地域調査・研究(2016年12月)     トップへ  

メール問合せ


2016年8月9月へ                        
日々の調査記録(8月)  日々の調査記録(9月)  日々の記録(10月) 日々の記録(11月)  日々の記録(12月)
日々の調査記録(2017年1月)

 北山の時代と沖永良部島(講演)


2016年12月30日(金)

 12月24日から、恐る恐る大工仕事をしている。今帰仁の別宅は外と内部の改装。まだ不十分。名護の自宅は外の床のと取り替え。孫二人をつれて今帰仁の大掃除。これから後片付け。一年ぶりに大工仕事をしても、少し痛みや疲れがあるが大丈夫だ。顔面の赤く腫れとかゆみ痛みで病院通い。薬の副作用とみられる症状もやっとおさまる。週六日のつとめ(適当に休んでいるが)。そのことがあって回復。

 年末、数カ所踏査する。運天港、北側斜面の古墓、運天の歴史をまとめた時のマップや大北墓の説明版、曇天隧道、百按司墓などの説明版が懐かしい。最近、三島由紀夫の潮騒が運天港で撮影されたとのことでの問い合わせがあり、昭和30年代の写真を三枚ほど提供(運天の字誌用)。1816年バジルホールが訪れた羽地内海(仲尾集落付近)、ペリーが12月24日訪れた塩屋湾、1846年の屋我地島のオランダ墓(フランス人)などなど。歴史の場面になった地の画像で今年は閉めることに。

 
   ▲昭和60年頃に描いた運天集落                ▲運天集落の東斜面の古墓群

 
       ▲昭和36年の運天港の様子                      ▲冬場の沖縄本島北部の海岸線

 
  ▲勘定納港(仕上世米の積出港の一つ)               ▲古島から移動してきた仲尾集落

2016年12月29日(木)

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」(田代安定撰録)は、村の様子をみるに重要な資料である。明治初期まで神アサギの存在、ノロクモイ(ノロ)、城がウタキである事例など。「琉球国由記」(1713年)の脱漏を補完できる部分がある。(工事中)

 〇国頭間切各村ノロクモイ員数(明治17年調査)
奥間村  二人  ・本ノロ一人
・若ノロ一人 
辺土名村   一人 ・本ノロ一人
 宇良村  一人 ・若ノロ一人
 与那村  二人 ・本ノロ一人
・若ノロ一人
 辺戸村  二人 ・本ノロ一人
・若ノロ一人
 奥村  一人 ・本ノロ一人
・若ノロ一人
 安波村  二人 ・本ノロ一人
・若ノロ一人 

 〇国頭間切神拝所
浜 村  二ヶ所内  〇字□□ス嶽
〇神アシャゲ一ヶ所 
比地村  二ヶ所内 〇字幸地嶽
〇神アシヤゲ一ヶ所
 奥間村  七ヶ所内 〇字アメ城嶽一ヶ所
〇桃原アシャゲ一ヶ所
〇ノロクモイ火神一ヶ所
〇神アシャゲ一ヶ所
〇土帝君一ヶ所
〇金剛山一ヶ所
〇根神屋一ヶ所
 辺土名村  三ヶ所内 〇字神シャゲ一ヶ所
〇辺土名嶽一ヶ所
〇ノロクモイ火神一ヶ所 
 宇良村  二ヶ所内 〇字□□□嶽一ヶ所
〇神アシャゲ一ヶ所
 伊地村  一ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
 与那村  二ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
〇□嶽一ヶ所 
 佐手村  二ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
〇上ノ嶽一ヶ所
 辺野喜村  二ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
〇前ノ嶽一ヶ所 
 宇嘉村  二ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
〇勢頭神殿内一ヶ所
 辺土村  二ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
〇シギャラ嶽一ヶ所
 奥村  二ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
〇大嶽一ヶ所
 楚洲村  一ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
 安田村  三ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
〇メンタマイ嶽一ヶ所
〇根神火神一ヶ所
 安波村  三ヶ所内 〇字神アシャゲ一ヶ所
〇□□□嶽一ヶ所
〇ノロクモイ火神一ヶ所
 ※□は判読できず


2016年12月28日(水)

国頭村浜村の位置確認
資料1:大宜味間切田嘉里村全図
資料2:大宜味村字田嘉里全図
資料3:宮城樹田氏写真提供
  『国頭村史』

 【琉球国由来記】(1713年)

