2010年1月
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2010年1月31日(日)

 今帰仁小と兼次小で学習発表会がありました。招待状が何通も届き、顔をだすことに。普段、気にもせずに見ているものを、話を聞き、そしてそこみえてくるものを伝えていく。そのことが、生きていく糧になることに気づいてくれました。今帰仁に「宝物」が転がっています。宝物にできるかは、一人ひとりの腕にかかっています。調査したりまとめたりする過程までみえました。足が地についたいい報告でした。

 ・黒糖づくり ・闘牛 ・神アサギ ・公民館 ・古宇利島の海神祭 ・ハーリー ・豊年祭と棒術

【今小の学習発表会4年】

 

【兼次小学芸会4年】




2010年1月29日(金)

 羽地間切稲嶺村の惣山當の履歴書に以下のような記事がある(「名護市史資料編5」地方役人関連資料96頁)。宮里清助は羽地間切稲嶺村の人物で、この「御願書」は明治30年2月に羽地間切の地頭代へ採用願いの履歴書である。詳細には触れないが、真喜屋と稲嶺の「奉寄進」の香炉の人物達と重なる人物の一人である。

 光緒元年(明治8)の真喜屋掟嶋袋仁屋、明治廿八年の真喜屋村の上地福重、そして稲嶺村の宮里清助、三人が上京している。それは羽地間切の御殿と殿内へ奉公した羽地間切の村の人物との関わりを示すものである。明治九年の池城親方は三司官の池城安規で、上京中亡くなった人物で、その時葬式などを執り行っている。三司官池城親方の上京は、「琉球国の存続と清国との国交の継続」などの案件である。

 一 (明治)九年旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事
    仝九年九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
 一 於東京屋我村掟拝命、早速帰帆之筈候處、檀那事明治九年五月ヨリ重病相煩ヒ看病方彼是手
   不足ニ付滞京拝命、仝十年三月ニ至テハ不慮及死亡、葬式並跡香儀向等相済シ、仝年七月十二
   日帰帆、檀那方役人方荷物付届向、仝月十三日ヨリ仝廿日迄首尾能相勤申候
 
   一 旧惣地頭で亡き池城親方が、東京への御使者の時、旅のお供を拝命し上京いたしました。
      明治九年(1876)年九月二十七日から同十(1877)年九月二十日まで
   一 東京において、屋我村掟を拝命し早速、帰帆の筈だったのですが、檀那である池城親方が明治九(1875)年五月から
     重病となり、看病にあたって、あれこれ人手不足なので、東京に留まれとの命を受け、明治十(1876)年三月になって、思っ
     ても見なかったことですが、死亡され、葬式と跡香儀などをすまし、明治十年七月十二日に帰帆し、檀那(惣地頭池城親
     方)及び役人方への荷物を付け届けるなどの仕事を、七月十三日から二十日まで首尾よく勤めました。
  
 上記三人とは別に、羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にやの人物がいる。上京はしていないが、三司官池城安規が上京した際、旅行の「御立願」として、光緒元年(明治8、1875)八月十一日に国頭間切辺戸村へ出かけて「御立願」をし、十五日に帰ってきて間切の役人などに報告している。「口上覚」(羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にや」に、以下のようにある。その時、立願をした上里にやは上京していないが、「光緒元年上京之時 奉寄進 真喜屋村掟嶋袋仁屋」(香炉)の嶋袋j仁屋が上京している。

 一 光緒元亥年八月十一日、檀那様御旅立願ニ付、国頭間切辺戸村江御立願仕、同十五日罷
    帰、間切役々衆江申上候
 一 同年十二月御旅御立願ニ付、主之前前様御下之時、今帰仁間切親泊迄御供相勤申候
  

2010年1月28日(木)

 多忙中!


2010年1月25日(月)

 朝早くから兼次小の4年生が学習にやってきた。グスク内で発表することになっている。その前に舘内でなにやら調べ物。きょうはご自由にどうぞ(道具の調査だったようだ)。

 その後、今帰仁グスクで四つの伝承の発表。服装も自分たちで工夫しての登場。お客さんに声をかけてもらい、はりきっての発表。足を止めてお客さんが見てくれました。パチパチパチ。交流センターの舞台でも発表しました。








【本部町具志堅の上間家の位牌】
 23日本部町具志堅の上間家を訪れる。離れに位牌が二つ並んでいる。位牌の文字を見ると、上間家の「先祖之由来遺書」(上間筑登之)と一致する。小さめの位牌には「上間三良」などの人物の銘が記されている。(この位牌と関わる今帰仁村諸志の赤墓については何度か紹介してあります)
  

   ▲本部町具志堅の上間家にある位牌      ▲左側にある位牌には「上間三良神位」などの銘

【位牌の銘】

      (位牌表上の段)                   (位牌表下の段)
 ・乾隆五十五年庚戌六月六日死去父親   乾隆五十九年甲寅正月廿一日死去母親
 ・元祖上間大親亨翁               帰真
                            道光二十五年乙巳十月十八日 金城筑登之 妻

    
   ▲「先祖之由来遺書 上間筑登之」(大清道光庚未八月吉日:1823)より

2010年1月23日(土)
 「今帰仁グスク 桜まつり」が始まりましたので、舘内でも開花状況を張りだしました。それと「古宇利島を学ぼう!」の展示会も行っています。どうぞ足を運んでくださいませ。参加されたあなたの顔、顔もあります。


   ▲今帰仁グスクの大庭の桜     ▲開花状況を舘内に展示。見逃した方は、ここで!


            ▲「古宇利島を学ぼう!」の展示会の様子!(歴史文化センター舘内)

2010年1月22日(金)

 午前中、今帰仁小4年生達7名が「砂糖づくり」で学びにやってきた。サトウキビの歴史、サトウキビの品種、苗の植え方、収穫、サーターヤー、運搬、機械化された製糖工場、絞り器の移り変わり、煮立てて(石灰をいれて)黒糖まで。手分けして、7名で分担して「砂糖づくり」の報告。それが終わると、サトウキビ絞りをしているグスクのサーターヤーへ。黒糖ではないが、サーターユー(サトウキビの絞り汁)をいただいて、絞ったサトウキビの汁は甘いのだと実感。ついでにグスク前の咲き誇った桜の下でパチリ。甘いサトウキビの絞り汁で、砂糖づくりの話忘れないでね!
 

