日々の調査記録 7月(Nakahara:7月メモ)6月へ)                 トップヘ
  

2016年7月30日(日)

 『大宜味村史』」の「移民と出稼ぎ」と関わるが職員はすでに資料の収集や整理にとりかかっている。どう編集していくか、どんな出版物にしていくか検討中。8月末までには「もくじ」立てと、発刊の見通しまで事務局と一緒に検討していく。本ページで書き記していくことは、『大宜味村史』へ還元していく作業である。全体像のイメージはあるが、具体的な作業をすすめながら。(携わる事務局の力量・予算・時間に合わせて)





(ブラジルの組織団体)
 ・球陽協会の誕生(移民の沿革)

 「球陽協会」は、その後附帯条項の撤廃に力を注ぐが涙ぐましいものがあった。「球陽協会」の
   会則とは別に会員の申し合わせ事項としての十四ヶ条を掲げる。

  一、日本服を着て家から外へ出ないこと
  二、子供を背中に負わないこと
  三、他被殊に外人の前で肌を見せないこと
  四、裸足にならぬこと
  五、出産の時、飲んだり歌ったりして大騒ぎしないこと
  六、住居はなるべくブラジル式にすること、むしろを敷いてあぐらをかくことを止めること
  七、できる限り普通語及びポルトガル語を話すこと
  九、遺骨を掘り出す時はブラジルの法律に従って正当の手続きを経た後なること。
  十、他人の言葉を考えなしに信用する癖をなおすこと(このくせがあるのでストライキを
     おこしたり、契約耕地を逃亡するようなことになる。この点、大いに気をつけねばならぬ)
  十一、公共のために大いにつくすこと
  十二、一ヶ所に辛抱するよう心掛けること
  十三、目の前の小さな欲に迷わぬこと
  十四、新渡来者を迎える時、都会生活をしている人々は自慢話をつつつしむこと。


 ・沖縄救援委員会→沖縄文化救済協会
   (郷里沖縄への救援物資/ゴム付き鉛筆・白木綿・ドレス生地・琉球大学建設資金・
   戦没者慰霊塔建立碑・ひめゆりの塔など

 ・在伯沖縄協会(サンパウロに拠点を構える)

(移民先での職業事情)
 ・農業
  コーヒー(珈琲) 綿花(アルイドン) 米(アロース) バナナ 落花生(アメンドイン)
  果樹(モジ・ダス・クルーゼス・スザン・桃・柿・ナシ・ビワ・苺など
 
  蔬菜(バアタ・トマトなど) 茶・ミーリュ・養鶏・養蚕・牧畜など

 ・商工業
   雑貨商・小間物商・農機具製作所(徐々に資本をつくり大都市へ進出)

 ・青物商 農具工場 農作物仲買人 洗染業 玩具製造 ポテキン(居酒屋) 旅館

(ブラジル移民)

 「在伯沖縄人 五十年の歩み」から大宜味村の名簿の整理から。

・新城正信(大宜味村字塩屋)サントス
・新城一夫(大宜味村字塩屋)
・知念祥永(大宜味村字田嘉里)
・知念祥吉(大宜味村字田嘉里)
・比嘉清栄(大宜味村字饒波)
・外間行数(大宜味村字田嘉里)
・金城宗助(大宜味村字田港)
・金城健徳(大宜味村字根路銘)
・金城正次郎(大宜味村字喜如嘉)
・金城正次郎(大宜味村字喜如嘉)
・金城常太郎(大宜味村字喜如嘉)
・金城道永(大宜味村字喜如嘉)
・金城常次(大宜味村字喜如嘉)
・金城道福(大宜味村字喜如嘉)
・金城常三(大宜味村字喜如嘉)
・金城伝永(大宜味村字饒波)
・金城常松(大宜味村字喜如嘉)
・金城平徳(大宜味村字饒波)
・金城亀助(大宜味村字饒波)
・金城英男(大宜味村字田嘉里)
・金城兼武(大宜味村字津波)
・松本松次郎(大宜味村字田港)
・前田福保(大宜味村字田港)
・前田信治(大宜味村田港)
・前田信治(大宜味村字喜如嘉)
・前田ウシ(大宜味村字喜如嘉)
・前田 実(大宜味村字喜如嘉)
・宮城朝喜(大宜味村字塩屋)
・真栄田義勇(大宜味村字押川)
・前田福徳(大宜味村字田港)
・松本ヨシ(大宜味村字田港)
・松本松五郎(大宜味村字田港)
・宮城賢三(大宜味村字塩屋)
・松本松徳(大宜味村字田港)
・大城良雄(大宜味村字屋古)
・島袋清堅(大宜味村字津波)
・島袋清則(大宜味村字津波)
・新袋義良(大宜味村字塩屋)
・崎山善夫(大宜味村字饒波)
・崎山善憲(大宜味村饒波)
・崎山マリオ(大宜味村字饒波)
・崎山善文(大宜味村字饒波)
・崎山善徳(大宜味村字饒波)
・崎山パウロ(大宜味村字饒波)
・崎山善信(大宜味村字饒波)
・友寄景明(大宜味村字根路銘)
・玉城助一(大宜味村田嘉里)
・上原松重(大宜味村字?)
・山城亀吉(大宜味村字田嘉里)
・山城亀徳(大宜味村字田港)
・山城康昭(大宜味村字田港)
・山城嘉明(大宜味村字田港)
・吉元未子(大宜味村字田港)

