度の廃止に反
  対したのが定水和尚で、職を退いて田港村に隠れ住んだという。

 それと今帰仁グスクの興亡(中北山)で根謝銘(ウイグスク)離散して行った一族が、田港→川田へと。そのことも間切分割で田港間切とし番所を田港に置いたこと。田港間切(後に大宜味間切)とした時、平良・川田は田港(大宜味)に置かれ、た。番所を田港村から大宜味に移した時、大宜味間切と改称、番所を置き、大宜味村が置かれた。間切分割、方切、定水の田港滝川への隠居。そのあたりのことを詳細な調査研究が必要である。

 (2017年3月14日(火)の項参照)
 
    ▲根謝銘(ウイ)グスクから田港方面を望む               ▲塩屋から田港を望む(塩屋湾)

 国頭村宇良、伊地、与那、謝敷、佐手、辺野喜、宇嘉まで。各字を踏査していくのは字名(ムラ名)を覚えることに苦労している。公民館や神アサギや拝所などを確認しながらの踏査は、ムラ・シマの形づけるキーワードを見つけることができるできるからである。

   (工事中)


2017年3月18 日(土)

 4月から本格的に国頭村、大宜味村の調査にはいる予定。両村の調査は片手間にやってきたというより、学問の分野にこだわることなく、これまで通りの現場で見る、そこから見えてくるものを、過去の形を拾いながら、そこに住む方々がなるほどと、うならせることができる理由づけることにしていくことに。次へのスタートにむけてのことが一晩中、駆け巡っている。これから、早速、国頭方面へ。冬場の西海岸(北風の吹き荒れる)の村(ムラ)を体感しておかないと机上の議論にすぎない気がしてならないからである。

 夏あたりから、喜界島、与論島などへ。

 さて、さて、これから国頭方面へスタート。


2017年3月16日(木)

 今帰仁村字崎山のウタキ(イベ)調査。『琉球国由来記』(1713年)に崎山村の御嶽は「ギネンサ嶽御イベ」とある。『琉球国由来記』の御嶽部分の記載に誤りがり、誤解を招いている部分がある。ギネンサ嶽御イベを同村(中尾次村)とあるが、そこは崎山村の御嶽である。また与那嶺村のムコリガワ嶽御イベ、兼次之嶽御イベは中尾次村と崎山村の御嶽は中尾次巫の管轄であるが、郡巫とある。ついでに今帰仁グスクでの「大折目(海神祭)を郡(古宇利)村の祭祀の後ろに記載してあり、そこは錯綜しているので注意。

 崎山の方々とジニンサ川沿いにあるジニンサ御嶽のイビの確認踏査。御嶽のイビとみていい場所を確認。香炉や目印になるのがあればよかったが。ジンニンサ川沿いからウタキへ入るコースをとると、画像の岩場に突き当たる。数多くの御嶽のイベを見てきたが、謝名や諸志、平敷など、御嶽(ウタキ)のイビの原型である。4月の下旬に勉強会をすることに。山原の数多くの御嶽(ウタキ)のイビの紹介することに。山原のウタキ参照。


   ▲ジニンサ御嶽(全景)(字崎山)                  ▲ジニンサ御嶽のイビ


  
▲御嶽(ウタキ)のイビを確認し安堵         ▲お宮に合祀(諸田・崎山・火神・根神・掟火神)

 
       ▲崎山の茅葺きの神ハサギ              ▲屋部一門の寄進の香炉


2017年3月14日(火)

 午後から、大宜味村田港(屋古)から現東村平良と川田まで。平良村と川田村「絵図郷村帳」では名護間切、「琉球国由来記」(1713年)の頃は大宜味間切。田港間切番所が田港村から大宜味に移動すると大宜味間切と改称される。番所は後に塩屋村へ移転。一帯は方切(間切境界の変更)があり村の変遷は複雑である。そのことが村を見ていくキーワードの一つになりそう。それとは別に、北山の歴史で北山三王以前の中北山の時代)の伝承をもつ村がある。