   ▲サトウキビには主に四つ品種があるだ!    ▲むかしは牛や馬にサーター車をまわして・・・


    ▲サトウキビにも歴史があるんだ!         ▲サトウキビは、こうして収穫するのか!


        ▲おじい、おばあの時代から、現実の世界へ。桜の花の下でパチリ

2010年1月21日(木)

 大宜味村の根謝銘(ウイ)グスクまでいく。その前に国頭村比地と浜へ。浜は国頭間切の番所があった村である。1673年に国頭間切から、田港(後に大宜味)間切が分割され時に、国頭間切の番所は浜村に置かれたという。1732年に番所は奥間村へ移転したという。。浜には番所跡の痕跡は番所火神の祠があるにすぎない。番所のあった場所は屋嘉比川の下流域(右岸)にあたる。かつての港であったところである。国頭間切分割されない以前の間切番所はどこにあったのか? その疑問がいつも頭をよぎる。

 『御当国御高並諸上納里積記』(1673~1732年)の国頭間切番所は浜村で、大宜味間切の番所は塩屋村にあり、田港村から大宜味村、さらに塩屋村に移動している。因みに伊野波(本部)間切は伊野波村から渡久地村に移動している。伊野波間切から本部間切に改称した年(1666年)に番所は渡久地村に移動したのかもしれない。田港間切から大宜味間切になった時、番所は大宜味村に移った可能性がある。さらに塩屋村に移動する。

 今はサバニが数隻置かれているにすぎない。明治14年に訪れた上杉県令日誌に「屋嘉比川の板橋を過ぎ、屋嘉比港に出づ、帆牆林立」とあり、山原船が停泊し、積荷をした場所とみられる。


▲かつての屋嘉比港。中央部の杜が根謝銘(ウイ)グスク  ▲浜の集落内にある国頭間切の番所跡(火神)


2010年1月19日(火)

 午前中、今小の生徒達が「古宇利島の海神祭(ウンジャミ)とハーリー」グループの授業。直に海神祭を見たことのある生徒はほとんどなし。それで海神祭やハーリーの見方を・・・。まずは海神祭の全体をつかむことから。いつ行われるのか、そしては行う場所は。誰がやっているのか。新しい言葉づくめ。

 ①古宇利の神アサギ
 ②集まってくる神人たち
 ③持参してくるヌミ(弓・唐船旗・物差し・カイなど)、ハーブイ(冠)
 ④ウガン(線香・お米・神酒・塩)
 ⑤コ字に往来(七回、今は五回ほど)
 ⑥東側に向かってのウガン
 ⑦餅落とし(餅配り)
 ⑧穀物をヌミで測る場面
 ⑨フンシヤーへ(ロープを張って船をつくり、船漕ぎをする)
 ⑩神道を通りヒチャバアサギへ
 ⑪ヒチャバアサギ(アサギ広場と同様の所作をする)
 ⑫シラサ(岬)で東方(塩屋)に向かってのウガン
 ⑬ヒチャバアサギに戻り、帆柱を神人がもって漕ぐ所作
 ⑭帆柱をおき、ハーブイを置く
 ⑮神人達はヌミを自分の拝所に戻す(フンシー神人と海頭勢神人はフンシヤーへ)
   (ここで海神祭は一区切り)
 ①お宮(クッサヤー)でウガンバーリーのウガンをする。
 ②フンシー神人と海頭勢神人が線香・神酒・米・塩を備える。
 ③東・中・西の組でコースを決める籤をひく。
 ④ウプゥマイの浜(神ハマ)から三艘のハーリー舟を出す。
 ⑤漁港内で西から東に向けて漕ぎし、Uターンをして出発地点までの競争
 ⑥勝敗の報告あり

 これらの言葉と画像で、一人ひとりに報告をさせてみる。なかなかいい。画像を手に、あるいは他の場面とを取り替えて発表することで、自分のものになるでしょう。






2010年1月18日(月)

 名護市真喜屋と稲嶺(旧羽地間切)のウタキとつるかみの拝所にある香炉の確認。ウタキやカーなどは新年に向けて掃除がなされている。シマに帰ってくる方々やシマに住んでいる方々がお参りをするからである。それに因んで私も・・・。

 新年のご挨拶もあるが、四基の香炉が気になって。これまでバラバラに見てきたのであるが、「上地福重」の名が刻まれている香炉が三基ある。その三基とも「明治廿八年五月吉日上京之時 奉寄進 真喜屋村 上地福重」と刻まれている。もう一基は「つるかみ」の拝所にある「光緒元年五月乙亥 上京之時 奉寄進 真喜屋村掟 嶋袋仁屋」である。そこには「上地福重」寄進の香炉が並んで置かれている。

 明治28年に上京した上地福重、どのようなことで上京したのか。上京を示す資料は、まだ確認できていないが、「沖縄県地方制度改正」の時期でもあり、明治政府や国会への陳情へ同行したのだろうか。そのあたり資料の確認が必要。上京当時、上地福重は51歳である。

 「上地福重」は明治36年の「砂糖消費税法改正之儀ニ付請願」の署名簿にある。氏は弘化元年七月一日(1844)生まれ、農業、平民、当時の屋敷地番は八八番地である。真喜屋に上地姓の家が何件もあるので、位牌があるであろう。

 
   ▲真喜屋の上之御嶽のイベの香炉            ▲「上地福重」氏寄進の香炉①

 
   ▲真照喜屋御宮(御嶽)イベの香炉          ▲「上地福重」氏寄進の香炉②

 
    ▲「つるかみ」の拝所の香炉            ▲「上地福重」氏寄進の香炉按③

 
     ▲「つるかみ」の拝所にある香炉     ▲「光緒元年」寄進の(上京之時」の香炉

2010年1月16日(土)

 今帰仁村諸志の字誌の編集会議。久しぶりの会議なのでこれまでの復習。プロゼェクターを使って。私の在職中に発刊することを確認。みなさん、八割まできていますので、早く肩の荷を下ろしましょう。

 諸志は「戦後資料」があるので、次回は戦後資料を出して、時代の動きを思い出してもらうことに。「議事録綴」(1958年度)から一部抜き出してみる。打ち込んでいると、ムラの動きがみえ、また聞き取りするキーワードが限りなくある。やめられませんね!

