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2014年1月31日(金)

【戦前・戦後の今帰仁】⑦

【勢理客の様子―外柔剛・正義の人】
(故 幸地新政)

 新蔵君の曾祖父は、今帰仁間切勢理客の大幸地屋で生まれ、長じて分家、村内から20町ほどはなれた郊外のインガ部落に住みついた。その曾祖父の曾孫として新蔵君は生まれた。厳父は、多年村役場の名収入役、新太郎氏。

 私は、満六歳の学令で、天底尋常小学校に入学したので、私の三年生の時に二歳年少の新蔵君は一年生に入学してきた筈であるが、天底在学中の思い出は記憶にない。その理由は、当時、二級も上級になると中々一緒には遊ばなかったし、それに、学校への往復にもインガ部落には学校からの直行の中道という近道があって村内を通ることはなかった。また、村内とインガ部落との間に幽霊が出るとの伝説もあった。石を投げると、コロンコロンと鐘の音がする深いホラ穴があって、子供達は怖がって一人では遊びに行けなかったせいもあって、新蔵君との交渉は殆どなかった。

     (続く)

【戦前・戦後の今帰仁】⑥

【選挙公報―喜納政業】
(1958年3月16日執行)

 現在、歴史文化センターで喜納政業氏の戦前・戦争・戦後・現在の聞き取り調査を行っています。氏の全体像はいずれまとめますが、話を伺っていると一貫した理念と信念が至るところで聞かれます。一貫した理念は「選挙公報」にありましたので紹介します。(1958年3月16日執行)

  ご挨拶    民連推薦 立法院議員候補

 第三区有権者のみなさん
 私は、来る三月十六日に行われる立法院総選挙は、沖縄歴史にとって、転換点となる選挙であります。
 過去十三カ年のアメリカの軍事占領統治したの沖縄の姿をふりかえって見ますとき、政治、経済、教育、社会のすべての面で、軍事優先政策の犠牲となり、沖縄県民の希望と要求は、無惨にもふみにじられて来ています。しかし、終戦後十三カ年を経た今日では、そのような軍事優先の政策は許される時代ではありません。世界は平和共存の流れが高まっております。原始戦争をたくらみ、原水爆基地強化のために、人民を犠牲にするものが罰せられる時代になっております。

 げんざい、沖縄県民が祖国の同胞と団結し、平和と独立のために斗う世界の諸国民と手をたずさえて進むならば、アメリカの軍事占領統治をやめさせて、祖国復帰を実現し、恐ろしい原水爆基地のない、日本の一県としての明るい沖縄をきずきあげることができると確信いたします。

 このたびの立法院総選挙は、そのような明るい沖縄をつくりあげるために、アメリカのいうことばかり聞いて、県民の利益をかえりみない隷属と屈従の政治をやめさせて、沖縄県民の利益を政治は沖縄県民自身でやる真の民主主義を確立し、労働者、農民、漁民、中小商工業者、知識人のための政治をきずきあげ、沖縄の政治を、平和と祖国復帰の方向に転換させる絶好の機会であります。

 私は、民連のかかげた、平和と祖国復帰、民主主義の選挙綱領を誠実に実行し、明るい沖縄の建設のために、全力をつくしたい所存であります。

 選挙民のみなさん御指導、御支援をお願いします。


2014年1月30日(木)

 「戦前・戦後の今帰仁」として紹介しているのは、その方々は戦争を体験され、戦前・戦後を生き抜いてこられた方々の記録である。一人ひとりの戦前・戦後の生き様が伝わってくる。ここで紹介する方々は、私の恩師であったり、博物館づくりや調査などで関わり、ご教示をいただいた方々である。先人方の体験や生き様に深くふれながら、「戦前・戦後の今帰仁」をまとめることに。

【戦前・戦後の今帰仁】⑤

【北山高等学校の誘致雑感】
(故 吉田 光正 当時県会議員) 

 太平洋戦争中、羽地、大浦崎に収容された村民が帰村を許されたのは昭和20年10月30日以降のことであった。
 四カ月余にわたる抑留生活から開放され、懐かしい郷里に帰った村民の喜びはひとしおのものがあった。然しながら村落は焼かれ、食量は欠乏し、本土決戦に備えて駐屯していた米軍のために、かつては北部地域では有数な沃土であった田畑は荒らされ。コーラルで敷きつめられ、戦場の遺棄物は各地に散乱していた。農具は勿論のこと、家畜等も皆無の状態だった。戦災死、病死が相次ぎ、マラリヤは蔓延し、殆どの家庭が何らかの欠陥状態にあった。人心も不安動揺、その惨状は到底筆舌に尽せないというのが実態であった。

 このような困苦の中でも、先生は機会あるごとに「垣産なければ、恒心なし」との格言を引用され、われわれはいま、何をなすべきか、まず、生活の経済的基盤の立て直しが第一であり、それと同時に子弟教育確立が急務であると、熱をこめて村民に話され、説得力のある御顔がいまなお昨今のように目に浮かんで来る。

 昭和20(1945)年11月6日松本吉英氏が区長(村長)に選ばれ、戦後の村政がスタートした。子弟の教育は瞬時も中断されないということで、11月26日には幸地先生をはじめ、村内の教育関係者が集まり、学区域、学校設置等について協議し、1945(昭和20)年12月3日にテント小屋の中で教育が再開された。

 先生方が缶詰を給与代わりに貰いながら初等学校が曲がりなりにも発足した頃、大浦崎収容所内にあった大浦崎高等学校で学んでいた生徒達から「私共の学校はいつ開校してくれるのか」と村に対し矢のように催促がなされた。

 生活基盤はまだ確立しないし、また社会情勢も不安定な中であったが、幸地先生を中心に生徒の好学の至情に報いるべく、高等学校の設立に踏み切るようになり、先生は校長を引き受けてもらった。

 校舎は仲原馬場にテンと(中型)十張りを立てて授業を始めた。山から丸太を切って来てテントの骨組みをつくり、村の製材所から板ぎれをもらった仮校舎ができた。机や腰掛もすべて生徒と教師の共同作業でまたたく間に出来た。

 昭和21年1月中旬にやっと開校、名前も今帰仁高等学校(後に北山高校)とした。教科書も筆記具もない授業であったが、子弟一体となった本当に充実した学園生活であったと、当時の生徒は今でも印象を語ってくれる。

