2009年2月の調査                  トップ(もくじ)





2009年2月28日(土)

 2月は本日で終わりなり。今月は何で閉めましょうかね。あれこれと質問に答えるのも業務の一つ。百科辞典並みの引出が必要だ。引出がいくつあってもたりない。今月はそれが特に多かった。一方で、西側のムラの方々が語ったテープのすべてを聞いている。車の中でも。理路整然と語られているものではない、文脈も支離滅裂、同じような話があちこちで。また断片的でもある。同じストーリーであっても、一人ひとりの語りは異なり、それがまた面白い。

 口頭で伝えてきたことの曖昧さ、世の中はそれで歴史を刻んできたのだ。いかに立派な理念や目標をかざしていても、それは実態とは大分かけ離れた議論のような気がしてならない。理路整然と説明すればするほど、現実とは遊離している気がしてならない。もしからしたら、理念や目標を述べた文書で、実態とかけ離れた議論をしているのかも。


2009年2月26日(木)

【喜瀬武原のウマチモー】
(恩納村喜武原)

 恩納村喜瀬武原のメンバーが3月23日にやってくる。喜瀬武原にウマチモーがある。ウマチモーと番所を結びつけようとしているのかもしれません。それについての質問かと思われる。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に、以下のように記されている。御待毛と呼ばれていることから、王府の偉い方をお迎えしたのであろう。

     仲間からかいとて 久志辺野古までも 金武の美御前がなし 御掛親島(仲間節)

 是れ分割以前の詠にして、西海岸仲間より東岸久志辺野古に至る間すべて我が金武按司の御領地なるぞよとの意なり。
 当時の間切番所は恩納金武両村の間なるキシン原にありき。今同地に其旧祉遺存す。

 1673年に金武間切と読谷山間切の一部を分割して恩納間切が創設された。恩納間切が創設される以前の恩納間切は西海岸の名嘉間(仲間)・安冨祖・恩納は金武間切のうちであった。仲間節の歌詞は仲間もそうであるが、久志や辺野古までも金武按司の領地ですよと謡っているのでしょう。

 そのことは問題になるものではない。『沖縄県国頭郡志』に「当時の間切番所は恩納金武両村の間なるキシン原にありき。今同地に其旧祉遺存す」とあり、キシン原に恩納間切が創設される以前の金武間切番所があったと記されている。その記述が誤解を招いているのではないか。

 これまで他の間切番所と同村との関係をみていると、金武間切番所の所在は金武村(ムラ)である。キセン原にあった可能性は非常に薄い。「其旧祉遺存す」とあるが、旧祉は番所跡ではなくウマチモーのことではないか。それは現在でもある
(あった場所は移動しているようだが)

 ウマチモーであるが、漢字を充てると御待毛、お待ちする場所ということであろう。本部町具志堅にもウマチモーがある。今帰仁間切と本部間切の役人が文書や伝達などの受け渡し場所である。三つ土手という場所があるが、そこは名護間切と本部間切と今帰仁間切の三ヵ間切の受け渡し場所である。隣接する間切役人が受け渡し場所として待機したことに由来するのであろう。

 ウマチモーのある喜瀬武原は金武町と恩納村との境界にある。「元禄国絵図」というのがあるが、恩納間切や本部間切が創設される以前の情報の絵図である。それに「幸喜村大道より金武間切大道迄壱里三拾壱町四拾間」と記された道筋がある。幸喜村は名護間切である。喜瀬武原は大分金武間切(恩納間切)域に入るので名護間切との境界には位置していないので、名護間切と金武間切との関係ではなさそうである。ウマチモーのある場所からして、恩納間切が創設(1673年)されたことで、金武間切と恩納間切との引き継ぎの待機場所と考えた方がよさそうである。もちろん、後には島を出ていく方々の見送り場所として使われたでしょう。

 
 恩納村名嘉間に建てられた仲間節の歌碑     喜瀬武原にあるウマチモー(祠は昭和16年建立)

 恩納村全体で見ると、ウマチモー(御待毛)は三ヵ所にあるという。「王府時代の国頭巡検者を御待ちして、そこで籠の取次をした場所が御待毛である」と。三か所というのは恩納間切が読谷山間切と境(多幸山)、金武間切と境(喜瀬武原)、名護間切の境(名嘉間:伊武部)にあったと。


2009年2月25日(水)

