2016年4月                                       沖縄の地域調査研究(もくじへ)    
 


2016430日(土)

 大宜味村田嘉里のマップづくりの計画があり、その前に田嘉里についての講座を行う。字田嘉里と大宜味村史から画像の提供をいただいた。田嘉里は三つの村(ムラ)合併である。そして「おもろうし」でやかひむい、屋嘉比ノロのことを「親のろ」と謡われ国頭地方(国頭・大宜味を含む)ののろのを統括するノロであった。それと根謝銘(ウイグスク)と屋嘉比ノロ管轄の村(親田・屋嘉比・見里・浜)との関係。田嘉里には五つのマクがあり、それは親田・屋嘉比・見里・野国名などの集落とつながる。
 
 今回注目したいのは、屋嘉比川(田嘉里川)の屋嘉比橋のフナアゲ場(舟着き)と、ウイグスクとの関係。そこからウイグスへのルートの確認をしたい。




2016428日(木)

 仲村源正氏辞令書関係資料のデータ化をする。1989年に氏の資料整理をし、報告書を出したことがある。100点余の明治初期の小学校の証書、高等小学校の証書、間切役人の辞令書、郡役所の辞令書、農工銀行、勧業銀行、国頭愛楽園の辞令書など、計102点のである。



               ▲仲村源正氏の資料目録一覧表(一部)


 戦争遺跡調査は2003521日にもやっている。その時のメモを紹介。

今帰仁村湧川をゆく〕2003.5.21(水)メモ


 湧川ゆきは6月中旬(2003年)に「平和学習」を小学生と湧川小学校の先生方をふくめてやることになっている。そのため、湧川にある戦争あるいは平和とかかわる場所や遺跡を確認したくて。小学生たちに「戦争と平和」を自分のものとして考える時間をつくりたい。湧川という地で、一人ひとりが戦争と向かいあってもらうために、いくつかのキーワードを探しに・・・・。

 ・湧川での戦争への流れ
 ・湧川からも伊江島・読谷飛行場建設
 ・運天港(特攻隊)の陣地構築
 ・防空壕堀り(ウタキの斜面や家の近くの森など)
 ・防空演習(竹やりや消火訓練など)
    ↓
    ↓
 ・収容所へ(収容所での生活)
 ・収容所から帰村
 ・慰霊塔の建立(昭和31年)
 ・南海の塔の建立

 昭和198月海軍の運天港設営隊の山根部隊約600人が渡喜仁に、海上特攻隊白石部隊約300人が天底国民学校に駐屯し、各隊の魚雷艇、特殊潜航艇が運天港に配備される。
 屋我地国民学校には陸軍船舶隊の暁部隊が駐屯する。その工作船が下我部のウンパラーに七隻、木の葉などで偽装され停泊。

 日本軍の駐屯によって湧川でも16歳から45歳までの男子、女子青年も動員され、兵隊と一緒に陣地構築に従事させられる。

 ※山根部隊約600人が渡喜仁に、天底国民学校に白石部隊約300人、屋我地国民学校に陸軍船舶隊の
   暁部隊が駐屯。山根部隊の駐屯が渡喜仁である。渡喜仁のハキジヌメーの壕は海軍壕、部隊の多くが
  渡喜仁の民家に駐屯したという。
   
【湧川の防空壕堀】
 昭和194月日本政府は中学生の勤労動員大綱を作成し実施する。
 湧川でも米軍機の襲撃に備えて防空壕を掘り始めた。壕は主として班単位で近くの森や茂みのある斜面を利用して掘られた。家族の多い家などは自家用の壕を掘る家もあった。
 壕は入口は小さく、幅約1m、高さ120cm、奥に四m四方、大きいのになると8m四方のもあった。掘った土は入口に盛土して爆風よけにした。
 湧川の四班は呉我山への道途中のダケマーの暗渠を防空壕に使用。
 二班は人員が多く、各戸で、あるいは隣組で壕を掘っていた。
 一班のウガンの森周辺からフカソーにかけて145の防空壕が掘られた。

昭和19年の1010空襲 1010日の午前7時頃、二機の小型飛行機がはるか上空を北から南へ飛んで行った。
当初日本軍の演習だと思っていたが、米軍機の機銃掃討の音で空襲だと驚き気付く(1時間くらいで終る)。
 湧川ではウンパラの暁部隊の船舶や燃料が攻撃の目標のよう。最初はグラマン戦闘機、次の爆撃機はカージスから爆弾が投下され、黒煙が空高く立ち上った。(民家への被害はなかった) 