【1月10日】(普通常会)
   一 伝達事項
      旧正消費の簡素化について
      成年祝は各人にて行ふ
   二 1月12日午後8時より兼次校に於いて巡回映画祭の件
   三 一期作水稲種子申込について
   四 一期作水稲の浸水日・・・1月20日 播予定日28日頃
   五 豚舎施設申請書 2月15日迄(新垣正春)
   六 当村週間行事出品申込 1月15日迄

【1月11日】(評議員会)
   一 昭和32年度農業奨励会開催の件
   二 模範農家及び各種表彰者決定
     大農家/中小農家/青年団/婦人の部
   三 大家畜審査は1月17日午後1時より当区事務所前で行う。
   四 婦人部の農産加工品出品及び農家農産物出品は当日午前中に出品する事。
   
【2月1日】(青年団消防団合同協議会)
   一 事務所建築原木山出し及び搬出製材への出夫の件
     ・3月3日全員総出実施する事に決定す。
     ・トラック、一日貸切をする。

【2月7日】(普通常会)
   一 戦争災害見舞金、 金一万三千七百二十余円也
     右金額は第二期村民税及び教育費税を引替と決定す。
   二 2月11日 蝿の駆除実施する。
   三 村大家畜審査 日時 2月7日午前10時より12時迄
   五 旧正月用ト殺豚の検査 1月12日
     豚割当頭数 税金当区の分 一千四百円(ト殺頭数 28頭)
   六 低額所得者に対する住宅建築資金事務取扱及び要項
   七 2月11日初会を開く 

  (興味深いことが次ぐ次とでてくるのでやめられませんが、ストップ!)


  ▲諸志もなかなかの歴史を持つムラなのだ!     ▲志慶真は移動してきた歴史を持っているのだ!


▲豊年祭の松竹梅の文言が掲げてある      ▲タマには上空から眺めてみるか!

2010月1月15日(金)

 
急きょ、今帰仁小のメンバーがやってきた。豊年祭と神アサギがテーマ。仲宗根の豊年祭を7名に流れに沿っての報告。神アサギも各字で共通するもの、そして異なること。祭祀を行う神人が果たした役割など。それを教室に戻って別のグループのメンバーにも報告してください。担任の先生方、後のフォローお願いします。みんな出番あり。道具調査をした経験があるので・・・

【豊年祭グループ】
  ①豊年祭はいつどこで行うのか
  ②道ジュネー
  ③道ジュネーのコース
  ④奉納踊り
  ⑤棒術の種類と仲宗根の棒術
  ⑥棒術の出で立ちとスーマーチ
  ⑦長者の大主と子供たち
   (プログラム)

【神アサギグループ】  
  ①崎山の神ハサギ
  ②謝名の神アサギ
  ③玉城の神アサギ

▲仲宗根の豊年祭で棒術も行います・・・     ▲道ズネーは知っている道を通るのか!


▲棒は一人でやるもの、二人でやるのもあるのか  ▲神アサギは神人が集り祈りする所だったのか

2010年1月14日(木)

 画像を探していたら、羽地間切真喜屋村(現在名護市真喜屋)のある拝所(つるかみ)の香炉があった。まだ拝所の香炉に注目していなかった頃のものである。香炉をよくみると「光緒元年乙亥 上京之時 奉寄進 □真喜屋掟 嶋袋仁屋」とある(□は當?)。光緒元年は明治8年(1875)である。真喜屋村の掟をしていた嶋袋仁屋が「上京」し、帰ってきて出身地の羽地間切真喜屋村の先祖と関わる拝所に寄進した香炉とみられる。

 明治8年に何があったのか。三司官池城親方安規、与那原親方良傑が日本政府の命によって2月上京(3月東京着)している。池城安規は同年9月に再び上京している。琉球処分の真っただ中である。羽地間切真喜屋村の嶋袋仁屋(掟)も同行したのか。前に紹介した上地福重寄進の香炉は「明治廿八年」と判読したが、明治8年の可能性がある(確認を要す)。上地福重の香炉を確認してみたら「明治廿八年」に間違いなし。いずれにしろ真喜屋村から上地福重と真喜屋掟嶋袋仁屋の二人の上京者(随行者であったにしろ)を出していることになる。それも琉球処分の渦中で・・・。

 この光緒元年(乙亥)の出来事は『史料稿本(尚泰関係史料)』にある。明治8年の上京は、琉球藩の将来を左右する出来事である(詳細については別に報告)


▲羽地間切(現在名護市)真喜屋の「つるかみ」拝所     ▲拝所内にある「光緒元年」の香炉

2010年1月13日(水)

 多忙をきたしていて首が回りません。頭を冷やすために、「諸志の戦後資料」の一覧表の一部でも紹介しておきましょう。15日に『諸志誌』の編集会議があるので。どんなのがあるのかの確認。中身まで目を通す余裕がありませんが。

 
               ▲今帰仁村諸志の戦後資料群

「各種生命保険金個人別調」  今帰仁村字諸志 (26,6×20,6㎝) 記入枚数:6枚
 主な内容:保険会社名、保険金額、氏名、保険種類等の内訳(表
 「畑地所有反別個人別調査簿」     1947年9月末現在調  字諸志 (27,3×21,3㎝) 記入枚数:23枚 
 主な内容:住所、所有者氏名の内訳(表)
 「郵便貯金、国債債券、銀行預
  金、送金証書 寄託申込書綴」
 字諸志 1947年10月(26,9×20,㎝) 記入枚数:23枚
 主な内容:種類、金額、発行者等の内訳(表)
「銀行預金個人別調」  今帰仁村字諸志 (26,6×20,4cm)  記入枚数:5
 主な内容:銀行名、預金種類、預金額、現住所、氏名、等の内訳(表)
「重要書類」(永年保存)    字諸志(26,8×20,6㎝) 記入枚数:2
 
