2015年(平成26)年のメモ
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2015年6月21日(日)
 
 「ムラ・シマ講座」で本部町伊野波・並里(満名)まで行く。『琉球国由来記』(1713年)に「伊野波巫火神」は伊野波村にある。年中祭祀のとき、本部間切中の巫(ノロ)が伊野波村の祭祀に集まる。伊野波村にはカナヒヤ森とアカサケヨリアゲノ嶽の二つの御嶽があげられている。『琉球国由来記』(1713年)の頃、並里村と満名村が、まだ伊野波村から独立していない時代である。首里王府から伊野波ノロが任命された頃(1500年代)の伊野波村の領域は並里・満名を含んでいた。伊野波ノロが任命された時のノロ居住は伊野波村内の並里であった。並里(満名)の村の創設(独立)は1713年以降である。

 現在伊野波ノロの名称は消えて並里にある「上殿内」(満名)が伊野並ノロ殿内と見てよさそうである。そこで「上」(ウンシマ)は現在の伊野波のことである。

       (工事中)

 


2015年6月1日 今帰仁村謝名

 シーサーを設置する。旧暦4月15日 玉城ノロ管轄ムラ(玉城・謝名・平敷・仲宗根)の方々がスムチナ御嶽に集う。謝名の区長はじめ10名余りの方々が立ち寄って行かれた。シーサーの批評会。普段の日は、誰もいませんのでご自由に。シーサーをなでると噛みつかれますよ。(石ではないので。漆喰づくり)


▲4月30日に台座が設置される    ▲軽トラックで治氏の工房から運ぶ   ▲クレーンで持ち上げて慎重に


   ▲治氏がシーサーに魂を入れる          ▲エイ!どうじゃ様になっているか?


   ▲密集に植えた「ひまわり」     ▲シーサーのいる家で来訪者が増えそう。どうぞどうぞ!

旧は羽地村の忠魂碑




2013年6月29日(土)メモ

 本部町東に忠魂碑(大正4年11月)、戦俸軍人御名之碑(昭和9年12月吉日建立 本部町在郷軍人遺族会)、慰霊塔(1957年7月31日建立)がある。慰霊塔の裏面に「昭和二十年第二次世界大戦に於いて戦没せる勇士の納堂」とある。本部町のいくつかの字(アザ)に慰霊塔があるが、東にあるのは本部町全体の慰霊塔。戦前の忠魂碑は村(ソン)や町全体に一基であった。

   
▲本部町東にある忠魂碑(大正4年11月設立とある)  ▲正面に忠魂碑(大正4年)、左側に慰霊塔(昭和32年)

 
     ▲「戦俸軍人御名之碑           ▲「昭和九年十二月吉日建立)   


2013年7月5日(金)メモ

 今帰仁村の忠魂碑の写真を見つける。昭和10年代の「出征兵士の壮行会」が今帰仁村の仲原馬場で開催されている。仲原馬場の西端に鳥居と階段のある忠魂碑が確認できる(印)。今帰仁村の忠魂碑の建立は大正10年1月15日に除幕式が開催されている。忠魂碑は海軍の星印、揮毫は元帥東郷平八郎か。




2013年7月4日(木)
 国頭村奥のミヤギムイに「忠魂碑」がある。揮毫は陸軍大将 鈴木壮六である。裏面に□年十月十一日 奉在郷軍人会建立とある。そこは「国頭村奥戦没者慰霊之塔」もある。そこは「乃木神社」とも言うようだ。
 




2013年7月3日(水)メモ

 名護市(旧羽地村)の忠魂碑、大宜味村塩屋と大兼久の忠魂碑を踏査してみた。本部町の忠魂碑もそうであったが、揮毫者部分が削られていた。今回みた羽地の忠魂碑の裏面は削られている。



大宜味村の霊魂之塔について【2002.1.16メモ】

 大宜味の「霊魂之塔」(戦後の建立)は前から気にしていた塔である。というのは、塔の石は今帰仁村運天にある「源為朝公上陸之跡」の碑と同質の花崗岩である。明治7年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス商船の船底に敷いたバラストだという。座礁したイギリス船員の墓地が宜名真にありオランダ墓と呼んでいる。霊魂之塔の向かって右横に「大正十年十一月大宜味村立之」とあり、忠魂碑建立の年である。裏面はセメントが塗られ「忠魂碑」の文字が刻まれていた跡がある。