 1665年に北山監守一族が首里に引揚きあげた際、その引揚げは時期尚早とした人物(定水和尚)が、国頭で隠居する。滝川地は当時国頭間切内、1673年に大宜味間切となり、その地に番所を田港におかれる。そのような流れみると、以下の系図も出来事との関わりでみていくと、その伝承はあながち無視できないのかがある。それと田港間切創設のとき、田港に番所を置いた理由、そして田港間切創設時、東側の平良・川田両村が田港間切の領域であったことも、あながち無視できないものがある。

 下の系統図や伝承を根強くもつ、田港(屋古前田)→平良→川田をいく。

(詳細は工事中)



田港の中北山系統の伝承をもつ一族
  
      ▲タナンハ墓のある山                  ▲山頂近くにある「中北山思徳金一族の墓」 

   
      ▲田港の根謝銘ヤー          ▲タンナハ墓への遙拝          ▲根謝銘

【久志村字川田屋号根謝銘屋】(Nakaメモ)

 口碑伝説に依りれば同家の始祖はヒビドキ(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫に
 して前記本部村満名上の殿内の次男なるが或事変に際し・・・(略)・
 川田は八十戸中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘屋及びその分家なる西の
 屋内(イリヌヤ)西の根神屋、東の殿内(東リノ比嘉)、新門(ミージョー)、金細工屋、大川
 端(元ニーブ屋)の七煙より分かれたり云々、・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及黄
 金かぶの簪等の遺物保存せしが火災の為め焼失して今は類似の品を持って之に代へたり。
 ・・・(略)

 上の伝承を持つ根謝銘屋はオミヤ入り口にあり、石垣やガジマルの老木は旧家を彷彿させるのに十分である。オミヤから根謝銘屋の傍を通り海岸までの道筋は、集落形態の軸線となっている。途中、ムラヤー跡や神アサギがあり、海岸へと通じる。歴史が読み取れる出来事やウタキや旧家やカーなどが遺され、語ることのできるムラはいい。


   ▲根謝銘屋(ニザンヤー)(左側の家)       ▲オミヤの入り口(勝乃宮)


   ▲大穴井戸(ウフアナガー)              ▲川田の神アサギ

  
          ▲中北山王の一人「□□」が祀られているという墓(川田)

2003.2.13(木)メモ(その後調査する)(Nakaメモ)

 
2月の10日を過ぎたら若者の来館が目立ちます。テストが終わり一段落といったところか。昨年9月に学芸員実習をしたT子さんがやってきて紅葉饅頭をお土産に。広島からはいつも紅葉饅頭。もみじ饅頭じゃないといけないようになっているようだ。まだ、沖縄かな?今日は天気がいまいち。館の窓口で旅している姿をみていると海外?に出かけたくなります。もう少し暖かくなったら離島にでも!

 2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表の記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介します。北山城主末裔については久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもあります。
 大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・
以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。
・・・・」
とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。

 もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う(Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?


2015年1月22日(木)(Nakaメモ)

 根謝銘屋の伝承は史実かどうかについては不明である。しかし、「旧藩丁系図座出仕首里長浜氏の記録」とあるように17世紀中ごろ系図座に提出したが、王府は家譜に認めなかったのではないか。その頃に根強く伝わっていた伝承があったと見られる。根謝銘屋の一族は、それを踏まえて一族の歴史をつづっている。旧正月には一族の神行事があり参加してみたい。近々調整してみる。北山の系統としての根謝銘屋に山原的な祭祀がどう継承されてきているか確認しておきたい。以前「北山と関わる村」として、まとめかけたことがある、それをきっかけに調査をすすめてみる。(正史と言われる歴史、それから外れた野史と言われる歴史。山原を視野に入れて歴史をなぞっていると、正史とは別に首里王府を支えた間切や村々の歴史が非常に面白くなってくる)。

 間切名や村名やオモロの世界の話題の多くが、野史(伝承)をベースになっていることに気づかされる。川田の根謝銘屋の調査が出来れば、野史に登場する人物やその生誕地が間切名や村名になっていることがわかる。そのために沖縄の間切や村名の語義の多くが解明できないのはその為ではないか。英雄伝承が間切名や村名になっている(具体的な事例は改めて報告する予定)。今帰仁や大宜味や湧川や運天などの地名の語義が解明できないのは、そのため。