(ブラジル移民の先駆者:大宜味村)

・宮城利三郎(大宜味村字   )
  第一回笠戸丸移民であり、南聖の先駆者、百姓道の実践者として、その死後今日も尚讃えられ、我が郷党の誇りとされている宮城利三郎氏は、一九〇五年三月、郷里大宜味尋常高等小学校を優秀な成績で卒業した。半年を経て名護町大通りに塩、煙草の専売及び日用品等の卸商久志助英商会に勤務した。生来怜悧な宮城氏であったが、商売は性に合わず、何か今少しコセコセしない職業に就きたいものと考えていた。丁度その時、ブラジル移民が募集さsれ、近隣の人が次々と応募するのを見て、宮城氏も、南米の大陸に思いを馳せたのであった。
 宮平牛助氏家族の一員となり、第一回移民笠戸丸に乗り込んで、未知の国ブラジルへ向かった。シンガポール、ケープタウンと、珍しい異国の風物に好奇の瞳を輝かせ、楽しい船の旅をつづけて六月十八日、あこがれのブラジルに到着した。

 フロレスタ耕地に配耕されて、ブラジル生活の第一を踏み出したが、契約労働者の余りにも惨めな生活に、大成金の夢は破られてしまった。六ヶ月後に退耕してサントスに出、ドッカスの荷揚人夫となって働いた。しかしこの仕事も、有難がる程の楽なものではなく、生活の安定さえおぼつかなく思われた。そこで同僚と共にアルゼンチンに渡り、ロザリオ市の県人を訪ねて行った。山の彼方に幸を求めて、アルゼンチンにまで来てみたが、何所も同じ旅の空であって、異邦人の頬吹く風はやはり寒く厳しいものであった。

 一九一〇年再びブラジルに帰り、元のドッカス暮らしに戻った。異国生活に二年の間に、体は大いに鍛えられ、如何なる労働にも耐え得るまでになっていた。サントスよりもリオ港の人夫の方が賃銀が高いと聞き、比嘉秀吉、名嘉文五郎、上原直松、山城保次郎、新里三郎の諸氏と相語らい、リオ港に赴いた。宮城氏等六人は常に行動を共にし、その働き振りも又目覚ましかったので、主任アガリエ氏の大いに認めるところとなった。

    (略)



・崎山善文(大宜味村字饒波) ゼツリーナ市
 1926年7月27日、ラ・プラタ丸で渡伯。セツコ夫人は結婚してからサンパウロ市に出て裁縫学校に入て裁縫教師の免状をとり、パラナー州市で裁縫学校を始めたが現在では毎日四五十人の生徒がセツ夫人の指導の下に勉強している崎山氏も教育に非常に熱心で現在北パラナーには教え子が一千人近くも居ると言われている。

 氏は同地の日本人会のためにも非常に尽力し万年学務員と言われている。永い間学務員を勤め日本語学校の経営に当たるとともに育年を指導し、青年たちから親を指導し、青年たちから親のように慕われて結婚の相談なども受けて世話をしている。

 一九五七年には長男が死亡したが、同君は生前アプラカーナの町のために非常に尽力したので町の内外人から信用され尊敬されていたのでで葬式の当日には町中の商店を占めて葬式に参列した程である。

 崎山夫婦はゼツリーナ地方の同胞の男女青年の指導者としてなくてはならない人として一般から尊敬されている。

         ▲崎山善文氏経営の裁縫学校

参考文献 『在伯沖縄県人 五十年の歩み』より


2016年7月29日(金)