浜村(国頭間切) 

 1673年に国頭間切から田港(大宜味)間切を分割した時に、国頭間切浜村に国頭番所が置かれた。
上杉県令巡回日誌に「屋嘉比川の板橋を過ぎ、屋嘉比港に出ズ、穂林立」とある。

 浜ははじめ屋嘉比村にちかい森の下に発祥し、のち加名良原に移った。加名良原には立初めの泉と称する穴川(井)があって拝所となっている。そこから現在位置に移動した。加名良原に1872年(明治5年)まで数件居住していたが、山津波で埋没して犠牲者をだしついに無人家の地になった。(旧琉球藩評定所書類第800号)

以下の画像は国頭村の宮城樹正氏提供

  

 

 


2016年12月27日(火)

 年末、大掃除でも。積み残しの整理でもするか。


2016年12月23日(金)

 大宜味村田嘉里(明治36年親田・屋嘉比・美里に合併)にスクミチ(宿道)と呼ばれる道がある。隣は国頭村浜である。浜にあった国頭番所は1732年頃頃奥間村へ移転。スクミチは番所と番所をつなぐ道筋である。その大宜味間切の番所(田港→大宜味→塩屋)から国頭間切への道筋は田嘉里へは屋嘉比川を横切る必要があり、横切るルートは田嘉里のスクミチを通り中流、あるいは上流部からである。そこから川をくだり浜の番所への道筋だったとみることができる(明治36年の大宜味間切田嘉里村全図参照)。

 国頭間切浜番所跡は現在集落の狭い場所にある。浜番所は1731年頃奥間村へ移動する。番所が移動後に屋嘉比(田嘉里)川沿いにあった浜集落は山崩れでほとんど崩壊してしまい、浜番所があった周辺に集落を形成したとみられる。浜村の故地にはカーやウタキなどがある。故地は国頭村の宮城樹正氏(国頭村文化財審議委員長)の案内いただいた(穴川:カーやウタキ(祠)提供があった。手元にないので後に掲載します)。

 カナラガー(湧泉)は浜のニージマ(新島)集落の故地にあり、そこは大宜味村田嘉里の嘉名良に位置する。故地のカーは正月九日に神人によって拝まれていたという。

 
    ▲田嘉里のスクミチ             ▲右手の斜面が浜村の跡地

 
    ▲浜集落内に番所の火神の祠 

 浜のニージマは嘉名良(田嘉里地番か)からの移動。明治5年死者5名を出す土砂崩れがあり、集落の大半がのまれたようだ(「球陽」)。移動地が番所のあった付近に移動。番所火神が集落の狭い通りにあるのは、番所が奥間村に移動したのは1731年ころ。明治5年におきた土砂崩れで番所跡地付近に移動したとみられる。(手元に資料がないので後に参考文献で正確を記す)


 国頭村比地、そこは山原の集落を考える出発点になったムラである。しばらく、比地まで行っていない。天気がいいので踏査してみるか。これでの比地を振り返りながら。 

・集落の発生と関わるウタキ―国頭村比地の御嶽(幸地嶽・キンナ嶽)―

 国頭村比地に二つの御嶽がある。『琉球国由来記』(1713年)の国頭間切比地村に三つの御嶽がある。現在呼ばれている(   )に想定できそうである。
    ・幸地嶽  神名:アカシニヤノ御イベ(現在のイビヌタキ)
    ・キンナ嶽 神名:中森ノ御イベ    (現在の中の宮)
    ・小玉森  神名:アマオレノ御イベ (現在のアサギ森)
    
 『琉球国由来記』(1713年)で幸地嶽としてあるのは、一帯はウチバルと呼ばれている。ウチバルは河内(こうち)原の「こ」が脱落した呼び方で、カワチに幸地と漢字を充てたのであろう。幸地嶽は河内原にある御嶽ということになる。イビヌウタキと呼ばれている杜全体が幸地御嶽とみることができる。

 イビヌウタキと呼ばれている場所に祠があるが、そこは幸地御嶽の内部にイビに相当する。キンナ嶽は「中の宮」と呼ばれているが、中の宮は『琉球国由来記』(1713年)の神名中森ノ御イベからきたもので、中ノ嶽とも呼ばれている。幸地嶽と中の宮の関係は幸地森全体が御嶽で、イビヌウタキがイビ、そして中の宮がイビヌメー(イベの前)に相当する。今帰仁村今泊のクボウの御嶽の構造と類似する。村人達は中の宮に集まり、イビへは神人のみ上っていく。イビで祈りをした神人はドラを敲いて下で待機している人たちに合図をしたという。