 JICA(独立行政法人国際協力機構)沖縄国際センター(OIC)の留学生セミナーのメンバー(19人)がやってきた。9カ国(中国・ベトナム・フィリピン・バングラディシュ・カンボジア・インドネシア・ウズベキスタン・キルギス・ミャンマー)から。今日から数日山原各地で研修を積むようだ。まずは今帰仁グスクと歴史文化センターから。今帰仁グスクはガイドの仲嶺氏(当館運営協議会委員長)にお願いする。今帰仁グスクの印象を伺うと「素晴らしい」と。仲嶺氏のわかりやすい外国語での案内がよかったようだ。

 歴史文化センターでは展示の説明もあるが、琉球国としての沖縄。日本・中国・東南アジアの国々との関わり。沖縄の歴史・文化、さらには人々のアイデンティティまで話題は及ぶ。世界遺産の経済効果、沖縄が目指しているものなど、いろいろと質問に答える。予期しない外国人の質問、こっちが学ぶことが多い。今年で三年目かな。グスクと歴史文化センターとで2時間。それでも時間切れでした。ごくろうさん。まだ、行ったことのない国がいくつもありますね。

 


【宜湾朝保手鏡】

 「新城徳祐資料」のアルバムの中に柄鏡(手鏡)の写真と裏に「宜湾朝保手鏡」(1965年3月17日)のメモがある。しかし氏のノートにその日の記録がないが宜湾家にあったものを調査したものであろう。柄鏡について全く無知なのでコメントすることはきないが、宜湾朝保(182376年)が明治の初期40歳で三司官となり、明治政府が成立のとき維新の慶賀使の副使として東京へ赴いている。その宜湾家に伝世していた柄鏡である。図柄はなんでしょうか?



【嘉味田家の墓】
(那覇市大名)

 200011月に「嘉味田家」(尚真王の第四子の尚龍徳:越来王子を初代とする)の墓調査を行ったことがある。初代の尚龍徳は玉御殿(玉綾)の碑文にある「こゑくのあんしまさふろかね」(1501年)で玉御殿に入るべき人物の一人)。西室に判読できない石棺があるので・・・。那覇市大名の墓には二世向恭安(越来王子:15531612年)から昭和55年卒の方まで葬られている(23基)。嘉味田家の家譜の「墓誌」を見ると、墓は東風平間切冨盛村から安里村の東大堂松尾へ移動したようだ。大名へは大正時代に移したと聞く。

 嘉味田家の墓調査の報告は時期を見てするとして、石棺(厨子甕)の中にあった副葬品の柄鏡・鏡(2コ:直径11cm、8.1cm)・鋏・櫛・磁器・銭・キセルなどがある。二世の向恭安成名(越来王子:15531630年)と妻(15611612年)と三世成名(順治十年卒:1653)と室の思乙金がはいた石棺に納められていたので17世紀初期のものと思われる。ここでは画像でみていだくことに。

 
・二世の石棺にはいていた副葬品は丸銅鏡二(直径8.1cmと11.0cm)、ハサミ(種鋏)、和鋏、キセル毛抜き?、木製の櫛片)
  ・三世の石棺にはいていた副葬品は手鏡(柄鏡:直径12cm、把手9cm)、磁器の碗、キセル、円形の金具?がはいている。
  ・五世の陶棺にはいていた副葬品は鳩目銭。


 柄鏡には鶴と松葉の図柄があったような。記憶は曖昧なり。ノートにメモがあるかもしれません。鏡についての図柄は確認できなかったような。それらの遺品はそれぞれの石棺の中なり。

 
 
            柄鏡の裏と表                     石棺の中にあった遺品」


 
 
        
柄のない鏡(裏表)               あの世も銭が必要だが使っていませんネ

 「嘉味田家」の墓に注目しているのは、墓の移葬や修復と家譜の提出、さらには近世墓や位牌の成立と関わりである。「嘉味田家」は尚真王の第四子(龍徳:越来王子)である。「具志川家」尚真王の第三子(今帰仁王子:尚詔威)は越来王子(龍徳)の兄である。両家の初代は兄弟である。

 「嘉味田家」の向氏家譜序は康煕31年(1692)で五世向殿柱(喜屋武按司)の時である。墓は東風平間切冨盛村にあった時(康煕26年:1687)に修復し、翌27年(1688)に墓の画図(魚山也、長七十間横首九間中二十間尾四間)をもって申請し、翌28年に拝領墓となっている。

 七世向棟(喜屋武按司)の時、真和志間切安里村の東大堂(現在の大道か)に墓地を見つけ、その時、唐栄の地理師に風水を見てもらっている。乾隆辛未(1751年)安里村に墓を新しく造り、翌年の三月に移葬している。そのことを家譜に記し後胤にしっかりと伝えるとある。