 フバドー(和泊町玉城:たまじろ)から後蘭村の後蘭孫八の居城跡と孫八の墓とヌルバンドーへ。先はまだだが、「おもろ」や「世之主由緒」に出てくる村や場所を踏査していると非常に興味深いことが見えてくる。(与論島での北山三男の島での受け入れとの違いも検討する必要がありそう。以前に与論で講演したことがあるので、その原稿をとりだしてみるか)

 各地の踏査を続けているのだが、心変わりせず静かに待ち続けている。そこに自分の研究の深化だけでなく、おもろで謡われている時代の手ごたえを実感。そこで暮らしている方々の理解しているかとは関係なく伝えている伝承。それを形にしているムラ。もう少し進めていきます。

 第13巻 115 No.860
  一 
ゑらぶ まこはつが       永良部 孫八が
    たまのきやく たかへて      玉の客 崇へて 
    ひといちよは             ひといちよは(船名)
    すかまうちに はりやせ      すかま内に(早朝) 走りやせ
  又 はなれまこはつ          離れ孫八

      (離島の永良部孫八が玉の客(女神宮)を崇えて、船を出すのは早朝のうちに)

     ※沖永良部島(和泊町、知名町)フーナーの屋号がある。ひといちよ(船名)と登場、そのような船主の屋号と
       結びつきそう)
。「おもろ」で「ゑらぶ まこはち」と謡われた頃は、まだ村名がなかったの
     のか。後蘭孫八の生誕地の伝承があったので「後蘭村」と漢字があてられたのか。
     そこあ非常に重要なことである。そこは歴史を伝える伝承が先か。「おもろ」などで
     謡われ、活字化されたのが先か。歴史を読み取っていく上で重要なことだと気づか
     される。


  後蘭村え居宅を構へ罷居候後蘭孫八と申すものへ城被仰付三年目に城致成就夫より御居城と相成候

 
   ▲後蘭孫八城跡の説明版             ▲後蘭孫八グスクへの入口


 
      ▲後蘭字公民館


             
▲後蘭孫八の墓とヌルバンドーの墓の位置の説明版     ▲ヌルバンドー(ノロの墓)


2016年7月28日(木)

 
和泊町の玉城にDフバドーがある。「世之主由緒」で玉城村金の塔へ館を構えと記される場所である。「世の主加那志御館之跡 ふばどうの跡」とある。

「世乃主由緒」
沖永良部島先主、世之主かなし幼名真松千代(まちじょ)王子
  右御由緒私先祖より申伝之趣左上之通り。
一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三山為被成御在城由、北山王の儀は今帰仁城主にて
   琉球国の中より国頭九ヶ間切その外、伊江島、伊平屋島、与論島、沖永良部島、徳之島、大
  島、喜界島まで御領分にて御座候由、北山の御二男右真松千代王子の儀は沖永良部為御
  領分被下御度海の上
玉城村金の塔(ふばどう)え御館を構え被成候由、左候処、大城村
  内の百と申すもの御召列毎々魚猟に古里村の下、
与和海え御差越海上より右川内の百当分
  の
古城地を指し、彼地の儀は大城村の地面にて御座候につき、世乃主かなしの御居城為御
  築可被遊段申し上候段申し上候処忝被思召旨の御返答にて、即ち其比
後蘭村え居宅を構へ
  罷居候
後蘭孫八と申すものへ城被仰付三年目に城致成就夫より御居城と相成候


   (工事中)

 

 
  ▲フバドーから世之主城が遠望できる

 世の主が沖永良部島で最初に館を構えたのが、この地であったと伝えられている。説明版に、以下のようにある。

 フバドーはビロウの茂っていた地という意味であろう。フバは(ビロウ)は沖縄の島々におい
ては、神の降りる樹木であるといわれ、神聖な場所に生えている植物である。
 この地にも、古くは神祭をした聖なる土地であり、世の主がこの地に館を構えたのは神の加護
を得るためであったろうと考える。
 あるいは、すでに神祭の場所としては使われなくなったのであろうか。
 この地名は、世の主伝説地名や信仰地名として貴重なものである。


2016年7月27日(水)