 今帰仁より相当遅れて名護、羽地、本部高等学校は発足したが、沖縄諮詢会は、昭和22年3月末日までに田井等地区内の高等学校を統合することにした。しかし食糧事情や交通事情から一箇所に集められないので今帰仁は田井等高等学校第三教場として相変らず授業を続けた。

 帰村後植え付けした甘藷が収穫されるようになり、食糧事情もいくらか好転したので、各分教場で授業していた生徒を全部名護に集めて各分教場で授業していた生徒を全部名護に集めて各分教場は解散した。6月頃であった。昭和22(1947)年名護には田井等高等学校と本部町に開洋高等学校があった。

 名護、羽地、本部などの近隣町村中、通学可能な処に高等学校をを持たないのは今帰仁村だけであった。帰村直後暫時旧中学校生を集めて仲原馬場に幕舎を建て授業をしたこともあったが、間もなく田井等高等学校等に吸収されたことは前記の通りで、本村の子弟は田井等高等学校の寮に入って就学しなければならなかった。しかし当時の情勢からいって、その願望はなかなか達成されないだろうと考える向きも多かった。

     (続く)


2014年1月29日(水)

 奥武島(名護市真喜屋)にあった「ないくみ」(メークミ)の一門の墓の厨子甕(90基余)を拝見。以前から一門の上地重福について関心をもっている人物の一人であった。名護市真喜屋と稲嶺に香炉が三基寄進されているからである。それと「ないくみ」の一門の祠は今帰仁グスクへ向いており、また祠対に北山王の図像が描かれている。北山系統の一門であるとの観念がみられる。

 上地家は真喜屋ノロ殿内と隣接してあり、後方はマティキヤウタキである。香炉の一基は「つるかめ」の祠にも上地重福氏は寄進されている。「ないくみ」一門の厨子甕と「ないくみ」の祠、そして「つるかめ」の祠の香炉の確認。以前にも触れたことがある。

【上地重福と寄進した香炉】
(2010(平成22)年9月18日)

 名護市真喜屋(稲嶺)に「上地重福」が寄進した香炉が三ヶ所にある(稲嶺のマディキヤウタキ、真喜屋のウイヌウタキ、つるかめ拝所)。これまでどのような家の人物か、まだつかめていなかったが、『沖縄の古代マキヨの研究』(稲村賢敷著:135頁)で上地家について紹介されている。このように補足できる資料と出会うことは楽しい。香炉は上地福重が明治28年に上京し、帰ってきてから「奉寄進」したものである。


   ▲マティキヤウタキの香炉(稲嶺)      ▲真喜屋のウイヌウタキの香炉     ▲真喜屋の「つるかめ」の拝所


    ▲「つるかみ」の拝所          ▲真喜屋ノロドゥンチの近くにあった上地門中の家(昭和30年代)


【光緒元年と明治28年に上京した人物】(2010年1月29日メモ)

 羽地間切稲嶺村の惣山當の履歴書に以下のような記事がある(「名護市史資料編5」地方役人関連資料96頁)。宮里清助は羽地間切稲嶺村の人物で、この「御願書」は明治30年2月に羽地間切の地頭代へ採用願いの履歴書である。詳細には触れないが、真喜屋と稲嶺の「奉寄進」の香炉の人物達と重なる人物の一人である。

 光緒元年(明治8)の真喜屋掟嶋袋仁屋、明治廿八年の真喜屋村の上地福重、そして稲嶺村の宮里清助、三人が上京している。それは羽地間切の御殿と殿内へ奉公した羽地間切の村の人物との関わりを示すものである。明治九年の池城親方は三司官の池城安規で、上京中亡くなった人物で、その時葬式などを執り行っている。三司官池城親方の上京は、「琉球国の存続と清国との国交の継続」などの案件である。

 一 (明治)九年旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事
    仝九年九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
 一 於東京屋我村掟拝命、早速帰帆之筈候處、檀那事明治九年五月ヨリ重病相煩ヒ看病方彼是手
   不足ニ付滞京拝命、仝十年三月ニ至テハ不慮及死亡、葬式並跡香儀向等相済シ、仝年七月十二
   日帰帆、檀那方役人方荷物付届向、仝月十三日ヨリ仝廿日迄首尾能相勤申候
 
 
  一 旧惣地頭で亡き池城親方が、東京への御使者の時、旅のお供を拝命し上京いたしました。
      明治九年(1876)年九月二十七日から同十(1877)年九月二十日まで
   一 東京において、屋我村掟を拝命し早速、帰帆の筈だったのですが、檀那である池城親方が明治九(1875)年五月から
     重病となり、看病にあたって、あれこれ人手不足なので、東京に留まれとの命を受け、明治十(1876)年三月になって、思っ
     ても見なかったことですが、死亡され、葬式と跡香儀などをすまし、明治十年七月十二日に帰帆し、檀那(惣地頭池城親
     方)及び役人方への荷物を付け届けるなどの仕事を、七月十三日から二十日まで首尾よく勤めました。
  
 上記三人とは別に、羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にやの人物がいる。上京はしていないが、三司官池城安規が上京した際、旅行の「御立願」として、光緒元年(明治8、1875)八月十一日に国頭間切辺戸村へ出かけて「御立願」をし、十五日に帰ってきて間切の役人などに報告している。「口上覚」(羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にや」に、以下のようにある。その時、立願をした上里にやは上京していないが、「光緒元年上京之時 奉寄進 真喜屋村掟嶋袋仁屋」(香炉)の嶋袋j仁屋が上京している。

 一 光緒元亥年八月十一日、檀那様御旅立願ニ付、国頭間切辺戸村江御立願仕、同十五日罷
    帰、間切役々衆江申上候
 一 同年十二月御旅御立願ニ付、主之前前様御下之時、今帰仁間切親泊迄御供相勤申候

  
    ▲「ないくみ」一門の墓の厨子甕         ▲真喜屋神アサギ側の「ないくみ殿内」      ▲上京の時寄進の香炉

※ないくみ一門の厨子甕は名護市史/名護博物館蔵です。

【戦前・戦後の今帰仁】④

【帰郷の道をひらいてくれた両先輩、伊波普猷・幸地新蔵】
(故仲宗根政善:琉球大学名誉教授)

 仲宗根政善資料目録

 われわれが、最後に、喜屋武断崖に追いつめられて、いよいよ死に直面したとき、親兄弟にも知られず、この断崖のかげに朽ちはてるのかと、ひしひしと死の孤独感にとりつかれた。最後の最大の念願は、自分がこうしてここで死んだということを、親に知られたいことであった。親としても、子の遺骨を最後に抱きしめたいととであろう。奥さまをみつめながら、私は喜屋武断崖に追いつめられて、阿旦の陰で死をみつめていたときのことを思い出した。