 仮に『応氏家譜』や「長浜系図」と言われるものが、首里王府の『家譜』の一つになっていたら、琉球(沖縄)の歴史は大幅な広がり、そして深化したであろうと考えている。

【東村川田屋号根謝銘屋】

 『沖縄県国頭郡志』に久志村(現東村)川田の根謝銘屋について以下のように記してある。
 口碑伝説に依れば同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドキ)と綽名せられ、仲今帰仁城主の子孫にして(前記)本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し一時名護城に移り、これより大宜味根謝銘城に避難し、後国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イエーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るにこの所は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。

 川田は八十戸中十数戸を除きたる外皆同家の後胤孫にして根謝銘屋及びその分家なる西の屋内(イリヌヤ)、西根神屋、東の殿内(東りの比嘉)、新門(ミージョー)、鍛細工屋、大川端(ニーブ屋)の七煙より分かれたり云々、故に村内浜下りには、必ず右の七家より炊き出しをなすの旧例ありしという。以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀および金かぶの簪等の保存せしが、火災のため焼失して、今は類似の品を以って、之に代えたり。同家客間の右方に特に神壇を設けて祖霊を祀る(普通仏壇は次の間にあり)。同家等の由来につきて旧藩庁系図座出仕首里長浜氏の記録によれば以下の如し(略)。


2017年3月13日(月)

 2006年2月「国頭三村」について講演をしたときのデータの一部である。「国頭三村」は歴史的には1673年まで、そのほとんどが国頭間切の領域であった。1673年に国頭間切、大宜味間切、久志間切となる。1673年以前の国頭地方の領域区分の変更(方切)が、ムラ・シマの祭祀やそれぞれのムラの形や特徴に影響を及ぼしている(後の寄留・移住が)。13年前に報告した山原について、再度見直すことに。これまでに調査・踏査・整理してきた以下の項目は、山原について見ていくためのキーワードの一部である。

 
山原の間切の両総地頭の御殿と殿内】(Nakaメモ)
【根謝名(ウイ)グスクと村(ムラ)】(Nakaメモ)
謝名城の海神祭】(Nakaメモ)
【根謝銘城(上城)の系統】(『大宜味村史』所収)


国頭村安田


・大宜味村謝名城


東村川田




【近世の間切境界の変更、村移動とノロ管轄、新設村】

 『球陽』の以下の記事は、間切の境界、村移動、蔡温の山林政策など、いくつもの動きが読み取れる。その記事を見る前に、そこに登場する村がどの間切の村であったか、まず確認が必要である。それらの村移動は山林政策もあるが、1735年に行われた羽地大川の改修工事と無縁ではない。振慶名村を羽地間切の中央部に近い田井等村の側に(羽地大川沿い)、羽地大川の河口に近い場所に呉我村を移動させ、我部村と松田村は屋我地島に移動させている。それは、羽地大川沿いと屋我地島の開拓も目的としてあったと見られる。

 もう一つ注目しているのは、移動した村の祭祀を管轄していたノロの変更がなかったこと。それまで管轄していた村が距離的に離れてしまう、それと他のノロ管轄の村を飛びこていくが、他のノロに譲ることなく我部ノロが引き継いでいる。近くにあった村々が他のノロ管轄の村を飛び越え、あるいは海を越えたのであるが、ノロ管轄の変更がなかった。

 『球陽』の記事では農地が狭いや山林を看守させる理由をあげているが、それとは別に村を移動させることで、羽地大川沿いや屋我地島を開拓させ、農地の拡大が目的にあったとみられる。それだけではなく印部石(原石)を用いた元文検地の最中でもある。

『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』(1650年以前)
  ・ごが村・ふれけな村・まつざ(だ)村・がぶ村・・・・・・今帰仁間切の内
       (1690年頃、それらの村は今帰仁間切から羽地間切へ。間切境の変更)

『琉球国由来記』(1713年)
  ・振慶名村・呉河(我)村・我部村・松田村・・・・・・・は羽地間切の内
                           (それらの村は現在の呉我山から湧川地内にあった)


 1736年に呉我山から湧川地内にあった村を屋我地島と羽地間切の内部へ移動。呉我山から湧川地内を、羽地間切から今帰仁間切に入れる。村を移動させると同時に、その地を今帰仁間切の領地とし、1738年そこに湧川村(今帰仁間切)を新設する。