 皆川のシニグドーからC大城のシニグドーへ。シニグドーの前方の木陰で二人の老女が休んでいた。声をかけてみた。「看板のある場所で、昔行事でも行っていたのですか」と尋ねてみた。「そこはね、ゴミ置き場なっていたが、最近向こうに移してあるさ」と。シニグは明治の初期に廃止されているので、80歳余の方々の記憶からも消えているようだ。
 大城(おおじろ)は世の主グスクのある内城の南東に位置する。「世之主由緒」に大城内の川内(ほうち)の百(ヒャー)が世之主にグスクを造るのに適当な場所を指示して教えたという。「正保琉球国絵図」に大城間切があり、村名は記されていないが、大城間切の主邑としてあったであろう。古琉球の間切や村の痕跡がありそうだ。沖永良部島の城(グスク)のつく村は標高50mほどの高地性集落の印象を。


 
       ▲大城研修館(公民館)                  ▲大城のシニグドー


   ▲山手中央部に伐開中の世之主グスクが見える


2016年7月26日(火)

 7月18日(月)二日目のスタートは知名町古里の「与和之浜」から。古里はサトゥと呼ばれ里に由来。与和之浜は「おもろさうし」(第13巻 No.936で以下のように@与和泊と謡われる。世の主ロードの説明版に、「世之主時代(14〜15世紀)に、他の島々と交易した港である。琉球の古い歌「おもろさうし」にも謡われ、ユワヌ浜が交易地として栄え、世之主の勢力を支えていたことが推察できる」とある。

  一 永良部世の主の
     選でおちゃる 御駄群れや 
     世の主ぢよ 待ち居る
  又 離れ世の主の 
  又 金鞍 掛けて 
     与和泊 降れて

 
       ▲古里の与和の浜                 ▲与和の浜は墓地になっている


 古里村にA中寿神社がある。世の主ロードのポイントになっている。世の主の家来が軍艦を見張っていたが、間違った連絡をし、切腹した地に中寿神社を建立したという。
 「この地は、世の主の家来が琉球中山王の和睦船を軍艦と間違って合図した所と言われてる。世の主
 自害の責任を感じて切腹した家来の遺骨がこの地に葬られていたので、供養のため地主が昭和2年
 建立した神社である。」

 

 B皆川のシニグドーは、シニグ祭の時、世の主が休息した場所だという。近くにバンドゥル(番所か)の地名があり、見張りしていた場所だという。沖永良部島ではシニグが北山の時代から行われており、近世になると本来の琉球的シニグが薩摩役人が加わると大きく変貌した形となる。シニグドーは世の主が巡回のときの馬をおりて休憩した場所だという。皆川のシニグドーは近世大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗を持った騎馬隊を率いて集まり、太鼓をならし模擬的戦いをする場所。 

 

   
▲知名町西田家所蔵のシニグ旗(『知名町誌』所収)         ▲和泊町畦布の森家のシニグ旗


2016年7月25日(月)

 伊是名島と伊平屋島のフェリーからの島影を(明治まで伊平屋島。現在は伊是名村、伊平屋村)。沖永良部島はちょっと一休み。


 ▲左手が伊是名島、右手が伊平屋島 

 
       ▲伊是名島                               ▲伊平屋島


2016年7月24日(土)

 
知名町下城に「世之主神社」がある。その説明版に以下のようにある。「世之主」伝承を色濃く伝えるムラである。北山の痕跡を遺している地である(詳細はまとめで)。

世之主神社
   世之主とは沖永良部島の領主のことで、
  琉球が三つの領地に分かれ争っていた十三世
  紀の頃、北山王の二男として生まれたと言い
  伝えられています。
   世之主神社は、当地下城と和泊町内城の二
  ヶ所にありますが、下城の世之主神社は、世
  之主が誕生した場所に建てた神社で、内城は
  居城跡だと言い伝えられています。
   下城世之主神社の御神体は、昔からニュウマ
  屋敷内(神社敷地)に「イビ」と呼ばれてい
  た小屋があり、その中に「ウヮマ石」という
  三つの石が大事に保管されており、この石は
  雨ざらしにしたりすると、たたりがあるとの
  言い伝えがありました。
   昭和二年十二月二十四日の建立の際に、そ
  ウヮマ石を御神体としていただき、翌年旧
  の正月十三日に初祭典を催し、又、神月と
  言われている一月、五月、九月の十三日を
  祭典の日と定めていましたが、現在は、字区長
  を中心に年一回一月の第二日曜に大祭典を
  行っている。

  「上城村の「ぬる久米」代り合ひの節年頃十四、五歳の娘召連琉球へ渡海致候処、右娘生付
  美々敷其上器量衆人に勝れ国王様の御目に立ち御所望被遊候に付差上申候処其後右腹
  に王子懐妊被遊御出生御成人の後沖永良部島被成下御下御渡海の後・・・・・・」