 大正十一年に忠魂碑が建立され同年十二月十三日に忠魂碑の除幕式を行っている。向って左横に「元帥公爵山縣有朋」(下線部は埋まっている)とあり、揮毫は山形有朋である。因みに源為朝上陸之跡碑は元帥東郷平八郎である。その忠魂碑を利用して「霊魂之塔」を建立(戦後)してあるが、「忠魂碑」を再利用して「霊魂之塔」を。どんな議論がなされたのだろうか?

 そのことは、本部町と名護市(旧羽地村)の忠魂碑の揮毫者部分が、同じように削られている。その側に戦後慰霊塔が建立されている。今帰仁村の場合は忠魂碑そのものが失われ、「チュウコンヒ(忠魂碑)」の地名と残り、そこに慰霊塔がある。今帰仁村の忠魂碑はどなたの揮毫か不明であるが、元帥東郷平八郎の可能性がある。(元帥東郷平八郎揮毛の碑が「北山今帰仁城址」の碑と「源為朝公上陸之址」碑がある)



 大宜味村の塩屋の中山公園にも忠魂碑がある。それは塩屋に役場があったことからか。塩屋の忠魂碑の建立は、拝所の建立(ウタキを神社化)と連動しているようだ。ちょうどその頃、塩屋にあった役場が大兼久に移動したことである。(資料の確認が必要)

   

 「塩屋中山之山拝所」の祠の向って左側の碑の裏面に以下のように記してある。
      記

  當拝所ハ狭隘ニシテ腐朽甚ダシキニヨリ改築拡張ノ計
  ニ定メ大正十一年十一月二十八日在郷軍人塩屋班員ノ起工ヲ手始メニ
  戸主青年会各員青年団婦女会処女会各員ノ一致協力ト有志ノ
  後援ニヨリ六十有余日ノ日子ヲ費ヤシ
  大正十二年一月二十八日竣工
   塩屋中山之山拝所
   中之山公園
      区長 宮城秀吉書ス



【名護市汀間にある金万泉】




2015年2月11日(水)くもり

 間もなく到着する(3月下旬)納められる刀剣の展示台を作製。細かい部分の手直しがあるが、ほぼ完成する。太刀と拵(外装)の実物大をつくり(職員がカット)、それに合わせての作製。手直しをして歴史文化センターの大型展示ケースの中へ。依頼している刀剣がどう収まるか、輝く?か楽しみです。






2015年2月9日(月)くもり(寒い)

 近々刀剣が入ってくる。それを展示する台を作製する。大きな展示ケースの中に展示するので、その台をつくらなければならない。塗装はこれから、太刀と拵(外装)の展示方法は思案中。刀掛けにしようか、台上に置くか。手作りなので、ちょっと味のあるものができればいいのだか。

 


 恩納村で会議があったので、途中恩納村富着の古島までいく。様変わりしていく恩納村で古いタイプの集落形態をもつ。神アサギや脇地頭火神、旧家の火神の祠、カー跡などが今でものこる。ウタキの周りには左縄(ヒジャイナー)が張り巡らされていて、祭祀が根強く残っている様子が伺える。

 見える杜は御嶽(ウタキ)である。杜の中にお宮(ウタキのイベ)、神アサギ、脇地頭火神、旧家跡が何軒かある。また杜の右手、道路を越えた所にも旧家跡やカーなどがあり、集落跡が今でも残っている。

 

  


2015年2月2日(月)くもり

 1月29日30日は東京出張。30日の朝の関東は数センチの雪化粧。29日は天気がよかったので二つの博物館(刀剣)の展示を見学。(その日にしたのは30日は雪との予報がでていたので)。30日はみぞれの降る街を闊歩。午前中時間ができたので、東横線にのって横浜方面の雪景色を電車から眺めに。(調査の成果の報告できる段階ではありません)