主な内容:覚書、字諸志所有地個人名表
国債 公債 債券類 
   所持額個人別調」 

 今帰仁村字諸志(26,6×21㎝記入枚数:6
 
主な内容:現在保有証券、現住所、氏名等の内訳(表) 

「書類綴 諸志公民館建設
  期成会」昭和54年
  (18,2×25,8㎝ 記入枚数:15
 主な内容:期成会規約、委員名簿、趣意書、助成会要請書、現青年幹部同意書、
 元青年幹部同意書、村補助会申請書
 「諸志シンボルマーク説明書」 昭和54年10月  諸志公民館 19,2×27㎝) 記入枚数:1
 主な内容:諸志のシンボルマークについて 作者 上間仙信
「芸具記録」 昭和52年旧8月  字諸志(25,6×18,3㎝)  記入枚数:2枚
 
主な内容:風車 30、旗頭、扇子、スンサーミー具 15、松竹梅 冠 各1等
「豊年踊推進委員及び芸人名簿」 昭和52年旧8月13日   (新9月25日)字諸志 (26×18,6㎝) 記入枚数:5枚
 主な内容:委員・係り名簿、芸順・芸名・芸人氏名(表)等の内訳
「芸順芸人名簿付一覧表」  金城康正殿 (26×18,2㎝、)  記入枚数:4枚
 主な内容:豊年踊、芸名、芸人氏名、衣装及着付、芸具等(表)
「芸部員心得」  昭和52年旧8月 字諸志 (27,8×18,6㎝) 記入枚数:1枚
 主な内容:1、芸順の再確認のこと2、出演準備3、出演後は各自衣装・芸具は係りまで
 返却すること等
「予算書」 昭和48年度    諸志区  (26,6×19,5㎝)記入枚数:5枚
 主な内容:収入予算、予算書、決算等の内訳(表)
「会議録」 1967、68年度以降  字諸志 (28,2×21,3㎝) 記入枚数:84枚
 主な内容:決算報告、新役員選出、新生活運動について等
「予算書綴」1966年度以降  諸志区 (36×23,5㎝) 記入枚数:18枚
 主な内容:勘定費、消耗品、御願費等の内訳(表)
「決算書類綴」 1966年度   諸志区会計 (30×20,7㎝)
「 諸志区会計」 1966年度  (30×20,7㎝)記入枚数:30枚
 主な内容:字費、補助金、小作料等の内訳(表)
「記録綴」1966年度  諸志区 (27,6×20,7㎝) 記入枚数:7枚
 主な内容:初定期総会、初評議員会、定例区長会、役員会等の会議録
「諸志区」 1966年度   (27,6×20,7㎝) 記入枚数:7枚
 主な内容:初定期総会、初評議員会、定例区長会、役員会等の会議録
「農道工事出夫帳」1963年度    字夫名簿 字諸志区 (33,3×20,5㎝)
 夫名簿 字諸志区1963年度   (33,3×20,5㎝)  記入枚数:11枚 主な内容:月日、氏名(表)
「1963年度決算書綴」   諸志区 (33×20,4㎝) 記入枚数:9枚
 主な内容:字費未細調書、字費過受、収入内訳、支出内訳等
「領収証綴」 1963年度  諸志区 (33,9×24㎝) 記入枚数:74枚
 主な内容:年額山地道路潰地代として、山羊代として、保母給料1ヶ月分として等
「名寄原簿」  字諸志 (27,3×21㎝) 記入枚数:80枚
 主な内容:原名、地番、摘要、所有者等(表)
「決算書綴」   1962年度 字諸志区 (27,4×21,5㎝) 記入枚数:9枚
 主な内容:追加引継、収入・支出内訳等
「字費徴収簿」 1962年度    字諸志区書記 孝福 (33,5×20,6㎝) 記入枚数:13枚
 主な内容:氏名、調定額、過年度収入等(表)
   記入枚数:15枚
主な内容:引継書、給料・工事費・慰霊祭費等の内訳
「議事録」   1960年度 諸志区 (25,7×20,8㎝) 記入枚数:20枚
 主な内容:(表紙裏)1960年度「会議録」諸志区、通常常会、定期総会等の記録
「常会出欠簿」  1961年度 字諸志 (26,9×22,8㎝) 記入枚数:7枚
 主な内容:月日、氏名(表)
「議事録綴」 )  1959年度 字諸志区 (27,8×21,9cm)記入枚数:17枚
 主な内容:第1回普通会、役員会、初常会等の記録
「議事録綴」1958年度    字諸志 (27,2×20,4㎝) 記入枚数:28枚 
 主な内容:普通常会、青年団・消防団合同協議会、評議員会等の記録
「日誌」1959年7月起   諸志公民館 (26,8×21,2㎝) 記入枚数:15枚 
 主な内容:1960年2月からの日誌綴り
「豊年踊記録」   1957年旧8月(昭和33年) 字諸志 (27×20,3㎝) 記入枚数:32枚
 主な内容:芸順並に芸人、長者の大主台詞、扇舞 歌、四季口説等の記録
「予防注射票」     諸志区 (27,1×20,3㎝) 記入枚数:141枚
 主な内容:氏名・生年月日・本籍・職業・注射種別等の個人票
新券引替前に於ける19464.15 各貯蓄残高調表」  1946810日現在調 諸志区長 島袋吉昌 (26,7×20,7㎝) 記入枚数:17 
 主な内容:現在高調、推定金額調、名称、郵便貯金、簡易保険等個人別(表)
「土地所有権證明書綴」   区所有地 今帰仁村諸志区 30,1×23㎝)記入枚数:31
 主な内容:1951年4月1日の土地所有権證明書、(裏表紙)1954年1月1日現在村屋敷地 番26外31枚
寄附者芳名簿」
   1950年旧8月
   諸志区 豊年踊 28×21,3記入枚数:36
 主な内容:寄付金報告書、字名・氏名・金額(表)等
「□法規則」  □諸志 消防団 (27×21㎝ 記入枚数:9 
 主な内容:第1章公共施設保護に関する事項、第2章個人所有物保護に関する事項等
「議事録」  1961年度 字諸志 (27,5×21,6㎝) 記入枚数:11枚 
 主な内容:通常常会、表委員会、有志会、部落総会等についての記録
「団地農道潰地坪入簿」  1663433×21,2㎝ 記入枚数:6 
 主な内容:潰地代作物投料未払分、私有地畑及原野、村有地等
「協同組合定欸諸規定集」  琉球農林省 25,9×19,9㎝ 記入枚数:38 
 主な内容:農業協同組合規範定欸例(出資組合)、規約例等
「(タイトル無し)」
(背表紙)
 1,2011,400 (28,7×21,5㎝) 記入枚数:156
 主な内容:土地の所在(諸志)・地番・所有者名、住所等の綴り
「老人名簿」  昭和49 (27×20,5㎝) 記入枚数:4 
 主な内容:合意書、番地・氏名・生年月日(表
「水道工事領収証」   昭和48年 28,5×22,3㎝) 記入枚数:14 
 主な内容:領収証の綴り
「(表紙無し)」  1969年 27,4×19,7)記入枚数:23 
 主な内容:領収証、公文書の綴り (3つ綴り)
 「決算書類」1958年度  諸志区 26,3×20,2  記入枚数:2枚 
 主な内容:収入、支出等の内訳
「現金出納簿」1958年度  会計係 与那嶺弘 26,2×20,3㎝) 記入枚数:4
 
