日々の調査記録 8、9月(Nakahara:8月メモ)6月へ(7月へ)       トップへ


・山原のウタキ事例  与論島と北山(琉球) (国頭の神アサギ参照)

与論島と北山(琉球)
(2008年) 与論島参照(2006年


2016年10月(今月)へ


2016年9月30日(金)

 『中山世鑑』や『中山世譜面』、『球陽』で北山の拍尼芝・a・ハン安知の時代より以前がどう描かれているか。中山の舜天・英祖・察度の四王統がどのように系統づけているのか。それと並行するように北山は、どうなっているかを見ていく必要がありそう。『中山世鑑』や『中山世譜面』、『球陽』の、当時の編集者が北山も視野に入れた歴史を描いていたらと。


2016年9月22日(木

 南米やハワイ、北米などの移民について書き出していると各国の当時の国情、そして海外に移民として送り出した日本の国情。数年前まで、「戦前の昭和の20年と平成の20年は重なり、気が迷い入ってならない」と公言していた。経済が戦争を引き起こしている。
 
 南米、北米、ハワイなどの国情と送り出す日本国の国情の把握。「海外移民」の研究が、進むべき道を誤らないよう、その道筋を見究めていくべきものだと。


▲移民を送りだした南洋や北米・南米の国々(「ブリタニカ国際地図」より


2016年9月20日(火)

 移民についてどう整理していくか、まだ試行錯誤状態。「沖縄県人海外移民状況調」(昭和14年1月)が目にとまった。移民について書き出せる手がかりとなりそう。沖縄県人の移民国、そして昭和14年1月の状況(人数)を書き出してみる(安里延著 『沖縄海洋発展史』)。

 @伯国(ブラジル)  21100人  Aアルゼンチン 300人  Bチリ 50人 Cボリヴィア 120人  Dペルー 12000人
 Eメキシコ 200人 Fニューカリフォルニヤ 100人 Gキューバ 130人  Hアメリカ合衆国 1200人 Iカナダ 300人
 Jハワイ諸島 19800人 K満州 150人 L支那 50人 Mフィリピン 3000人  N南洋 32000人 O16セレベス 150人
 Pボルネオ 200人 Qシンガポール1200人 Rスマトラ 50人 Sバタヴィア 70人 21 ジャバ島 80人 22 フランス 50人 


      ▲『沖縄海洋発展史』(安里 延著 昭和14年)より                   ▲海外移住地と南洋の国々

 昭和14年南洋に32000人の移民(移住者)が目につく。その移民に関わったのは大城孝蔵(金武間切金武村)である。1904年(明治37)2月20日、神戸から出港してフィリピン・マニラに向かいました。その後、同年4月には沖縄県移民111人が那覇港を出発 フィリピン移民について述べるためにはペンゲット道路工事について記す必要がありそうである。マニラの北方、170余哩の高地地帯に、清涼で四季を通じ風光明媚で常春の天国と称されるところがある。そのところは南洋第一の健康地として自他共に許し、南洋の避暑地として世界的に知られ、年々数万の避暑客を吸引しつつある。これフィリピン唯一の高山都市・文化都市バギオ市である。このバギオ市に通じるトヰンピークより、バギオ市に至る山間渓谷21哩(33.7km)余の道路こそ、有名なペンゲット道路で、日本人のフィリピン移民史上、悲惨な犠牲のはらわれた所である。

 1899年2月、米比戦争が始まり、米国が瞬く間にベンゲト州を征服するに及んで、米人が将来熱帯で仕事をするには、是非共清涼な避暑地が必要であるということと、一面米人が比島領有早々の事であり、思い切った大きな事をやって、比人達の度肝をぬいでやろうといった政策も加わって、立案されたものである。当時マニラとタダパン間120余哩、比島唯一の鉄道の補強工作的意味もあって、タグパンよりホクロビオ及びトヰンピークを経て、バギオに至る道路の建設設計書となったのである。明治36年より明治38年5月まで、二年間に亙る道路の開墾工事が行われた。

  ここにおいて工事主任のケンソン少佐は、忍耐勤勉なる日本人労働者を募集して、一気◆成に工事の竣工を考えだしたのである。ケンノン少佐は、この工事を行政委員に諮った。委員中には米国移民條会を理由に反対したものもあったが、豪胆少佐は敢然として自らの信念を披瀝し、遂に日本移民をして難工事に当たらしむべく決議せしめたのであった。

 斯くして少佐は、明治36年6月18 日、日本領事館を訪問、日本移民労働者の供給方を申し込んだのである。領事から神戸渡航合資会社の稲葉卯三郎を紹介、稲葉氏は通訳長尾虎之助同伴、政庁にて少佐と会見し、大体次の如き契約をなした。
  需要総人員  1022人
    内訳 人夫 900人 石工 100名 人夫頭 20人 通訳2名
  給料 人夫 一日一比25仙 石工 2比  人夫頭2 比50仙

 県人移民は明治37年2月に36名をフィリピンに送り、ペンゲット移民として、その監督が大城孝蔵である。その移民を契機にフィリピン移民が増加の一途をたどる。初代のフィリピン移民は苦難続きであったという。

              (工事中)

 大宜味村にも、フィリピンに移民した方々いる(海外旅券下付表名簿)より。
   ・山城清三郎(大宜味間切謝名城)(渡航日 明治37年6月23日)
   ・濱元原光(大宜味間切根路銘村)(渡航日 明治37年6月23日)
      (以下略)

【大宜味村のフィリピン移民】(海外旅券下付表名簿)

旅券番号  渡航許可ノ官庁
及年月日 
 氏 名  族籍及職業  年齢 渡航ノ目的 渡航地  渡航年月日 契約期限 本籍地身分
 第98027号  沖縄県明治参拾七年五月廿一日  山城清三郎  平民農  明治37年6月23日 土木 馬尼拉  明治37年6月  3か年 国頭郡大宜味間切謝名城九百六番地 
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   

2016年9月18日(

 「沖縄の地域共同体の起源と形成
」をテーマとした講演を行う。体調をくずし、今日からまとめることに。戦前に沖縄訪れた研究者(柳田国男や折口信夫など)は沖縄に以下の姿をみている。そこに日本の古代の姿をみているのである。今でも沖縄に辛うじて100 年経った今でも残っている。様子を歴史的にとらえてみると・・・・。

 マキ(マキヨ)の発生から古琉球のムラの形、近世の土地制度とのムラ、人々の動き(村の祭祀・一門・ムラ墓・身分・家・婚姻など)を手がかりに人の結びつきをみていく。100 年前に古代の日本の姿をみているが、100前のその姿は変貌しているものの、沖縄に今でも息づいている。・・・・・(工事中:どうまとまるか?)

@木石礼拝

A動植物崇拝の如き万有神であるとの信仰

B精霊崇拝の一致、女人が神事を司る古風のあること

C神職祭祀のとき蔓を頭に巻いていたこと。

D琉球の神官は日本古代のごとく勾玉を佩いていること

E近代まで婦女が米を噛んで神酒を醸していたこと

F霊魂に対する恐怖心、悪魔除け、不浄祓いなどの思想

G出産葬儀の土俗、亡者の口寄せ、祭祀、冠婚、年中行事などの類似すること。

H明治大正昭和初期の田舎婦人中左◇をなせるもの。帯を前結びによせる(奈良朝以前の風俗)

I甘藷(イモ)渡来以前は米を主要食糧とし雑穀で補っていたこと。

J住居も本土の様式にて、八尋殿、十尋殿という言葉でも八ひろあしあげ、十ひろあしあげなどとうたっている。。

K雷鳴の時、桑の下、桑の下を連呼する。

L頭上に物を載せる習慣は本土にも多かった。
M言語からP→F→H、推古朝(7世紀頃)のP音が今でも使われている。






 

 「沖縄の古代の姿」で掲げた項目が、特に祭祀としてマク(マキヨ)の世、古琉球jのムラ・シマの時代、さらに近世の村へと繰り返し(毎年のように)行われてきている。明治12年の廃藩置県、あるいは明治36年の土地制度で土地と村人との結びつきが大きく変わるのであるが、延々と続けられた祭祀は変わることなく続けられた。それは祭祀が農耕歴であると同時に村人の神遊び(休息日)でもあり、神人たちのその祈りは「貢租」に関わるものである。『琉球国由来記』(1713年)に記された神アシアゲ(アサギ)が、制度が全く変わってきたのであるが、祭祀空間として施設として現存している。マク(マキヨ)の時代から現在まで1000年以上続いたきた痕跡が名護グスクを囲む御嶽(ウタキ)に村(ムラ)の形として遺っている。

【名護グスク(ウタキ)を中心とした祭祀と村の形】
(事例 1)

 名護間切には「名護のろくもい」と「屋部のろくもい」と「喜瀬のろくもい」の三名。ノロが保有していたノロ地は一町歩内外。(一町は3000坪、一畝は300坪)(一石は約150kg)

  ・名護のろくもい(東江・城・大兼久・数久田・世富慶・宮里)
     作得 米二石四斗三升一合四勺

  ・喜瀬のろくもい(喜瀬・幸喜・許田)
     作得 米一石六斗八升八合

  ・屋部のろくもい(宇茂佐・屋部・山入端・安和)
     作得 米二石四斗一合五勺二才
        雑穀   七升四合二勺五才 

【名護グスク内の拝所など】

  
 
 ▲名護グスクの遠景                ▲名護グスク内への道          ▲グスク内にあるの神アサギ

   
    
      ▲名護グスクグスク(ウタキ)のイベ             ▲名護神社の神殿の側のカー 

【名護グスク周辺の拝所】

 
           
▲ノロの火神を神殿と拝殿にしたという(昭和4年)             ▲名護ヌルドゥンチ跡

 
     
 ▲イジグチ                  ▲名幸祠一門の拝所         ▲プスミヤー跡                 


【国頭村比地】(マキマキヨの原初的な形)(事例2)

 比地はピジやフィジと呼ばれ、国頭村の一つの字(区)である。国頭村の字は南から浜・半地・比地・奥間・・・と北へつづく。比地の集落は西海岸の国道から山手の方の奥まった場所に位置している。比地は二つの川が流れ、一つは比地川、もう一つは奥間と境をなして流れる川代志(ハレーシ:奥間川)がある。集落があるのは二つの川に挟まれた場所である。比地は行政村になる以前の集落形態を今に伝えている。山原の村や集落を見ていく指針(モデル)となる地域である。

 比地は比地・堀川・蔵前・長根・幸地・長尾の6つの小字からなる。比地と奥間の一部を分かち、統合して鏡地として区が成立した。大正15年のことである。半地は奥間から分かれた区である。比地の領域であった比地川の左岸と奥間の領域であった半地(比地川左岸)と交叉した形で分区している。比地川の下流域は仕明地であったとみられる。小字(原域)は分区以前の領域でみる必要がある。いずれも奥間ノロの管轄なので祭祀には影響及ぼしていない。海神祭(ウンガミ)のときのナガレミャーは鏡地の浜で行われる。

 国頭村比地を立体的に描く作業を順次進めていく。(これまで紹介したのをここに集合させる。そのため統一を欠いているが、随時整理することに。最後部に100の質問を掲げてみました。比地の方々が、当たり前に誇りを持って答えてくれたら、あるいは日常の会話の引き出しにしてくれたらと。
  「ウタキが三つあるようだな」「どこどこかね。もっとあるんじゃないか」など。
  「ペーシモーで行われていた干支の旗の下に生まれと年が集まるのは珍しいようだよ」
    「今はやっていないな。あれができれば、もっと元気がでるかもね。誰が何年生まれか
    すぐわかるさ」
などなど。

【小玉森内にある火神の祠】(住居跡)

 小玉杜内に10件近い住居跡(火神の祠)がある。それは屋敷跡である。かつて小玉杜(ウタキ)内に人が住み、そこには神アサギがあり、また各門中のイビがある。集落の発生の古い形態をみせているのではないか。沖縄のグスクは高い所に築かれている。グスク以前はウタキ(杜)である場合が多い。その杜の内部に住居を構え、古琉球から近世にかけて次第に麓に住居が移動していく。国頭村比地は、戦後まで杜の斜面に住み、その痕跡として火神の祠が今に残し、移動したものの今でもお参りを続けている。





                           ▲根神屋の拝所


                                                     ▲山口神社 
【杜(ウタキ)内のイビと一門】

 杜(ウタキ)の中に各一門のイベが四ヵ所にある。海神祭のとき、杜の神アサギ周辺にあるイビの前に一門ごとに集まりウガンをし直会(ナオライ)をする。また、神アサギ内に座っている一門から出した神人の前にささげものを持っていく。四つのイベは神アサギ近くの大きな赤木の根元にあるが、一ヶ所だけは窪地(堀切か)を越えた場所にある。その一門は他地域から比地に移住してきた一門でである。杜(ウタキ)内のイベと一門と神人、さらに比地の集落とウタキの関係、それは原初的な姿を今に伝えているのではないか。


   ▲老木の赤木の根に香炉を置きイベにしている。それぞれのイベの周りに集まる。
 
 ・山城姓/山川姓/神山姓/大城姓が古い一門
 ・根神・・・・山城門中
 ・シル神…大城・山川門中
 ・山城一門の総元締めは泉川家(ミルク田や他の拝所の管理)
 ・比嘉姓は本部からの寄留
 ・外間姓は那覇からの寄留
 ・宮城姓は与那
 ・江川姓は神山家から分家(戦後改姓)

【小玉杜の神アサギ付近の香炉(イビ)】(北から)
 @奥間からきた人々
 Aアサギ門中(山川姓)
 B浜からの一門?
 Cハンダ屋門中(比地の元屋)(大城姓)
 D比地の泉川屋門中(山城姓)(アマミンチュウ系統、さらに山口神社をもつ)
 E比地の下道屋門中(神屋姓)


【国頭村比地村の御嶽】(小玉森)

 
国頭村比地の小玉森(ウタキ)は興味深くみてきた。アサギムイともいい、『琉球国由来記』の小玉森は「クダの杜(ウタキ)」のことではないか。クダはマクやマキヨ同様、小規模の集落のこと。マは間で広場や空間のこと。するとクダマ(小玉)杜はクダの広場の杜、つまりウタキのことだと解することができる。まさに集落の発生と関わるウタキである。

 これまで調査したウンジャミや神アサギもあるが、ウンジャミのとき、それぞれの一門が赤木や福木の大木の下に香炉を置き、一族がその前に集まり線香をたてる。その風景は比地村は複数の集団からなる村ではないか。マク・マキヨクラスの集団が一つの村を形成し、神人はそれぞれの一族から出してきた姿ではないか。

 神アサギの中に座っている神人達は、一門からだされた供え物がお土産として持ち帰る。それは神人達の報酬である。その姿は、かつての神人たちの報酬の受け取りの場面であったにちがいない。一族一門が繁盛すれば、報酬が多くなる計算である。祈りのときの唱えに「村(ムラ)の繁盛」があるのは神人の報酬につながっていた。
 