 さて、ここ一年近く刀剣(拵含む)について頭をよぎる。刀剣について触れることはできないが、沖縄の旧家や拝所に刀があるのか。そのことに関心がむく。謝名神社の建立は昭和9年である。それまでは神社としての祠はなかったので神社に何を祀るか。御神体の一つとして。ウタキのイベ、火神(各拝所を合祀)、太陽と月の描かれた扇、刀など。その刀は謝名神社が建立されたときに祀られたものとみられたもの。根神家など旧家にあったものを合祀したことも考えられ、刀がつくられた年代は不明。(工事中)

  

 

 

2009年1月7日(水)メモ

 正月2日には今帰仁村謝名の大島(ウプシマー)周辺を歩いてみた。そこは小・中学生時代歩き回った地域である。そこで培われた物の見方というのがある。山原の集落の展開、御嶽・グスク、古島と大島などなど。ムラの歴史を最初に書き上げたのが謝名であった。その成果は『じゃな誌』に納めた。30年近くなっているので、全面的に書き改めたいと筆を進めている。

 謝名の大島(ウプシマー)集落は南斜面に展開している。一番下方は前田原の小字がある。昭和30年代まで水田が広がっていた。前田原の地名は、集落から見た前方にある水田地帯に名付けられた名称である。小地名は集落を中心として名付けられるという、一つの法則を見出すことができる。

 ムラ・シマや村落、行政区などと概念を異にして考えなけらばならない「集落」。その集落はムラ・シマ、字(アザ)や村落と概念を異にして、区別して考える必要があるとヒントを得たのは、そこからである。特に、ウタキやグスクは集落と切り離せないキーワードである。また、ウタキは集落と関わる杜であり、その中に一番神聖の場となるイベがあり、両者は区別をして考えるべきものだと。

 謝名御嶽(ウガミやグシクともいう)のイベまでいく。昭和9年に謝名神社を建立し、拝所を統合したようである。お宮の後方の高い所にウタキのイビがある。そこに香炉が置かれている。それに「奉寄進 同治九年午九月 松本仁屋」(1870年)とある。スムチナ御嶽に「奉寄進 同治九年十月 松本にや 大城にや」と彫られた香炉があり、松本仁屋(にや)は謝名村出身の同一人物とみられる。

 同治九年(1870)は向氏今帰仁王子朝敷が中城王子に付いて法司官に命じられ、六月二十二日に薩州に到着し、十月十一日に帰国している。二つの香炉は今帰仁王子朝敷の薩州上りと関係しているのであろう。松本仁屋は御殿(ウドゥン)奉公、あるいは薩州上りに随行していった人物か。



  ▲お宮(ウタキ)への神道     ▲昭和9年に建立された「謝名神社」(お宮)


       ▲同治9年の香炉          ▲ウタキのイベにある香炉


 ▲ウプシマ集落の神アサギ(後方にウタキ) ▲世神殿内の拝所(脇地頭火神?)

2009年1月1日(木)


2015年1月25日(月)晴れ

 休日を利用して名護市源河から山越えで東海岸の有銘・慶佐次・平良・川田、さらに北側の宮城・高江までゆく。主な目的は東村川田である。旧暦1月1日のタマガーラ(勾玉)のお披露目の祭祀への参加のお願いへ。公民館の書記さんから、タマガーラ祭祀の様子を伺い、根謝銘屋へ。根謝銘屋は建てかえられ、主の引越しはまだでした。仮住まいに訪ねてみたが留守。「留守だったら今帰仁グスクの歴史文化センターから参加しますから」とお願いしてきました。

 この祭祀は川田区と根謝銘屋の共催のようである。川田区民の大半が根謝銘屋の祖先から派生しているとの歴史を持っている。川田村の祖先である「中北山城主の次男思徳金」の血筋を継いでいるとの認識がある。その証となるのが、戦前まであった「・鏡・マガタマ」であるという。刀と鏡は失ってしまったが、マガタマのみが現存するという。現存するマガタマは旧暦の正月にお披露目しているようである。その祭祀への参加のお願い。

  
   ▲新しい根謝銘屋               ▲勝乃宮(スグレノミヤ) ▲ウフアナガー
 
     ▲川田の神アサギ            ▲後方の杜はカミザムイ(勝乃宮:スグレノミヤ)