 今日は慰霊塔に刻銘されている233名の湧川の方々の名前、その後ウタキの斜面にある防空壕(数基)を確認してきた。気の重い重いテーマであるが、口癖のよう言っているテレビ画面の向こうの出来事ではなく、「自分が今そこに、何故人間として存在できているのか!」を戦争を通して考る機会にしたい。

 昨年は仲宗根政善先生のひめゆりや先生の著書を通して「戦争と平和」を考えたが、日々の生活の中で自分の問題として捉えることができるようになっただろうか。その時だけでなく。
  その後雛小屋つくりが始まる。
  湧川の人々の避難小屋は乙羽山、嵐山、遠くは羽地の源河山(ハジウスイ)などの谷間を利用して避難小屋をつくった。(避難小屋は山の木を切って骨組をつくり、屋根には竹茅を、床は竹を編んで家族がやっと寝起きできる程度のもの)

 
 ▲今帰仁村湧川にある南海の塔         ▲戦没者隊員の名前


2003.6.18(水)メモ

 小学生に向けての「平和学習」。湧川小学校は44名の在籍で小さな学校である。4月から中学が統合されたためそこへ。各学年数名づつであるが5年生が14名もいる。何故だろうといっても、自然の成り行きとは思うのだが聞いてみたくなる。
 前半は、
  ①湧川内で戦争(せんそう)とかかわるものを見つけよう!
  ②戦争(せんそう)のとき、あなたのおじいさんやおばあさんは、どこにいまし
    たか?
の二つのテーマで。後半は戦後10年の復興期のカラースライドを使って「平和」と「自然環境」とを合わせて「平和とは?」と考えてもらった。ハーモーモーの目立つ1年生から6年生までの一斉だから、話す方としては一番苦手な場面。

 アンケートを出したのは、親子で戦争や平和について考える時間を持つということ、今日の「戦争と平和」の話を聞いたうえで6月23日の慰霊塔の前に立つ意義を見出してくれるでしょう。身近にある戦争と関わる慰霊塔や防空壕、そして南海の塔を通して、考える機会になればと思っている。

 先日慰霊の塔と南海の塔を訪ねたのであるが、やはり現場を確認して置きたくて出勤途中足を運んだ。南海の塔の三つの仏像と大和姓の方々の刻銘(軍人でしょう)、名前のわからない方々、慰霊塔は湧川出身の名前がづらり。どこどこのとわかる関係である。校長先生のコメントに「慰霊塔に塗り固められたセメントは、各家庭の香炉の灰を混ぜたものだということに、改めて考えさせられます」との言葉があった。

13年前の湧川の慰霊塔の周辺に数本の松があったが、現在では全て枯れ、切り株が残っているのみ。

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    ▲今帰仁村湧川の慰霊塔                ▲戦没者のお名前


2016426日(火)

 大宜味村田嘉里で講座を開催する予定(525日頃)。ムラ・シマ講座の大宜味版である。その下調べで田嘉里を踏査する。すでに田嘉里から数多くの写真が大宜味村史に提供されている。興味深い写真が数多くあり、それらの写真を手がかりに田嘉里の歴史や根謝銘(ウイ)グスクの大城御嶽(イベ)と屋嘉比ノロ管轄の四つの村(親田・屋嘉比・見里・浜)との関係。

 おもろさうしで謡われているやかびむい(屋嘉比杜)とおやのろ(親のろ)、そして根謝銘(ウイ)グスクとの関わりについてまとめてみる。おおろに謡われた時代、どうも屋嘉比川(現在田嘉里川)の屋嘉比村の麓のハニマーバシ(屋嘉比橋)、ヒニチキバ(船着場)など船着きと関わる地名がある。根謝銘(ウイ)グスクが機能していた頃、屋嘉比川を遡って付近まで舟が上がってきたのであろう。今回確認できなかったが、ヒニチキ場から根謝銘(ウイ)グスクへのルートはどうだったのでろうか。親田(ウェーダ)を通り、あるいは野国名からグスクへ登っていったのであろうか。

 まずは田嘉里は親田・屋嘉比・見里の三つの村が明治36年に合併した村である。屋嘉比ノロはウンガミの時、根謝銘(ウイ)グスクの大城御嶽(イベ)でのウガンがあり、そこから屋嘉比神アサギでのウガン、ヌンドゥンチ、ヤマグチなどの旧家などでの神行事がある。古琉球の集落につながるマクがある。近世の屋嘉比村につながるクシンヌマク、親田村につながるマラクイヌマク、見里村につながるユフッパヌマクがある。それらの関係を歴史の流れでみていく。

      (工事中)
 
      ▲屋嘉比川(フネツキバ)付近        ▲親田からみた根謝銘(ウイ)グスク


2016423日(土)