 森全体がウタキでウタキの中に一門一族のイビがあり、神アサギもある。周りに旧家とみられる神屋が何軒かある。ウタキの中に家々があり、斜面にもシマンポーヤー・根神屋跡がある。比地の集落ははウタキの内部から斜面にかけてあったのが、次第に麓に移動していったとみられる。集落とウタキが密接に結びついていたことがわかる。集落の発生と村の成立で、神人は一門から出していく形で継承されてきている。
 

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  ▲国頭村比地の小玉森(ウタキ)    ▲ウタキ内にある神アサギ(平成15年)

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 ▲それぞれのイビに一門が集まる   ▲福木や赤木の大木の下に香炉が数カ所にある

 国頭村比地に小玉森がある。『琉球国由来記』(1713年)に比地村に幸地嶽と小玉森とキンナ嶽のウタキがある。その中の小玉森について興味を持っている。というのは、小玉森に各地の集落が山手から麓に移動していくが、移動前の集落形態を残しているのではないか。そう考えている。明治13年の比地村の世帯数は世帯数74戸、人口333人(男164人、女169人)である。74世帯すべてが小玉森の内部や斜面にあったとは見ていないが、集落の中心部は小玉森内にあったことがわかる。この森全体がウタキだとみている。二つは・・・嶽とするが、小玉森は嶽ではなくわざわざ森としていることは、何か理由があるにちがいない。小玉は後方に少し高い森があるので、その名称にしたのであろう。

 比地村は奥間ノロ管轄の祭祀である。奥間ノロ家は奥間にあるが、下の図の小玉森の頂上部の平場に巫家と記されている。奥間ノロを比地村から出していたこともあったのであろうか。『沖縄の古代部落マキョの研究』(稲村賢敷著:320〜337頁))に「小玉森神名アマオレノ御イベ 国頭間切、比地村(由来記)」として貴重な詳細な報告がなされている。

 小玉森の頂上部は平坦になっていて、そこには神アサギやノロ家の跡の拝所、カミヤー(位牌があるので旧家跡)などがある。神アサギの前の庭(ナー)で海神祭(ウンガミ)を行う。海神祭のとき、数本の大木の下に香炉が置かれていて、それぞれの一門の人々が集まる。それは比地の各一門のようである。つまり、かつての復数の一門(血族集団)があり、それが行政村(ムラ)にされる以前の姿ではなかったか。小玉森全体がウタキで、大木の下に置かれた香炉のところはイベ(イビ)と位置付けている。複数の集団があった時代があり、それをくくり行政村(ムラ)にしたのが近世の村(ムラ)の形だと考えている。行政村にしたとき、神人をそれぞれの一門から出し、それが一門世襲として継承されてきている。根神を出す一門、内神を出す一門などと。

 頂上部にいく途中に、島ンボー、チハヌヤー、根神ヤー、ハンダヤー、下道ヤーなどがあり、家々が森(ウタキ)の斜面にあり、そこに集落を形成している。山原の各地にそのような集落形態を持つムラをいくつも見ることができる。そのような集落形態が古琉球の時代の一般的な姿だったのではなかったか。小玉森に窪道(空堀)が80m近くあるのは珍しい。グスクに空堀が見られるが。


   ▲小玉森ノ鳥瞰図(『沖縄の古代部落マキョの研究』より


  ▲小玉森の頂上部にある拝所             ▲拝所の内部(香炉に神山仁屋とある)


        ▲窪道(空堀)             ▲ゐ ひち原の原石   ▲頂上部にある大木の一本


     ▲手前の小高い森が「小玉森」              ▲頂上部にある比地の神アサギ


【比地の神アサギ】

 比地の集落は比地川とカデシ川が合流する挟まったところに位置する。比地村の神アサギは『琉球国由来記』(1713年)にもあり、また幸地嶽・小玉森・キンナ嶽の三つのウタキも見える。旧暦の七月盆明けの亥に日に行われる海神祭がある。神アサギ内に奥間ノロをはじめ神人達が座り、周辺の所々に一門(一族)の人たちが集って直会をする。前日には神アサギでクェナーが行われていたという。海神祭の時、比地の神アサギから奥間アサギに行き、さらに鏡地の浜までいく。現在の神アサギは柱が8本で瓦葺きの屋根、タモト木や海神祭で使うユミや藁縄や猪を模したバーキが屋根裏に置かれている。

 瓦屋根の神アサギから茅葺屋根の神アサギになる(平成15年頃?)。神アサギは小玉杜(ウタキ)内にあり、さらに最高部に位置している。



    ▲瓦屋根頃の比地の神アサギ       ▲茅葺き屋根の神アサギ(平成20年)
   


2016年9月12日(月)

 島袋源一郎は「北山の興亡と其の末裔」として、『伝説補遺沖縄歴史』(昭和7年初版)で「正史」とは別に以下のように述べている。
  「野史によって伯尼芝以前の今帰仁按司を探るに、昔天孫氏の子弟今帰仁に封ぜられてあったが、利勇反逆の際に亡び、次に義本王の弟が今帰仁按司となり数代の後嗣子なき為め姻戚なる英祖王の次男を養子となしたという。
     (略)
 此の英祖王の子で今帰仁按司になった系統を俗に仲北山と呼んでいる。今『世譜』の記事とと総合すれば矢張りそれ以前に北山王と称する今帰仁按司が数代あったことは明白である。

 仲北山は二三代の後、其の臣本部大主(大原は後の人)の謀反に遭って一旦落城離散し、子孫が隠忍していて、やっと城地を取り返したが(北山由来記にはこの若司を丘春としてある)悪運未だ尽きず、一二代の後再び一族なる伯仁芝の為に打ち滅ぼされてしまった。(伯仁芝はハニジと発音するというからあるいは羽地按司であったのではあるまいか)伯仁芝は弘和3年(1383)より初めて明国に入貢し、与論・永良部の諸島まで征服し北山王国の基礎を固めた人である。(沖永良部島には今帰仁王の次男真松千代王子の城址があり、内城には子孫がいて、世之主御由緒という記録を保存している)。これより三代の後まで中山・南山と相拮抗して覇を争っていた。
昔北山ともいう)年頃までのいわゆる天孫氏時代の伝説によると、天孫氏の二男が世の主となって今帰仁に降り、今帰仁御神とたたえられる女を妻にし、クバの御嶽にある洞窟に住み、ここで三男二女を生んだ。子供ショウガの始まりだと言われ、そのおかげで人民も次第に繁昌し、君臣の分も確立したので、城を築き、国の基礎を固め、すべての制度もつくり代々北山の地を統治していたが、利勇の乱のときに共に亡んだと伝えられている。

 中北山時代は、西暦1100年頃までの凡そ200年間で、舜天王統と英祖王の系統が統治した時代である。この時代に伊平屋、伊是名、与論、永良部島等の島々が入貢し、城廓もまた拡張したと伝えられ、善政を布いて太平の世の中になったが、安逸にながれたために、本部大主が謀反し、一時彼の領宇有するところになった。しかし数年後、中北山の旧臣が若按司に協力して本部大主を追放して城を取り返した。然るにその後、羽地按司(ハニジ)に城を奪われたので中北山の子孫は四散し、ついに中北山は滅んだのである。                       

(工事中)


2016年9月10日(土)

 近世の公事帳や『琉球国由来記』(1713年)の年中祭祀で「一日遊」「二日遊」「遊一日」「公儀ヨリ日ヲ選、拝ミ申。遊三日ノ事」などとある。また豊年祭の旗頭に「進神遊」(今帰仁村今泊)や「海神遊」とあり、その遊は休息日である。また祭祀は一般の人々の王府が決めた、今でいう「公休日」にあたる。祭祀は農耕暦であり、その祈りは護国豊穣、豊漁、国や村の安泰、航海安全など、国の税(上納)に関わり、祭祀は国の末端まで統治する手段である。祭祀を行う神人(特に首里王府から辞令)は首里王府から任命される国家公務員である。そのことはつとに述べてきた。(以下のことを年頭に入れて特に山原の歴史やムラ・シマを見ていく必要がありそう)

 『大宜味村経済厚生計画』(昭和9年度)の「郷土行事」について以下のように記してある。
 郷土行事行事は以下の通り之を統一しこれを公休日と定め下記項目を厳守するものとす
 行事は本来の目的を明らかにし可成簡素に之を行い慰安休養の域に止ること
 行事に人を招待せむるとする時は可成り其の範囲を狭め且つ相互の贈答を廃すること

 ・1月  旧12月8日 鬼餅
 ・2月  旧正月元旦より3日まで生年祝、旧16日墓参り、新11日紀元節
 ・3月  旧2月彼岸、各小学校卒業式
 ・4月  旧3月3日、節句、清明祭、天長節
 ・5月  旧4月畦畔払
 ・6月  旧五月ウマチー(旧十五日) 春季原山勝負差分式 畜牛 芭蕉布品評会
 ・7月  旧六月二十五日の節句
 ・8月  旧七月七夕 盆祭 海神祭
 ・9月  旧8月10日の折目
 ・10月 種モミの折目
 ・11月 種取の折目
 ・12月 13日村の戦死者招魂祭、秋季原山勝負各種品評会


2016年9月8日(木)

 「大宜味村史」移民出稼ぎ専門部会が琉球大学移研究センターであり出席する。その前に沖縄市史のインヌミ収容所の展示を見せていただいた。外地引揚者の話を伺っていると久場崎やインヌミで一時収容所のことが出てくる。故父の話の中で「戦後引きあげのとき、久場崎で収容され今帰仁に帰ってきた」話は聞いていた。原爆投下された直後の広島や長崎を通ってきたことも。「うそだろ」と。私が育った家に大阪から引き揚げたときに持ってきたというタンスやボタンの花の掛け軸、それと手当用の薬やハサミ、医学書などがあった。多くものは廃棄してきたという。タンスなど持ってこれるわけがないと頭から否定してきた。

 2017年5月18日に以下の文章を紹介したことがある。戦前・戦中・戦後を生き抜き抜いた人物(追想)

 私(父武一)も腕に技術がなかったので、幸い田口の大地主である奥野章治さん(大阪府庁職員)の土地を三千坪と田(下村さん)三百坪を借り小作したので生活して行けるようになっていたが、県人が沖縄に帰れるようになったので、母照子がどうしても帰るとのことでやむを得ず帰ることに決めたが、その前に武二が復員して来たので、私の職場に働かすようにしたが、それぞれ仕事をさがすようにつとめたが、武二は私が小作していた土地を耕作するようにして自分は財務整理し退職して帰郷した。それは昭和二十一年十二月二十六日で、久場崎に上陸した。二、三日久場崎にいてトラックで今帰仁の吾が生まれ村に帰ってきたのであるが、本土で聞いたように玉砕と聞いていたのに殆どが生存していたので驚いた。わが家では伯父の次郎のみが死亡(戦死)し、皆元気であったので喜びあった。

 職員にインヌミと久場崎の説明、そして荷揚げの場面の様子の説明をうける。家にあったタンスや牡丹の花の掛け軸や医学書や医療器具(薬や注射器やガーゼをとるピンセットなど)が引き揚げのときに大阪から持ってきたものだと納得。引き揚げ名簿に記録があるかもしれない。母が看護婦をしていたこともあって、優先して乗船できたのかもしれない。乗船は佐世保だと聞いている。

 胸につかえていたものがとれました。説明してくれた泊さんありがとさん。間もなくやってくる父の13年忌と母の三回忌に報告ができます。

  
▲助産婦教育所卒業の頃▲吹田病院時代(22歳)▲この家の頃までタンスや医療器具などがあった(昭和47年)

 
   ▲インヌミと久場崎の説明をうける           ▲荷物の引き揚げの様子 


2016年9月8日(木)

 今月下旬、数本の講演や講座、地域紹介がある。レジメはこれから。体調が悪いとは言っておれません。しかし、薬の副作用のため、顔面の腫れとかゆみ、それと眠気には勝てませんね。三本は国頭地方(現国頭村と大宜味村)の歴史とムラ・シマをベースにしたテーマでお願いされている。2008年3月1日(土)の調査メモを軸にしながら話すことに。今月の講演は講座などをすますと、国頭地方の拠点となった根謝銘(ウイ)について、まとめることに。近世の国頭地方の間切の上納物を掲げ、祭祀の中心となっていたノロ、ノロ家の遺品などから歴史の重みと目に見えない豊かさに気づいていてもらいたい。『大宜味村史 シマジマ』(本編)が発刊(374頁)されました。(販売は遅れるようです)

【国頭間切と両惣地頭家】

 国頭間切と羽地間切の村を分割して大宜味間切が創設される以前の国頭間切の間切番所はどこだったのか。大宜味間切分割後の間切番所は浜村→奥間村へ移動している。分割以前は城村、あるいは根謝銘グスクのある根謝銘村だったのか。それとも、大宜味間切分割以前から根謝銘グスクの麓を流れる屋嘉比川下流域の浜村だったのか。『国頭村史』(宮城栄昌著)で「国頭間切の番所は、1673年の田港間切成立のときまで城村にあったであろう」と。

 国頭按司や国頭親方などを拾ってみる。以下のことを踏まえて国頭按司(琉球)と薩摩との関係もあるが、国頭間切と地頭家との関わりに踏み込めたらと。

国頭御殿(按司地頭家)(王族以外で明治まで残ったただ一つの按司家)
 
 ・国頭按司の始祖は不明。
 ・国頭親方正胤(元祖:馬氏大宗)…奥間加治屋の次男
 ・二世国頭親方正鑑…父子ともに功積あり。
 ・三世国頭按司正格…1537年尚元王が大島遠征中に病気になり正格が身替りとなり按司の位を贈られる。
 ・四世国頭按司似竜…父の功績で位をもらう。(国頭正教)
 ・五世国頭按司正影
 ・六世国頭按司正弥…島津の琉球侵攻後、国質として薩摩に滞在。島津家久から国頭左馬頭の称号をを賜り、
  太刀など武具を与えらえ、大阪夏の陣に従軍。戦は終わっていたという。1632年に再び年頭使として薩摩に
  赴いている。
 ・1644年(順治1) 国頭王子正則 謝恩使(尚賢襲封)で江戸上り。
 ・1653年(順治10) 国頭王子正則 慶賀使(家綱襲職)で江戸上り。
 ・七世国頭按司正則…島津光久の信頼が厚く薩摩との交渉にあたる。羽地朝秀と対立。
   西森ノ御イベ(下儀保村)は1657年国頭王子正則が島津光久の厄難を消すために創建(『琉球国由来記』)。
   首里の国頭御殿は、その近くにある。異国奉行(廃官:旧記)。
 ・八世新城按司正陳
 ・八世国頭按司正美
 ・国頭王子総大は道光29年(1849)に謝恩で薩州へ赴いている。
 ・国頭按司正全の家録高は250石、物成82石(明治6年)の『琉球藩雑記』)
 ・国頭按司は奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・国頭家には家久からの拝領品(各画・鎧・甲などが保存されていたという(沖縄戦で焼失)。

国頭親方(親方地頭家?国頭殿内)

 ・国頭親方朝致→五世国頭親方朝季(三司官)→六世国頭親方朝治→七世国頭親方朝茲→八世大宜見親方朝楷
  朝致は中国への進貢を二年一貢を陳情し許される。福州で客死。
 ・国頭親方先元(呉氏大宗:川上家)尚元王代
 ・二世国頭親方先次(尚寧王代に三司官となる)
 ・国頭親雲上憲宜(嘉靖?国頭地頭職兼大島奉行)(蘇氏)
 ・国頭親方景明→浦添親方(嘉靖38:1559年〜隆慶元年:1567まで久米島へ流される)(和氏)
 ・国頭親方盛順(嘉靖年間三司官)正徳6年生〜万暦8年没:翁姓)(尚元王代に三司官)
 ・国頭親方盛埋(万暦2年:1574)国頭間切惣地頭職となる。1580年に三司官となる。
 ・国頭親雲上盛許(豊見城家:国頭御殿十六世)
 ・国頭親雲上盛乗(十七世のとき、琉球処分となる)の家録30石、物成9石、作得27石(『琉球藩雑記』)。

 ・国頭親方は国頭按司同様奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 
・国頭親方家は首里の大中にある(首里古地図)。

 ・「浦継御門の南のひのもん」の世あすたべ三人の一人に「くにかミの大やくもいしおたるかね」
    (国頭大臣塩太良加禰)(1546年)
 ・浦添城の前の碑文の「くにかミの大やくもい」は国頭按司正教?