 
  ▲ウタキと海へつながる神道か       ▲アガリの御嶽(高平良御嶽)

【東村平良】

 
 ▲左がノロドゥンチと平良の神アサギ         ▲平良公民館


     ▲平良の根神屋

【東村宮城】


 ▲宮城の集会所(公民館)           ▲お宮と神アサギ


【東村高江】

 ・高江校は明治41年創設
 ・明治45年(大正元)に新川へ移転
 ・昭和44年牛道へ移転

 


【東村慶佐次】


     ▲新しい慶佐次公民館             ▲慶佐次の旧公民館


        ▲慶佐次神アサギ         ▲慶佐次のお宮(ウタキ)


【東村有銘】


      ▲有銘の拝所             ▲有銘の神アサギと鳥居


 最後の仕上げまで、しばらく休憩です。2月1日2日まで多忙のため!



2015年1月12日(月)はれ

 今日は積み残しの竹垣根の仕上げにいく。二人の孫も手伝いしてくれるとやってきた。さて、どうなるかな?

 前日に手掛けた部分はバランスがよくないので、三名で造りかえ。孫たちはアイスクリームで釣って夕方までお手伝い。ウプシマ(今帰仁村謝名の大島)には子供達がいません(人口:10数名)。神アサギ広場や豊年祭の舞台で大声だしています(一時の賑わい)。隣で鳥(闘鶏)の鳴き声が聞こえると見学へ。傍をとおる方々に声をかけられると得意げであいさつ。



 

 
 ▲金槌とノコギリを持ってポーズ(ヤッター!)

2015年1月6日(火)くもり

 今帰仁村諸志の「諸志青年修練道場建築」の文書が出てきた。(1949年2月14日頃)
 目的 
  一、新しい郷土沖縄を建設する任務を双肩に負い、我等青年は、確固たる信念をも以て郷土建設
    の礎石となるを以て目的とす。
    依って青年の修養の必要を此処に感じ修養切磋琢磨堅固なる道場にて行う。即ち修練道場
    の目的である。
 一、青年団長上間一正指揮の下に五十名の団員が熱意ある字民の協力を得て終日此の大事業
   に万心し、将来新沖縄建設の中核たる人物養成の目的達成する意気で燃え上るのである。
 設計 横三間半、縦三間、中に神棚を設け押入れを設け玄関を構る。
 敷地 元隣保館跡に東向きにして設計す。
 設計図
 材料 柱二十六本、桁七本、ハリ十二本、棟桁一本



 竹垣も最後の調整を残しています。両手の指の節節が腱鞘炎状態、それと風邪でダウン。

                                                                                                                                             
    ▲神アサギと他の拝所         ▲神アサギの後方の杜がウタキ(グスクともいう)                                                                                        

2015年1月1日(木)くもり

 このページのスタート。12月28日から今帰仁村謝名の実家の塀に竹垣にしてみた。これからの調査や研究の拠点としていく予定。四日間の竹垣づくりで節々が痛く、体調を崩している。(下の二枚は国頭村安波で提供をいただくが出所未確認)昔風のチニブづくりには技術と時間と材料が手に入りにくいので、合理的なつくりで。

 竹垣をつくりながら、先は短いので、そこに最後の夢をたくそうと考えている。そこでの生活が調査・研究の原点となっている。沖縄に戻って2、3年目に『じゃな誌』の執筆をしている。くまなく調査したのはここである(28、29才頃)。特に歴史や地名や文書関係に力を入れたように覚えている。

 12月中旬に「チニブ(竹垣)をつくります」と宣言したこともあって。「手伝いましょうか?」と声がありましたが、「船頭は一人で大丈夫です」と断ったこともあり、意地でつくっています。もう一日あれば完成。乾杯!

 今年は体と頭にムチ打って、のびのびと楽しく各地の踏査をしていければと。

 今年もよろしく。

 問題はそこから何を生み出していけるのか

 
            ▲屋敷の正面右手(父が遺してあった廃材で)

 
  ▲横手の16m余の塀(途中)  ▲正面左手の塀(8m余)、時間と材料がないので手抜きをします

 
   ▲チニブのあった頃の風景               ▲茅葺屋根の農家の屋敷囲いにチニブ