主な内容:会経費、敬老会等の計算式(内訳)
「内訳明細書」1958年度  26,7×20,5㎝) 記入枚数:16枚 
 主な内容:引継書、科目・摘要・収入・支出・残高等の内訳(表)
「城間系統日記」
   195056
  筆者 宮城仙三郎 (29,8×21,2) 記入枚数:17 
 主な内容:琉球国昔位階級、奴留(ノロ)殿内元祖控、琉球神話の俗説等
「現代劇 蔭に泣く母」      1950年  38×14㎝) 記入枚数:11 
 主な内容:現代歌踊り 全4集 台本
「蔭に泣く母」H,Y  26,7×20,4㎝) 記入枚数:10 主な内容:台本
「捨てて茨の道行く」1950年  現代歌劇 全2幕 34,1×20,3㎝) 記入枚数:18 主な内容:台本
「字諸志行政内規」  大城和雄 (26,6×20,8㎝)記入枚数:6枚 
 主な内容:総則、字有財産管理に関する規則等
「郵便局扱貯金保険等調」  今帰仁村字諸志 33,1×20,5㎝) 記入枚数:7
 主な内容:郵便貯金・簡易保険・郵便年金等の契約者名簿


2010年1月11日(月)

 麓(今泊)の生徒達がグスクへ遊びにやってきた。「昨日も来たが館長さんいなかったよ」と。桜の開花状況を撮影していると質問を投げかけてくる。「みんな、ちょっとモデルになって」と。ハイパチリ。グスクへの途中の桜、これからドンドン開花していくでしょう。


        ▲兼次小の幼稚園、2、3、4、5、6年生達(みんな今泊)

 名護市仲尾次について『角川地名辞典』(昭和61年発行)と『名護市史』(昭和63年)で「歴史」部分を執筆したことがある。20数年経って振り返ってみると、各村々の歴史を見ていく視点を問い直す時期にきているように思われる。10日仲尾次の村を踏査してみた。ウフグスクのイベは初めて。神アサギの香炉の向きを手掛かりに、神アサギから見える杜(ウタキ:アポーフウガミ・タキサンのイビ)を目指していく。バッチリありました。

 これまで山原のウタキやグスクと集落、ウタキとウタキのイベは区別する必要があり、それと近世の村(ムラ)と古琉球のムラとは区別して議論する必要あり。山原の神アサギは近世の村、土地制度、祭祀との関係でみていく必要があると。それと近世の村を構成している門中(一門、血族集団など)、村移動、村の中の集落移動など。

 それらのことを念頭に入れて仲尾次を踏査してみた。仲尾次にはまず三つのウタキのイベがあるということ。イベはムラではなく一門一族(ヒキ)集団の祭祀場であることを前提に置いてみる(山原のウタキや神アサギや祭祀調査から導いた法則であるが、詳細についてはここでは触れない)

 仲尾次には滝川、松田、津波、ピーテカイ、宮城、上地、大兼久の門中からなる。それらの門中が仲尾次にあるどのイベと関わるのか。そのことが、村内での集落移動のテーマである。故地の中城(ナカグスク:村名)から現在の集落地に移動してきたという(伝承)。中城(グスク・ウタキ:杜)にウイグスク(イベ)とナカグスク(イベ)があり、少なくとも二つの集団がそこから現在地に移動したとみてよさそうである。神行事の時、以下の六ヶ所は必ず拝むという。
  ①ニガミヤー
  ②アポフヤー
  ③ウイグスク(イベ?)
  ④ナハグスク(イベ?)
  ⑤クガニムイ(フプウタキ)のイベ
  ⑥真喜屋ヌンドゥンチ

 現在の集落地にはウプウタキ(杜)を背にした集団があったとみられる。フフウタキの頂上部にイベがあり、そこをウフウタキと呼んでいるが、そこはイベとみるべきものである。祭祀の場合は、それぞれのイベの担当の神人がどの一門なのかで、移動元がみえてきそうである。


 ▲中央部の杜がナカグスク(中に二つのイベあり)      ▲ウイグスク(イベ)      ▲ナカグスク(イベ)


  ▲仲尾次の神アサギの後方がウフウタキ       ▲ウフウタキの頂上部(イベ)があり、香炉が一基あり 
2010年1月9日(土)

 名護市仲尾次(旧羽地間切)は、羽地間切中城村から赤尾次村へと表記の変遷がある。仲尾次村は明治13年の世帯数153戸、人口は913人である。羽地間切では源河村、真喜屋村とほぼ同規模の世帯・人口で大きな村の一つである。「南島風土記」(東恩納寛惇)で寛文8年に出された布令があり、「中城と申名字衆中百姓姓下々迄も、御法度にて候間、別名に替申候様可被申渡候」によって羽地間切中城村は仲尾次村に変更したという。そういう達しがあったようであるが、その後も中城村は使われている。明治以降は「仲尾次」と定着する(今帰仁間切の中城村も仲尾次に変更していくが、中城ノロの中城は今も中城ノロと呼ばれている)。仲尾次の場合も、中城(ナカグスク)のグスクの呼称は変わりなくナカグスクと呼んでいる。このナカグスクであるが、杜の中にナカグスクとウイグスクと二つのグスクがあると考えていた。その為に中尾次の村の成り立ちが説明できないでいた。