 【国頭間切と両惣地頭家】

 国頭間切と羽地間切の村を分割して大宜味間切が創設される以前の国頭間切の間切番所はどこだったのか。大宜味間切分割後の間切番所は浜村→奥間村へ移動している。分割以前は城村、あるいは根謝銘グスクのある根謝銘村だったのか。それとも、大宜味間切分割以前から根謝銘グスクの麓を流れる屋嘉比川下流域の浜村だったのか。『国頭村史』(宮城栄昌著)で「国頭間切の番所は、1673年の田港間切成立のときまで城村にあったであろう」と。

 国頭按司や国頭親方などを拾ってみる。以下のことを踏まえて国頭按司(琉球)と薩摩との関係もあるが、国頭間切と地頭家との関わりに踏み込めたらと。

国頭御殿(按司地頭家)(王族以外で明治まで残ったただ一つの按司家) 

 ・国頭按司の始祖は不明。
 ・国頭親方正胤(元祖:馬氏大宗)…奥間加治屋の次男
 ・二世国頭親方正鑑…父子ともに功積あり。
 ・三世国頭按司正格…1537年尚元王が大島遠征中に病気になり正格が身替りとなり按司の位を贈られる。
 ・四世国頭按司似竜…父の功績で位をもらう。(国頭正教)
 ・五世国頭按司正影
 ・六世国頭按司正弥…島津の琉球侵攻後、国質として薩摩に滞在。島津家久から国頭左馬頭の称号をを賜り、
  太刀など武具を与えらえ、大阪夏の陣に従軍。戦は終わっていたという。1632年に再び年頭使として薩摩に
  赴いている。
 ・1644年(順治1) 国頭王子正則 謝恩使(尚賢襲封)で江戸上り。
 ・1653年(順治10) 国頭王子正則 慶賀使(家綱襲職)で江戸上り。
 ・七世国頭按司正則…島津光久の信頼が厚く薩摩との交渉にあたる。羽地朝秀と対立。
   西森ノ御イベ(下儀保村)は1657年国頭王子正則が島津光久の厄難を消すために創建(『琉球国由来記』)。
   首里の国頭御殿は、その近くにある。異国奉行(廃官:旧記)。
 ・八世新城按司正陳
 ・八世国頭按司正美
 ・国頭王子総大は道光29年(1849)に謝恩で薩州へ赴いている。
 ・国頭按司正全の家録高は250石、物成82石(明治6年)の『琉球藩雑記』)
 ・国頭按司は奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・国頭家には家久からの拝領品(各画・鎧・甲などが保存されていたという(沖縄戦で焼失)。

国頭親方(親方地頭家?国頭殿内)

 ・国頭親方朝致→五世国頭親方朝季(三司官)→六世国頭親方朝治→七世国頭親方朝茲→八世大宜見親方朝楷
  朝致は中国への進貢を二年一貢を陳情し許される。福州で客死。
 ・国頭親方先元(呉氏大宗:川上家)尚元王代
 ・二世国頭親方先次(尚寧王代に三司官となる)
 ・国頭親雲上憲宜(嘉靖?国頭地頭職兼大島奉行)(蘇氏)
 ・国頭親方景明→浦添親方(嘉靖38:1559年〜隆慶元年:1567まで久米島へ流される)(和氏)
 ・国頭親方盛順(嘉靖年間三司官)正徳6年生〜万暦8年没:翁姓)(尚元王代に三司官)
 ・国頭親方盛埋(万暦2年:1574)国頭間切惣地頭職となる。1580年に三司官となる。
 ・国頭親雲上盛許(豊見城家:国頭御殿十六世)
 ・国頭親雲上盛乗(十七世のとき、琉球処分となる)の家録30石、物成9石、作得27石(『琉球藩雑記』)。

 ・国頭親方は国頭按司同様奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 
・国頭親方家は首里の大中にある(首里古地図)。

 ・「浦継御門の南のひのもん」の世あすたべ三人の一人に「くにかミの大やくもいしおたるかね」
    (国頭大臣塩太良加禰)(1546年)
 ・浦添城の前の碑文の「くにかミの大やくもい」は国頭按司正教?
 ・
 1667年羽地朝秀(向象賢)は、按司地頭と惣地頭は年に一日、脇地頭は二日に限って使役させることした。また従来按司地頭と惣地頭は領内から忰者(コモノ)を五、六十人、脇地頭は十人から二十人を使用していたのを、按司衆は十三人、親方部は十二人、以下位階に応じて減らすこととした。御歳暮の礼として三司官などに贈っていた猪二枝やからかみ一手などを禁止した。
 
 以前紹介した石香炉と石灯篭である。それらの香炉や石灯篭は国頭按司や国頭親方と関わるものではないかと見ている。ただ、下にある国頭王子正秀が国頭御殿の国頭按司(王子)にみられないが『中山世譜』(附巻六)に「馬氏国頭按司正秀。(道光22:1842)七月十一日。薩州に到り。九月二十七日に国に帰る」とあり、その時は按司である。同人は道光29年(1849)に佛夷(フランス)が来たので使いとして薩州に王子として派遣されている。その時の寄進ではないか。船三隻が運天港に到着しているので道光26年(1846)の出来事のことか。馬氏国頭王子正秀は咸豊9年(1859)にも太守公の継統の大典の祝賀で特別に派遣されている(その頃のことは整理が必要なり)

【国頭村比地の石香炉と石灯籠】

 1849年福寧府に漂着した国頭船には五人があ乗り組んでいた。そこで救□を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し確認困難)。また中の宮の香炉の一基に道光29年9月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。
 びんの嶽の石香炉の一つに道光29年9月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のものである。






【国頭村辺戸の石灯篭と石の香炉】


【国頭村奥の石灯篭と石の香炉】


 ※奥に拝所が二ヶ所にある。ミヤギムイとウプウガミである。ミヤギムイ(ウガミグヮー)は
  マハハの女神、ウプウガミはイビサトヌシの男神を祀っているという。両者をあわせてシリ
  グチヌウタキともいうようである。二つのウタキのイベに5基づつの香炉が置かれていたと
  いう(『沖縄民俗』(奥部落調査:1965年)。
    道光二九年(1849)玉城某 奉寄進(両ウガミにある)
    咸豊九年(1859)宮城某 奉寄進(マハハにある)


 8月下旬から体調を体調を崩しています。とうとう人前に出られない顔面となっています。もうしばらき続きそう。そうは言っておれない状況。9月4日(日)の晩からPCに向かうことができるかな?

     (休眠中です)


2016年8月31日(水)

2004.11.24(水)に神アサギについて以下のように報告している。これまでの調査を踏まえ書き改めるが、「ムラ・シマ」を歴史的に見ていく上で歴史的変遷で祭祀は変化しにくい部分をになっている。特に『琉球国由来記』(1713年)から300年余ムラ・シマの中で継続されていること。そのことと、分布する領域を神アサギ文化圏と位置付けている所以である。

1.はじめに
2.神アサギの形態と分布
3.『琉球国由来記』(1713年)に見る神アサギ(アシアゲ)
4.祭祀と神人の位置付け
5.祭祀から見たムラ・シマ
6.おわりに

1.はじめに

 ここ何年か「山原のムラ・シマ」を歴史や祭祀、あるいは神アサギや御嶽や集落の呼称など様々なキーワードでみてきた。今回は神アサギと祭祀を中心にムラ・シマを見ていく。沖縄の歴史や文化を大きく三つの柱と見ることができる。一つは沖縄(琉球)の人たちが本質的に持っているもの。二つ目にグスクから発掘される大量の中国製の陶磁器類から中国のもの。そして三つ目は言葉や鉄など日本からのもの。神人、神人が関わる祭祀、そして御嶽は琉球の人たちが持っている本質的なものを知る手がかりになるものではないか。神アサギや祭祀を通してみていくことにする。

2.神アサギの形態と分布

イ.神アサギの形態
 神アサギは地域によってアシャギやハサギと呼んでいる。その呼称から「屋根に足をつけてあげる」ことに由来するとか、「神にご馳走(アシ)をあげる場所」だからという。久志の汀間や大浦や瀬嵩などの神アサギはかつて海浜や潮がくる場所にあったことから「足上げ」だと解しているようである。呼称が必ずしも機能を言い当ててない場合がある。

 神アサギが果たしている役目から見ると、まず祭祀空間であること。そのことは間違いなさそうである。たとえば、山原のグスクやウタキ内にある神アサギは祭祀空間としての施設である。集落内のアサギマーにある神アサギは、祭祀空間と穀物の集積場所である。久志の汀間などの例は、貢租の穀物などの運搬に便利な水辺の場所に設置したと見た方がよさそうである。

 神アサギが祭祀空間として見られるのは、例えば国頭村安波や根謝名グスクや親川クスク、名護グスク、そして大正時代まであった今帰仁グスクの中の神アサギ。グスク内の神アサギを貢租の集積する場所とするには大変な労力を必要とする。そういう神アサギは祭祀空間の場、集落の中心部や川辺や海岸に近い神アサギは祭祀空間でもあるが、穀物の集積場所としての利用もあったのでではなか。そのため「集積場所」と言われているのかもしれない。

ロ.神アサギの分布(分布図略)
 まず、『琉球国由来記』(1713年)から神アシアゲ(アサギ)の分布をみる。山原地域に神アサギ、中南部には殿(トゥン)が分布するのは何故か。そして恩納間切では神アサギと殿が共存している。恩納間切の谷茶村まで金武間切のうち、富着村以南は読谷山間切のうち。富着・山田・真栄田・塩屋に神アサギがある、あるいはかつてあったことが知れる。恩納間切の南側の村も北山の影響を受けている可能性が強い。

3.『琉球国由来記』(1713年)に見る神アサギ(アシアゲ)

 1713年頃の山原の村と神アサギを整理したみた。中には神アサギを持っていない村がある。そこは村の歴史を辿ることで見えてくる。その中の大宜味間切の11村の内神アサギがあるのは5となっているが、神アサギがなかったのではなく脱漏であることがわかる。

・恩納間切(8村中7) 
   @恩納村 A真栄田村 B読谷山村(山田) C富着村 D瀬良垣村
   E安富祖村 F名嘉真村 G前兼久村

・金武間切(6村のうち6)
   @金武村 A漢那村 B惣慶村 C宜野座村 D伊芸村 E屋嘉村

・久志間切(11村のうち10)
   @久志村 A辺野古村 B古知屋村 C瀬嵩村 D汀間村 E嘉陽村
   F天仁屋村 G有銘村 H慶佐次村 I大浦村 J安部村 

・名護間切(11村のうち11)
   @名護村 A喜瀬村 B幸喜村 C許田村 D数久田村 E世冨慶村
   F宮里村 G屋部村 H宇茂佐村 I安和村 J山入端村 

・本部間切(15村のうち13)
   @伊野波村 A具志川村 B渡久地村 C伊豆味村 D天底村
   E嘉津宇村 F具志堅村 G備瀬村 H浦崎村 I謝花村
   J辺名地村 K石嘉波  L瀬底村 M崎本部村 N健堅村

・今帰仁間切(18村のうち20)(1はグスク内)
  @今帰仁村 A親泊村 B志慶真村 C兼次村 D諸喜田村 
  E与那嶺村 F崎山村 G中城村 H平敷(識)村 I謝名村 
  J中(仲)宗根村 K玉城村 L岸本村 M寒水村 N勢理客村 
  O上運天村 P運天村 Q郡村

羽地間切(18村のうち18)
  @瀬洲村 A源河村 B真喜屋村 C中(仲)尾次村 D川上村 
  E中(仲)尾村 F田井等村 G伊指(佐)川村 H我部祖河村 
  I古我知村 J振慶名村 K呉我村 L我部村 M屋我村 
  N饒辺名村 O済井出村 P谷田村 Q松田村

・大宜味間切(11村のうち5)
  @城村 A根謝銘村 B喜如嘉村 C大宜味村 D田湊(港)村 
  E塩屋村 F津波村 G平南村 H平良村 I屋古前田村 J川田村

・国頭間切(16村のうち15)
  @比地村 A奥間村 B浜村 C親田村 D屋嘉比村 E見里村 
  F辺土名村 G与那村 H辺戸村 I安波村 J安田村 K宇良村 
  L伊地村 M謝敷村 N佐手村 O辺野喜村

国頭間切・大宜味間切・羽地間切・今帰仁間切・本部間切・名護間切・久志間切・金武間切・恩納間切の村数106あり、神アサギは106村のうち98村にある。ただし、一つの村に二つの神アサギがある場合もある。羽地間切真喜屋、今帰仁間切今帰仁村はグスク内の神アサギがある。

『琉球国由来記』(1713年)における山原の神アサギ98、現在の神アサギ数は118近くある(ただし、戦前や明治17年頃にあった神アサギ含む)。現在の神アサギ数を確認してみる。

今帰仁村……………………………20(湧川の奥間アサギ1含まず)
  本部町………………………………15
  旧名護町(現在名護市)……………11
  旧久志村……………………………9(間部1含む)
  東 村……………………………… 5(宮城1含む)
  旧羽地村……………………………18(統合した4含む)
  大宜味村……………………………10(統合した3含む)
  国頭村………………………………16(楚洲1含まず)
  恩納村………………………………7(真栄田と山田2含む)
  金武町………………………………3(屋嘉・伊芸・金武以前の含む)
  宜野座村……………………………4                                                      
               (現在の神アサギ合計118)

4.祭祀と神人の位置付け

 祭祀を首里王府との関係で租税を納める、租税をとる関係で捕らえることができないか。つまり、祭祀は祭祀に名付けた休息日と。神人は公務員と位置づけて祭祀をみる視点が必要ではないか。