【蔡法司、諸郡の山林を巡視して、村を移す】(1736年)の記事が『球陽』にある。今帰仁間切と羽地間切に関わる部分のみ下に記す。
  国師、法司蔡温(具志頭親方文若)、御物奉行毛鴻基(奥平親方安三)・高奉行東景仁(天願親雲上政房)
  を率領し、諸郡の山林を巡見す。而して羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶名等村、・・・・村は一処に
  集在して、農地狭く、動もしれば山林を焼き以て農地に供す。今帰仁山林は甚だ狭し。乃ち呉我村等五邑を
  以て、山林外に移徒して、其の山林の地は今帰仁県に属せしめ、仍、羽地県内に属せしむ。・・・」


 その二年後(1738年)に、同じく『球陽』に【今帰仁郡に湧川邑を創建す】とある。
  今帰仁郡は民居繁衍し、山林甚だ狭く、材用に足らず。乾隆元年、検者・酋長奏請し、羽地山林を分別して
  今帰仁郡に属せしむ。依りて湧川邑を建てて山林を看守せしむ。



 ▲我部・松田・振慶名・呉我村があった付近(現湧川地内)

2017年3月11日(土)

 明治17年の「問答書」から今帰仁間切の地割と人身売買の実態はどうだったのか「問答書」から、いくらかでも把握しておく必要あり(『琉球共産村落之研究』所収より 田村浩著:295頁)。

【今帰仁地方旧慣地割ニ関スル問答書】(明治17年)より

 ・問  百姓地は各家に於いて古来所有の儘(地所の割換ありと雖も坪数の増減なきを言う)之を
     保有するか又は村内戸口の増減に従い之が分配を為すことあるや、その方法手続き如何。
 ・答  毎戸古来所有の儘之を保有せず。戸口の増減に従い之を分配す。その方法は村中吟味の
     上毎戸人員の多少農事の
     勤怠と資産の厚薄を見合はせ持地数を定め之を分配す。
 ・問  然らば戸口の増減に従い之が分配をなすや
 ・答  否地所割換の年に之を分配す
 ・問  農事の勤怠資産の厚薄を見合はあせ配分するとき、例へば一家三人の人口に二地を
     与へ一家五人の人口に一地を与える事あらん。然る時は其の分配方に差別あるが如し。
     右様の事に付苦情を生ずる事なきや。
 ・答  然り一家三人の人口にて二地を取り又五人の人口にて一地を取る事あり。然ると雖も右は
     人民中協議の上取り計らうことなれば苦情等の起りし事なし。
 ・問  百姓地を割換するは何年に一回なるや。臨時割換することあるや。その法如何。
 ・答  一定の年限なし。凡そ六年乃至十年目に割換す。又時の都合に由りては臨時割換する
     事もあり。其の方法は村中吟味し実地立合見分の上之を取は計ふ。
 ・問  右割換年限は田畑共同じきや。
 ・答  然り田畑共前条の通り。
 ・問  百姓地地頭地を相対譲与或いは質入する等の事あるや。その取扱い振如何。
 ・答  内分にて質入れする等の事あり。その取扱振は相対口上の示談に止まる。
 ・問  右内分ニテ質入せる後俄ニ地所の割換あるときは質取主は金の損亡するか、又は質入
     人にて前借金は之を償うか。
 ・答 右等の場合に於いては、今度配分せられし地所を、又更に金主へ引渡すに付損亡なし
    尤も今度配分せられたる特地数前者より少なきときは金主の損亡なり。
 ・問 惣地頭地村地頭地及び仕明地等取扱並びに小作セシムル手続き如何。
 ・答 右は総べて百姓地同様取扱分配方並びに割換法とも其の特続百姓地に異なることなし。
     但し人民仕明地請地は其の地主之を耕し或いは小作せしむるものあり。貢租は直ちに地主
     より取り立つ。 

 明治36年の土地整理で地割制度は終りつげる。下の図は土地整理直前の地割の最後の様子を示すものである。「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者について報告したことがある。土地保有者がバラバラである。それは地割の実態を示すものである。平敷村は貧富割タイプである。(古宇利はダブリあり。確認のこと)