 中の宮(イビヌメー)の中にある香炉と国頭王子(正秀)の石燈籠に、この御嶽の性格が読み取れそうである。比地村の御嶽(小玉杜)と性格を異にした御嶽である。ここで関心を持っているのは石燈籠の銘や香炉とイビヌメーヌ嶽付近から出土したという鏡や鉦皷などである(『沖縄の古代部落マキョの研究』所収325頁)。按司や王子クラスの御嶽と見てよさそうでる。特に按司や王子などの薩摩や唐旅に関わる航海安全に関わる御嶽とみることができそうである。


『杜(ウタキ)内のイビと一門】(国頭村比地)

 杜(ウタキ)の中に各一門のイベが四ヵ所にある。海神祭のとき、杜の神アサギ周辺にあるイビの前に一門ごとに集まりウガンをし直会(ナオライ)をする。また、神アサギ内に座っている一門から出した神人の前にささげものを持っていく。四つのイベは神アサギ近くの大きな赤木の根元にあるが、一ヶ所だけは窪地(堀切か)を越えた場所にある。その一門は他地域から比地に移住してきた一門だという。杜(ウタキ)内のイベと一門と神人、さらに比地の集落とウタキの関係、それは原初的な姿を今に伝えているのではないか。


 

 ・山城姓/山川姓/神山姓/大城姓が古い一門
 ・根神・・・・山城門中
 ・シル神…大城・山川門中
 ・山城一門の総元締めは泉川家(ミルク田や他の拝所の管理)
 ・比嘉姓は本部からの寄留
 ・外間姓は那覇からの寄留
 ・宮城姓は与那
 ・江川姓は神山家から分家(戦後改姓)

【小玉杜の神アサギ付近の香炉(イビ)】(北から)
 ①奥間からきた人々
 ②アサギ門中(山川姓)
 ③浜からの一門?
 ④ハンダ屋門中(比地の元屋)(大城姓)
 ⑤比地の泉川屋門中(山城姓)(アマミンチュウ系統、さらに山口神社をもつ)
 ⑥比地の下道屋門中(神屋姓)



2016年12月21日(水)

 昨日取材で羽地間切番所から勘定納港から源河、津波へ。宿道(スクミチ)が陸路の途切れる渡野喜屋(現白浜)まで。そこで宿道(スクミチ)のルートについて考えさせられた。宿道は番所と番所をつなぐルートである。すると田港間切(1673年)が成立した時、田港間切番所は田港村である。渡野喜屋から田港村へは大保(もとは田港村内)から大保川を渡り田港番所へいくことになる。そのルートが宿道ということになる。1695年頃田港間切は大宜味間切となる。その時、大宜味村(ムラ)を創設しそこに番所を移動する。そのとき、『琉球国由来記』(1713年)で東海岸の平良ムラと川田ムラは大宜味間切の内である。

 田港間切から大宜味間切に改称され番所が大宜味ムラに置かれると宿道のルートは田港番所へのコースは外れることになる。そこで渡
野喜から塩屋へのワタシでのコースが宿道となる。(渡野喜屋:トンジャ:渡し)の村名は「絵図郷村帳」では「とのきや村」と登場するので、そこもスクミチのコースとみていい。塩屋から田港番所へは戻っていたのかもしれない。海が荒れているときは、大保川を渡るコースも生きていたみられる。

 大宜味間切大宜味村にあった番所が、1695年に塩屋村に移転する。大宜味村に番所が置かれていたのは短期間(3年)で、1695には塩屋村へ移転する。その段階でスクミチコースもストレートに塩屋番所から国頭番所へとつながることになる。


2016年12月20日(火)