 親の悲劇がとげられるようにと念願しながらも島尻の戦野の阿修羅の巷を知っている私は、哲郎君のお骨をさがしあてることは、おそらく望みのないことではなかろうかと内心思った。新蔵先生のお顔をのぞくと、なんなく私の心中を察しておられる様子がうかがえた。しかし、奥さまのお顔には、みじんもそれが不可能だという様子はうかがえなかった。私の話を沈痛な面持で、じっと聞きいっておられた。

 これまでも、すでにいくども哲郎君の最後をさがしもとめて、島尻の荒野をさまよいあるいて来られたようであった。

 ご夫妻は、私から何の手がかりもえられず、がっかりして帰られた。その後、しばらくご夫妻にお会いしなかった。

 うわさに聞くと、その後も、奥さまは、家族のとめるのも聞かずに、島尻南部の戦場のあとを、哲郎君の最後をさがし求めておられることをお聞きして、悲しみにたえなかった。車もない不自由な時代だった。

 もう十数回も島尻の戦野をさがして歩かれた。最後に、三和村真栄平の野路で、百姓に出逢った。息子の最後をさがして歩いているのですが、と告げると、百姓は、自分の畑に一人の兵隊が埋められていることにはっと気づき、その場へと案内した。埋めた跡を堀りおこして見ると、まぎれもなく哲郎君であった。何という不思議なことか。

 奇蹟といおうか。いや奇蹟ではない。親の執念から出て、人事を尽してさがしあてたのである。それにしても、神仏の引き合わせであろう。神仏の引き合わせだといっても、他力ではない。やはり人事をつくした結果である。親の心の奥には人間以上の霊力ともいうべき力がひそんでいるかもしれない。親の子を求める極限に霊光が輝くのであろうか。

 北国の冬枯れの野のように硝煙弾雨で、焼けただれて、鬼気のせまる島尻の戦野を、わが子の最後をさがし求めて歩いている母親の姿を思い浮かべると、涙がにじむ。

 私は、ひめゆりの塔の壕で、娘をなくし御両親をともなって、壕を案内したことがあった。その母親は、壕の中におりて行って一晩中じっと耳をすましていたという母親がいたことも聞かされた。

    (続く)


2014年1月28日(火)

【戦前・戦後の今帰仁】③

【ホラでもふかんか】
(島袋喜厚:元校長)

 昭和3年の正月のことであった。元旦には各校で拝賀式や新年宴会が催されたから、それは二日か三日のことであったろうと思う。当時私は稲嶺小学校で山城宗雄先生の下に勤務していた。

 校長と主席訓導の山入端立松先生のおともをして羽地小学校の幸地新蔵先生方に新年のごあいさつに同行した。「あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろ御指導wpいただきありがとうございました。今年もどうぞよろしく」と型どおりのごあいさつがあり、あとは教育界の雑話に興じたように思う。

 三カ月後の四月には、宿望の県立第三中学校が名護に開校する運びとなっており、その喜びはたいへんなものであった。その誘致のための苦心談や新設校に対するもろもろの期待などが校長先生方の話題であったように思う。

 幸地先生は新設中学校に対して実業学校らしい夢をいだいて居られたらしく、・・・・「学校で馬を飼い、馬の手入れや草刈などで勤労教育を施すかたわら体育には乗馬をとりいれたら・・・・」などと語られた。

 大正5年に農林学校を嘉手納に移されて以来、北部には全く県立の中学校がなかった。今度その中学校ができるという喜びに端を発して、教育についてのいろいろの発想や希望に胸をふくらみ談論風発するところがあった。

 幸地先生や私にも退屈させないように時々水を向けられた。
 「どうだ島袋、だまってばかり居ないでホラでもふかんか」とっさの誘いに対して「ホラは聞くだけでたくさんです」と返事したように覚えている。「まいたなあ、こいつ、アハハハ・・・」と頭をかいて大笑いなさった。

 先生のこれまでの談論に対して「ホラ」という評価を下したことになり、とんでもない乱暴な答えになったが、妙に若い者の心を引き立てるようなおおらかな先生の態度に救われた。

 さらに両校長の間ではどなたか先輩の業績について話し合って居られたように思う。「・・・・人の骨をあさって・・・・・」とか何とかいろいろ談じて居られた。

 「島袋君、君たちが将来またぼくらの骨をあさるということになるのであろうな」とおっしゃった。私はまた深く考えもせずに「ご心配いりません・あさり甲斐のある骨ならあさりもしましょうけれど・・・・・」といった。

 あれから五十余年を経た今日、回想録の執筆を通じて先生の骨をあさることになったが、それは昔からの約束ごとであったかのように感慨深いものがある。


 ・一つの伝説(省略)
 ・臨終の頃(省略)
 ・御葬儀は大雨の日だった(省略)
 ・思い出す恩恵の数々(省略)

 ・先生はなお生きている
 沖縄戦も近くなった昭和17年に先生は那覇から名護小学校に転任された。
 名護小学校は国頭郡の中心校であり、その校長は当然区国頭郡全体の指導的立場にあり、群教育部会長を兼ねておられた。息苦しい決戦体制下の教育にどんなにどれほど苦労されたことか・・・・。

 今帰仁村民の羽地抑留中に、我部祖河小学校というのを新設に際しても、旧中学校生の就学についても北山高校の誘致に際しても、最高権威者としてすべて先生の御指導の下にわれわれは働いたのである。

 先生の没年は終戦後僅かに8年の昭和28年である。漸く第一回祖国復帰総決起大会が開かれた年である。・・・・
     

2014年1月24日(金)

【戦前・戦後の今帰仁】②

【二度と教壇に立つまい】
(宮里松正:元旧政府行政副主席・弁護士) 

 私は県立三中の生徒で、三中鉄血勤皇隊に所属していた。昭和20年5月から6月にかけて、久志村(現名護市)三原の山中にひそんでいたころ、幸地新蔵先生にお会いし、しかも一月近い非難生活で起居を共にすることになった。先生の御子息照二君(医師になる)とは三中時代の学友である。同じ鉄血勤皇隊に配属されたが、彼は村上大尉の指揮下にあり、私は宇土部隊傘下の支隊にいた。八重岳を中心に本部半島に布陣をした我が方の戦線は、米軍の猛攻により崩壊、私たちは久志の山中に後退したのである。