日々の動きへ


 今帰仁グスクの近くにあるフプガマへ。それも戦争遺跡の一つである。平成4、5年頃故上間政春氏、故親川繁氏など四、五人でフブガマの内部まではいる。そのフプガマは戦争のとき避難壕として使われた。内部に戦時中使われた食器やビン、缶詰カンのなどがあった。親川氏は人骨があったと記録されている。縦穴(15m余)で、底の方で奥の方へ(?m)。

 故吉田光正氏は、フプガマに一時避難したという。

 このわずか十日前後で、今帰仁も大きくその姿を変えた。4月7日のことだったと覚えている。昼間は壕から出られないので夜間、砲撃の合間をぬって部落(今泊)に戻った。玉城精喜先生(今泊)と二人で、先生の自宅屋敷の壕にあった砂糖樽を持ち出すためだ。130斤余りの砂糖樽を二人で担いで月夜の山道を急いでいた。トゥムニハーニの祠付近にさしかかった時、突然羽地方面から城跡周辺に、激しく砲弾が撃ち込まれ、びっくり仰天、二人は砂糖樽をほったらかして、ミームングスクの南側をころげおちるようにフプガマに退避した。しばらく砲撃の止むのを待って、またもとの道に戻り、砂糖樽を担ぎ直して、吉田家の離れにかくしてから、山の壕に急いだ。

 その前後、クバのウタキ、ハヤモー、東上原、タマータ、大堂原等は、集中砲撃を浴びせられ、東上原の二家族と本部方面からの避難民に多数の犠牲者が出た。翌早暁に、東上原の壕にいた数人で仮埋葬をした。毎日の壕生活では戦況がわからず、イライラの日々が続き、本部半島はすでに米軍に包囲され、住民の緊張は頂点に達していた。

 当時志慶真川の上流は、本部、今帰仁、伊江島の避難民でごったがしていた。多分4月16日と思うが、朝まだ明けきれない時、壕を抜け出し周囲の状況を調べるため、一人ハヤモーの頂上に登って伊江島をみると、伊江島周辺のの海は米軍艦にすっかり取り囲まれている。(伊江村史によると米軍記録として駆逐艦7隻、戦艦2隻、巡洋戦戦艦2隻、大小70余隻という) 蟻のはい出る隙もないとは、このことだろうと思った。

 
     ▲洞窟(フプガマ)の口     ▲近くにガジマルの老樹が枝や根を広げている

 このフプガマにまつわる以下の話がある。

今泊ウプガマ骸骨の祟り 今帰仁村今泊 仲宗根利生(大正4年6月10生)

 うちたちは小さい時からよ、学生時代から非常に探検、いろんなもんやりよったからよ、探検すると言って、城跡の下に大きいガマあるんですよ。ウプガマというわけ。水源地の上にあある。向こうにうちのあれの弟、警察署長しているがよ、うちたちは友達、同級生二名と、うちの同級生二名、四名探検しにガマに来たわけ。すると人、人の頭、頭蓋骨がですね、頭の骨が石の間に挟まれてあるわけよ。

戦争中、あるいは北山の戦争ものだか分からんが、骨、頭が石と石、石と石の間に挟まれて、同級生がよ、あれが可哀想といって頭をこう動かそうとするが、自分たちは若かったからなんにも恐くない。恐くないからこう動かすがとれんわけ。その日は木や草をかけて、よそに移ったわけ。あのこけやって木を草か、木の草さ落とそうとしてやったらね、あのたえてって内の登ってこけやろうといって内から登ったわけ。

そうするが何にも見えないわけ。内から登っていってあれ笑っておるわけ。見るかねと言うわけ。こっちは何にも見えないよと言ったらよ、あれ赤ん坊、これは正直な話が赤ん坊塞いでおるの、「骸骨、木の根っこにあったのを見なかったね」と言うわけ。「うちは何も見なかったよ」といったらよ、「小さい赤ん坊がこっちあったよ」と。城跡の下のウプガマで人の頭、骨があって動かしたでしょ。また別ところで赤ん坊の骸骨を見たというわけ。自分には見ないわけ。見ないが、同級生は見たという。珍しいなと思ってよ。今でも自分は変な気持ちであるがよ。

同級生はよ、一週間ぐらいたって、学校のあとウプガマの真向い行ったら、急に頭が痛くなって脳膜炎になって、一週間、一週間後に亡くなった。頭を動かした人が急に亡くなったわけ。それは偶然のだろうがそんな話です。戦後、戦後になって、その頭あるとこ行って自分たちは探しに行った。行ったら頭なかった。もう一ヶ所には行ってない。ウプガマには頭なかった。今でもない。


2016421日(木)

 4月から多忙をきたしている。6月まで続きます。ちょっと実家に立ち寄る。竹垣に野ブドウがまきついい感じ。シーサーも健在。バラがちらほら咲きだし、ピタンカも色づいてきた。その木の枝にススメバチの巣が。まだ造りかけ。昨年退治した蜂の生き残りか。パッションフルーツも花や実がついている。冬場のバナナはダメでした。庭中初夏のようす。

 奄美のノロ関係事辞令書

 
  ▲竹垣にノブドウが巻きついてきた(実がなるかな?

