今帰仁村歴史文化センターの調査記録 
        
20125月)         トップへ

歴史文化センターの動き過去の動きへ   
調査記録(2010年4月)                          (館長:仲原 弘哲)
調査記録(2010年5月)   ・天底のタキヌウガン調査
 やんばる研究会 本部町具志堅 奉寄進の香炉と上国
調査記録(2010年6月)   ・山原のムラ・シマ講座へ
 平成22年度学芸員実習 北山系統の一族のムラと一門
調査記録(2010年7月)  ・企画展―山原のムラ・シマ― ゆらゆら日記1へ  ゆらゆら日記2(9月)
調査記録(2010年8月)   ・調査記録(2010年11月)  ・2011年の桜の開花状況 Tam1へ 
調査記録(2010年9月)   ・調査記録(2010年12月) ・23年度学芸員(博物館)実習  ・写真にみる今帰仁
調査記録(2010年10月)  ・調査記録(2011年01月) ・調査記録(2011年2月)へ 中城ノロが関わる祭祀
調査記録(2011年03月
  調査記録(2011年04月) 調査記録(2011年05月)  琉球のノロ制度の終焉(企画展)
調査記録(2011年06月
 調査記録(2011年7月)  ・調査記録(2011年08月)  ・調査記録(2011年09月
調査記録(2011年10月)  ・調査記録(2011年11月) ・調査記録(2011年12月)  ・調査記録(2012年01月
調査記録(2012年02月)  ・調査記録(2012年03月) ・調査記録(2012年4月)  ・調査記録(20125月)

調査記録(2012年06月)


2012531日(木)

 兼次小学校の総合的学習(4年25名)、午前中。今回は今泊が中心。ムラ(現在の字)を構成している、していた要素を拾っていく作業。そこからムラの個性や歴史や文化を体感し確認をしていく。今泊について、以下の12について「話を聞き」、「記録」し、それに感想を入れて「発表」。一人ひとり、自信を持っての発表ができました(指導:仲原・石野・タマキ)。次回は兼次と諸志の予定。お楽しみに!

 ①稲 作
 ②今泊の橋
 ③二つの神ハサギ
 ④二つの公民館
 ⑤今泊のフクギ
 ⑥井戸
 ⑦鍛冶屋の跡
 ⑧馬場跡(マーウイ)
 ⑨獅子小屋
 ⑩今泊の浜(シルバマ)
 ⑪シバンティーナの浜
 ⑫親川(エーガー)

 


2012530日(水)

 明日は小学生達の総合的学習があります。学校との打ち合わせがほとんどありませんのでどうなることやら。6月の「山原のムラ・シマ講座」は616日(土)に変更となります。ムラ・シマ講座のページで確認お願いします。

  (あれこれと、たてこんで頭は混乱中。今日は虫のいどころが悪い。悪しからず!)


2012529日(火)

 戦後すぐの資料を目にすることが多くなった。各字の議事録(ここでは渡慶仁)には戦後復興の様子が伺える。二、三紹介することに。山羊の配給は19498月、輸入馬は19499月に配給が行われている。

 19461030日 他字他町村ヨリ転入者ニ関スル件
  一条 他字他村民ニシテ当部落ニ移住」希望者ハ事情ノ如何ニ不拘部落ノ土地面積調査ノ上人口過剰ノ傾向ニ有リ漸ク
       転入認証ヲ得ズ
   二条 当部落出身者ニシテ外地在住者帰還者ニ限リ受入ヲ承認ス
   三条 帰還者ニシテ親戚知己ナキ貧困者ニ限リ字責任ニ於而給与ス
       帰還者ノ件常会ニ於而決定ス
   四条 部落出身者ニシテ帰還者受入ハ通常トシテ縁故者デ面倒ヲ見ル事

  1947519日 他市町村依リ転入者ニ関スル件
      字加入金トシテ金千円也ヲ徴集スル事ニ決定ス
       但シ新加入者ハ字民ノ縁故ナル事
          縁故者ト言ヘ共字民協議ノ上デ決定スル事

 194968
    ララ贈リ物山羊ノ配給(飼育者決定)

 1949731日 輸入馬配給ニ関スル決議事項
    右馬ハ一般区民ノ意ニヨリ競売ニシ最高入札者ニ落札スル事ニ決定ス
   一、金一萬九千百円也

    配給馬ニ対スル決議事項
  一、配給当日ヨリ満三ヶ年1952730日迄ハ飼育者ノ移動ヲ禁止シ以後ハ村内ノ移動ヲ認メル
    移動ヲセントスル時ハ農業組合長ヲ認可得ル事
      其ノ後追徴金三百円也 以上


2012526日(金)

 5月24日、25日沖縄県博物館協会研修会。24日参加。25日運営委員と職員が参加。


2012523日(水)

  昭和19年の伊江島飛行場建設に各地から動員された員数を記録したものである(仮称:新城徳佑メモとする)。メモの内容からすると「第502特設警備工兵隊」である。生存者名簿があり、聞き取り調査が可能である。