 幸地新蔵といえば、我が国頭郡の生んだ命名高い大先輩で、平素なら近寄り難い存在であった。学友の尊父でもあり、中学生の私でも偉大な人材であることはわかっていた。剛直をもって知られた大先輩だったが、昭二君の安否が気になるらしく、ごく普通の父親

   (続く)
     

2014年1月24日(金)

 『幸地新蔵先生の思い出』(昭和54年発行)に戦前・戦後間もないころのことが、執筆者一人ひとりが体験や幸地新蔵氏との関わりでの貴重な出来事が書かれています。何名かの記録を紹介します。

【戦前・戦後の今帰仁】①

【新之丞・新太郎・新蔵 幸地家三代】(仲村 繁:元今帰仁村議会議長)
 
 幸地家は字勢理客在の幸地家からの分家で伊武河(インガ)原に居住し太良幸地という方が幸地先生の家の初代は封建時代の厳しい経済下の分家だったのでごく平凡な家庭だった。二代目が幸地新之丞、彼一代で社会に傑出する程の篤農家を造りあげた人物だが、青年時代僅かな期間であったが他家に奉公に出たことがあった。

 若い頃より剛気、頭脳明晰で身体強健な人で活動家として知られた。
 働きの甲斐があって農地を買い始め、藍で当て年々増地を図った。当時は染色原料藍の生産が盛んで、同家も藍の生産加工に目をつけ、それを家業とした。新之丞はまた、常に商才のある方で、藍の一貫生産で加工品の藍玉を運天港から那覇に運び取引して、やがて今帰仁間切内で五指に入るほどの財をなした。

 勢理客吉事原現吉事土地改良事業区に田地を、渡喜仁原に畑地を、伊武河原に山林原野を、つぎつぎ買い求めて充実した営農j家となった。渡喜仁原の広大な畑地には甘藷、豆類、雑穀などを栽培し、一時そこを藍の名産地にした。当時、渡喜仁原の住民は総て寄留民だったため、土地田畑の所有地が少なく、小作貧農家が多かった。旧藩時代のことだから、農作物を荒らす事も人はさほど気に留めない。甘藷を掘ってみると、畠の大半の芋づるは刈り取られ、甘藷は首打をされている。何者かによって苗は畑主よりも先に採(盗)られてしまっていた、ということも稀ではなかったようだ。

   (続く)



2014年1月23日(木)

 昭和62年に「大道下庫理顕彰碑」(『名護碑文記』)をまとめたことがある。来月名護市大西公民館で「名護湾岸のマチ・ムラ」として講演の予定。

名護湾岸のマチ・ムラ(レジメ)


※参考文献 『名護のわがマチ・わがむら』など

【名護市大兼久】(『名護碑文記』(所収:昭和62年)

 大道下庫理(ウフドゥシタグリ)の顕彰碑は、上鍛冶工門中によって昭和47年(1972)に大西区公民館近くに建立された。現在地に碑が建てられるまでは、小さな祠で個人の屋敷や名護市水道課のある丘、名護保健所向かいの教会敷地やその下の敷地などを転々と移動していた。一門で寄付を募り大兼久の共有地の一部を購入し、そこに碑を建立して落ち着くことになった。下庫理の業績を後世に是非伝えていきたいとの一門の強い願いがあり、その業績を碑に刻み遺すことになったという(比嘉栄治・宮里文氏談)。

 大道下庫理の業績は、一門の間で先祖代々伝えられてきた。碑に刻まれた文は、一門の故比嘉栄太氏の口承による。伝えられる下庫理の業績は、碑文によると以下の通りである。
  ・体が強健で性格が温厚であった。
  ・双紙庫理に奉公し、産業・経済・文化の学殖が豊かであった。
  ・蔡温の「独物語」や「御教条」を学び、克己精励し衆望を集めた。
  ・乾隆年間(1736~95年)に大堂原の開拓や保安林の造成に尽くした。
  ・大兼久村の産業振興を推進した。
  ・村民の協和と慰安のため村踊りを創設した。

 「双紙庫理」と「下庫理」は首里王府の役職の一つで、評定所の下に申口方→双紙庫理→下庫理→漏刻番・御番役と組織されていた。双紙庫理は、宮内のことを担当したり、その下に位置する下庫理をはじめ書院・近習方・納殿・道具方・大台所・料理座・小細工奉行所・貝摺奉行所・厠役を管轄し、また下からの申し出の取次を行う役職である。下庫理の、仕事の内容によって当・番医者・花当・轎夫・諷中門・酒庫理などの役目がある。下庫理の下には、時間のことを掌る漏刻版と城中の警備や門番をする御番役がいた。主な仕事は、城内における日常の雑務的なことを行った。

 一門が伝える大道下庫理は、碑文では双紙庫理に奉公したと記されている。ただ、王府で具体的どのような仕事をしていたのかについては触れていない。首里で奉公して下庫理の役職をにつき、そこで得た知識や枝を生かし、名護の大兼久村の産業振興や村踊りを創設した。一門では、このような大道下庫理の業績を顕彰し、後世に永く伝えるため、毎年旧九月二十九日に碑の前に集い、拝みを行っている。

 参考文献 「首里王府行政機構図」『沖縄県史』別巻「沖縄近代史辞典」所収
        「尚真王第三王子太宗今帰仁王子朝典 向氏名護城上鍛冶工・大兼久牛山屋門中家系図・住所録」(昭和61年改定)

 
      ▲現在の名護市大西区の公民館           撮影:比嘉武則(当時名護市史)

2014年1月21日(火)

 『幸地新蔵先生の思い出』(昭和54年:幸地新蔵先生回想録出版の会)に目を通している。そこには幸地新蔵先生をはじめ、戦前から戦後にかけて奔走された方々の先生との関わりでの記録がある。一人ひとりの文面から戦後今帰仁村について紹介していきます。

 幸地新蔵先生について、沖縄県姓氏家系大辞典から紹介する。
   幸地新蔵(こうち しんぞう)(1891~1953年)

   今帰仁間切勢理客村出身。沖縄県師範学校卒。1918年国頭村奥小学校長となり、県視学・那覇尋常小学校長・
   名護国民学校長を務めた。戦後は沖縄議会議員を経て、1950年沖縄群島政府総務部長となり、1952年第一回立
   法議員選挙に当選。