 
▲ピタンカの枝にスズメバチの巣が      ▲庭のシーサーは健在

 
▲ユリがあちこりに咲き始めています   ▲ピテンカの実が色づいてきました。


2016419日(火)

沖永良部島の明治4年に廃止されたシニグに琉球のシニグをあわせ見ると興味深いことがわかる。詳細な説明は別の機会に。知名町の上城(世之主神社)、世並神社の碑文、西目祝女の姪との間に生まれた真松千代(二男)が沖永良部島の領主になるが、その生誕にまつわる話が、シニグである。薩摩琉球侵攻以後、シニグは大きく変容する。沖縄本島北部から与論島、沖永良部島に分布をシニグ文化や北山文化圏と押さえようとするのはそれである。(沖永良部島調査は頭から追い払いましょう!)

 
  ▲知名町畦布のシニグ旗        ▲知名町上城の世之主神社


▲知名町特時の世並蔵加那志の屋敷跡にある碑

世並蔵神社は、琉球北山の一族世之主加那志(北山(ほくざん)王と沖永良部島の西目祝女の姪との間に生まれた二男真松千代)が沖永良部島の領主として応永二年渡海の際従って来れる方であり、その子孫を併せて世並蔵と称える。世之主加那志は琉球において中山・南山・北山の三山が統一された応永23年頃自決したと伝えられる。

琉球が、尚氏以前中山、南山、北山の三王鼎立し覇を競った頃、世並蔵は北山王の二男世之主加那志に従い渡海され、北山王滅亡の後も、子々孫々住民の指導、民生の安定に努めざるはなく、ために住民はよくその徳に靡き、後世世之主の世を取り、穀物その他の財を納める地蔵の蔵を考え、世々に伝えて世並御蔵加那志と称し、屋敷跡に祠を建て産土神として祀るに至った。
    (工事中)


2016416日(土)

沖永良部島のノロ家の遺品

 沖永良部島のノロ家の遺品と「世之主由緒と関わる村」と、これまで、積み残してきた知名町の村々をゆく。和泊町の内城(うちじろ)の世之主神社。世之主神社のある杜はグスクである。周辺の木々が伐採され、全貌をみることができる。すると土塁を中心としたグスクであることが明らかである。一日目先田先生の案内で、和泊町村長さんへ表敬訪問。教育委員会事務局の伊地知さんに挨拶。早速、「世之主神社」(世之主グスクとしたほうがいいかも!)。土塁を中心とした琉球(沖縄)北部の根謝銘(ウイ)グスクは羽地グスクの土塁+野面の石積みと類似)、奄美における神社の名称は薩摩支配下以降)。明治4年に「世之主城跡」の跡に「世之主神社」が建立されているので歴史を深く辿っていくには「世之主城跡」と史跡名とした方がいいのでは。鳥居の門は、親元である北山(琉球国)に向いているのではないか。もう一つ、新城(しんじょう)の花窪にあるニャートゥ墓は、どこに向いているでしょうか?墓正面の山手は上城村(下城を含む)で世之主の四天王の一人、上城村生まれである。新城のニャートゥ墓も親元の上城村に向けて作られている。

 そこで詳細に述べませんが、世之主城(グスク)を取巻く城(グスク、今はしろ)のつく内城・大城・玉城・上城・下城・新城(分離した新しい城))をゆく。城のつく村(ムラ)は、私にはグスクが築かれた時代から高地につくられたムラではないか。かつてにグスク時代の香りのするムラである。また、それらのムラは世之主城を築いた伝承と切り離すことができない。それだけではなく、後蘭村(おもろで登場する後蘭孫八、西見(ニシミ)なども登場する人物、それらの人物伝承がムラ名になっている。ムラ名は伝承の歴史やおもろで謡われた人物や生誕地にムラ名がつけられた証である。辞令書が残っていないのが残念。簪について記録があるが、それはノロではなく役人のもの。

 城(グスク)のつく地名と「世之主」、そこあたりは北山の時代(歴史)とながる話である。それとノロ殿内の遺品とシニグ祭は三山統一後の琉球の歴史とつながる。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北は薩摩化されていく。その過程でノロやヒャ(百)やシニグや墓、土地制度が変貌していく。それでも北山の時代の痕跡、琉球国(三山統一後)の痕跡を北山の香り、琉球国の香りとして、薩摩の臭いを排除してみていこうとするのが狙いである。それが、史実なのかには踏み込まない。足で踏査した沖永良部島の香り(歴史・おもろ・墓・地名・言語・ノロ関係遺品・風景など)を読み取っていくことにする。(まだスタートしたばかり。結末が楽しみじゃ!)