  ※上城、下城、新城はニシミと呼ばれる。ニシミはもともと上城のこと。三間切時代(1857年)以前、
    上城は喜美留間切、下城は大城間切にはいている。それ以前から分村していたか?
    上記の「上城村」は上城と下城が分離する以前。 新城の分離は昭和25年でニシミシンバル
    一帯を新城としたようである。

 
    ▲世之主神社の鳥居              ▲世之主神社の説明版       ▲御神体「ウヮマ石」を祭った祠


 
      ▲世之主生誕場所                ▲知名町下城集落集会所


四並蔵神社
  鎮座地 大島郡知名町徳時
  御祭神  四並蔵(ヨナミト)加那志
  祭礼日  一月二十日 八月二十日
  境内   七〇三七坪
  現等級  七級〇〇
 由 緒
  御祭神四並神は、琉球北山王の一族
  世之主加那志真千代が沖永良部島の領主として
  一三九五年渡海の際


 

        (工事中)


2016年7月22日(金)

 知名町徳時の「四並蔵神社」、次に知名町新城の「花神神社」。徳時ではお寺跡に神社化、神社にしながら北山の時代の伝承を祭る。花神神社でも北山王との子真松千代。その母沖祝女を神として祭り、神社化している。沖縄の各字の本格的な神社化は大正から昭和の初期にかけてである。沖永良部島は?

 花神神社は
沖永良部世之主の生母沖祝女
 
グジの方を祭神として昭和三年五月創建され
 第一回祭礼が行われた。花沖神社由緒記によると
 十四歳のウキヌルに西目ヌルに付き添われ上納使
 として琉球北山王の元に赴いたウキヌルの美しさに目を 
 奪われた北山王はウキヌルの帰島を許さず名前を
 ヨイグジ(美御前)と改めさせた。その後ウキヌルは、
 王の子供を身ごもることになる。
 その子が永良部世之主真松千代といわれていた。
 ウキヌルは十六歳で帰島、数々の困難を乗り越えて
 世之主を出産した母の愛を受けて育った世之主は
 「水鏡の裁き」「宝刀」など、さまざまな伝承が残る傑物
 善政を施し島民に慕われたが、中山王の三山統一 
 に伴い妻子ともども自害との悲劇が今も語り
 継がれている。花沖神社はウキヌルの水鏡を
 御神体として旧暦の一月十四日、五月十四日
 大祭典を行っている。郷土住民の氏神様としてここ
 花木の丘に永久に鎮座ましますことを記念す
 ものである。
   平成十二年六月十五日(旧五月十四日)


 
   ▲知名町新城にある「花沖神社」          ▲神社化された鳥居(神は沖祝女)


2016年7月20日(水)
 
 17日(日)沖縄本島の読谷村の残波岬、恩納岳などの地をフェリーから撮影し、さらに本部半島の嘉津宇岳、今帰仁グスク(かなひやぶ)、古宇利島、運天、伊江島、大宜味村の喜如嘉、田嘉里(やかひもり)、国頭村の赤丸崎、辺戸、安須もり、伊平屋島、与論島などの遠望を撮影。沖永良部島(和泊港)へ着くと、すぐ島まわり。スタートの場所が定まっていない。しかし伊延港へ向かっている。途中、和泊町喜美留へ。以下の件で。

  「世乃主由緒」に記された沖永良部島の世の主の終焉と北山の滅亡の筋書きが類似している。「北山王も落城、宝剣も被盗取傍々付気鬱被成居候折柄中山より数艘船海に付き、軍艦と御心得御自害の由申伝御座候。右の通り私先祖より代々申伝御座候」とあり、その筋書きに関心がむく。もう一点の「黄美留菜津久美と申候宝刀之申伝」の伝承である。青貝微塵塗腰刀拵( 北谷菜切:チャタンナーチラー)伝承との関係?(工事中)

一、黄美留菜津久美と申候宝刀之申伝
   世の主時代、黄美留村へ扇子丈と申もの罷居しが引差越候処刀一腰つり上げ、宝刀の訳は
   不相分ものにて魚を切候得はまな板迄切込、夫より秘蔵いたし置き候処、其子右刀を以て怪
   我仕り夫故相果申候につき立腹し余りに
古場野と申野原の真石を切り申候処夜々海中にて光
   をあらはし候を城より御見届、使者を以て御取寄せ秘蔵相成候由。