 これから名護間切番所跡から宿道(スクミチ)を通り、大宜味村田嘉里まで。これまで「山原の津(港)」「山原の津と山原船」などを平成17年から何度か公にしてきた。10年前のことで記憶の彼方になっている。それで過去の記録をつまみだしてみる。特に塩屋湾についての話を。塩屋湾には1673年に国頭間切を分割して田港間切、田港村に田港番所、1695年頃、田港村から大宜味村へ。そのとき田港間切は大宜味間切へ改称。そこに大宜味村をもうける。12月24日ペリー一行の一部が塩屋湾調査をしている。塩屋湾の大川にテントを張り、村人との山羊やネギなどやりとりをしている。(詳細は「大宜味村史」(わけしまじま)「なきじん研究」―山原の津(港)」など参照のこと。


【ペリー一行の塩屋湾調査】

 『ペリー提督の東洋遠征記』(1856年)第一巻中「同探検隊の士官たちによる航海資料」である。塩屋湾(Shah Bay)部分を紹介。
 Whiting 大尉は言う。ここは陸に囲まれた一面の水域であるが、入口正面にある大きなリーフが大型の船の近づくのを妨げ、小舟が度々出入りするのみである。しかしながら一旦中に入ると、水深8~12尋の深さになる。海底はやわらかい泥で平坦である。最初塩屋湾に入った時は、晩方で天候は嫌悪の模様を呈していた。翌朝になると北方及び西方から嵐が吹きまくり、それが数日続いた。それでボートがOfookah(塩屋の突端)の外に出るのが不可能となった。その間に我々は湾内の調査を全部おえた。そして逗留の最後の日になって初めて出口を調べることができた。残念なことに出入り口のりーフは吃水の深いすべての船にとって邪魔になることがわかった。
 塩屋湾沿岸では(海図に位置を示す)鉄鉱・炭坑・硫黄が見つかった。ここで私がみた石炭は、質が劣悪で土や砂利が混じっていたが、掘れば良質の石炭が見つかるかもしれない」(故上間政春氏訳)。

 咸豊3年(1853)にペリー一行は沖縄本島の資源調査を行い、塩屋湾には石灰層があると報告している。「水路誌」には「此の湾は全く陸地に囲繞せらる。然れども湾港方面に礁脈あるを以て和船より大なる船を入るゝ能はず。湾口付近は距離反浬若しくは一浬の処まで浅水なり」と記してある。

 塩屋湾の地図に集落(津波・宮城島・渡野喜屋(白浜)、塩屋、屋古、田港、大保)、塩田(宮城島)、田港(現在の大保)に塩田、宮城島のガニクガンサと塩屋のハーミジョウに墓地が記されている。

 運天港を出発したジョウンズ僧官を隊長とする調査隊のボートは、間切役人の村人が見守る中塩屋湾に入ってきたという。後ろ向きに漕ぐボートがグングン進むのに驚き、また塩屋湾岸の村の人々は婦女子は山に隠れ、家畜なども山に畜舎をつくり避難させる有様だったという。

 塩屋の大川浜についた調査隊はテントを張り、宿泊し、塩屋湾岸一帯の地質や動植物の調査にとりかかった。滞在中、塩屋村の家か大根三斤、代々九年母10粒、仙本半斤(ネギ?)などを買い求めたという。12月24日四ツ時分に伝船一艘に士官一人、水夫十人が乗り込み、大川浜から向かいのサバ崎に小旗を一本立てて帰ったという。サバ崎、向かいの田港側のイクサン崎、湾に浮かんでいる岩礁、宮城島一帯の岩石を採集して持ち帰ったと。その時の岩石はボストンのペリー記念館に標本として展示されているという(『大宜味村史』通史編)。


2016年12月16日(金)

 ちょっと頭の中が飽和状態。一つひとつ片付けないと!
 さてと。


2016年12月14日(水)

 10時から墓調査。忘れ物はないですか。
  デジカメ二台(充電オッケー)
  年表
  ノート、メジャー

遅れそう!
  
 締め切り原稿お待ちの方々、原稿、画像の送付遅れます。悪しからず。

2016年12月9、12日(金・火)

 国頭間切は首里あむしられの管轄である(大宜味間切含む)。大宜味間切は1673年に国頭間切から分割。
 ノロへの役俸はノロクムイ地が与えられていた。明治に役地を金禄で支給する必要となり、ノロクモイ地の実収穫高量報告させる。それを基準にして国債証券を支給し、禄制の改革が行われた。