 神人の祈りを聞いていると、五穀豊穣・村の繁盛、そして航海安全である。それを神人の基本的な三つの祈りというようになっている。その三つの祈りは神人のプライベートの祈りではなく、ムラ全体、ムラの人々の祈願でもある。もちろん神人が家庭に戻ると位牌や火神に手を合わせて祈りをする。それはプライベートや一門の祈りである。御嶽や祭祀場における神人の祈りは、公の祈りである。その勤めをする神人を公務員位置づけている。
 神職を務めている間ノロさんはノロ地、他の神役の神人達も畑などの土地の配分を受けていたであろう。掟は掟地と呼ばれる土地がある。掟の役職を務めている間、その土地を授かっていたのであろう。

5.祭祀から見たムラ・シマ

 『琉球国由来記』(1713年)の祭祀のところで、気になったのは百姓やおえか人(間切役人)は地方にいるので、関わる村の祭祀に参加する。もちろんノロや神人は参加する。その中で首里に居住しているはずの按司地頭や惣地頭や地頭(脇地頭)の祭祀への参加がある。

 脇地頭はかかえ村への参加となろう。按司地頭と惣地頭はどこの村に出席するのか。例えば、恩納間切では城内(恩納村)の殿と神アシアゲでの祭祀に両惣地頭が参加している。金武間切では金武ノロ火神(金武村)と金武神アシアゲでの祭祀に両惣地頭が参加。

 名護間切では名護ノロ火神と名護城神アシアゲに惣地頭、本部間切は伊野波村のカナヒヤ森の祭祀に惣地頭が参加する。今帰仁間切の場合は今帰仁グスク内の里主所や城内の神アシアゲに按司、惣地頭が関わる。『琉球国由来記』では今帰仁ノロや百姓やオエカ人、今帰仁ノロとトモノカネノロの参加もある。

 羽地間切は中尾神アシアゲや池城神アシアゲに惣地頭が参加。久志間切は久志村の神アシアゲ、大宜味間切では城ノロ火神に按司と惣地頭が参加する。さらに喜如嘉村の神アシアゲや田港ノロ火神やウンガミにも参加。国頭間切では奥間村神アシアゲに両惣地頭が参加している。

 惣地頭や按司地頭クラスは間切の主村の祭祀と関わるのは興味深い。惣地頭や按司地頭は間切から作得を得ていたので祭祀に参加、あるいはかかわりを持っていたのであろう。

  ・村(ムラ)の祭祀を首里王府との関係でみる。
  ・祭祀を司るノロをはじめ神人は公務員である。
  ・神人の祈りは五穀豊穣・ムラの繁盛・航海安全(豊漁)が主である。
  ・祭祀は「神遊び」といわれるように村人の休息日である。
  ・神人の祈りは国の貢租に関わるものである。


6.おわりに

 神アサギの分布は沖縄の歴史の三山の時代の北山の範囲と重なる。「北山文化圏」のキーワードになったのが神アサギの分布であった。中南部には以下の12の神アサギがある。山原の神アサギと数少ない中南部の神アサギとの関係をどう説明するのか。二つの仮説を立てている。・・・

   @越来間切の大工廻神アシアゲ(大工廻村)
   A兼城間切神アシアゲ(波平村)
   B高嶺間切神アシアゲノ殿(真栄里村)
   C真壁間切神アシアゲ(名嘉真村)
   D真壁間切神アシアゲ(新垣村)
   E真壁間切神アシアゲ(真栄平村)
   F真壁間切真栄平アシアゲ(真栄平村)
   G喜屋武間切神アシアゲ(上里村)
   H南風原間切神アシアゲ之殿(照屋村)
   I知念間切神アシアゲ(安坐真村)
   J玉城間切神アシアゲ(奥武村)
   K西原間切翁長神アシアゲ(翁長村) 

 恩納間切の富着以南は読谷山間切、中山の間切の村である。その村に神アサギがあるのは? 何か示唆しているようである。上の12の神アサギ同様。二つの仮説も一つに絞れるかも。もう少し資料を踏まえて考えてみることに。


2016年8月29日(月

 昨日の午後、積み残してあった名護間切域(名護市の一部、旧名護町)の神アサギ(ムラ)を踏査する。汗をかくと
ウルシでかぶれた顔中が真っ赤になる。それでも楽しい発見がある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる村の神アシャゲ(以下神アサギと記す)は以下の通りである。踏査した順。『琉球国由来記』(1713年)に記されて神アシアゲ(アサギ)の総てが残っている。以前紹介したことがあるが、名護城(ナングスク)にはウタキ(後にグスク?)を構成する要素を確認することができる。ウタキ(グスク)内にウタキのイベ、カー、旧家跡、ノロドゥンチ、スイドゥンチ、根神屋などがある。

 名護城神アサギの海神祭のとき、名護巫・屋部巫・喜瀬巫が名護城内の神アサギに揃っての祭祀である。羽地間切の池城神アサギ(羽地城内の神アサギである)での祭祀(海神祭)も名護城内の神アサギと同様、羽地間切の仲尾巫・真喜屋巫・屋我巫・我部巫・我部巫・伊差川巫・源河巫・トモノカネノロが揃っての祭祀である。ところが、1666年に今帰仁間切と伊野波(本部)間切に分割、1673年に国頭間切が国頭間切と田港(大宜味)間切に分割したところでは間切の全ノロが集まっての海神祭(ウンジャミ・ウンガミ)・大折目(ウプユミ)がない。
 
@宮里村の神アサギ)
A宇茂佐村の神アサギ
B屋部村の神アサギ
C山入端村の神アサギ(1736年の移動村)
D安和村の神アサギ
E世冨慶村の神アサギ
F数久田村の神アサギ
G許田村の神アサギ
H幸喜村の神アサギ
I喜瀬村の神アサギ
J名護城の神アサギ

【名護村と三つの村】(東江・城・大兼久)


  ▲名護が「那五」と記した『海東諸国紀』(1472年)       ▲名護市の全域(『名護市史』より)

 
▲名護村(ムラ)が東江・城・大兼久の三か村が創設される ▲大正末頃の名護三ヶ(『共産村落之研究』


『絵図郷村帳』(1646年)の「名護間切名護村、かねく村(当時無之) 城村(当時無之)」とあるが、「当時無之」をどう解するかで、村の成り立ちの実態が大分違ってくる。それと「間切村名尽」が『琉球資料三〇と三二』にある(『那覇市史』(琉球資料上所収)。資料三〇には出てこないが、三二に「東江村・大兼久村・城むら」と出てくる。前者に今帰仁間切湧川村(1738年創設)は出てこないが、後者には出てくる。すると「名護間切の東江村と大兼久村と城村」が行政村になったのは、その頃とみてよさそうである。行政村にはなったのであるが、神アサギの創設や祭祀の分離は行われていない。そこでも祭祀は強固であるとの法則が見出される。

 『琉球国由来記』(1713年)の名護間切に、以下の三ヶ所が出てくる。
   テンツギノ嶽       名護村
   名護巫火神      名護村
   名護城神アシアゲ  名護村】

 『絵図郷村帳』に「城村」と「かねく村」は「当時無之」として登場する。その後の『琉球国高究帳』には「名護村」のみ出てくる。「当時無之」は『絵図郷村帳』の時には「城村」と「かねく村」は、行政村としてなかったと解すべきか。『絵図郷村帳』はそれらの村が存在した頃に編集されたと見るべきか。「当時無之」をどう解するかで、行政の名護村の変遷に大きく影響してくる。

 「御当国御高並諸上納里積記」(1743年頃か)には、名護間切の村は世富慶村・名護村・喜瀬村・幸喜村・許田村・安和村・宇茂佐村・屋部村・山入端村・宮里村・数久田村の11ヶ村である。前回のムラ・シマ講座で行った羽地間切の田井等村は登場するが親川村はまだ出てこない。分村する前の資料である。

 『沖縄県統計慨表』(明治13年)を見ると、名護間切の村は13ヶ村が登場する。新しく出てきた村は城村と東江村と大兼久村の三ヶ村である。そこで名護村が消えている。流れから見ると名護村が東江・城・大兼久の三つの集落となり、それが行政村になったと見られる。

 明治13年当時の東江村は147世帯(人口697人)、城村は80世帯(人口497人)、大兼久村は201世帯(1016人)である。他の地域の村規模と比較すると名護村は大規模な村であったことがわかる。分村した大兼久村と東江村も大規模な村である。

 名護グスクの麓に展開していた名護村が三つの村に分かれるが、行政村として独立した村の祭祀はどうなっていったであろうか。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年)を見ると、名護間切は城村しか出てこない。名護城嶽と神アシアゲとのみ登場。東江村と大兼久村に神アサギを造らなかったのはなぜか。羽地間切の田井等村から親川村が分かれたが、祭祀は一緒に行っているのと同様なものか。そのあたり、名護村から分れた城・東江・大兼久の集落が行政村となり、再び名護村に統合されていく過程を丁寧にみていくことにする。行政村になっていく過程で祭祀や土地制度や低地の仕明など、複雑に絡んでいるようである。



 
▲「名護町先住地及び移住地図」(大正の頃)
         『琉球共産村落之研究』(田村浩著)所収


【名護村の行政村としての変遷】

  
 ▲名護グスク(ウタキ)周辺の集落が発達して移動(16世紀頃からか) ▲1738年頃〜明治36年(行政村として成立)


   
▲明治36年に三つの村が統合して再び名護村


【名護グスク(ウタキ)を中心とした祭祀】

 名護間切には「名護のろくもい」と「屋部のろくもい」と「喜瀬のろくもい」の三名。ノロが保有していたノロ地は一町歩内外。(一町は3000坪、一畝は300坪)(一石は約150kg)

  ・名護のろくもい(東江・城・大兼久・数久田・世富慶・宮里)
     作得 米二石四斗三升一合四勺

  ・喜瀬のろくもい(喜瀬・幸喜・許田)
     作得 米一石六斗八升八合

  ・屋部のろくもい(宇茂佐・屋部・山入端・安和)
     作得 米二石四斗一合五勺二才
        雑穀   七升四合二勺五才 

【名護グスク内の拝所など】

  
 
 ▲名護グスクの遠景                ▲名護グスク内への道          ▲グスク内にあるの神アサギ

   
    
      ▲名護グスクグスク(ウタキ)のイベ             ▲名護神社の神殿の側のカー 

【名護グスク周辺の拝所】

 
           
▲ノロの火神を神殿と拝殿にしたという(昭和4年)             ▲名護ヌルドゥンチ跡

 
     
 ▲イジグチ                  ▲名幸祠一門の拝所         ▲プスミヤー跡                       
 
 
    
▲ニガミヤーの跡地                 ▲ウッチガミヤー跡

名護間切(現名護市)の神アサギ(現在2016.8.21))

  
     @宮里の神アサギ          A宇茂佐の神アサギ      B屋部の神アサギ    
    、


  
  C山入端の神アサギ             D安和の神アサギ            E世冨慶の神アサギ

  
      F数久田の神アサギ             H幸喜の神アサギ           I喜瀬の神アサギ



   J名護城内の神アサギ

2016年8月28日(

伊江島の大折目とシニグ
は2008年と2013年にまとめたものである。大折目とシニグは同月に別々に行っている。シニグは、いろいろな作物につく虫払い、荒の浜で虫を流す所作がある。国頭村の北側の村でシニグとウンガミを隔年に行っている理由がわかりそうである。また、他の村での大折目やウンガミの中に不浄なものを海への「流れ」の所作があり、ウミガミや大折目に統合しれいる様子がみえる。


伊江島の大折目・シニグ

 伊江島の「年中祭祀」は『琉球国由来記』(1713年)で他とは異なった記述となっている。例えば、芋折目は正月(一月)である。伊江島には村(ムラ)がなく島全体が一つになって祭祀を行っている。大ノロ、東ノロ、佐辺ノロ、中ノロ、大水ノロがいて、公儀の御祈願を行っている。本島側のノロは、一村、あるいは複数の村の祭祀を管轄するが、伊江島では明確な村区分がなされていないため、『琉球由来記』(1713年)では村別の記載がなされていない。東ノロ、西ノロは拝む場所があるようだ。

 明治8、9年頃には五ヶ村になっているようなので、その五ヶ村と五名のノロの関係、そして各ノロが管轄する村と祭祀場の確認ができるのではないか。
   東江が東江上と東江前、西江が西江上と西江前、川平を合わせて五ヶ村のようである。昭和18年に馬場以南を阿良、昭和22年に真謝(西江上から)、西崎は西江前から分離。明治以前までは@東江村 A西江村 B川平村の三ヶ村。その三ヶ村と祭祀の関係、さらに五名のノロと土地保有(ノロ地)の配置が、おぼろげながらでも見えてきたらいいのだが。伊江大ノロは伊江按司の息女を任命して伊江島に派遣しているので、三十三君クラスの一人とみていい。 

 @東ノロ A佐辺ノロ B中ノロ C大水ノロは村クラスのノロ、大ノロはそれらのノロの上に位置づけてよさそうである。伊是名のアンガナシや久米島のチンベーなどのクラス。大ノロが関わる祭祀は三月と八月の四度、四品御参りだったかもしれない。そこでの祈りは、首里王様の前の皆々様への祈りである。

    首里天加那志美御前、思子、御シデモノ、十百歳御加ホウ、唐・大和・宮古・八重山、又島々
    御遣ノ船、破風ヤスヤストアラチヘ、御タボイメショワレ。又島国ノ、御万人上下、ノウゴトモ、
    百ガホウノアルヤニ、見守メシヨワレ。デゝ

    御公儀ヨリノ御花、照大寺、権現、観音菩薩、両御前、並嶽々・ノロ火神前ヘ居テ、御タカベ。
    頭々・サバクリ中、ヲエカ人、朝衣八巻ニテ、嶽々・寺ニ、百度御物参、仕リ申也。

【伊江島の大折目】
(旧7月に日撰)

 ここで「大折目」について見てみる。この「大折目」は三日間にわたって行われる祭祀である。

 七月日を撰んで行われる。いろいろな作物の為の祈願、大折目という。拝む場所は根所の
 火神前。ノロ・掟神が御タカベ(祈り)を朝から晩まで根所を回る。一日遊び。百姓も同じく
 遊ぶ。

  次の日前スカンニヤ(庭)の根所へノロ、掟神が相揃い、神遊びをする。高一石ニ付、粟一勺、
    干魚ニ勺取り合い、粟神酒を作り、ノロ、掟神を仕り、島中の男女、総ぞろいし御拝をし、
    一日遊ぶ。

  三日目 根所、富里庭、城庭、城庭の両所、ノロ、掟神が揃って神遊びをする。この時、高一石
  につき、粟一勺、干魚ニ勺づつ取り合い、粟で御神酒を作り、御馳走を仕る。これが三日目の折目、
  古くから伝わる。 

 それらの拝所の確認をすることに。
  一日目はニャーグニ(庭踏み)と呼ばれているようだ。
  二日目はメースィカンニャ
  三日目は大アタイという場所があり、午前10時頃になると馬がアタイの集まってくる。
        ノロが白装束の正装で集まり富里に向かって出発する。富里での祭祀。

下の「大折目」の画像は『伊江村史』所収より


  
 ▲ウプアンシャリ殿で     ▲正装したノロ       ▲メースィカンニャの殿

 
   
 ▲メースィカンニャでの所作               ▲メースィカンニャでの所作

 
    