 『幸地新蔵先生の思い出』に今帰仁村の戦前・戦後生きぬき、今帰仁村の戦後復興に力を注いだ方々である。その名前を掲げます。今帰仁村勢理客にある「顕彰碑」は 『幸地新蔵先生の思い出』、の剰余金で建立してあります。出版に関わった方々は国頭村、羽地村(現名護市)、名護町(現名護市)、那覇市などです。 『幸地新蔵先生の思い出』の「郷党」に原稿を寄せられた方々の名前を掲げます。それらの原稿から当時の様子や動きが見えてきます。その中の一人に・仲宗根政善先生も原稿を寄せています。

 ・仲村繁      新之丞・新太郎・新蔵・幸地家三代
 ・玉木英律    幸地家の人々
 ・仲宗根政善   帰郷の道をひらいてくれた両先輩、伊波普猷・新蔵
 ・仲里達雄    忘れられない「すき焼の味」
 ・宮里松正    二度と教壇に立つまい
 ・松田幸福    自立精神は人間の誇り
 ・吉田光正    北山高等学校誘致雑感
 ・新城紀秀    北山高等学校誘致に奔走
 ・上間政春    百年の大木
 ・与那嶺福次郎 幸地今帰仁農業組合長の足あと
 ・大城千栄    やがて作物や庫に満ちゅさ
 ・真栄田義永   産業を興すのは人
 ・真栄田八重   心に残る幸地夫妻の晩年
 ・小波津みね   理想的な女教師・安谷屋歌子先生
 ・仲松チエ     静かで、愉快な幸地のおじさん
 ・津波古菊子   小石の投げっこで結ばれた二カップル
 ・与儀毬子    幸地おばさんに亡母の面影を 
 ・島袋喜厚    ホラでもふかんか
 ・玉城精喜    小原国芳玉川学園長の影響
 ・玉城スエ    嗚咽しながら遺体の爪切り


2014年1月17日(金)

 今帰仁グスクのライトアップ。明日から。

  

 


治金丸】(『南島風土記』110~101頁 東恩納寛惇)

 この刀(治金丸)は尚候爵に現存(現在那覇市歴史博物館蔵)秘蔵されているが、往年、今村長賢・關保之助両氏の鑑定する所は次の通りである。

治金丸
  刀身 長 壱尺七寸八分匁綾乳匁表裏四本樋
  中心 長 四寸壱分
  刀身 量数 壱百七匁
  柄頭 角頭巻懸柄
  目貫 黒ミ銅、桐紋
  目釘 竹
  銸   金着セ
  縁   黒ミ銅
  柄糸  鶯茶
  巻下地 黒塗鮫
  鐔    木爪形烏銅色絵菊紋散(千代金丸ノ鐔(ツバ)ト同形同大、但緒目覆輪剥落)
  大切羽 烏銅色絵菊紋散
  鞘(サヤ) 黒花塗
  小尻   丸小尻
  粟形   黒塗鵐目金
  反角   黒塗
  小柄   金含烏銅色絵雲形紋様
  小刀   無之
 
 ※備考
   治金丸一口、年代千代金丸に同じ。刀身金見事也。燒匁亦細、作者は応永頃の信国乎、柄糸の間に空隙あり。親鮫の
   位置第二の菱形に当たる。但し古式也。今日完存するもの稀也、袋に包み、手を掛けぬよう心得肝要也。小柄の作柄及
   紋様共に名作、珍重すべし。

北谷菜切(『南島風土記』377~378頁 東恩納寛惇) 
 刀身長 七寸六分
 中心長 二寸七分
 刀身量数 十六匁
 柄頭   金唐草唐花彫
 目貫   無し
 目釘   黒角
 鎺金着

 但鎺は鞘の中へ食込み無之、縁頭に同じ、柄金出鮫、鐔(つば)無し。鞘(さや)両□青貝摺、小尻頭に同じ、栗形 同上、
 裏瓦 同上小柄 小柄 金含、雲に貘の高彫、裏に篆字及分銅形毛彫、笄 金著、挑枝の高彫、裏に篆字、下緒 お納戸色石打。

※備考
 刀身磨滅、作柄不明、焼匁は鐔(つば)元少し存在、年代四、五百年程、地金ヨシ

2014年1月15日(水)

 運天港の海岸沿いの写真がある。昭和30年代だと思われる。護岸の石は運天番所(役場)の石だと聞いている。護岸の左側は波打ち際。現在は道路になっている。アコウの木は健在なり。


      ▲昭和30年代の運天の海岸                 ▲現在の様子(2014.1.15)

2014年1月11日(土)

 中南部の拝所に三つの香炉が横直線に配置されているのを見かける。ウタキの場合は石が一基であったり、岩であったりする。三つの石が置かれるのは火神の祠で、それとは別である。

 『琉球国由来記』(1713年)の御嶽のところに「弐御前」や「四御前」、殿(トゥン)の中にある並列の三つの香炉は類似のものであろうか。「御前」の三つ、一つは美御筋之御前(血筋の神:祖先神)、ニは「御火鉢の御前」(火の神)、三は「金の美御すじ」(穀物の神)とされるが、もっと複雑のようである。


  
    ▲本部町建堅の祠の内部               ▲弁ガ嶽の最上部        ▲恩納村山田のクシヌウタキのイベ

2014年1月10日(金)

 昨日兼次小6年生が今帰仁グスク(天気が悪かったので大隅内)で「北山の歴史」の発表をしてくれました。19名(3名欠席)が今帰仁グスク成立以前(グスク周辺の三つのムラ・北山王以前の伝承)、北山王の時代、第一監守、第二監守の時代を19名が分担して発表。歴史を学ぶことが何かをしっかりと地についた、そして歴史を知識はもちろんこと、その時代を感じさせながらの発表でした。休んでいた三名の分の発表もあったような。学校だけでなく、多くの方々に伝えてくれたらありがたいですね。




           ▲19の場面全部入れたかったのですが代表して5名(場面場面の絵もいいです)


2014年1月9日(木)

 ここしばらく今帰仁グスクに集中してみる。先学者の記録を集めてみる。

2005.08.18(木)メモ

 『松川誌』(那覇市)のメンバーがやってくる。字誌の編集のことのようであるが、何故今帰仁なのか?よくわからない。もちろん、これまであるいは現在字誌の編集に関わってはいるのだが。もしか?すると第一の理由は、以下のことかもしれない。一通り、来週まで「松川」について、頭の整理を少しだがしておきましょう。