 
  ▲世之主城から喜美留方面を臨む        ▲世之主を神をとし、神社化

2016年7月19日(火)

 17日〜19日まで沖永良部島をゆく。目的はいくつかあったが、それ以外の収穫がいくつかあった。それとフェリーの中で手にした『江戸期の奄美諸島』―「琉球」から「奄美」へ―(知名町教育委員会編)に目を通す。緊張感が走った。島を踏査している間、帰りのフェリーのなかでも緊張が走りつづいていた。わたしに与えられた講演内容と関わる部分が多くあるからである。大城(おおじろ)小の生徒たちと世之主グスクで遭遇。案内は和泊町教育委委員会の伊地知さん。そこで二時から屋古母公民館で「えらぶ郷土研究会」の研究会(先田先生)があるというので飛び入り参加。

 今回の沖永良部島ゆきの目的の一つは、おもろで謡われた場所に立ってみると何が見えてくるのかということ。そのこともあって往復のフェリーからその場所を画像に納めてみた。

 辺留笠利(奄美大島)、喜世、瀬戸内には行かなかったが、沖永良部島から徳之島、(沖永良部島)、与論島、その後方に沖縄本島北部の辺戸、安須杜が遠望することができた。今帰仁グスクから沖之永良部島が見えることがある。徳之島や沖永良部島、与論島、伊平屋島、安須杜、伊江島などは島全体、特徴ある地形などがおもろに謡われて不思議はない。ところが、今帰仁グスク内の金比屋武は、今帰仁グスクの歴史上の出来事がしられていて謡われたとみるべきであろう。うむてん(運天)ややかひもり(屋嘉比杜)も。

       (工事中)

巻13巻 868
 一 聞ゑ 押笠
   鳴響む押笠
   やうら 押ちへ 使い
 又 喜界の浮島       喜界島
   喜界の盛い島
 又 浮島にかゝら
   辺留笠利きやち     笠利(奄美大島)
 又 辺留笠利かち
   中瀬戸内きやち     瀬戸内(奄美大島)
 又 中瀬戸内から
   金の島かち        徳之島へ
 又 金の島から
   せりよさにかち      沖永良部島へ
 又 せりゆさにから
   かゑふたにから     与論島
 又 かゑふたにかち
   安須杜にかち      国頭安須杜
 又 安須森にかち
   金比屋武にから    今帰仁グスクの金比屋武 
 
又 金比武にから
   那覇泊かち    
   

  
  ▲和泊町伊延より徳之島を望む   ▲世の主グスク(大城小)で歴史が学習


 
▲今帰仁グスク内のカナヒヤブ(イベ)         ▲嘉津宇岳(本部半島)


2016年7月16日(土)

 しばらく休憩。

 「ムラ・シマ講座」をすませ、ヒヨドリのヒナは巣立ちました。少し庭の手入れ。10本ばかり花木を植え、頭の中を空っぽにして出発。

  


2016年7月13日(水)

 午前中、本部町で講演あり(10時から)。途中、本部新港と通過。フェリーが停泊中、与論、沖永良部島ゆき。天気がいいので飛び乗りたくなりますね。連休に沖永良部島まで行くか。沖縄本島から沖永良部島までのおもろで謡われているポイントを撮影に。

 「おもろ」を紐解いていると、気になることがいくつもある。『おもろさうし』が編集されたのは、第1巻が1532年、第2巻が1613年、第1巻、第4巻、第17巻、第22巻が不明、他は1623年である。古いのは1532年であるが、ウタの内容については、14世紀の中頃、じゃなもひや(察度王)や金丸(尚円王)などが謡われている。またぐすく(城)や大主などきこゑ(聞ゑ)などと褒めたたえている。みやきせん(今帰仁)グスクの「かなひやぶ」(金比屋武)などがオモロで謡われるのは、ポイントとしてより、別の意味でのことが伝えられていると見た方がよさそう。つまり、ある出来事が伝承となり、それが伝わり、おもろで文字化されているのではないか。そのことを足で確かめたい。

 おもろに謡われた場所を、特に沖縄本島北部から沖永良部島までのポイントをフェリーから(あまりいい画像にはなりませんが)。

 陸上から「さちぎやもり(古宇利島)、遠くに「あすもり(安須杜)」を撮影。

  (果たして天気はどうか?)