 ▲ウパシャドゥにあった池                ▲後方にイイタッチュ(グスクウタキ)


【伊江島の祭祀】(『のろ調査資料』中山盛茂・富村真演・宮城栄昌共著

※の祭祀はノロが関わる
※・旧正月 二十日吉日御折目
    神人は各自担当の拝所(十二ヶ所)にえんどう豆二つ、ニンニク二つ、芋二つ、大根二本を備え、
    各作物の豊作を祈願する。
 ・旧二月 麦穂祭(男折目)現在なし。
※・旧三月 麦大祭
       唐豆、えん豆、麦入れの飯を供える。各家庭でも。
※・旧三月三日 ノロだけ、千人ガマ、宮てやがまを拝む。
 ・旧四月    畦払い、虫を海に流す。
※・旧五月  二十日後折目競馬
 ・旧六月 年浴 粟ご飯を供える。綱引き(現在なし)
※・旧七月 大折目(海神祭) 二十日以後の吉日
    第一日 神人たちは白装束ホールンチャゴイ(かづらを頭にまとう)し、斉戒淋浴して
         大船頭がなし
の家に集まり祈願、二手に分かれて各所に祈願して、グスクの
         御嶽
に集まり、東江上御嶽である富里(ヒサト)御嶽へ遥拝。次にメーシカン
         庭
に移り粟神酒を供える。
    第二日 神人たち、昼間飯(ヒルマムン)を持参してメーシカン庭に集まり、弓引きの行事
         をする。
    第三日 神人たちはフサト御嶽に集まる。
          フサト根神(山城氏)が神人達の接待にあたる。フサトで七つの行事を行い門中の
         若者の 牽く馬でグスク御嶽に駆け上がり、グスクの神に祈り、さらに東の方のフサト、
         今帰仁神を遥拝浜下りをなし、そこで行事を行う(舟の回りを七回まわる。ユー(魚)
         取りの所作
をする。
          以前はノロの五人だけが馬に乗った。全神人が参加する。
         住民は第一日目各門中ごとに祈願、三日目はノロたちの祭祀をみる。
  ・旧八月 柴差し
※・旧九月 初種子(ハチダニ)、小麦、大麦、唐豆、えん豆などを選ぶことから、豊作を祈る。各家庭
        でも節日を祝う。
※・旧十二月二十四日 星の御願い、かまどを塗りか火神をまつる。 解御願
     正月元旦 降天  立御願
 


【伊江島のシヌグ】

 伊江島のシヌグは『琉球国由来記』(1713年)で「大折目」(七月日撰三日間)の後に、それも日を撰ぶが「シノゴ折目」として行われる。
   日撰を以、シノゴ折目トテ、御タカベ仕ル。様子ハ、色々作物ノ品品ニ、虫不付タメノ願ニ、高
   一石ニ付キ、雑石二合完取合、御花・御五水・線香ニ仕替シ、城ノ頂ノ御イベ、同所伊江セ
   イノ御イベ
荒ノ浜御イベ・根所火神ヘ居テ、ノロ・掟神、御タカベ仕リ、万ズノ蟲取集、海ニ
   捨テ
、島中男女惣様、一日中遊申。昔ヨリ伝来テ仕ル也。


  城の頂の御イベ→伊江セイの御イベ→荒の浜→集落内の根所火神へいき、ノロ・掟神が御タカベを唱えながら、全ての虫を取り集め、海の方へ捨てる。その流れはシヌグ(凌ぐ)である。

 その様子を宮城真治氏は「宮城信治調査ノート」(昭和3年6月)でシニグは凌ぐであるとの認識で記録
 してある。

【シニグ祭】
   大ゆみの三日目後に行った。
   ウヒャーという男の神職が行う。
   東リンミャ(東りのろ殿内の庭)といりんミャー(中んノロ殿内の庭)とに集まり、シバといって、
   ヤブニッケイやアクチ(ムクタチバナ)の枝を持って悪鬼を追い払う。イッサンネービとて、東西
   各三人宛赤鉢巻をしたものが逃げてあるく。それは鬼であろう。
     ウヒャーは「エートーホー
              エートホー
            ウニジレー(鬼は出よ)
            トゥクワトドゥマリ(鬼は留まり)
            ウニジレー(鬼は出よ)
              エートーホー」
と唱える。ウシャパドモーまで追う。そこでもエートーホーをする。のろ等は、モーで見物する。
  ウシャパドモーの南なるヤイナギ屋敷という空き家敷に竹槍を投げる。
  東のミヤー人々はアラヌ浜に、イリヌミャーの人々はグシヌハマに行く。そこでかぶりもシバも捨てる。
 

 伊江島は沖縄本島北部にある島である。一島一村(ソン)である。伊江村には@東江上 A東江前 B西江上 C西江前 D川平 の五つの村(字)からなる。五村になるのは明治8年だという。それ以前は東江村、西江村と川平村の三村である。東伊江→東江、西伊江→西江、それぞれの「伊」が略されたという。

 伊江島の地頭代は西江親雲上で、地頭代の屋号は前西江親雲上で・・・メーリ(前の西)と呼ばれる。今帰仁間切の場合は地頭代をすると古宇利親雲上の授かり、屋号はメーフイヤー(前古宇利屋)と呼ばれるのと同様である。

 伊江島には・・・メーリの屋号は数多くある。佐辺メーリ(東江上)、島村メーリ(西江上)、野崎メーリ(西江前)、宮里メーリ(東江前)、永山メーリ(東江前)、川平メーリ(川平)、岸本メーリ(西江前)、島袋メーリ(川平)などである。廃藩置県後に地頭代をした家に名嘉元メーリ(川平)、野里メーリ(西江上)、儀間メーリ(東江上)、山城メーリ(東江前)などである。



2016年8月27日(土)

 沖縄本島北部の村のシニグについて整理してみる。与論島と沖永良部島のシニグと沖縄本島のシニグを比較してみる。沖縄本島北部の本部町や国頭村、そして与那城間切(現うるま市)東海岸の島々で、行われているシニグ。本部町でシニグが行われているが『琉球j国由来記』(1713年)で「大折目」や「大祭」や「海神折目」は記されているが、シノグは見られない。今帰仁間切でも「大折目」や「海神祭」とあるがシノグは祭祀名で登場しない。古宇利島ではウンジャミ(海神祭)が行われているが、『琉球国由来記』では「大折目」としかない。今帰仁城では毎年「大折目」「海神祭」として行われている。

 羽地間切では「海神折目」とあり、大宜味間切でも「海神折目」、名護間切と恩納間切と金武間切と久志間切では「大祭」としての祭祀名は出てくるが「シノグ(シヌグ)」は登場してこない。

 ところが、国頭間切の屋嘉比村、奥間村、比地村、奥間村、辺士名村、宇良村、伊地村、与那村、謝敷村、佐手村、辺野喜村では「海神祭」のみ。ところが、辺戸村と奥村と安田村と安波村では「海神祭」と「シノゴ」があり、二つの祭祀は「年越」とあり、各年ごとに行われている。

 『琉球国由来記』(1713年)にシノグの祭祀名がないのに本部町などのようにしっかりと行われている。シニグが大折目や海神祭に統合されているのではないか。そのことを示すのが国頭間切で海神祭とシノグが隔年に行われている事例である。

 与論島と沖永良部島のシヌグ(明治4年に廃止)と比較してみるとシヌグのシニグが他の祭祀に組み込まれたり、与論島と沖永良部島の薩摩の影響での変容などとの比較から、興味深い姿をみせてくれる。

国頭村安田のシニグ調査(2002年参照)



2008年12月12日(金)メモ(与論島)

 与論島をゆく。講演まで少し時間があったので島を踏査する。与論グスク(琴平神社・地主神社)、按司根根津江神社、磯武里墓(花城真三郎の墓)、大堂那太の伝承を持つ家、アマジョウ、船蔵など。それらは与論の歴史を述べる上で重要なキーワードである。現場を踏まえて話すかどうか、それは重要なことだと常に考えている。それとそこに掲げた人物を中心とした出来事が史実かどうかについて問うつもりはない。それらの人物をめぐっての出来事が与論島の方々がどう捉えているかに関心がある。興味深い話ができたと思っている。

 今朝もフェリー乗船まで時間があったので島を廻る。特に崖中腹の墓に惹かれたので三ヶ所と城・朝戸・西区あたりの集落を歩いてみた。朝戸集落に按司根津江と大道那太と関わる一族の拝所や墓、それと座元?家がある。島の方に「朝戸集落内の近い所に三つの家筋がありますが、中はいいのですか?」と質問をしてみた。「今は仲いいですが、祖父の時代は・・・?」と。それらと関わる方々を前にして話をするわけだから手ごわいことは覚悟で。話に登場する場所や人物についてしっかりと押さえておかないと・・・。講演の前に現場を確認していてよかった・・・。(冷や汗かくところでした)





 


2016年8月22日(月)

【謝名城のウンガミ】(8月21日旧盆明け最初の亥の日)
 午後2時頃から城ノロドゥンチからスタート。2013年8月25日(旧暦旧盆明けの亥日)参照。まずは、ウンガミの流れで報告。今回の調査の目的は、戦前の謝名グスクのウンガミを流れを把握し、それと現在行われている流れを押さえ、約100年でどう変貌しているかをまとめとする予定。それと『琉球国由来記』(1713年)で登場する按司や惣地頭がウンガミに参加していた痕跡は地頭火神に遺している。特に1700年代に記録されている神アシアゲ(アサギ)が300年経っても山原では現在でも9割も伝え遺していることの驚き。神アサギ文化圏やシニグ文化圏、山原文化圏と意を強くもって唱えているのは根謝銘(ウイ)グスク調査から得たものである。

    (詳細については別で報告)

【大宜味村謝名城のウンガミ調査】(2016年8月21日)
                              調査(仲原/河津(村史編纂室)
                              協力(前田国男氏、謝名城区) 

 
   ▲城ノロドゥンチの外形               ▲ノロドゥンチの内部

 
    ▲ノロドゥンチでのウガン                  ▲10組の線香が並べられる

 
  ▲カアカアを打つ中学生が来るとウイグスクヘ      ▲二つのニーズの前を通りグスク

   
  ▲中庭(古く馬や駕籠に乗ってきた痕跡が)      ▲ビジュルの側を通り神アサギへ

 
  ▲グスク内にある独特な建物の神アサギ       ▲まずは惣地頭火神でのウガン

  
 ▲大城嶽(イベ)に向かってのウガン     ▲ウタや舞などが行われるアサギマー   ▲山の物、海の物

(以下、アサギマーでの所作、追加あり)

 ノロドウンチのトバシリの10本の線香は、@天の神 A火神 B十二支の神 C杣山の神 D川の神 Eクガニマク Fユナハマク 
 Gユダヌマク Hニライカナイ I喜如嘉の七滝の神


 現在謝名城のウンガミは城のウンガミと呼ばれるように、明治36年に城・根謝銘・一名代が合併して謝名城となるが、祭祀は城村を中心に行われている。かつてはトバシリに置かれる線香のIの場所まで行ってウガンをしていたが、今では遥拝している。その痕跡として残っている。その様子は明治36年に合併した田嘉里。合併前の屋嘉比村で行われていたの祭祀のようすと類似している。


2016年8月21日(日)

 以下の情報を持って、田嘉里、謝名城のウンガミ調査へ。数日前からウルシ負けか顔中にかゆみが。時々、顔面赤くなり、はれた瞼は出目金状態。ボツボツ出発。忘れ物は? 午前中、田嘉里(屋嘉比村)のウンガミの調査、午後から謝名城のウンガミ調査をする。田嘉里のウンガミ調査の報告をする。謝名城の報告は明日にでも。

 現場を踏査から疑問に思っていたこと、机上の文字だけでは理解できないこと、新しい発見がいくつもあり、楽しいものである。帰りにはバンシル(グワバァ)を袋いっぱい、謝名城では山の物(シークヮサー)をいただく。近くの旧家を訪れると、北山の興亡で離散した一族だとされる家の祠を見せてもらう。北山の一統だとされる家である。歴史研究から排除されている分野であるが、その伝承をしっかりと継承している。そのことについては沖永良部島の北山の三男とされる歴史の流れと共通するものがある。


【大宜味村田嘉里(屋嘉比)のウンガミ調査】(午前中)

 午前10時から田嘉里のウンガミ調査。調査者:仲原/河津(大宜味村村史編纂室/動画撮影)

田嘉里の神アサギ内

 田嘉里の区長さんと書記さん(神人の参加者なし)調査者二人。
 @供え物 お神酒(泡盛:まるた/平線香/お米)
 (田嘉里神アサギ内で)
 Aウントウへ遥拝(山の神)
 Bウィークジへ遥拝(山の神)
 CD西に向かって遥拝(海の神)とウイグスクへの遥拝か
 E東に向かって遥拝(ニライカナイの神)

 (山口の祠の前:山口マーの前へ移動)

 区長が筵を敷いて線香・お酒を供えてウガンをする。
 区長さんが線香をたてお神酒(泡盛)を供える。その場にススキフーも置きウガンをする。
 区長さんがウガンをしている間に書記さんが山口の祠内(右奥)にあった前年のススキフーと
 新しいのと差し替える。
  (ススキフーに小石を挟んである。前もって準備がなされていた(7本)
  (山口の祠は隣の方が管理しているようだ。周りのゴミを燃やしている中に
   前年のススキフーは処理)(ススキフーに小石(サンゴウルか)を挟んであるのは興味深い。

 ここで田嘉里のウンガミは終わる。(唱えは、改めて教えていただくことに)
 
 
   ▲ウントウーとウィーククジへ遥拝          ▲二か所への線香

 
  ▲海とウイグスクへの遥拝?           ▲東に向かって遥拝
  
   ▲山口マーでのウガン         ▲ススキフーも供えてのウガン    ▲ススキフーは右奥へ
 
 ウンガミが終わる屋嘉比ノロドゥンチで簪のはいた竹筒の年号の確認とウイントーとウィクジの場所確認をする。ウントーは屋嘉比村の御嶽(ウタキ)である。大木が残り、左縄がめぐらされている。左縄内はウタキのイビにあたる。『琉球国由来記』(1713年)に屋嘉比村にトドロキノ嶽がある。ウイントーを案内されたとき、屋嘉比村のトドロキノ御嶽(うたき)か考えたが、もう一つ遥拝するウイクジがある。そこはサボウダム近くだと聞いていた。そこがトドロキノ嶽の可能性がたかい。ウィクジの所在は確認ができなかった。それが特定できれば、見里村の中城之嶽(根謝銘グスク内)などの関係がみえてくる。

 田嘉里のウンガミから、以前行われていたウンガミの様子がみえてくる。

 
  ▲遥拝されるウィントーの様子        ▲大木の回りに左縄がめぐらされた跡がある


      ▲屋嘉比川上流の様子、ウイクジがトドロキノ嶽があるか? 