 ①貧富割(12村)
   今帰仁・親泊・志慶真・兼次・諸喜田・與那嶺・崎山・平敷

   ・勢理客・天底・湧川・古宇利
 ②貧富および耕耘力割(5ヶ村)
   仲尾次・謝名・仲宗根・運天・古宇利?
 ③貧富および人頭割(3ヶ村)
   玉城・岸本・寒水
 ④人頭割・年齢に関せず(1ヶ村)
   上運天





2017年3月10日(金)

 抜け殻状態に、途中ムラ・シマの情報を充電しながら。
 
 午前9時から「玉城字誌」の編集会議。進捗状況、内容の質疑、版(B版かA版か)、ボリュウムームの確認など。原稿は5月の連休明けまで一次原稿の配布(校正ため)。写真提供のお願い。原稿整理や執筆、資料整理。本の体裁まで。一段落。蝉の抜け殻状態。一段と、はずみをつけて行きます。

 
         ▲私にとって珍しい、午前中の編集会議。それもいいものです。

2017年3月8日(水)

 明日は玉城の字誌の委員会。明日は「字誌」全体の進捗状況の報告。今日で全体のページの予定。まだページに入れていない原稿がある。一日はまって整理。

岸本ノロ(玉城)(2010年3月1日)メモ

 今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は玉城に統合されている。統合は明治36年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロか)に関する以下の資料がある。4日に『玉城誌』の編集会議あるので話を引き出すための資料を整理。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村(ムラ)別とノロ管轄に分けて整理が必要。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の岸本村の祭祀場として三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイである。

   ・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村)
   ・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)

  沖縄縣指令第一四五號
     国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
           大城清次郎
            外七名

   大正二年十月十七日附願岸本
   の加ネイ大城カマト死亡跡職
   大城カマド採用ノ件認可ス
     大正三年三月十八日
   沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印
   
『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。
 岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。

 岸本巫火神で行われる祭祀(『琉球国由来記』)は、以下の六つである。岸本・寒水の二カ村の百姓と岸本巫が関わる。
    ・麦稲祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目
    ・山留
    ・大折目次三日
 岸本の神アシアゲでの祭祀は、百姓・居神・岸本巫が関わる。
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲穂大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目

 寒水村は『琉球国由来記』(1713年)にウタキの記載はない。神アサギでの祭祀は、
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナリ折目
    ・大折目次三日 

【岸本の神人】
 ヌル/根神/ウペーフ/イガミ/ニブサジ

【岸本の拝所】
  ・神アサギ ・ウカー ・ウペーフ殿内 ・ヌルドゥンチ ・ヌルウグヮンヤー ・岸本ヌシー

【寒水の神人】
 根神/ウペーフ/イガミ/ニブサジ

【寒水の拝所】
  ・根神殿内 ・神アサギ ・獅子殿内

【岸本の祭祀】
 ・二月十五日(二月ウマチー)
 ・三月十五日(三月ウマチー)
 ・四月十五日(タキヌウガン)
 ・五月十五日(五月ウマチー)
 ・六月十五日(ウチマチー)
 ・六月廿五日(稲穂を供える)
 ・七月二十日(ワラビミチ)
 ・七月最後の亥の日(ウプユミ)
 ・八月九日(ワラビミチ)
 ・八月十日(神人ウガミ)
 ・九月七日(ミャヌウガン)
 ・十一月十五日(ウンネー)

岸本の神アサギ 

 岸本村は玉城に合併統合された。岸本ノロの管轄。岸本村も1862年に村が疲弊したために王府から移動を許された。明治15年頃の調査で「ノロクモイ火神・神アサギ・島ノ大屋子」が記されている。現在の神アサギは瓦葺きのブロックの柱の建物。アサギの近くに岸本ノロの家跡がある。「大正二年十月十七日附願岸本ノ加ネイ大城カマト死亡跡職大城カマド採用ノ件認可ス」(沖縄県知事印)とある(写)。 



2017年3月3日(金)