①奥間ノロ(奥間)(管轄村:奥間・比地・桃原・鏡地・浜・半地)(本ノロ、若ノロ)
②辺土名ノロ(辺土名上島)(管轄村:辺土名・宇良・伊地)(本ノロ)
  宇良村(若ノロ)
③与那ノロ(与那)(管轄村:与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉)(本ノロ、若ノロ)(本ノロ、若ノロ)
④辺戸ノロ(辺戸)(管轄村:辺戸)(本ノロ、若ノロ)
⑤奥ノロ(奥)(管轄村:奥)(本ノロ、若ノロ)
⑥⑤安波ノロ(安波)(管轄村:阿波・安田)(本ノロ、若ノロ)

①奥間ノロの遺品
  

②国頭村辺土名ノロの遺品
  


③与那ノロの遺品
  


④辺戸ノロ(辺戸)(管轄村:辺戸)
    (遺品あり)

⑤奥ノロ(遺品なしか?)


⑥国頭村安波の遺品


2016年12月3日(日)

国頭村をゆく(1)
国頭村をゆく(2)

国頭村をゆく(3) 


2016年12月2日(金)

 12月から国頭村の調査を予定している。これまで国頭村の神アサギ、ノロ関係、公民館、そして祭祀、按司クラスの石灯籠、間切役人(奉公人)寄進の香炉、ムラ・シマなどをキーワードに見てきた。今回はムラとマク(マキヨ)と遺跡である。遺跡やマク(マキヨ)やノロ関係を歴史的に見て行くには、現在の大宜味村の大半も視野に入れてみていかなければならないが、1673年以後の国頭間切(一部大宜味間切)を視野に入れる。神アサギは特定できるが、マク(マキヨ)のフィールド゙調査はこれから。(特定は困難かも!)

①田嘉里(親田・屋嘉比・美里)
   親田(マライマク)
   親田・美里(ユフッパヌマク)
   野国名、野国(ウチクイシンヌマク)
   ユフッパヌマク(シンバル、アセーラ)
②浜(ユヤギマク)
③(半地)
④比地(マチカマ、ヤトカマ)
【国頭村比地】参照
⑤鏡地

⑥奥間(カニマン)
⑦桃原(カネマングワァ)
⑧辺土名(イチブク)
⑨(渡比謝村)(オーシク)
⑩宇良(スウトク)
⑪伊地(アシミナ)
⑫与那(タンチャノヨリアゲ)
⑬謝敷(チールサカル)
⑭佐手(ボウ、コウボウ)
⑮辺野喜(チャンチャンノクイジ)
⑯宇嘉(ニシムイニシダケ)
⑰宜名真
⑱辺戸(アシモリ)
⑲奥(ミヤギムイ、ミアギムイイビスデル御ジョウ)
⑳楚洲(オージマク、スイヌマチガネ)
21 安田(アダカ、アダカモイ)
22 安波(オージマク)


国頭村の神アサギ(存・無)(整理中)

【国頭の神アサギ】参照


 山原で神アサギに注目しているのは、『琉球国由記』(1713年)に記載された「神アシヤゲ」(神アサギ)が300年の村(ムラ)の中で消えることなく生き続けていることは驚くべき出来事である。茅葺き屋根の建物から瓦屋根などに変化するが、神アサギそのものが撤去されることはほとんどないこと。祭祀空間でもあるが、ムラの穀物(税)を一時蓄え、国頭の海岸は泊港へ、東海岸は与那原へ。

 祭祀は農暦で、首里王府が「神遊」として公認した休息日であることに気づかされる。

村 名   琉球国由来記
 (1713年)
 明治17年 平成28年 
 浜  ● ● 
 (半地)       ×
 比 地   ●  ●
 鏡 地   (村ナシ   (村ナシ  ×
 奥 間      ●      ●
 桃 原  (村ナシ   (村ナシ   ●
 辺土名   ●    ●   ●
 (渡比謝   ●  ×  ×
 宇 良  ●   ●
 伊 地   ●    ●
 与 那   ●  ●   ●
 謝 敷    ●     ●
 佐 手    ●  ●   ●
 辺野喜   ●  ●   ●
 宇 嘉    ●   ●
 宜名真  ×(寄留)  ×  ×
 辺 戸    ●   ●
 奥    ●   ●
 楚 洲     ●
 安 田    ●     ●
 安 波    ●     ●

今帰仁村の神アサギについては、報告済み。「沖縄県地域史協議会会誌」(第37号)(2014.6)掲載