 万歳嶺(現在首里山川町)と官松嶺(現那覇市松川)の碑がある。万歳嶺(ばんざいれい)は別名ウィーナチヂナー:上今帰仁那)、官松嶺(かんしょうみね)はシチャヌミヤキヂナー(下今帰仁那:シチャナチヂナー)とも呼ばれている。那覇にあるナチヂナーと今帰仁(間切)とどんな関係にあるのか。そんな質問がきそうである。

 以前、考えたことがあるが定かなことはわからなかったような。確か『南島風土記』(東恩納寛惇著)にあった「往昔者、板橋ニテ、橋本迄、山原船出入仕リタリトナリ。中古、矼ニ成リタル時、潮與水行逢所ニテ、橋名ヲ指帰橋ト、名付タルト也」(『琉球国由来記』)であったような。東恩納氏が「この橋の辺まで山原船が出入りしたと伝ふ由来記の説は事実と思われる」と述べている。

 万歳嶺(上ミヤキジナハノ碑文:1497年)と官松嶺記(下ミヤキヂナハの碑文:1497年)の二つの碑文にミヤキヂナハ(今帰仁那)と一文も登場しない。官松嶺記に「・・・三府在□曰離曰南山府在其両間曰中山府可謂海上之三山矣中府之西有丘・・・」とあり、山北府は出てくるがミヤキヂナーとはでてこない。恐らく、碑文が建立された時か、その後かもしれないが、一帯がミヤキヂナハ(ナチヂナー)と呼ばれていて、そこに二つの碑が建立されたのであろう。

 碑文が設置された場所はナチヂナーの地名がつく場所であった。ナチヂナーの地名は二つの碑文の内容とは直接関係ないように思われる。東恩納氏が述べているように、安里川(近世、安里川から崇元寺より上流あたりまで舟が遡っている)から遡り、嶺の麓あたりまで舟の往来があり、港として機能した場所であったのかもしれない。そうであれば、今帰仁(北山)からの舟の発着に由来した可能性は十分ある。

 果たして「嶺の麓が一帯が港として可能な場所だろうか」の疑問はあるが、指帰橋あたりまで「潮水ト逢所ニテ」とあるので、満潮時には海水がそこまで遡流していたのであろう。一帯の標高が5m以下なら十分可能性があるのだが(それは未確認)。というのは、今帰仁あたりでも標高3~5mにあたりにトーセングムイやトーシンダー、あるはハキジ(舟綱をかける)など舟に関わる地名があるからである。11、12世紀ころの様子が彷彿してくる。



2005.05.13(金)メモより

 今帰仁グスクのグスクの外郭内に古宇利殿内(フイドゥンチ)火神の祠がある。その火神の祠の性格がいまだすっきりとしない。古宇利島の人たちが来て拝むという。また名称がフイドゥンチのフイは古宇利島のことではあるが。それでも古宇利島あるいは古宇利島の人々と、この祠は結びつかないでいる。以前、ちょっと触れたことがあるが、それは「地頭火神」、あるいは「地頭代火神」ではないか。

 この火神の祠について『琉球国由来記』(1713年)には登場してこない。明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』の今帰仁間切今帰仁・親泊二カ村のところに14ヵ所の拝所が記されている。また大正末期に訪れた鎌倉芳太郎氏ノートに「クイドンチ(kuidunchi)(古宇利殿内)はオーレーウドンノ東南五十間位ノ所ニアリ、丑方ヲ拝ム、火神、瓦殿ナリ、古宇利人旧八月頃来リ参拝ス(諸人ハココヲ拝マズ)とある。( )に現在の呼称名を入れてみた。まだ古宇利殿内がどのような火神なのか未解決。

 気になっているのは1665年以前の今帰仁間切(本部間切含む)の番所はどこにあったのか。これまで史料を見ているが、当時の今帰仁番所がどこにあったのかはっきりしない。今帰仁按司がまだ首里に引き揚げていない時期なので、本部を含んだ今帰仁間切の番所は今帰仁グスク内にあったのではないか。古宇利殿内火神の祠のある一帯に番所があったのではないか。

 もし、そうであれば地頭代火神の祠だと言えそうだが。しかし今帰仁間切の地頭代が古宇利親雲上になるのは1750年頃からである。あるいは、この火神の祠に名称が必要になっていた頃は、今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上と呼ばれていたので、古宇利殿内と名付けた可能性もある。そのようなことも念頭にいれて考える必要がありそうだ。

 ・公方ノ嶽(クボウヌ御嶽)
 ・ヨクノカタ
 ・シノグン子(シニグンニ)
 ・ナグ(ナグガー:エーガー?)
 ・トモノ内子ノロクモイ火ノ神(トゥムハーニー火神)
 ・祝部火神(アオリヤエ火神)
 ・神アシヤケ(フプハサギ・ハサギンクァー?)
 ・本ノロクモイ火神(今帰仁ノロ火神の古い方)
 ・旧惣地頭火神所
 ・旧按司地頭火神(赤の二つの火神は一つの祠内にある可能性あり)
 ・今帰仁古城内神アシヤゲ(城内の神ハサギ)
 ・天辻(テンチヂアマチヂ:上の御嶽)
 ・雨辻(テンチヂアマチヂ:下の御嶽?)
 ・カラ川(カラウカー)
 
※今帰仁グスク内の火神の祠の中を見ると、三個づつの石(火神)が二セットあり、惣地頭火神と按司地頭火神と見てよさそうである。


         ▲古宇利殿内(フイドゥンチ)火神の祠とその内部

2008年6月13日(金)メモ

 今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン)の祠にあった扁額である。平成5年頃まで祠にあったが、今では失われている。昭和60年頃撮影と採拓したものである。右上に「乾隆歳次丁未□□春穀」と確認できた。「□依福得」と読める。乾隆歳次丁未は乾隆52年(1787)にあたり、当時の今帰仁間切惣地頭職は十一世の弘猷(今帰仁王子、名乗:朝賞)(1756~1809年)である。オーレーウドゥンの祠にあった下の扁額と十一世弘猷がどう関わっているのか。今のところ直接関わった資料に出会えたわけではないが、オーレウドゥンへの扁額の奉納と今帰仁王子弘猷の動きと無関係ではなかろう。

 乾隆52年(1787)に太守様の元服のときで、向氏今帰仁按司朝賞は使者として派遣される。7月11日那覇港を出て15日に山川港へ到着。鹿児島城での公敷きの儀礼を果たし、方物を献上し、また福昌寺や浄明明寺などを拝謁している。翌年2月11日麑府を出て、翌日山川に到着するが風が不順だったようで帰ってきたのは3月11日である。同じく乾隆52年に三平等許願いのとき、世子尚哲、世子妃などを薩州へ使わされている。