 視点を変えてみた。杜全体がナカグスク(ウタキ)であり、これまで言われていたグスクはイベと考えると説明がつく。名護グスクや根謝名(ウイ)グスク、あるいは今帰仁グスクでもそうとらえてきた。羽地間切のナカグスクにも適用してみた。ナカグスク(杜・御嶽)にあるウイグスクとナカグスクは御嶽のイベだとすると、その杜)御嶽)に少なくとも二つの集団(マキ・マキヨ)があり、その集団のイベだとみることができる。その杜にあった集団が現在地へと集落が移動していった。現集落の後方に黄金杜があり、その上の方にウフ御嶽がある。

 すると仲尾次村はマキ・マキヨ規模の複数の集団からなっていることが、ウタキのイベから想定することができる。祭祀を行う神人の出自やウタキのイベや神アサギから村の成り立ちを読み取ることができる。その作業は古琉球のムラと近世の村との違いをしることでもある。

 ・『絵図郷村帳』(1648年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羽地間切中城村
 ・『琉球国高究帳』(17世紀中頃)・・・・・・・・・・・・・羽地間切中城村
 ・『琉球国由来記』(1713年)・・・・・・・・・・・・・・・・・羽地間切中尾次村
 ・「間切村尽」(附宮殿官衛名)(18世紀中頃)・・・羽地間切仲城村
 ・「間切村尽」(1738年後)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羽地間切仲尾次村
 ・「統計慨表」(明治13年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羽地間切仲尾次村
                             (以後、仲尾次)

 「羽地間切中城村」と出てくる。ところがには「羽地間切中尾次村」とあり、祭祀は真喜屋巫の管轄となっている。ここでは、ウタキあるいはグスクと集落(後に村)とイベ、祭祀と祭祀を掌る神人の出自を見ていくことで、古琉球のムラと近世の村との違いを描き出すことができる、そのモデルとなる場所の一つだとみている。


▲羽地グスク方面からみたナカグスク(杜)  ▲頂上部にナカグスク(イベ)   ▲中腹にあるウイグスク(イベ)


  ▲造り変えられる前の仲尾次の神アサギ    ▲仲尾次の集落からナカグスクをみる(左側の杜)

2010年1月8日(金)

 『海東諸国紀』(1501年)の「琉球国」の所に、以下の文章がある。以下の文章をみるたびに今帰仁村運天の百按司墓(ムムジャナバカ)のことが浮かぶ。1500年頃の貴族世界の習俗が見えてくる。百按司墓も西暦の1500年(弘治十三年)頃のもので、共通する部分がいくつもある。それと『使琉球録』(陳侃:1534年)や恩納村の山田グスクにある護佐丸父祖の墓にある碑文にも、同様な記述がみられる。下の文書が全く別のルートの情報なら、当時の王クラスの一般的な習俗とみることができるのだが。

『海東諸国紀』(琉球国)(1501年)(申淑舟著:岩波文庫)
 一、国王の喪は、金銀を用つて棺を飾り、石を鑿ちて槨を為る。埋葬せず。屋を山に造り、
   以て之に安んず。後十日餘日、親族・妃嬪会して哭き、棺を開きて尸を出し、尽く肌膚
   を剔り、諸を流水に投じ、骨を棺に還す。士庶人の喪も亦之如し。但し石槨は無し。
 一、父母の喪は、士大夫は百日、庶人は五十日なり。食肉・飲酒せず。
 一、婦、子女無くして夫死せば、則ち自ら刎ねて之に従う者は十に常に七、八なり。王も
   亦禁ずる能わず。

『使琉球録』(陳侃:1534年)(那覇市史:冊封使録関係資料(読み下し編)
   王及び陪臣の家の若きは、則ち骸匣を以て山穴中に臓し、仍ほ木板を以て小?戸を為り、
   歳時の祭掃には即ち啓鑰して之を視る。蓋し木朽ちて骨暴露するを恐るるなり。

 
  ▲今帰仁村運天にある百按司墓(第三墓所)  ▲明治15年に描かれた百按司墓の図(第一~三墓所)
2010年1月7日(木)

 画像を必要としたので撮影に。
 ①プトゥキヌイッピャ
 ②キジナガー(根川)
 ③志慶真乙樽の墓
 ④島袋ガンサ(合葬地)
 ⑤佐田浜と伊江島
 ⑥平敷大主の墓(一族)
 ⑦運天のテラガマ
 ⑧源為朝公の上陸の碑
 ⑨ワルミのテラ
 ⑩嘉津宇の神アサギとウタキ
 ⑪志慶真川のクビリとミジパイ


▲クボウヌウタキの後方にあるプトゥキヌイッピャ  ▲洞窟の内部には新しいウル(サンゴ)がある


                ▲本部町北里にあるキジキナガー(根川)   


  ▲Sガンサから移されたという志慶真乙樽の墓       ▲佐田浜にある島袋ガンサ


   ▲諸志の島袋ガンサから伊江島がみえる          ▲諸志の佐田浜


▲平敷にある平敷大主と一族の墓といわれている  ▲ワルミのテラ(我部村のウタキ:イベ)

2010年1月5日(火)

【羽地間切と田井等村と親川村と羽地(親川グスク】


 羽地間切の番所が置かれた親川村は18世紀に創設された村である。その多くが田井等村からである。羽地間切には間切名と同様な村名は見られない。同村と位置づけられるのは親川村が創設される以前の平良(後に田井等村と表記)である。

 『琉球国由来記』(1713年)頃の羽地間切の地頭代は「嵩川大屋子」である。1735年の『羽地大川修補日記』の「口上覚」の連名の地頭代は親川親雲上である。地頭代の名称が親川親雲上に変わっている。それより後に「川上親雲上」となる。親川村の創設は、羽地大川の修補と無関係ではなさそうである。親川村が創設されると、地頭代は川上親雲上となった可能性がある(今帰仁間切の場合、1738年に湧川村を創設した頃、これまでの地頭代は湧川大屋子であったのが古宇利親雲上に改称される)