 字誌のグラビアに使う文書資料を取り出す。新参家譜、ノロ引き継ぎ変更文書、家の継承など。


       ▲新参政姓系図



 午後から「国頭地方」についての会議がある。以前「北山系統の伝承をもつムラ」ついて整理したことがある。追加する時間がないので、過去のものを引き出すことに。

山原の間切の両総地頭の御殿と殿内
【根謝名(ウイ)グスクと村(ムラ)】
謝名城の海神祭

 北山が滅ぶ(1416年)と人々が各地に離散したみられる。北山の全てのムラや人々が離散していったわけではなかろう。北山系統の一族が離散していった痕跡が伝承にのこっている。離散していった経過や人物がどれほど史実を伝えているか不明である。一族の伝承が、一つのストーリーとして、史実かどうかとは別に根強く継承されている。一方で、そのストリーが史実かどうかを問うているところもある。

 これまで、村全体が移動、あるいは離散したりと見ている節がある。ところが、ムラのある一門が移動してきたり、離散したりしている姿が見受けられる。そのことを明確にするため、山原の各地のムラの一門の動向を大ざっぱだるが見極める必要がある。各村の各一門にどのような伝承を持っているか。その作業を進めてみる。そこから、いくつか結論を導き出してみることに。どのような法則性が見い出せるか、興味深い結果がでてきそうだ。さて・・・

 各地の一族(一門)は、伝承とする系統図がある。それぞれの系統図は複雑に絡み合っている。その複雑さと、一族(一門)のルーツを辿ろうとする心理が、今に継承されつづけているように見える。それらの系統図から山原に所在し、関わる一族(一門)を取り出してみる。

・天孫氏の系統
  ・湧川村(ムラ)(今帰仁村(ソン))の根屋(新里屋)
・北山大按司の系統
  ・湧川村(今帰仁村)の根屋(新里屋)
  ・親川村(羽地村・現名護市)?根所
  ・大宜味村(大宜味村)の根屋
  ・渡久地村(本部町)の根屋
  ・屋部村(現名護市)の根屋
・今帰仁按司の系統
  
・古北山の系統
  ・東江村(現名護市)の徳門
  ・一名代村(大宜味村)の根所
・北山王の系統
  ・湧川村(今帰仁村)の根所(新里屋)
・健堅大親の系統
  ・健堅村(本部町)の根屋
  ・具志堅村(本部町)の花城
・親泊村(今帰仁村)の根所
  ・天太子大神加那志・龍宮女大神加那志の子、北山大神加那子を祀る。
           
参考文献


【根謝銘城(上城)の系統】(『大宜味村史』所収)

 大宜味村謝名城に根謝銘グスク(上城)がある。大昔、中山英祖王の後胤の大宜味按司の居城とされる。



【老女田港乙樽】(親孝行女の伝承)
 乙樽の生家は屋号根謝銘屋と称し、仲北山城主の後胤にして根謝銘城より田港村に村立した思徳金の子孫であるという。また同家には近代描いた乙樽の肖像画を祀ってある。乙樽というのはこの地方では一般に用いない名前である。それからすると家格の程を察知する事ができる。乙樽の墓は田港の南方にある。

●【久志川田屋号根謝銘屋(当主奥元氏)】(『沖縄県国頭郡志』)(現在:東村川田)

 同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして、本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に祭し一時名護城に移り(その妻は世富慶村カニクダ屋の女なりしという)、これより大宜味根謝銘に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イェーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に1500坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。
 川田は八戸中十数戸を除く外、皆同家の胤孫にして①根謝銘屋及びその分家なる②西の屋内(イリヌヤ)、③西の根屋、④東の殿内(東の比嘉)、⑤新門(ミージョー)、⑥鍛細工屋、⑦大川端(元ニーブ屋)の七煙より分れたり・・・。
 以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金カブの簪などの遺品があった。火災があって今あるのは類似の品。首里長浜氏の記録にあり。


  ▲北山系統の伝承をもつ根謝銘屋(川田)      ▲根謝銘屋の側にある勝之宮



【川田にある仲北山御次男思金の墓】

 東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男 思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。


   ▲「仲北山御次男思金」の墓         ▲東村指定のサキシマスオウの板根

・東村川田に北山盛衰にまつわる伝承あり。
・『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に「「旧家由緒」に口碑伝説、「長浜氏の記録」あり。
・始祖の墓として根謝銘屋一門が清明祭(シーミー)の時に拝む。