2016年8月19 日(金)

 
大宜味村の田嘉里と謝名城のウンガミ調査。田嘉里は屋嘉比ノロ、謝名城は城ノロ管轄のムラである。今回の調査の目的は複数村を管轄するノロの、かつてのウンガミの流れを確認するものである。本番は21日(旧盆明けの最初の亥の日)である。調査に入る前に下調べから。田嘉里のウンガミは簡略化されているので、聞き取り調査が中心となりそう。謝名城のウンガミは数多くの報告がなされているので、昭和初期の「大宜味城のウンガミ」の様子を抑えることから。今帰仁村の玉城や中城ノロの複数村を回るウプユミ(ウンガミの日に近い)と類似しているのではないか。また、両村のウンガミの中に海神折目とあり、シニグ部分が含まれているのではないか。

【大宜味城のウンガミ】
・海神の前日
 ・毎年旧七月旧盆後の亥の日の前日
 ・大宜味村字田嘉里・謝名城・喜如嘉・饒波・大宜味の各各字の神人数十人が集まり盛大。
 ・ウタカビ(ウングマイ)がウンガミの前日に行われる。
 ・大ノロと若ノロとビラモトは海の掌神という。
 ・海神掌神は喜如嘉の根神の家で祈願をする(白神衣装)
 ・そこで新神人の就任式を行う。他の全域の神人は城神アサギに集まりも祈願をす(朝ツスクヌブイ)
 ・遊びビラモト神人は神踊りの練習をする。

・海神の当日
  ・朝、城及び根謝銘の神人は駕籠を用意して喜如嘉でウングマイしている神人を迎えにいく。
  ・駕籠に乗り、城のノロドゥンチへ案内される。むかしは海に乗って案内された。列になって。
  ・ノロドンチに集まった神人は白神衣装を着て、マンサジ(八巻)を頭に結び神弓(六尺)を頭に結び
   六尺ほどの神弓と矢を持ち、片手には赤い団扇を持って太鼓をならしながら行列になって神アサギ
   に向かう。むかしは駕籠や馬に乗って。

  (以下工事中)


   ▲城ノロドゥンチ(現在)         ▲喜如嘉の根神屋        ▲「流し」が行われる喜如嘉の海岸

【城村】(城巫火神)での海神)(『琉球国由来記』(1713年)
 海神折目とあり、供え物は稲穂祭と同じ線香・五水・花米
 参加者は城・喜如嘉・大宜味・饒波の四ヵ村の百姓
 海神折目の供え物、神酒(按司・惣地頭・福地掟より)
 餅一器(城村百姓・福地掟)
 魚六斤(城村百姓)

【喜如嘉村】(神アシアゲ)
 海神折目の時、五水(按司)、五水五合・魚一斤(惣地頭)、神酒二、五水二合、魚四斤(喜如嘉村百姓)

【大宜味村】(海神折目の漏れか)
【饒波村】(記載もれ?)


【田嘉里のウンガミ】

 田嘉里のウンガミの復元。神道・神アサギ・山口・ノロドゥンチなどが拝まれる。「流れ」が田嘉里川の河口(海岸)で行われており、それはウンガミの中にシニグが取り込まれているのではないか。

  
 ▲田嘉里の神アサギ       ▲神アサギへの神道      ▲屋嘉比ノロドゥンチ


  ▲「流し」が行われていた田嘉里川下流


 夕方、現場踏査をする。

2016年8月17 日(水)

 孫二人と古宇利島へ。大学達とシマの勉強へ。


2016年8月16日(火)

 旧盆の中日、今日と明日の午前中。古宇利島の学生達へレクチャー。資料の準備は、まだだ〜。それ急いで


2016年8月15日(

 「調査記録」として10年余り続けているきっかけは「宮城真治資料」「仲村源正ノート」「新城徳裕資料ノート類」などの整理中、記録のありがたさを体験させていただいた。振り返ってみるとそのことを実践し続けている。「球陽」の印について紹介できるのも、新城徳裕ノートのメモ書きと陰影のおかげである。(工事中)

「球陽」の印


 新城徳裕氏資料(ノート)に「球陽」の印が確認されている。「知念城から印判を拾った」とのこととあるが、その所在は確認できていない。「球陽」がどのように使われたのか、「新城徳裕資料―調査記録ノート」(『なきじん研究10号所収』2001年)の編集当時から気になっていた。

 「球陽」は琉球の雅名で、『球陽』は乾隆8年(1743)から10年(1745)に編集され、1876年まで追加されている。琉球の正史とされる。「琉球国」の雅号として「球陽」が使わた事例が扁額や聯や書幅があるので紹介。「球陽」の印そのものが押されているかは未確認。



 昭和57年度、「扁額・聯等遺品調査報告書」の扁額と書幅に「球陽」と記されている。印が押されているのもあるが「球陽」の印が押されているかどうかは未確認。

(扁 額)

寛政二年庚戌仲夏穀旦(1790年)
  徳 光 普 照
 球陽尚格大宜見王子朝規謹立

天明三年癸卯仲夏穀旦(1783年)
  印 徳 偏 海 天
 球陽尚周義村王子朝宜謹立 尚周之員 印

寛政治七年歳次乙卯仲夏穀旦(1795年)  
  □ 霊
 球陽尚周義村王子朝宜謹立  尚周之印

天明三年癸卯仲夏穀旦(1783年)
  妙 霊 普 済
 球陽尚図浦添王子朝英
     印 印

安永二年癸巳仲夏穀旦(1773年)
   生而神霊
 球陽摂政和読谷山王子朝恒謹立 印 印

安永二年癸巳菊月穀旦(1773年)
 澤 敷 海 國
 中山王世子尚哲謹立 

安永二年癸巳□□
 □ 仰
球陽摂政尚和読谷山王子朝恒謹立
    印 印

天明七年丁未菊月吉旦(1787年)
 無 □
   盛島親雲上
      朝朗
  琉球國使者 伊集親雲上
          朝義
       富里親雲上
         朝永


2016年8月14日(

 大宜味村田嘉里のウンガミの調査の予定。田嘉里の調査はいくつか目的がある。その一つに現在の田嘉里は明治36年に親田村、屋嘉比村、見里村の合併で田嘉里となる。国頭間切から国頭間切、そして1619年に大宜味間切へ。1673年に国頭間切は国頭間切と田港(後に大宜味間切と改称)に分かれる。その時の方切で親田村、見里村、屋嘉比村、浜村は国頭間切の村となるが、1719年(康煕58)に浜村をそのまま国頭間切で三ヶ村は大宜味間切の村となる。四ヶ村は屋嘉比ノロ管轄の村の変更はなく現在に至っている。

 田嘉里の村の変遷を正確に押さえておく必要がある。「おもろさうし」で、「やかひもり」と「おやのろ」と以下のように謡われている。それと屋嘉比ノロ家に簪や脇差、神衣装、辞令書を納めていたとみられる竹筒があり、ウンガミのとき、根謝銘(ウイ)グスク内の大城御嶽(イベ)のウガンがあり、村の歴史的変遷と同時に、屋嘉比ノロの祭祀についての流れを含めて注視する必要がありそう。

 明治36年の三つの村の合併の理由、屋嘉比ノロの辞令の年号を明かす資料などが大宜味村史編纂室で確認していて(整理中)、そのようなことを視野に入れながらの村史編纂室のウンガミ調査である(仲原は後ろからちょっとサポーするのみ)。
 

【13巻176】
 一 やかひもり、おわる       一 屋嘉比杜 おわる
    おやのろは、たかへて       親のろは 崇べて
    あん、まふて、             吾 守て
    このと、わたしよわれ          此の渡 渡しよわれ
 又 あかまるに、おわる、      又 赤丸に おわる
    てくのきみ、たかへて         てくの君 崇べて

【13巻182】
 一 くにかさに、おわる        一 国笠に おわる
    おやのろは、たかへて        親のろは 崇べて
    しまうち、しちへ、            島討ちしちへ
    あちおそいに、みおやせ       按司襲いに みおやせ
 又 やかひもり、おわる、       又 屋嘉比杜 おわる 
   かねまるは、たかへて        金丸は崇べて
 又 あかまるに、おわる、      又 赤丸に おわる
    てくの、きみ、たかへて、       てくの君 崇べて
 又 あすもりに、おわる、         安須杜に おわる
    ましらへては、たかへて        ましらては 崇べて
 又 おくもりに、おわる           奥杜に おわる
    たまの、きやく、たかへて       玉のきやく 崇べて


屋嘉比のろ家の遺品(ウンガミのとき、遺品は公開されません)



2016年8月11日(木)

 10日(水)調査にはいる。午前中、羽地地域(羽地間切)、午後から東海岸の久志間切域(現在東村、名護市)を踏査。報告したと思っていたら、HPでの報告はしていなかったようだ。「久志間切のムラ」としての講義はしている。改めて「久志間切の神アサギ」としてまとめることに。北から@宮城 A川田 B平良 C慶佐次 D有銘(ここまで現東村)、E天仁屋 F(底仁屋) G(三原) H嘉陽 I安部 J汀間 K瀬嵩 L大浦 M辺野古 N久志
O古知屋(現宜野座村松田)まで。

 旧名護町と恩納村を残している。それと伊是名・伊平屋も。神アサギ(アシアゲ)が『琉球国由来記』(1713年)に記録されるが、それが300年経ても継承されて続けていることの凄さ。神アサギから歴史のうねりとムラの形が見えてくる。明治12年の廃藩置県、明治36年の土地整理、間切が村(ソン)へ、村(ムラ)が字(アザ)へ。

 神アサギが祭祀場だけでなく、上納に関わる祈り、上納の一時置き場、それと祈りは税に関わり、祭祀は「神遊び」と呼ばれ、首里王府が発する今の公休日に当たるもの、それと宮城のように『琉球国由来記』(1713年)後にも神アサギを置き、祭祀を行う必要があった。その答えも出してくれる。明治36年村の合併や新設字ができたとき、神アサギを置く必要がなくなる。ただし、農耕暦なので行われる。

『琉球国由来記』(1713年)の久志間切の神アサギ。

 『琉球国由来記』            明治17年頃    現 在
@久志村神アシアゲ               ○       ◎
A辺野古村神アシアゲ              ○       ◎
B汀間村神アシアゲ               ○       ◎
C大浦村神アシアゲ                ○       ◎
D瀬嵩村神アシアゲ               ○       ◎
E安部村神アシアゲ               ○       △
F嘉陽村神アシアゲ               ○       ◎
G天仁屋村神アシアゲ              ○       ◎
H有銘村神アシアゲ               ○       ◎
I慶佐次村神アシアゲ              ○       ◎
J古知屋村神アシアゲ(現宜野座村松田)  ○       ◎
K平良村神アシアゲ(大宜味間切)       ○       ◎
L川田村神アシアゲ(大宜味間切)       ○       ◎
(宮城村の成立:川田村より北にあり)     ○       ◎


久志地域の神アサギ


@宮城(現東村) 

 宮城村は1736年に新設され、大鼓村、富久地村、宮城村と名前をかえる。『琉球国由来記』(1713年)には宮城村なく、1736年に新設された村である。新設された村に神アサギを設け祭祀を行う必要があったのか。その答えを出してくれる。

 


A川田(現東村)




B平良(現東村) 

 

C慶佐次(現東村) 

 


D有銘(現東村)




E天仁屋(現名護市)
 


F(底仁屋)(現名護市)

 神アサギなし
 

G(三原)(現名護市) 

 神アサギなし


H嘉陽(現名護市) 

 嘉陽の「上城」(ウイグスク)内にあった神アサギは集落内へ移動。グスク内には昭和15年に「紀元二千六百年祭」、「神殿改修」とあり、ウタキを神社化してある。神殿の前に神アサギの柱の礎石があり、神アサギは集落内へ移動したとみられる。グスクやウタキ内にある場合は、祭祀場として役割が主であるが、神アサギが集落内へ移転の場合は、祭祀場と同時に穀物等(上納)の一時集積場として利用。



 

I安部(現名護市) 

 
    
 ▲安部御神殿          ▲神アサギ跡?

J汀間(現名護市)

   


K瀬嵩(現名護市) 

 


L大浦(現名護市)

 神社化された神殿(ウタキのイベ)は神アサギの後方の杜。

 


M辺野古(現名護市)

  


N久志(現名護市)

 神殿に久志の若按司、あるいは久志ノロを神とするか。両者を神殿(祠)に祭る形式をとっている。


 

O古知屋(現宜野座村松田)





2016年8月10日(水)

 ここに山原の神アサギを調査すみ次第ここに集合。

 以下の羽地域の(旧羽地間切:現名護市)の神アサギも10年前に報告したものである(画像は後に追加したのもある)。神アサギを手がかりに村(ムラ)を見ていくと、間切やムラを飛び越えて移動した場合、移動した地に、神アサギを置き祭祀を行う。ムラが海を越えてもノロ管轄の村の変更がないこと。屋我地島(屋我村)の一つの村が17世紀に三つ(屋我・済井出・饒平名)に分かれる。それぞれに神アサギを設け祭祀を行う。1623年の屋我のろくいの辞令書が発給されている。まだ三つの村に分離する前のことである。その後、村が分離すると屋我のろくいの殿内は饒平名村地内で、屋我のろくむいの名称はそのまま現在まで引きつがれている。画像と文書(2006年)の書改めと画像は後ほど)

 ・『琉球国由来記』(1713年)の神アサギ(略)
 ・明治17年頃の神アサギ(略)
 ・近年の神アサギ


羽地域の神アサギ

 旧羽地村は1713年の『琉球国由来記』当時瀬洲・源河・真喜屋・仲尾次・川上・中尾(仲尾)・田井等・谷田・伊差(指)川・我部祖河・古嘉(我)知・振慶名・呉河(我)・我部・屋我・饒辺名・済井出・松田の村がある。「屋我地島の神アサギ」として報告したので、ここでは除いた。瀬洲村は源河に統合されたので村はない。
 羽地間切には呉我・振慶名・我部・松田は現在の今帰仁地内から現在地に移動した村である。移動村落が故地を離れて集落を形成する場合、御嶽―神アサギ―集落の軸線と故地との関係をどうをどう形成しているのか。ここでの神アサギの調査は、移動村落が、集落の軸線をどうつくるのか、それを知る手掛かりとなりそう。また近世の人達が御嶽を中心とした祭祀の神観念をも伺えそうだ。

 羽地地域を踏査していて神アサギに特徴がある。というのはいくつかの拝所が統合されている。特に昭和30年代に。その時、神アサギを茅葺屋根から赤瓦屋根やコンクリートの建物へ作り替えると同時に、散在していた拝所を一箇所にまとめてある。建物の前面を神アサギ風にして、後方に火神を祭った石や香炉などを置いてある。前面を神アサギ風にしてあるのが源河(昭和二年頃)・川上・呉我・古我知・我部祖河・伊差川である。現在でも神アサギが独立した形で残っているのは、真喜屋・仲尾次・川上・谷田(現在字はナシ)・親川(グスクに隣接)・仲尾である。
 振慶名は以前内部は一つであったが、最近できた神アサギは内部で二つにしきられ二つの神アサギの様式にしてある(理由は未調査)。振慶名は1736年に今帰仁間切(村)の湧川地内から移動してきた村である。御嶽―神アサギ―集落の軸線がはっきりしている。その軸線は故地には向いていない。どちらかと言えば羽地間切の親川(羽地)グスクの方に向いている。
 