 ・平良村  『絵図郷村帳』
 ・平良村  『琉球国高究帳』
 ・田井等村 『琉球国由来記』(1713年)(オシキン嶽:ササラモリノ御イベ)
         ・池城里主所(火)神 ・神アシアゲ ・池城神アシアゲ(いずれも中尾ノロ管轄の祭祀)
         (池城神アシアゲの祭祀に惣地頭が関わる。海神祭の時、池城神アシアゲに中尾巫
         ・真喜屋巫・屋我巫・我部巫・トモノカネイノロ・伊指川巫・源河巫が関わる)
       ※1735年 「嵩川大屋子」から「親川親雲上」となっている。(親川村の創設はその後)
 ・1743年 『球陽』に「川上親雲上は年二十にして掟となる。後ち諸吏職を経て地頭代に終る」とあり、
        1743年には親川親雲上から川上親雲上に代わっている。親川村の創設はその頃か。
 ・田井良村 『間切村名尽』(附宮殿官衛名)には田井良村のみ出てくる。(末尾に嘉慶14年:1809とあるという)
        (名護間切の三ヶ村もそうであるが、その間になにかあったか?)
 ・田井等村 『間切村名尽』(全)には、田井等村と親川村が出てくる。
 ・親川村
             (地頭代が川上親雲上になるのは?)
 ・田井等村 (明治13年の世帯数 68戸 人口 354人)
 ・親川村   (明治13年の世帯数 80戸 人口 435人)

 羽地間切番所があった場所は田井等村の領域である。そこでも18世紀に創設された村が、何故祭祀空間である神アサギをつくる必要があったのか。(羽地間切の文書資料を見ていく必要あり)


 ▲羽地大川ダム付近から見た羽地大川と親川グスク     ▲親川グスク周辺の様子(1月3日撮影)


    ▲親川グスクにある親川の神アサギ            ▲親川グスクの碑の後ろ側にある拝所


    ▲昭和30年代の親川グスクの様子(徳佑資料)        ▲最近の親川グスクの様子(1月3日)

2010年1月4日(月)

 新年の動きは「名護グスク跡」と親川(羽地)グスクからのスタートである。名護グスクのある名護村が名護間切の同村である。そこに名護番所が置かれた。明治12年に国頭役所が羽地間切親川村に置かれ、同15年名護間切の大兼久村へ、さらに同22年に同間切の東江村に移される。その頃から名護が北部の要となってマチとして発展を遂げている。

 名護グスクのある名護間切名護村(東江村・城村・大兼久村)について整理しておく必要がある。
  ・な こ    「おもろ」
  ・那五    「琉球国之図」(『海東諸国紀』(1471年)
  ・名護村   『絵図郷村帳』(城村・かねく村とあるが、「当時無之」とあり、後の新設村か)
  ・名護村   『琉球国高究帳』
  ・那古    「君誇欄干之記」(1597年)
  ・名護村   『琉球国由来記』(1713年)
  ・名護村   『間切村名尽』(附宮殿官衛名)には名護村のみ出てくる。(末尾に嘉慶14年:1809とあるという)
       (その間に動きがあったか?)
  ・東江村/大兼久村/城むら 『間切村名尽』(全)には名護村はなく三ヶ村が出てくる。
  ・東江村・城村・大兼久村 (明治13年統計慨表)(名護村は出てこない。名護三箇という)
  ・東江村・城村・大兼久村 (明治26年「沖縄旧慣地方制度」に三ヶ村が登場する)
  ・名護村   「明治36年」(再び名護村のみ登場)
 
 明治13年より前の記録(嘉慶25年:1820)に、「名護間切大兼久村の三端帆船が那覇との往来の途中中国の浙江省に漂着」とあり、大兼久村が登場してくる。名護間切の場合、地頭代は『琉球国由来記』(1713年)から変わることなく明治31年(地頭代から間切長へ)まで東江親雲上を名乗っている。
  (今帰仁間切の場合、これまでなかった湧川村が創設されると、これまで地頭代の名は湧川大屋子、新設村に地頭代の名を
   与え、以後の地頭代は古宇利親雲上を名乗り、地頭代を勤めた家に屋号としてフイヤー(古宇利親雲上屋)の名乗っている)。


【名護間切と同村と名護グスクと集落移動】
 『琉球国由来記』(1713年)に登場する「名護城神アシアゲ」(名護村)がグスク内にある神アサギとみられる。同村の神アサギでの祭祀に惣地頭が関わる。海神祭のとき、名護間切の全てのノロ(名護巫・屋部巫・喜瀬巫)が集って祭祀を行う。

・名護グスク付近からの集落移動
 ・城村     名護グスクに住んでいた人々が低地に移動。後に城村。(明治13年の世帯数 80戸 人口 497人)
 ・東江村    名護グスクから山川又に移動して集落を形成、後に東江村。(明治13年の世帯数 147戸 人口 697人)
 ・大兼久村   名護グスクから大堂原へ移動して集落を形成、後に大兼久村。(明治13年の世帯数 201戸 人口 1016人)   

 名護村が城・東江・大兼久の三ヶ村に分割し、グスクから移動していくが、祭祀から集落移動の法則が見出せそうである。移動地で設置し行ったもの。故地に遺していったもの。近世末に分村した村の祭祀はどうなったのかなど。分村する以前の祭祀を踏襲しているようにあるが、地割はどうなったのか。名護村で行っていた祭祀から、集落移動や村の分割がもたらしたものなどから、歴史を読み取っていく必要がありそうだ。


    ▲名護村から東江村・城村・大兼村となる         ▲名護グスクへの登る道


      ▲名護グスク内にある神アサギ            ▲グスク内あるイベ(テンツギノ嶽)

【名護城における祭祀】(『琉球共産村落之研究』(昭和2年発行)