 オーレーウドゥンの扁額はふたつの薩州への派遣と関わっての奉納だと思われるが、果たしてどうだろうか。20年余前に別の視点で扱った扁額を再び扱うのもまたいいものである。




2014年1月8日(水)

【今帰仁グスクと親泊】

 今帰仁グスクの麓に親泊がある。現在今泊となっているが、今帰仁と親泊が統合して今泊となっている。その親泊は今帰仁グスクが機能していた頃の港(津)だったに違いない。泊はトゥマイのことで舟が碇泊することであろう。親はウェーやエーなどと発音され、「りっぱな」な「大きな」の意がありそう。すると親泊は「りっぱな碇泊地」あるいは「大きな碇泊地」だったと見られる。

 それが村名(ムラメイ)として親泊と名付けられたのではないか。親泊集落の東側にチェーグチ(津屋口)の地名があるが、津口(港)に由来している。そこには今帰仁グスクで監守を勤めて第三世和賢が葬られている津屋口墓がある。

 現在の今泊集落の西側にシバンティーナの浜近くのナートゥ(港)、そして東側にナガナートゥ(長い港)があり、そこも港として使われたのであろう。今帰仁グスクから出土する中国製の陶磁器類がどのような経路で搬入されたのか。この親泊という港と結びつけて考える必要はある。しかし大型の船の出入りは狭いリーフの切れ目のクチから不可能にちかい。ならば、どのような経路で搬入されたのか。考えて見る必要がありそう。あるいは、今の常識を超える搬入の経路や方法があったのか。考えさせられることが多い。

 これらの港地名の着く場所が港として機能したことは間違いなかろう。ただし、小さな舟が発着した程度の津だったのではないか。海上はリーフが広がり、一部にクチが開いているにるにしぎない。その小さなクチから進貢船や冊封船などのような大型の船の出入りは不可能である。大型の船は運天港や那覇港など他の港に停泊し、そこから小舟で荷物の運搬をし、その発着場としての役割を果たしていたと見られる。


  ▲志慶真川の下流域(ミヂパイ)              ▲津屋口付近


 ▲東側から見たナガナートゥ(長い港)      ▲西側から見たナガナートゥ


【千代金丸と志慶真川】(水はり:ミヂパイ)(『琉球国由来記』 1713年)

「折節、山北王、本門の向敵、過半討ふせぎ、殿中に入て見れば、妻子悉く、自害せり。依之、城内の鎮所、カナヒヤブと云う盤石あり。夫れに向て申様は、代々守護神と頼しに、今我於敗亡には、汝と共に亡んとて、千代金丸と云う。刀を抜て、彼の鎮所を十文字に切刻、其刀を以て、自腹を切らんとすれば、誠に名刀とかや。主を害するに忍ばず、釖鈍刀と成て、敢彼膚に立たず、然故、志慶間(真)川原と云う所に釖捨、別刀を以て釖自害す。

 その後千代金丸、志慶真川原より流下、親泊村の東、水はりと云川原に流止、夜々光輝天に。伊平屋人、是を見て、不思議に思へ、態々渡来、見るに、水中釖あり。則捕揚げ、持ち帰りければ、従此光止ける。名釖たることを知て、中山王に献上す。干今、王府の宝物、テガネ丸御腰物、是なり。但千代金丸と云つつ、替への由、申也。干今、カナヒヤブと云鎮所者、差渡五尺計の黒石にてありけるを、千代金丸を以て、十文字に切刻たる旧跡、有之也。


 「北山の歴史」で避けて通れないのは、「山北今帰仁監守来歴碑記」(乾隆14年:1749)の文面である。

【山北今帰仁城監守来歴碑記】(通読:村上仁賢氏)

 
昔は球陽の諸郡四分五裂し 終に三山鼎足の勢と成り 万民塗炭の憂に堪えず 佐敷按司巴志大いに義兵を興し 三山を匤合して統一の治を致す 然れども山北の諸郡 地険阻係り 人もまた勇猛なり 中山を離れること遠く 教化敷き難く 復た険阻を恃み 而して変乱を生ずることを恐る 乃ち次子尚忠を遣わし監守せしめ 永く定規と為す 徳王に至り 酒色に耽り殺戮を好み 国政日に壊たれ臣民皆叛き 遂に宗を覆し 祀を絶つるの禍を招く 時に尚円王 臣民の推載する所と為り 位に就き 政の蒞み 大いに万世の基業を開き 亦大臣を遣わしては輪流監守せしむ 乃ち吾が元祖也 爾より来る世は 北城を慎め 永く典法を守り 北人愈々服し 大いに雍熈の休を致したり 既にして康熈四年 七世従憲 命を奉じ 宅を首里に移す 仍て北城及旧跡典礼等の件を掌る 乾隆七年に至り 将に城地を以て改めて郡民に授け その典礼を行わんとす 是れに由り 宣謨 疏を具え 往事を稟明し 恭く兪充を蒙る 永く典礼を掌ること旧の如くす 伏して惟うに 元祖以来山北を鎮守し 以て純治を致すは 是れ誠に宗徳功の累する所にして 吾家の子孫また重んぜざるべからざるものなり 宣謨 謹んで来歴を記し 以て諸石に靭み 永く不朽に伝えよと云う
  皇清乾隆十四年己巳秋八月穀旦十世孫今帰仁王子朝忠謹立 

 
     ▲山北今帰仁城監守来歴碑(拓本)と火神の祠とと石灯篭


2014年1月7日(火)

 今帰仁グスクへ上る。今年は北山の歴史を深めることに。「今帰仁旧城図」(1742年)(具志川家家譜所収)の上ノイヘと下ノイヘ、それとトノ敷とあるのは神アサギ跡。それらの確認。そこは「北山滅亡」の最後の場所である。

 上ノイヘは『琉球国由来記』(1713年)で「城内上之嶽」とあり、上ノイヘはテンツギカナヒヤブノ御イベとされる。下のイヘは城内下之嶽とされ、そのイベはソイツギノイシズとされる。