@源 河

 拝所が統合され神アサギが独立した形ではない。お宮に統合され、前面の方は神アサギ風に作ってある。『琉球国由来記』(1713年)には源河神アシアゲとある。また「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治15年頃)にも神アシゲ壱ケ所とあり、統合は源河宮を建設した昭和二年だろうか。源河ノロの管轄。

 


A稲 嶺(神アサギなし)

 真喜屋から分字した区。神アサギなし。


B真喜屋の神アサギ

 赤瓦屋根の神アサギでコンクリートの丸い柱が四本(上の写真)。この神アサギから平成13年に赤瓦屋根に葺きかえられた(下の写真)。後方は御嶽で、右手後方にヌルガーとノロ殿地がある。ここでの祭祀は真喜屋ノロの管轄となっている。御嶽―神アサギ―集落の軸線を持った村を形成している。アサギナーがあり、豊年祭の舞台もある。香炉は御嶽側に置かれて御嶽に向って御願をする。神アサギは新しく作りかえられたが、拝所を一つにまとめることなく、独立した形で残してある。

 
                             ▲平成13年に新築の神アサギ

C仲尾次の神アサギ

 赤瓦屋根の建物で柱は8本。丸い柱は支えのために後に立てられてものか。香炉は後方の御嶽に向って置かれている。真喜屋ノロの管轄で御嶽―神アサギ―集落の軸線がはっきりしている。

 


D谷田の神アサギ(現在川上)

 現在谷田は存在しないが、谷田村があった。川上に合併されたようだが、神アサギが今での残されている。神アサギの香炉は仲尾次の御嶽の方に向いている。お通しと言っている。明治15年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」に川上村に神アサギ二箇所とある。その一つが谷田神アサギに違いない。


 


E川上の神アサギ

 新しく公民館の傍にできた神アサギ。四本の柱を模してつくってある。アルミサッシの戸は神アサギに似合わない。屋根は瓦屋根ではなくコンクリート。神アサギの香炉は中城の御嶽の方向に向いている。内部に稲穂が祭ってある。

 



F親川の神アサギ(池城神アサギか)(田井等から1750頃分離)

 親川(羽地)グスクと隣接、あるいはグスク内にあり、今帰仁グスクや名護グスク、根謝銘グスクと同じ形態と見てよさそうだ。最近立て替えられた神アサギはガラス戸が設けられ、神アサギの形を大きく変えてしまっている。ただ、まだ独立した形での作りかえなので、かつての姿がイメージできそうだ。内部にはいつも稲束が供えられている。




G田井等の神アサギ(神社化・拝所の統合)

 田井等神アサギはいくつかの拝所を一箇所にまとめてある(火の神や獅小屋などが合祀されているが、これまでの拝所は残されている。本来神アサギに火神はない)。ただし、これまでの拝所は。建物の前方に神アサギを模して、アサギの柱なのであろう。後方は獅子小屋と火神を祭った祠になっている。祠の中に扁額が置かれている(明治41年以前)。扁額には「羽地 平良村」とあり、羽地間切田井等村のこと。明治41年に村(ムラ)は字(アザ)となる。神社化(神殿と拝殿を一つに)された形態である。

 


H振慶名の神アサギ

 振慶名は1736年に現在の今帰仁地内から羽地間切地へ移動した村である。神アサギの後方が御嶽となっている。近年側に公民館が建設されたので神アサギも立て替えたはず。近々確認の予定。振慶名の集落の形成は移動村落が故地にこだわることなく高い所に御嶽をつくってある。高い所に御嶽を位置付けるのは人間が本質的にもっている習性かもしれない。御嶽―神アサギ―集落の軸線は故地にこだわっていない。イベは親川グスクの方に向けられている。故地と移動後の集落をどう作ったのかを知る手掛りとなる。




I伊差川(神社化・拝所の統合)

 いくつかの拝所を一箇所にまとめている。そのため、独立した神アサギがなく、お宮の前方に神アサギ風の柱のある建物になっている。このように拝所を一つにつる場合、記録にとどめる作業があって欲しい。

 


J我部祖河(神社化・拝所の統合)




K古我知(神社化・拝所の統合)

 建物の前方の柱部分は神アサギを模してあるのだろう。神アサギのあった場所は、集落の内部にあった。




L呉我(移動村・拝所の統合)




M屋我(屋我島から分離)

 屋我は屋我地大橋が架かる字である。屋我集落は1858年にヤガグスク付近から移動してきた集落である。神アサギは四本柱に瓦屋根の建物である。拝む方向は故地のヤガグスクに向いている。集落を背にヤガグスク(御嶽)に向かって祈る。集落と共に移動してきた神アサギとみてよさそうである。




M饒平名(屋我島から分離)

 神アサギは四本柱のコンクリート造りの建物。ノロドゥンチの側に位置し、アサギナー・公民館(ムラヤー)がある。饒平名村は屋我ノロの管轄村である。饒平名村も管轄する屋我ノロのじ辞令書(1625年)が残っている。御願(ウガン)の時、御嶽(ウタキ)に向かって拝むのか、あるいは背にするのか?

 


N済井出(屋我島から分離)

 村名として登場してくるのは『琉球国由来記』(1713年)からである。それと屋我ノロの管轄村であるために屋我村から分離したとの伝承を根強く持っている。済井出の御嶽(ウタキ)と神アサギ、そして集落の位置関係をみると、明らかに移動集落である。小字の桃原にムラの中心となるウガーミと神アサギがある。一帯にあった集落が海岸沿いの兼久地に移動したと見られる。1736年に今帰仁の湧川地内から移動した桃原村の件があるので、その桃原村が済井出と合併したのではとの見方がある。もし桃原村が済井出村と合併したのであれば、屋我・松田と同様二つの神アサギがあるべきである。神アサギが一つなので、平坦地を意味する桃原という地名が、移動した桃原村とたまたま一致したにすぎないと見た方がよさそうである。神アサギは瓦屋根の四本柱(コンクリート)である。かつて四本柱の神アサギの痕跡をみせている。




O我部(移動村・合併)

 現在の我部に二つの神アサギがある。コンクリート造りで祠の形になっている。その一つが我部村の神アサギである。我部村は1636年に現在の今帰仁村の湧川地内から屋我地島に移動した村である。我部ノロは振慶名・呉我・我部の三ケ村を管轄している。香炉の置き方は御嶽(ウタキ)に向けて拝んでいる。御嶽は故地の方向と関わりなく御嶽をつくり、御嶽―神アサギ―集落の形態を見せている。



P松田(合併村・合併)




2016年8月6日(土)

  本部町、大宜味村、今帰仁村の神アサギを一気に踏査してみた。山原の各地の神アサギについての報告はしてある。平成8年の調査なので10年余は経っている。文章はほぼそのままにして、今回(2016.8.6)の画像をそばに置くことにする。




今帰仁の神アサギ】

 今帰仁村内に21の神アサギがある(湧川のヒチャアサギは奥間アサギといい、各字の神アサギとは別である)。崎山から西側では神ハサギ、平敷から東側ではアサギという。神アサギを見ることは村(ムラ:現在のアザ)を歴史的に見ていくことにつながる。明治三十六年以前に創設されたムラは神アサギを設け、神人を置き祭祀を行わなければならなかった。祭祀や神アサギやウタキは村の成り立ちと切り離すことができないものである。そのため、村が合併しても祭祀は一つにすることはなく、その伝統は今に引き継がれている。

 例えば今泊や諸志に二つの神ハサギがあり、玉城には三つの神アサギが今でもある。それは行政として合併しても祭祀は一つにはならないという法則をなしている。祭祀が制度としてなくなると、分字しても新しく神アサギを作る必要がなくなった。越地と呉我山と渡喜仁の三ヶカ字に神アサギがないのはそのためである。祭祀は元の村に参加する。

神アサギの建物は瓦屋根、赤瓦屋根、コンクリートとなっている。かつては茅葺き屋根の軒の低い建物であった。茅葺屋根が残っているのは村内では崎山のみである。

 『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の神アシアゲ(今帰仁間切では『琉球国由来記』からの神アシアゲはすべて現在まで継承されている。 ◎は「沖縄島諸神祝女類別表」に神アシアゲの出てくる村。今帰仁間切の場合は、ほぼ100パーセント、現在まで継承。

    【琉球国由来記】(1713年)  【明治17年頃】  【平成28年】             
 1.今帰仁城内神アシアゲ          ◎            ◎ 
 2.安次嶺神アシアゲ(今帰仁村)      ◎            ◎
 3.親泊神アシアゲ               ・              ◎
 4.志慶真村神アシアゲ            ◎             ◎
 5.兼次村神アシアゲ              ◎            ◎
 6.諸喜田村神アシアゲ            ◎            ◎
 7.与那嶺村神アシアゲ            ◎            ◎
 8.崎山村神アシアゲ             ◎            ◎
 9.中城(仲尾次)村神アシアゲ       ◎            ◎
 10.平識(敷)村神アシアゲ          ◎            ◎
 11.謝名村神アシアゲ              ◎            ◎
 12.中(仲)宗根村神アシアゲ         ◎            ◎
 13.玉城村神アシアゲ             ◎            ◎
 14.岸本村神アシアゲ             ◎            ◎
 15.寒水村神アシアゲ             ◎            ◎
 16.勢理客村神アシアゲ           ◎            ◎
 17.上運天村神アシアゲ           ◎            ◎
 18.運天村神アシアゲ             ◎            ◎
 19.郡(古宇利)村神アシアゲ        ◎            ◎
 20.天底村神アシアゲ(当時、本部間切の村。1719年に今帰仁間切内に移動:村移動) ◎  ◎
 21.湧川村は1738年創設の村。      ◎            ◎

※湧川は1738年に創設された村。そのとき、神アシアゲを置き、祭祀を行っている。何故神アシアゲ
  を創設し、祭祀をしなければならなかったのか? 1719年に本部間切から移動した天底村が
  移動先で神アサギをつくり祭祀を行わなければならなかった理由?

1.今帰仁グスク内の神ハサギ

 沖縄本島内の神アサギがグスクやウタキの内部に置かれるところがある。その神アサギは明らかに祭祀の場としての施設である。今帰仁グスク内の神ハサギ跡(『琉球国由来記』(1713年)で「今帰仁城内神アシアゲ」と記される)、羽地グスクの内の神アサギ(『琉球国由来記』で「池城神アシアゲ」と記される)、名護グスクは『琉球国由来記』で「名護城神アシアゲ」と記される)とあり、グスク内に置かれている神アサギである。また、大宜味村の謝名城にある根謝銘(ウイ)グスクにある神アサギもグスク内に置かれて神アサギである。グスク内にある神アサギは、祭祀場としての神アサギである。

 神アサギの役割として祭祀場であると同時に集落内にある神アサギは祭祀場と同時に税(穀物)の集積場としての役割も果たしている。その神アサギ踏査は、神アサギが祭祀空間としての役割のみに終始してきたきらいがある。その結論は、山原の神アサギの踏査を完了してから。これから今帰仁村内の神アサギを踏査。「今帰仁村の神アサギ」や「山原の神アサギ」で報告したが、少し肉付けを。変化を見るが変化しないことがより重要。

 
 ▲今帰仁グスク内の神ハサギ跡(平成28年8月6日)▲神ハサギ跡にある香炉(平成28年8月6日)

2.ハサギンクヮー(今泊)

 今帰仁村の今泊に二つの神アサギがある。その一つはハサギンクヮ―(『琉球国由来記』(1713年)には安次嶺アシャギ)と呼び、かつての今帰仁村のアサギである。祭祀は今帰仁ノロの管轄で親泊村と一体になった形で行われている。現在四本のコンクリート柱で線香は海側の方向に向かってたてる。神ハサギでの祭祀はシマウイミ(旧盆明けの子の日・旧8月11日・プトゥチウガン新12月24日)に使われる。写真はシマウイミの場面である。

 
                                (平成28年8月6日)

3.フプハサギ(今泊)

 今帰仁村今泊のウプハサギ(親泊村のハサギ)である。公民館の側にあり戦前から数回に渡って付近を移動している。祭祀は今帰仁村(ムラ)と同様今帰仁ノロの管轄である。四本のコンクリートの柱で、香炉は海の方向に向かっている。中にタモト木の代わりにコンクリートの柱が横に置かれている。シマウイミ・プトゥチ御願のときに神ハサギで祭祀が行われる。写真はフプハサギである。

 
                                     (平成28年8月6日)

4.兼次の神ハサギ

 兼次ムラは中城ノロの管轄である。兼次の旧集落は、かつて山手の古島原にあった。集落の移動とともに神ハサギも移動したようである。古原にハサギ跡地といわれる場所があり、拝所となっている。ハサギは集落の移動に伴って移る傾向にある。その事例の一つである。香炉は旧集落地の方に向かい、タモト木を模したコンクリートがある。コンクリートの8本の柱がある。写真は兼次の神ハサギである。

 
                                (平成28年8月6日)

5.志慶真の神ハサギ

 志慶真村は17世紀の初頭まで今帰仁城の後方にあったが薩摩軍の琉球侵攻(1609年)の後、幾度かムラ移動する。最後は明治36年諸喜田村に統合される。志慶真村は、今帰仁ノロの管轄村であったが今では中城ノロが祭祀を行っている場合が多い。ただし、志慶真乙樽の神役は今帰仁城ウイミ(海神祭)のときは今帰仁ノロの管轄で祭祀を行っている。諸喜田村と志慶真村が合併して諸志となるが神ハサギは並んである。左側が志慶真の神ハサギ。

 
                               (平成28年8月6日)

6.諸喜田の神ハサギ

 諸喜田村は明治36年に志慶真村と合併して諸志となる。スクジャの呼び方は諸喜田にちなんだ呼び方で、中城ノロの管轄である。戦後神ハサギを統合した時期があるが、具合が悪く再度二つの神ハサギにした。諸喜田村の神ハサギはヌンドゥルチの西側にあったのを戦後一時期志慶真のハサギと一つにしたが、現在地に二つのハサギが並び、二つのムラの合併の面影を遺している。(右側が諸喜田の神ハサギ)




7.与那嶺の神ハサギ 

 与那嶺村の祭祀は中城ノロの管轄である。神ハサギは赤瓦屋根の建物で、かつては西側にあったという。そこに石柱が残っていて、神道が側を通っている。ウプユミ(旧7月の最後の亥の日)時、中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の村々を弓・ナギナタなどを持ち、ノロは馬に乗って祭祀を行っていたという。香炉は御嶽を背にして海の方に向けて置かれている。

 
                                  (平成28年8月6日)

8.仲尾次の神ハサギ

 
仲尾次は中城村と呼ばれていた。祭祀は中城ノロの管轄である。仲尾次の御嶽(ウタキ)は崎山を超えた平敷地番のスガー御嶽(中城グスク?)である。中城ノロは中城村に居住していた時期もあったであろう。祭祀管轄内の崎山・与那嶺・諸喜田の村にノロ殿内跡があり、その名残りを残している。現在のノロ殿内は諸喜田(諸志)にある。仲尾次の神ハサギは、村屋(ムラヤー)の葺き替えなどで何度か移動している。現在の神ハサギは平成5年建立である。