 ・正月元旦 新年の念頭としてノロ殿へ神人集りて年詞を行い、一同御殿を拝し、御嶽に参詣す。
 ・三月麦穂御祭は吉日を選び女神男勢頭は殿に入りて麥穂御祭は吉日を選びて女神、男勢頭は殿に入りて麥穂を
  献じ諸作物の豊穣を御殿御嶽の神々に祈る。而して祭祀料は三ヶ村より献上するものとす。
 ・五月稲穂祭は稲の穂を献ずる祭にして、祭司の形式は三月祭に同じきも、式後宮里アサギより、数久田アサギ迄の順拝あり。
 ・六月大祭には各神人御殿にて新米を奉献し、御嶽、首里殿内、名幸を拝詣す。
   御嶽にt唄うウムイ
  一、もとむかしあたるごと、天世にひちへるごと、名護森あみちきおわかさの、いびな主からくぶん、出口、わかあじかさ
   一、じんまやの おほころ、名幸よい島殿国殿いびちかさ、いびな主
   一、大城宮の内宮おそれ、十尋あさぎ、八尋あさぎ神あさぎ神やよいみそち、しじよやいみそち黄金笄ん差し渡ち、とまゆんどう
       (略)
  一、八月十日の祭は六月大祭と同じ、其の思書また同じ、七月の海神祭は一年中重要なる祭にして女神男神総出とないrて十三ヶ村
    神人南城(名護城)に参詣す。御嶽にて式典を挙げたる後、神人御嶽宮に上りて次のウムイ書きを唄う。
       (略)
   ノロ田より取りたる新米にて神酒を造り、根神、ヨモイ神、屋取原年神三人ノロの前に進む神酒を奉り思書を唄う。御嶽の
   式あり、炬火をつけ下りて東江浜、海神門へ御嶽神の供奉をなす。其のウムイ書に、
       (略)
  一、九月の種祭は諸神人名護森に寄り、稲の播種の祈願をなす。式終りて数久田掟の御申受としてシルマシ田にて稲の播種をなす。
      (略)
  一、十月の火の神御祭は東江より殿内御嶽に懇願す。
  一、十一月御芋御祭は三ヶ村より初芋を献上し祈る。神人の服装は三七七八月の御祭にはドジン袴を着し、その他の場合は
    通常黒地礼服とす。
  


 改めて新年おめでとうございます。年賀状がたくさん届いています。ありがとうございます。自分たちの作品を年賀ハガキにして送ってくれた兼次小4年生。担任の先生を涙させたクラス。友達のもありますね。やさしい。桜祭りの頃、今帰仁グスクで発表会をやりましょう。今帰仁小からも年賀状がいっぱいきています。ありがとう。







2010年1月1日(金)
  
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします! 

  (1月4日まで更新ができませんので、早々と1月の頁を)

 29日、天気に恵まれたので大宜味村から国頭村まで踏査してみた。ムラ・シマが変化しているのに気づかされる。大宜味村田港、屋古、国頭村辺戸や奥でシマの方々と言葉を交わすことがあり、そこで教わることは多い。国頭村で猪(イノシシ)をさばいている場と出っくわす。

 明治20年頃の「旧慣問答書」に「歳暮上物例」という項目があり、品目の一つに猪の肉がある。お歳暮の時期になると間切から公義や聞得大君、佐敷殿、両惣地頭家に猪の肉などの付け届けをしていたことがわかる。

   ・公義ヘ間切ヨリ      一、干猪肉壱拾八斤  
   ・聞得大君殿ヘ間切ヨリ 一、干猪肉壱斤
   ・佐敷殿ヘ間切ヨリ    一、干猪肉壱斤
   ・両惣地頭ヘ間切ヨリ   一、猪シヽ拾八斤ヅツ

【大宜味村】
  ①大宜味村津波
  ② 同田港/屋古/塩屋
  ③大宜味村大宜味/大兼久 

【国頭村】
  ①国頭村謝敷
  ② 同  佐手
  ③ 同  宇嘉
  ④ 同  辺戸
  ⑤ 同  奥


 ▲猪をさばいている様子     ▲三頭の猪がさばかれていた。        ▲猪の油は手につかないと・・・

【国頭の村々】
 現在の国頭村と大宜味村を踏査していると、村(ムラ)の特徴は、もともと居住していた人々(複数の血族集団:一門)と外から移住してきた人々(いくつかの一門)との関わりが、大きく影響しているように思われる。新年はムラ(現在の字:アザ)の一つひとつ見ていくことにする。

・国頭村宇嘉
 『絵図郷村帳』(1648年?)に「国頭間切おか村」と出てくるのが「宇嘉村」とみられる。その後の『琉球国高究帳』には登場してこない。また『琉球国由来記』(1713年)に村名の登場はなく、宇嘉掟が出てくるので村があったとみてよさそう。明治13年の「沖縄県統計概表」には世帯数が39戸、人口は201人(男:110、女:91)である。

 旧家の大城家から北側にウタキ(杜)が見える。杜の中にイベがあり(下の画像)があり、その近くに若水や撫水をくむテンガーとウイハーがある。現在の集落とウタキとの中間あたりにウィブックがあり、ウイハーあたりから集落は移動したという。

 旧家の大城家は大屋(ウフヤー)と呼ばれ、根神人(女性)と勢頭神人(男性)を出している。注目しているのは旧家(大城家)の屋敷に神アサギが置かれていることである。山原でそのような例は数少ない(本部町瀬底の大城、瀬底の大城は北山系と言われているが第一監守系統で、中山系))。宇嘉の大城も北山系と言われている。第一監守の系統かどうかは不明。屋敷に神アサギを置くのは中南部の旧家の屋敷に殿(トゥン)を置くのとよく似ている。伊是名島と伊平屋島がそうである。

 宇嘉ではムラの中心となった一門がどこからの移住なのか、それと最初に住みだした場所にウタキ(イベ)を置くという習性が見られる。またウタキのイベに草分けやムラ立ての人骨が埋めてあるとの伝承を持つムラも他から移動してきた人たちの習慣が、そこにあるように見られる。このように、ムラの復数の集団(一門)がどこからなのかが、ムラの特徴を示しているように思われる。

 そのようなことを通して山原の村々を整理してみることに。


   ▲旧家の屋敷内にある宇嘉の神アサギ           ▲旧家(大城家)の屋敷にある拝所


▲旧家(大城家)から見える宇嘉のウタキ(杜) ▲ウタキ(杜)の中にあるイベ   ▲イベの近くにあるテンガーか