●【大宜味村田港】

・屋号根謝銘屋(首里長浜系氏の記録)仲今帰仁城主の子孫だという。
 新屋松本は仲今帰仁城主の子孫なる
思徳金は今帰仁城監守の滅亡に祭し、その四子を引き連れ大宜味根謝銘城の叔母の許に隠れ後塩屋湾奥にありて閑静なる田港に村立する。
 その長男を
兼松金という。次男真三郎金は東りの松本の祖、三男思亀寿金仲門松本の祖にして、四男真蒲戸金は叔父思五良金の養子となり川田村根謝銘屋を継ぐ。
 本家田港の根差目屋には絹衣数種黄金カブ簪一個を秘蔵せり。

 



【佐 手】
 以下の四門中が佐手の古い門中
①前 (村の創設より)
②西 (村の創設より)
③玉井 (北谷王子の末裔なりという)(大正より三、四代前移住)
④仲原(島尻郡小禄より移住)
・川端門中 渡名喜島・首里・辺野喜→佐手
・久高屋門中 始祖は久高島
・新屋 (大正より三、四代前移住)
・与那ノロの墓がクシジマある。


【与 那】(本集落は辺土名から分れて移住。農地は伊地村の与那川原)
 古き門中(上門と上謝敷は同一門)
①上門(上謝敷と兄弟で北山系統)
②上謝敷(上門と兄弟で北山系統)
③前門(ノロを出す一門あり)

※1397年頃、察度王の孫、玉城王子が戦乱を逃れた落ち着いたところと云われている。
  玉城王子は10年程で王府に返り咲き、子供達を遺して小禄に登ったが、その子孫により栄えたという。
※今帰仁系統の一族もいる(今帰仁墓)



●【辺野喜
 (比較的古い一門は14.他は近年(大正から)の移住者)
①門前(山城)
②デゲンチャー(宮城)
③シバー(宮城)
④道原(宮城)
⑤上門(金城)
⑥兼久
⑦ハアタイ(島袋)
⑧前地(山城)
⑨大屋
⑩門
⑪道グリ
⑫川端
⑬東恩納(大正から四代前(50年余)那覇の東恩納と同門。

※北山系統をくむ大宜味村田港の根謝銘屋が先祖だという(島袋姓)。


【伊 地】
 以下の三門中は古くからの伊地に居住。
①メンター屋門中(島袋、島姓)(門中のみでの祭祀あり)
②ミー屋門中(宮城姓)
③アタ屋門中(新里姓)

※近世になって首里・那覇からの寄留も多い。明治の中頃、首里・那覇あたりの寄留人がやってくる。

・『沖縄の古代マキヨの研究』


【比 地】
 ・小玉杜の中に奥間のイベあり。
 ①アサギ門中(山川姓)
 ②半田屋門中(大城姓)
 ③泉川屋門中(山城姓)(アーマンチュウ)(天人の図像、仲村渠天孫氏、大里天孫氏の神位)
 ④下道屋門中(神山姓)

・『沖縄の古代マキヨの研究』



●【宇 嘉】
・ウフヤーの大城家は北山王の系統だという。湧川の新里家の分家といい、一族は七年回りをする。

「わが里」1984年


   ▲屋敷内にある神アサギ(宇嘉)        ▲北山系統の伝承をもつ大城一族

【辺 戸】
・義本王の墓はサクマ家が管理している位牌と花鉢)。義本は源為朝の子の瞬天王の孫。



【奥】



【宜名真】
・首里系の寄留人。


●【安 田】
 北山からの流れてきたウリー里之子が字の開発に貢献する。子の墓は共同墓地と別にある。


【安 波】
 東村川田から犬引くがきて字の娘と結ばれ、以後ムラが発展した。三山鼎立時代、南山からの逃れた武士三人がウンヘに泊り、その娘をヨメにして栄えたという。南山墓がある。


【辺野喜】



【謝 敷】


【佐 手】
 ・「義本王の身代わりのための偽墓と屋敷跡と古井がある」という」(国頭村史)。

【辺土名】

【桃 原】

【鏡 地】
 奥間と比地から分離

【半 地】

【浜】