 それらの地名やノロ関係遺物を並べただけでも「琉球の香り」がプンプン。その上に薩摩文化が。

 
       ▲世之主グスク跡           ▲世之主グスク跡の石積みと土塁

 ①内城(うちじろ:ウチグスク)
 ②大城(おおじろ:フグスク)
 ③玉城(たまじろ:タマグスク)
 ④上城(うえしろ:ウイグスク)
 ⑤下城(しもじろ:ヒチャグスクク)
 ⑥新城(しんじょう:アラグスク)

  
 ▲畦布ノロの遺品(森家) ▲シニグ旗(図柄やシニグの所作は薩摩的に変容)▲ヌルバンドーの力石

 
    ▲瀬利覚のノロの遺品(森家:知名町資料館蔵)

 
 ▲住吉ノロの遺品(カブの簪:小さい髪挿)       ▲玉カーラ・馬の轡など


2016412日(火)

 沖永良部島調査へ。


201649日(土)

 「北山と沖永良部島」と「沖永良部島のノロ家」についての調査に出向く。そのこともあって、「沖永良部島のノロ家と琉球」(沖縄の地域研究の頁もどうぞ)に関わる部分を整理してみたので参照くださればありがたいです。12日から15日まで沖永良部島調査。どんな方々と遭遇するか、また調査の成果を紹介できるか。

知名町住吉(福永家)のノロ遺品

      ▲2009年調査画像です。福永家のノロ関係遺品です。


 仲原は歴史文化センター館長(嘱託)として勤めてきました。永年ありがとうございました。歴史文化センターの方針は「地域かから得たものは地域に還す」、発見や感動含めて地域に還す、そのことは一環して変わることなくやってきました。膨大な資料や調査の蓄積ができました。「地域から得たものは地域に還す」、そのことは、HPで続けていくでしょう。新館長(石野裕子氏)のもと「新しい歴史文化センターの形」を造ってくれるでしょう。


2016年4月8日(木)

 平良新助翁資料の手紙類を整理する。手紙のほとんどが、戦争直後の沖縄の状況、そして平良新助翁(ロサンゼルス在)への依頼文である。それと翁の琉球歌である。筆耕するには、時間がかかりすぎ。スキャンをかけて、資料化することの作業をスタート。


當山正堅から平良新助大兄様へ(1948.1.10
  


 6月に向けて戦争遺跡と戦争に関する補足調査を進める。

 村内の慰霊塔の確認をする。

①今帰仁村湧川の慰霊塔と戦没者芳名
 

②今帰仁村上運天の慰霊塔

 

③今帰仁村崎山の慰霊塔

 

④今帰仁村仲尾次の慰霊塔

 

⑤今帰仁村与那嶺の慰霊塔

  

⑥今帰仁村諸志の慰霊塔

 

⑦今帰仁村兼次の慰霊塔

 

⑧今帰仁村今泊の慰霊塔

  

⑨今帰仁村越地
(現在なし)

⑩今帰仁村謝名

⑪今帰仁村玉城
(現在なし)

⑫今帰仁村呉我山の慰霊の塔

今帰仁村の慰霊塔

今帰仁村の忠魂碑
(戦前:写真あり)

南海の塔 


2016年4月2日(土)

 昨日は旧羽地村(現名護市)の仲尾から呉我、それから今帰仁村の湧川、天底、勢理客、上運天、運天、渡喜仁まで踏査する。これまで歴史文化センターの柱にしてきたこのHPはしばらく継続。さっそく、戦争遺跡の補足調査にはいる。今帰仁村の戦争(企画展の補足である。


【運天のムラウチの防空壕】

 
  ▲内部でいくつかの部屋に別れている。    ▲運天トンネル付近にある防空壕

 
▲運天のトンネルの側にある防空壕      ▲内部でつながっている

【湧川の防空壕】
 湧川のウタキの斜面に防空壕はある。出入り口は六ほどあるが、防空壕は大方二つの口をもっている。表向き口が二つあるが内部でつながっている。