 ノートのメモは昭和19523日から1010日の十・十空襲までのメモ書きである。伊江島飛行場建設に動員されたのは久米島・国頭・名護・屋部・羽地・金武・恩納・伊平屋・国頭女子挺身隊・伊江島・伊是名・本部からである。メモには総員先・動員数・人夫・馬車・草取り・芝植え・測量隊・松根掘り取り・池土掘り・北場方向滑走路・東飛行場へ移動などがある。1010日のメモは以下のように記してある。メモを整理してみることに(一覧表作製中)

 1010日、午前7時頃 敵空50機来ル。撃サル。北西ニ逃ゲ、十四、五回機銃ショウシャヲ受ケ、ヨウヤク安全地ニ付ク、一夜ヲ松林デ明シ11日十二時頃石川傳次郎、平敷ノ與那嶺林栄ト共ニ字内ニ帰ル。伊江島ニテ12日午後三時頃與那嶺蒲吉二人クリ舟ニテ家ヘ帰ル。北風波高シ、本部桃原ノ下浜ニ着ク頃五時頃。家着時七時頃

 
    ▲昭和19年7月15日、17日のメモ         ▲伊江島飛行場滑走路の図

 下の画像は昭和30年頃の伊江島の様子である(一部)。(メルビン・ハッキンス氏撮影:寄贈:歴史文化センター蔵)

 


2012520日(日)

 今帰仁グスクの鳥居のある付近の様子(戦後)について以前「3.今帰仁(北山)城跡の正門付近」(平成2年8月)したことがある。ここで紹介する鳥居のある二枚の写真は戦前のものである。鳥居の2本の柱の一部は歴史文化センターの前に移設してある(平成15年)。

 今帰仁グスク正門付近に鳥居が建設された直後と見られる(「関西今泊郷共会60周年記念」所収)。鳥居の竣工は昭和5年である。鳥居に「奉納大阪今泊共済会岡山支部」と「昭和五年十二月吉日竣工」とある。鳥居のセメントの白さから、建設間もない頃であろう。鳥居に左縄があり、燈籠も見られる。鳥居の右側に茅葺屋根の家、平郎門の石積みと大隅の石垣の様子がわかる。

 もう一枚は昭和15年撮影(三中のアルバム所収)である。鳥居の前の学生達は三中(現在の県立名護高等学校)の学生達が訓練で今帰仁グスクを訪れている。右手前に燈籠がある。左側後方に茅葺屋根の家がある。

 

 下の写真は「関西今泊郷共会60周年記念」所収で、「図ハ水晶ノ勾玉ニシテ四百年来ノ宝物トシテ保存セラル 煙管ハ純金ニシテ昭和四年ノ秋 宮ノ境内ノ地中ヨリ現レタル物也」とある。それは今帰仁ノロの遺品で勾玉とガラス(水晶玉)とカブ型の簪、煙管(2本?)が写っている。煙管は今はなし。


  ▲今帰仁ノロ家の遺品か


2012518日(金)

 恩納村恩納にある恩納グスクと役所の後方にあるウガミの遠景をみる。ウタキやグスクと集落との関係を考える時、下の画像(名護グスク)のような風景を前提に見ていく必要があるのではないか。下の画像は名護グスクと麓の集落を写しだしたものである(昭和18年)。左上の杜がグスクである。段々畑と松並木の境の道に沿ってグスク(ウタキ)へ登っていく道である。

 後方の杜にノロ家をはじめ旧家跡が10軒余ある。頂上部に神アサギやイベがあり、途中にカーやいくつか拝所がある。ウタキやグスクと集落が関わっていた要件をあげ、その時代の風景を前提に議論を展開する必要がありそう。名護グスクと斜面の旧家跡(集落)と麓の集落(集落移動も)や拝所などの要件を見ながら、恩納グスクとウガンと集落、さらに祭祀場も含めて考えてみる。(まずは、恩納グスクのある恩納村恩納の△印の拝所の特定が必要。)

 この作業は古琉球のムラ、そして近世の行政村(ムラ)の重なりをみていくためである。つまり、近世の村(ムラ)の概念で古琉球の姿の議論しているのではないか。時々、そんな不安にかられるからである。

 【琉球国由来記】(1713年)
  ○ヤウノ嶽(三御前:イベ) △浜崎嶽(イベ) ○恩納巫火神 ○城内之殿 △カネクノ殿 ○神アシアゲ

 【沖縄島諸祭神祝女類別表】(明治17年)
  ○神アサギ ○ヤウノ御嶽 △仏ノ前御嶽(グスク内のイベ?) ○ノロ殿内火神 △東ノ御嶽(ウガンか)

   
   ▲後方の杜が恩納グスク(ウタキ)        ▲役場後方にあるウガン(東の御嶽か)


▲後方の杜が名護グスク(昭和18年)(「食料増産決戦記」より)


2012517日(木)

 恩納村誌の編集会、そして諸志誌の編集会議とつづく。恩納村誌は歴史編の進捗報告。諸志誌は諸志公民館建設、諸志の製糖工場と組合、諸志の湧泉(ハー)など。毎回楽しみにしているという諸志の編集会議。「休むと損した」気分になるらしい!(シメシメ)

 
  ▲茶菓子に目と手がいくな~         ▲30頁余の原稿を手に。

 
     ▲サーターヤーの構造          ▲福地原の製糖工場(大正14年頃:望郷沖縄より)

 
  ▲戦後すぐの阿旦門製糖工場(現諸志1番地)      ▲砂糖キビを運ぶ馬車


2012516日(水)

 多忙中!