 『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切旧跡のところで、「城内ノ鎮所、カナヒヤブと云う盤石あり」あり、盤石がイベである。その鎮所の盤石(イベ)を十文字に切り刻んだ剣が千代金丸という。その刀で自害しようとするが、その刀は主を切るに偲びず、鈍刀となり、志慶間(真)川に投げ捨て、別の刀で自害をした。その後、志慶間川の下流に流れ、ミジパイまで流され・・・

 「カナヒヤブと云う鎮所は、差渡五尺計の、黒石にてありけるを、千代金丸を以って、十文字に切り刻みたる旧跡、これ有なり」とある。

 宮城真治氏は『古代の沖縄』で「受剣石の行方」として『琉球国由来記』と『中山世譜』から場所の特定を行っている。「下の岳そいつぎのいしす御イベに二つに割れた一尺余の平石が置かれている」との説明がなされていたようである。そのこともあって、「下の岳」のは偽者であることを明らかにしている。宮城の昭和17年11月6日に寄稿したようで、その時の実施調査メモが記されている。
    石の高さ地上    五尺八三
    石の周り      十六尺四三
  なお同所より斜左下に裂けたる跡  四尺二四
  向って斜左より斜右下に裂けたる跡 二尺一
  なお同所より更に裂目の隠れて現われざる部分  一尺三
  切り落とされたと称する二刀の間の高さ    一尺九
  同じく幅                  一尺六
右の通りとなっていた。然るに昭和28年5月10日行って見ると、先年の戦禍によって傷ついたものか、写真の如く数個に砕かれていた。(再販に写真はない)

 島袋源一郎氏も『国頭郡志』(大正8年)の「志慶真川」の項で、「志慶真川は北山城東なる志慶真渓を流るゝものにして今は合川(エーガー)といい、其の下流をニークン川と呼べり。五百余年前山北王攀安知滅亡に際し宝刀重金丸(千代金丸?)を出して自刎せんとするに剣鈍くして入らず即ち志慶真川に投ぜしを以て有名なり、後伊平屋島の人其の光中天発射するを認め来りて「水走」に之を探り求め、中山王に献ぜり。剣は今尚家の秘蔵に係るjという。『中山伝信録』の記事も引いてある。

 島袋源一郎は『補遺伝説 沖縄の歴史』(昭和7年)と『』で千代金丸について、克明に記してある。
 「宝剣千代金丸は刀身に二尺三寸六分、明治二十三年小松宮台臨の折、御鑑賞を蒙り其後も屢々御噂をせられたといい、また明治四十二年御手入の時斯道の諸大家より天下の至宝と激賞されたという。其鑑定に依れば「足利時代の作で、大功羽二枚完備せるは他に比類なき珍品なり、柄は短くして騎馬刀の様式を具へ頭槌形に成り能く振るに適す。柄巻の糸方古式にして頗珍重すべし・・・・頭菊紋の手彫は想うに琉球特有の作ならん。京都作てゃ思われず・・・・之を要するに伝家の宝刀たるのみならず以て天下の至宝となすべし。云々」と。

 さらに真境名安興(笑古)氏はいう。
 其の第二尚家の所蔵に属せし年代は不明であるが、大世の二字が刻まれているのから考ふれば、大世は尚泰久王の大世主という名から来たもので大世通宝などもあるから、或いは北山王を滅ぼした尚巴志王家に渡り、更に王統変革の後次の尚家に移ったものではなかろうか、と。

 東恩納寛惇氏は『南島風土記』389~390頁)で千代金丸について記してある。
 伝に、古へ山北王、中山に滅ぼさるゝに当たり、其佩刀を取りて是れに投ず、後伊平屋島の人これを獲て中山王に献じたり、今侯爵尚氏に蔵する所の千代金丸これである。伝信録重金丸に作る。方音千代チユにひゝくからである。大島筆記これを承けて、「重金丸の事を尋しに、それは琉球王第一の宝剣にて王府の中に秘蔵してあり、前方王府回録のありしにも、どうして出たやら、脇にうつり在て、無恙由なり」

 千代金丸
 刀身長 二尺三寸六分匁文亂、表裏五本の腰樋有之、中心長 三寸六分七厘、刀身重量 九十六匁、柄頭 頭槌形、菊文毛彫大世の文字之、目貫 金唐花、目釘金無垢、鎺 鳥銅、色絵菊文字散文字一字有之、緑 菊文毛彫、柄糸 鶯茶、巻下地 萠黄金襴、鐔 木爪形、烏銅色絵菊文散、大切羽 色絵菊文散、鯉口 金枝菊高彫梢 金慰斗付、小尻 鯉口に同じ、帯取 金物無之。

【備考】(今村長賀・關保之助両氏鑑定)
 千代金丸一口、作者不明、拵の年代足利初代に属す。大切羽二枚完備せるは他に類なき珍品なり。柄は短くして騎兵の様式を具へ頭槌形に成り、能く握るに敵す。柄糸の巻方古式にして頗る珍重すべし。頭菊文の毛彫は想うに琉球特有の作りならん。京都作とは思われず。刻する所大世の二字尚泰王世代所鑄大世通宝の銘文二字と字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号大世主に取るか。鐔猪の目の金の中覆輪最珍成。梢の慰斗付金に継目あるは帯取の述なり。刀身の地金細かにして焼匁亦同断。要之伝家の宝物たるのみにあらず、又以て天下の至宝とすべし。

 
 蓋し、この刀は尚巴志(自応永29至永亨11)時代に盛に支那に輸出された金結束袞刀の一種であって、山北滅亡の前年に尚巴志の長孫尚泰久が生まれているから、後に尚泰久に伝えられ、泰久時代に多少の改装を加えて今日に至ったものであろう。

 島袋源一郎氏の『琉球百話』(昭和16年)に、「宝刀物語」として紹介される。

 此の千代金丸は現(昭和16年頃)に東京尚侯爵家の所蔵に係り其の宝物写真は対象十四年十二月発行啓明会代十五回講演集の口絵に載せてある。刀身二尺三寸六分、明治三十二年小松宮殿下台臨の折、御観賞を蒙り其の後も屢々御噂をせられ給いしといい、又明治四十二年御手入の時斯道の諸大家より天下の至宝と激賞されたという。其の鑑定に依れば・・・・・・・

【尚巴志の名刀】
 次に尚巴王の佩剣に就いて『球陽』の記す所に依ればとして紹介される。「其の幼年(巴志)のとき嘗て与那原に遊び、鉄匠をして剣を造らしむ。・・・・・・・・

 
        ▲北山滅亡最後の場面(上のイベ)            ▲千代金丸で十文字に刻んだという盤石