 
                                (平成28年8月6日)

9.崎山の神ハサギ
 
 崎山村の祭祀は中城ノロの管轄である。崎山にノロドゥンチの祠があり、中城ノロの住居があった痕跡がみられる。旧暦6月最後の亥の日にノロドゥンチを拝み、そこから崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の5ケ村を神人は弓やナギナタなどを持ち、ノロは馬に乗って祭祀を行っていたという。崎山の神ハサギは茅葺き屋根や石柱・タモト木などがあり、村々にあった神ハサギの古い形を遺している。

 
                                  (平成28年8月6日)

10.平敷の神アサギ 

 平敷から東側のムラ(字)では神アサギと呼ぶ。神アサギはセメント瓦葺きで御嶽(ウタキ)の中にある。回りにイベ・ペーフドゥンチ・掟ドゥンチ・島田ドゥンチなどの拝所がある。かつて、御嶽の周辺にあった拝所を御嶽に移動したという。御嶽を中心に集落が展開していた形跡が見られる。平敷の祭祀は玉城ノロの管轄である。馬に乗って玉城ノロが平敷の神アサギまできて祭祀を行ったという。ムラ・シマ講座(平成5年)

 
                                 (平成28年8月6日) 

11.謝名の神アサギ 

 謝名の祭祀は玉城ノロの管轄である。神アサギは謝名の大島原にあり、御嶽を背に南斜面に集落が発達している。昭和初期、アサギ周辺に旧家・後の殿内・前の殿内・イリン殿内・地頭火神などがあったという。昭和35年に茅葺き屋根から瓦葺きの建物になった。アサギには庭(ナー)があり、そこに舞台をつくり豊年祭を満4年ごとに行う。
平成27年に神アサギは葺き替えられる。

 
                              (平成28年8月6日)


12.仲宗根の神アサギ

 
仲宗根は玉城ノロの管轄村である。旧集落は御嶽(ウタキ)を背に南斜面に発達している。旧集落の南方の麓に前田原があり、かつての水田地帯である。神アサギは村屋(公民館)一帯を何度か移動している。御嶽の入口に鳥居がたった頃の神アサギは茅葺き屋根の建物であった。アサギ内にはタモト木と香炉が置かれている。現在の神アサギは上の方に移動している。

 
                                 (平成28年8月6日)

13.玉城の神アサギ

 
玉城の神アサギは現公民館の東側の御嶽(?)の中にある。アサギナーに村移動を記念して「玉城殿堂建設記念碑」を建立している。裏面に玉城石・ウペフ殿内・玉城勢・内神殿内・シリトン内など、それに稲蔵祠を整備したと刻まれている。旧暦4月15日はタキヌウガンで、スムチナ御嶽に玉城・謝名・平敷・仲宗根の神人や村人が集り祭祀が行われる。そこでの御願が終わると各字へ戻る。玉城の神人と参加者はアサギナーに集り御願をする。(平成3年のタキヌウガン)

 
                                  (平成28年8月6日)

14.岸本の神アサギ
 

 岸本村は玉城に合併統合された。岸本ノロの管轄。岸本村も1862年に村が疲弊したために王府から移動を許された。明治15年頃の調査で「ノロクモイ火神・神アサギ・島ノ大屋子」が記されている。現在の神アサギは瓦葺きのブロックの柱の建物。アサギの近くに岸本ノロの家跡がある。「大正二年十月十七日附願岸本ノ加ネイ大城カマト死亡跡職大城カマド採用ノ件認可ス」(沖縄県知事印)とある(写)。 

 
                                      (平成28年8月6日) 

15.寒水の神アサギ

 
寒水は別名パーマと呼んでいる。村の祭祀は岸元ノロ管轄である。1862年に玉城・岸本の村が移動したとき、寒水村も移動している。寒水の御嶽は昭和30年代まで大井川を越えた対岸に位置していた。近世中頃(?)に大井川の流れを変えるため開削がなされた、そのため御嶽を集落が分断されたという。神アサギの庭(ナー)で豊年祭を行う。近くに獅子小屋もある。(写真は昭和40年頃)

 
                                   (平成28年8月6日)

16.湧川の神アサギ

 湧川は1738年に創設された村(ムラ)である。そのため『琉球国由来記』(1713年)には村の存在はない。明治15年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の湧川村に「字ノロクモイ火神壱ケ所、神アシアゲ壱ケ所・カレキヤマタ嶽壱ケ所」とあり、当時神アシアゲが一ケ所あったと明記されている。

 
                                (平成28年8月6日)

17.奥間アサギ(湧川)

 湧川に奥間神アサギと呼ばれているアサギがある。このアサギはムラの神アサギとは異なる。湧川の二つの神アサギは、二つのムラの合併の痕跡ではない。建物は他の神アサギと類似するが、火神(三つの石)が置かれていること。神アサギに火神を祭る例よほどのことである。それは奥間アサギと呼ばれているように旧家の奥間家の屋敷跡(殿地)と考えた方がよさそうである。

  
                                                   (平成28年8月6日)

18.天底の神アサギ

 
天底村は1719年に本部間切から今帰仁間切に移動してきた村である.1713年の『琉球国由来記』には本部間切の村である。天底ノロは天底と伊豆味村の祭祀を掌った。大正時代まで天底ノロは馬に乗って伊豆味へいき祭祀をやっていたという。現在の神アサギは瓦葺きであるが、かつての神アサギは石柱の建物であった。

 
                                   (平成28年8月6日)

19.勢理客の神アサギ

 
「せりかくの のろの あけしの のろの......」とオモロで謡われる村である。勢理客ノロは勢理客・上運天・運天の村の祭祀を掌る。ウプユミやワラビミチの時、湧川の祭祀にも関わる。勢理客ノロ殿地跡は神アサギの側にあり、火神やワラザンが祭られている。ノロ殿地に簪(カンザシ)が二本残っている。一本の簪は竿部分を失っている。戦争のとき家が焼けてしまい、簪も焼け銀メッキがとれている。(写真は平成3年のムラ・シマ講座)

 
   ▲勢理客の神アサギ              (平成28年8月6日) 

20.上運天の神アサギ 

 上運天の祭祀は勢理客ノロの管轄である。神アサギは6本の柱をもち、瓦葺の建物である。昭和30年代まで茅葺き屋根の神アサギであった。サーザーウェーのとき、アサギナーでスクをすくう所作が行われる。また、ワラビミのとき、勢理客ノロは湧川・勢理客・上運天、最後に運天の神アサギまで祭祀行う。神アサギの屋根裏に獅子が置かれている。上は昭和30年代の茅葺き屋根の神アサギ右は現在の神アサギ。

 


21.運天の神アサギ

 運天の祭祀は勢理客ノロの管轄ムラである。ワラビミチのとき、湧川・勢理客・上運天・運天と神人と子供(太鼓をたたく)が参加し次々と村をまわる。運天の神アサギが最後である。運天の神アサギはムラウチにあり、屋根の低い瓦屋根葺きの建物である。アサギの側に井戸と脇地頭の火神の祠がある。神アサギの柱はブロックになっているが、四本の柱の建物だった痕跡を残している。

 
                                 (平成28年8月6日)

22.古宇利の神アサギ

 古宇利島は一ノロが一村(島)を管轄する。神アサギは中森の側に位置し、豊年祭を行う舞台とアサギナーがある。4本柱のコンクリートの神アサギである。かつての古宇利島の神アサギは石柱の茅葺き屋根であった。神アサギはタキヌウガンやプーチ御願のときなどにも使われるが、海神祭(ウンジャミ)の時のメイン会場になる。現在一つの神アサギであるが、アサギマガイやヒチャバアサギなどの地名があり、複数のムラ(集落)が融合した痕跡が見られる。

 

         (平成8年撮影)            (平成28年8月6日)

2016年8月5日(金)

 大宜味村の神アサギの例から、神アサギを設置し祭祀を行わなればならない理由が見えてくる。大宜味間切の場合、『琉球国由来記』(1713年)で神アサギは@喜如嘉村神アシアゲ、A大宜味村神アシアゲ、B津波村神アシアゲの三村の神アシアゲしか登場しない。後に大宜味間切になった国頭間切の屋嘉比村神アシアゲを加えて四神アサギである。(久志間切へ加わった平良村と川田村の神アシアゲは外す) そのことが大宜味間切の神アサギについて誤解をもたらしている。

 
 そこで明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』の「大宜味間切各村ノロクモイ員数」に、@屋嘉比村神アシヤゲ A見里村神アシヤゲ B城村上城アシヤゲ C喜如嘉村神アシアゲ D饒波村神アシアゲ E大宜味村神アシアゲ F田港村神アシアゲ G屋古前田村神アシアゲ H塩屋村神アシアゲ I根路銘村神アシアゲとあり、また今でも神アサギ跡やアサギマーの地名として残っており、『琉球国由来記』(1713年)当時、神アサギがなかったのではなく、脱漏だとみてよい。
 
 大宜味村には宮城・大保・押川・上原の字がある。そこは大正以後に分離独立した字である。それらの字には神アサギがない。神アサギを置く必要がない社会状況となっていた。それは明治36年の土地整理が、個人に土地の所有権を与え、納税も村単位でなく、個人が支払う。そして物納から個人の銭納となる。そのことが村の合併につながっている。


 以下の神アサギは2016年8月5日夕暮れの撮影。ただし、白浜(渡野喜屋)と津波(平南)の神アサギは日が暮れ、改めて追加予定)

大宜味村の神アサギ

@田嘉里の神アサギ





A謝名城の神アサギ(グスク内の神アサギ)





B喜如嘉の神アサギ跡


       ▲神アサギ跡

 駐車場は神アサギがあった場所。

C饒波の神アサギ跡(アサギマー)


   ▲公館の前がアサギマー

 神アサギの建物はないが、公民館の前がアサギマーの地名として残っている。


D大宜味の神アサギ

 


E根路銘のアサギマー



 公民館の手前がアサギマー、神行事は公民館の中で行う。
F塩屋の神アサギ



G屋古の神アサギ


 

H田港の神アサギ




I白浜(渡野喜屋)の神アサギ




J津波の神アサギ



K平南の神アサギ




2016年8月4日(木)
 
 早速、本部町の神アサギから。文章は随時書き記していくが、踏査した順に画像を置いていくことに。神アサギが祭祀空間としての役割は大きいのは言うまでもない。それだけではなく、首里王府と村々の関係、祭祀が国を統治する手段であること、祈りが税や村や国の発展と関わること、祭祀の日が神遊び(今の公休日)、「神遊び」が公事帳で定められていること。

 神アサギをキーワードにして村の形をみると、何故神アサギが置かなければならないか、村が新しく置かれると、新村に神アサギを置き、祭祀を行わう必要があるのか。明治36年に村の統合なされるのは何故か。明治36年以降に独立した村に神アサギが置かれないのは。山原の神アサギは集落の中央部に置かれる。このように神アサギを茅葺からコンクリートづくりや瓦葺きなどに変貌していくが、それでも遺していくことの重要さ。

 本部町の神アサギを一気に踏査し、画像で掲げてみると、さまざまなことが見えてくる。村の合併や分離独立が認められたのは明治36年の土地整理の結果、納税の物納から金納になったこと、そして土地に個人に所有権を与え、納税する仕組み。ここで詳細に述べないが、合併が許される理由、そして土地整理以後、分離した村(字)に神アサギがおかれない理由もそこにある。

 神アサギを山原の広がりで見てきたのは、その前に掲げた疑問に答えを見つけ出そうとするものである。その面白さ。次はどこになるか。


【本部町の神アサギ】

@具志堅の神ハサーギ(ウイヌ神ハサーギ・上間村神ハサーギ跡・部間神ハサーギ跡)(合併村)

 具志堅は具志堅村、上間村、部間村の合併村である。その証を神ハサーギの柱の数(12本=4本×三村)とフプガーの9本の神木に残している(毎年、三本づつ交換)。今年は豊年祭があるようで神ハサーギを吹き替えている最中。神ハサーギ内にたもと木が置かれている。

  


A上間村神ハサーギ跡(統合される)

 上間家の入り口の手前に神ハサーギがあったが、ウイの神ハサーギに統合。統合されたがアサギ跡は村の人たちに、しっかりと認識されている。


 ▲門の前が上間村神アサギ跡


B部間神ハサーギ跡(統合される)

 
  ▲部間神ハサーギ跡         ▲大川の中の9本の神木


C嘉津宇村神アサギ(移動村)

 嘉津宇村は1719年に古嘉津宇から具志堅地内に地移動。移動先で神アサギをつくり祭祀を行ったのは? 昭和12年に神アサギとウタキなどをまとめて神社化してある。神アサギの隣の建物は神殿である。壁に「嘉津宇神社改修記念 昭和十二年丙子六月二十六日」とある。

 





D謝花村神アサギ

 


E浦崎の神アサギ

 


F浜元村神アサギ(分離村)(具志川村→渡久地村・浜元村)

 


G渡久地村神アサギ(分離村)(具志川村→渡久地村・浜元村)

  


H辺名地村神アサギ

 


I堅健村神アサギ

 

J(崎)本部村神アサギ(合併村)




Kハサギンクヮ(崎浜村神アサギ)

 崎浜村の神アサギ。崎本部は崎浜村と本部村の統合。崎浜村を構成しているのは寄留。神アサギは旧家の屋敷内。




L石嘉波村神アサギ(移動村)

 1636年の移動村である。移動先で神アサギをつくり祭祀を行った理由は?

 


M瀬底村神アサギ

 神アサギが旧家(根家)の屋敷内にあるのは。旧家の屋敷内に置かれるのは中南部の殿。一般的に山原では集落の中央部に置かれるが。旧家の素性は?

 

N伊野波村神アサギ

 神アサギの側に「神敬」の神殿があり「伊野波神社」化されている(昭和八年)。その後方がウタキである。

 

O並里村神アサギ(分離村)(伊野波村→伊野波村・並里村)

 神アサギの後方に神殿がありウタキ。


 

P備瀬村神アサギ(合併村)(備瀬村・小浜村)


 


Q伊豆味村神アサギ
 
 
 
▲右側の建物神アサギ(豊年踊りの道具倉庫)     ▲伊豆味神社(昭和5年竣工)

2016年8月2日(火)
 
 8月は各地で海神祭をはじめウプユミやシニグが行われる。これらの調査記録をする予定。それと山原の150余りの字(ムラ・シマ)の神アサギの再調査をし記録にしていく作業を予定。ここ10年で各地の神アサギが立て替えられているからである。建物はつくりかえられるけれど、神アサギを取り払うことはしない。あるいは地名で遺っている。そのことの重要さに気づく必要があるからである。

 神行事も神人や関係する神役の方々が少なくなっているが、区の区長さんや書記さんや、わずかな関係者がとり行っている姿に、しっかりとした理論づけをしてこなかったこと。そのこともあって、「山原の神アサギ」として再度まとめることに。

 
     ▲国頭村辺土名(上島)にある神アサギ                ▲国頭村奥間の神アサギ