     ▲本部港に着くフェリー    ▲さちぎやむい(古宇利島)   ▲遠くに「あすもり」


2016年7月10日(日)

 「おもろさうし」から勢理客のろ(しませんこのろ)について、巻11、巻14、巻17、巻22は編集年次が不明のようである。他の巻、巻1は1532年、巻2は1613年、上の不明の4巻を除くと1623年である。「おもろ」が謡われた時代については、これから検討。「勢理客ノロ殿内」に焼けて二本のカブの簪がある。また徳之島のててのろの焼けた簪があり、焼けると簪は銀メッキ、あるいは金メッキがきえ銅色になっている。

 ここで考えたいのは、各地のノロへの辞令書の発給、勾玉(タマガーラ:頸佩)や簪や衣装の発給、そしておもろさうしの編集、おもろに謡われている内容、伝承。その関係をしる手がかりになりはしないかとの試みである。果たしてどうか?(歴史的伝承→活字化(おもろ)→伝承はつづく)
        (その流れを沖永良部島の世の主伝承とのことを検証してみることに)

 (これまで、調査してきた資料(画像)を取り出てみると、当時気づかなかったことが見え、非常に面白い)

(第11巻) 1027
(編集年不明)

 一 せりかくののろの          勢理客のjのろの
    あけしののろの           あけしののろの
   あまくれ おろちへ          雨くれ 降ろちへ         
   よるい ぬらちへ           鎧 濡らちへ
 又 うむてん つけて           運天 着けて
   こみなと つけて           小港 着けて
 又 かつおうたけ さがる        嘉津宇嶽 下がる
   あまくれ おろちへ          雨くれ 降ろちへ
   よろい ぬらちへ           鎧 濡らちへ
 又 やまとのいくさ            大和の軍
   やしろのいくさ             山城の軍
    

(第17巻) 1204
(編集年不明)

  
一 せりかくの のろの       勢理客jののろの
     あけしのゝのろの        あけしのゝのろの
     おりあげるたる きよらや   おり上げたる 清らや
  又 いしへつは こので       石へつは こので
    かなへつは こので       金へつは こので

(第17巻) 1203 (編集年不明)(716)
  一 しませんこ             しませんこ
    あけしのゝのろの         あけしのゝのろの
    ももとひやし            百度拍子
    うちあがらうなさいきよ      打ち揚がる成さい人
  又 なかひやにやの        なかひやにやの親のろ
 
   せとひやにやのおやのろ    せとひやにやの親のろ



       ▲今帰仁村勢理客のノロ家の二竿の焼け残った簪


  ▲「手々のろの二竿の簪」(徳之島手々堀田(稲富)家資料)(画像は徳之島町郷土資料館提供)(2011.10)

▲焼け残った衣装(他に文書などもあり)



徳之島の「ててのろ」の簪の画像(徳之島町立郷土資料舘提供)http--rekibun.jp-23tyouas10.html

2016年7月7日(木)

 台風の余波で雨雲の流れが速い。ヒヨドリのヒナが気がかりで別宅へ立ち寄る。車は裏の車庫へ。親鳥は足音を聞きつけ、巣を離れ、木の天辺でヒナの様子を見守っている。シャッターの音で四羽が同時に、首を長くして口をあけ餌をねだる。よく成長している。台風はそれたので、あとはカラスに気づかれないように。そっと。頭の中がパンパン。一休み。

   


2016年7月5日(火)

 住民についての資料を提供した。ムラ・シマの特徴を見ていく場合、そのムラの士族の割合を確認する。特に山原(やんばる)では、寄留者の割合が顕著にムラの特徴を示している。例えば、大宜味村の宮城島、大保、押川、上原は、その大半が寄留者のムラである。宮城は津波村、大保は田港村、押川は塩屋村、上原は根路銘村からの分離した字(アザ)である。また、寄留人達が首里系・那覇系・泊系・久米系で、移住先での生活様式や職業や言葉に特徴がある。

 今回行う宜野座村の松田(こちや)、村の変遷をたどると金武間切、久志間切、再び金武村(ソン)、戦後すぐ古知屋市・高松市、昭和23年に宜野座村松田となる。松田の古くからの集落部分の移動はほとんどなし。行政やムラ名の変遷はあるが、祭祀に関わる場所は変化しない(変化しにくい)。それが歴史の変化しない部分を継承し続けている。

 明治36年の戸数117、648人(男325、女323)内士族40戸数、252人で38%を占める。その影響を示す一つに村踊りで組踊が今でも引き継がれているのは、地割制の最中、寄留人達のムラ内への居住が認められ、村踊りの中に組踊を導入している、導入できる環境をつくりあげている。

 松田は五つの集落からなり、屋取からなる集落がある。高松は開拓集落、屋取集落の人々は士族意識が強く、組踊の配役でも首里方言部分は首里・那覇の方々、地人は首里言葉の入らない配役にするなど、顕著となって表れてくる(現在はどうだろうか?)