 写真にみる今帰仁①②アップ。「山原のムラ・シマ」(講座)の開催。「北山神社認可許可書」の対応。山原の写真(191枚)の解説。今帰仁村文化協会の記念誌などの編集、校正。


2012511日(金)

 大学で「沖縄の歴史―近世~現代(下)」の講義(200名余)。400年の歴史を一気に話したが余裕なし。「文化協会の記念誌」の校正の打合せ。明日は「山原のムラ・シマ講座」(午前中)です。そのレジュメでもつくりましょうかね。明日はもう一本あり(午後から)。戦後の間もないころの写真(191枚)の解説。頭の中が混乱状態。

  1.中国と日本の支配へ(薩摩藩による支配)
  2.中国皇帝の使節(冊封)
  3.尚敬王・蔡温の時代(第二の黄金時代)
  4.王府の財政逼迫と異国船の来航 
  5.琉球j処分で沖縄県となる
  6.琉球処分から太平洋戦争(旧慣温存期)
  7.戦後の沖縄
  8.アメリカ軍による占領時代
  9.祖国復帰運動(辺戸岬の碑) 
  10.復帰40年の歩み

 


201259日(水)

 2001年1月のデータが出てきたのでアップしておく。11年前からこのプログをやっていたのか。振り返ってみる。それと「写真にみる今帰仁」をアップ。


201257日(月)

 1988年と1990年に今帰仁村今泊の海神祭(ウンジャミ)調査を「今帰仁村今泊の海神祭(ウンジャミ)」として『沖縄文化』(第27号:1991年発行)で報告している。その頃、以下のようなことを述べている。

 「一般的に海神祭(ウンジャミ)は、年中祭祀の一つとして民俗の立場からとらえられる場合が多い。ここでは、一般的は民俗
 としてのとらえ方ではなく、海神祭が歴史的は資料、あるいは歴史的な視点からとらえることができるのではないかという一つ
 の試みである。これまで行われてきた祭祀が、継承されずに消え、あるいは簡略化されていく傾向にある。―歴史的な視点か
 ら―というのは、海神祭を歴史的なことをたどっていくことも当然ながら、ここ七、八十年の変遷を資料でたどってみる。同時に
 海神祭調査に時間的概念を入れていくことで、将来比較できる資料づくりをすることを歴史資料館準備室(現在の歴史文化セン
 ター)では考えている。
 急速な変化をたどっている祭祀に、時間的はが概念を明確に組み込んでいくことで、これまで何がどう変化し、さらに将来何が
 どう変わって行くのか。そして何が残ったのかを比較検討できる内容の資料をつくっていく必要があると考えている」と。

 その姿勢は20年余一貫している。今帰仁村東側の公民館を201251日に撮影した画像と1975年撮影の公民館の画像と並べたのは、建物だけでなく、名称も大分変っている。その比較から歴史を読み取っていく作業がはじまる。同様な姿勢で『なきじん研究―古宇利島の祭祀の調査研究―』(17号)としてまとめている。20年前今泊の海神祭に関わった神人や区長さんや書記さん方は、他界されている。






201252日(水)

 連休、ボ~と過ごしてみましょうかね。


201251日(火)

 今帰仁村の東側の公民館を撮影(2012.5.1)、それと1975年に撮影された公民館を側に置いてみた。1975年の公民館や玉城と上運天のみである。西側(今泊~仲宗根:10ヶ字)の公民館は全て建てかえられている。そのように記録をしていると「歴史は生き物」だと実感させられる。時々、画像で一斉に納めておく必要がありそうだ。かつての「……公民館」の名称は……センターや……施設などと変わっている。何故?

【今帰仁村東側の公民館】

  
     ⑪玉城公民館                              ▲玉城の公民館(1975年撮影)

  
   ⑫呉我山公民館                            ▲呉我山の公民館(1975 年撮影)
 
  
 ⑬湧川集落センター(公民館)                       ▲湧川の公民館(1975年撮影)

  
     ⑭天底公民舘                          ▲天底の公民館(1975年撮影)

  
  
⑮勢理客公民館       ⑮勢理客公民館正面    ▲勢理客の公民館(1975年撮影) 

  
  ⑯渡喜仁地域総合施設                       ▲渡喜仁の公民館(1975年撮影)

   
  ⑰上運天公民館(昭和47年落成)                ▲上運天の公民館(1975年撮影)

  
 
⑱運天構造改善センター                          ▲運天の公民館(1975年撮影)

⑲古宇利集落構造サブセンター(未)


▲古宇利の