 3日に紹介した住民の区別や意識が、村の形を特徴づけていることに気づかされる。

 体調を崩し、肉体労働を控えてきたが、ボツボツ働けそうだ。大工をしながら、手を休めてヒヨドリの育ちが気にかかる。親鳥が餌さがしに飛び立つと巣の中をパチリ。


  巣発見日(卵が4個)         7月3日にはヒナ誕生              やっと力仕事ができます。

2016年7月3日(日)
 
 ムラシマの形をみていく場合、そこに住む人たちが地人、寄留の人達の比率、そのムラの祭祀の中心となるのが地元か、あるいは他からの人々かでムラの個性が見えてくる。『沖縄旧慣地方制度』に「住民」の項目がある。首里、那覇、久米村、泊村、島尻、中頭、国頭、離島(宮古島、八重山島)と詳細な取り決めがある。そのことが、ムラの形や特徴に影響を及ぼしている。

【住 民】

 首里
 住民に二類あり。士及町百姓とす。士に四種あり。王子、按司家(総地頭の領地を有す)、親方家(総地頭または脇地頭あり。その総地頭なるものは特に親方家に非ざれば任せず、品位はは終身に止まるて以て、其の子孫に至り勤功ばじゅ非は親方の品位は帯うなしと雖も知行領地を供給を併給する間は之を親方家と称す)平士これなり。王子、按司、親方は地方吏員を不勤、各村中の頭衆と称し、学事上及び所俗に(冠婚葬祭の礼式喧嘩口論男女の節義道路清掃等を云う)、救助(悪疫流行飢饉災難等の際補助するの類の如し)等に関する事件を監督し、其の他内法執行又は集会協議に関する事採決し、協議調はざるときは多数を以て決す。
 平士は村学校中取、筆者、村地頭を勤むることを得、而して平士以上は他所(首里内は此限にあらず)へ転籍するを許さず、町百姓は筑登之座敷位以上を有する者頭相勤め、中取、筆者の指揮を受け前顕集会等の節町百姓中監督し、而して町百姓は縦令勢頭坐敷、筑登之坐敷、位を有する者と雖とも坐無位の平士に対するときは随従するの義務あり。


 那 覇
 住民に平士、町百姓の二種あり。平士は主取以下吏員となることを得。且物城、総横目、渡清協筆者親見世大筆者等の役職を勤めたる者は年齢六十以上の老人は頭衆と称し、権利義務都て首里頭衆に仝じ。亦平士転籍並町百姓権利義務も首里に仝じ。


 久米村
 住民総て士にして総役以下吏員を勤むることを得而して総役、長吏を勤めたる者その他中儀大夫以上の位を有する者は権利義務、都て首里頭衆と仝じ、転籍も又仝じ。


 泊 村
 住民は平士、町百姓とも首里に仝じ。


 島尻、中頭、国頭
 島尻、中頭、国頭、各間切住民に地人居住人の二種あり。地人(本村百姓を云う)は村方に於いて百姓地の分配を受け、之を耕作し貢租負担の義務あり。且つ他村他間切等へ転住を許さず居住人(首里、那覇、泊村、久米村人寄留するを云う)は百姓地を叶掛り(小作を云う)耕転するに付貢租負担の義務なし。然れども民費は人頭割の分は負担す。又間切、村吏員は地人に限り居住人は任用せらるるの権なし。


 離 島



 宮古島・八重山島




 2日(土)は今帰仁村諸志の字誌の刊行祝賀会へ。ねぎらいの言葉をたくさんいただき感謝。いろんな思いが詰まった字誌です。

 別宅(今帰仁)の玄関前の松の枝にヒヨドリが巣をかけている。先日四個の卵を確認。今日四羽のヒナがかえっている。半年ほど、風邪が長引き難聴に。耳の鼓膜の切開で聞こえるようになり、落ち着いたので、久しぶりの大工仕事。休憩時は、ヒヨドリの巣をのぞく。カラスの被害を避けるためか玄関近くに。親鳥はスーと餌をついばんで運んでいる。


 
▲巣にヒヨドリの卵が四個。    ▲3日、ヒナがえりました        ▲2日『諸志誌』の発刊祝賀会