 今帰仁村にある大北墓(按司墓)は今帰仁グスクの麓のウツリタマイから1722年頃に運天に移葬している。今帰仁按司(十世宣謨:王子)は「具志川家家譜」を申請した人物である。それと大北墓を王府に申請許可を願いでた人物である。

 他の墓の修復などの記事を突き合わせていないが、王府への家譜の申請と墓の修復や確認、そして位牌や近世墓、それと位牌とが密接に連動しているのではないか。


2009年2月22日(日)

 「ムラ・シマ講座」の修了式(3月14日)がやってくる。一年間のまとめを冊子におさめました(明日印刷へ)。16期目の修了にあたって次のような言葉を贈ることに。                       

 この「ムラ・シマ講座」16期目を修了することができました。参加者の協力のおかげです。この冊子ができるのは参加者の一人ひとりの調査成果の蓄積の賜物です。それは参加者の将来への贈り物だと自負しています。時々、これまでの15冊の冊子を手にしますが、一人ひとりがどう成長していくのか、その過程の軌跡のように映ります。今号の16号がまた一冊が積み重ねられました。

 みなさんのノートに目を通してみると、一回目、二回目…と新しい発見があり、それが体験やものを見る視点の広がりと深み、さらに成長へとつながっているのがよくわかります。また、自分だけの碑文には寛容さと人間味があふれ出ています。

さて、今年度は開講式から始り、フィールドは今帰仁グスク周辺、玉城、勢利客・本部町瀬底・同町浜元・名護市真喜屋・本部町具志堅でした。ポイントとしては40余でした。参加者の意気込みにはいつも圧倒されますし、それがまた企画する側の後押しになっています。今年度は小学生の参加が少なかったのが残念でした。次年度はもう少し増やすつもりです。

 現場に行き、そこで話を聞き、記録する、その作業は大変なことですが、そのことが身に付くとどこでも活用できるし、自分の成長へとつながっていきます。また地域を訪ね歩く楽しみが増えてきます。

 調査地点のキーワードは神アサギ・カー(湧泉)・ウタキ・集落の成り立ち、それぞれのムラ・シマにある歴史的なもの。そこから各ムラ・シマの共通するもの、あるいは違いなどに気づき、さらにどんな特徴があるのかを見つけ出す作業であることに気づかされます。何んでもないと思っているがスケッチしたり、聞いたことを書き記していくいことで、今度は他人に自信をもって伝える立場になります。受け身から情報の発信者へとなっていきます。その過程を見守っていくのが、歴史文化センターの役割でもあります。

 「ムラ・シマ講座」の16号の発刊は次への力強いステップになります。発刊にあたってみんなで喜びたいと思います。ごくろうさんでした。
           
                          平成21年3月


         「ムラ・シマ講座」(第16期)の冊子(230頁)のトビラ(表・裏)


2009年2月21日(土)

 この原石(印部土手石)は大宜味間切根路銘村(現在の大宜味村)にあるものである。数年前に写真で提供頂いたものである。民家の屋敷内にあると聞いていたのだがメモをしていない・・・。現物を確認しようと思いながら、まだ実現していない。何度か訪れてはいるが。写真が出てきたのアップしておく。もう一枚は古宇利島の海神祭の場面である。海神祭の時の衣装である。白衣装と色つきの衣装の神人がいることである。比地や根謝銘グスクでの海神祭では色つきの衣装を着た神人の出現があった。古宇利島でもノロがいた頃はそれがあった。しかし、今では全神人が白装束である。他の地域では衣装で山の神と海の神との分けている。そのことを念頭に入れておく必要がありそう。また、これらの写真がどこに迷い込むかわからないので。

 大宜味間切根路銘村には、字外間原・字島・字親川原・字儀仁原など23の字(小字)があるが、現在は19である。。原石の「ろ ほ加ま原」は字外間原、現在の外間原にあたる。外間原は根路銘の集落部分にあたる。

 
  大宜味村根謝銘の原石    白装束と色衣装を着た神人の姿ある(昭和33年)(古宇利島)


2009年2月19日(木)

 飛び込みが多く口は回るが、頭が回らず。文字を追いかけ過ぎか、パソコンの画面の文字が見えず。車の運転もあぶないな。少し休憩するなり。


2009年2月17日(火)

 ここ数日、「やんばる」漬けでした。持ち分は「やんばるのムラ人と自然の関わり」(国頭村比地を事例として)。これまでの実践報告の一部である。その概要は「国頭村比地(山原のムラ・シマ)」で紹介してある。報告が終わったとたん古じみた感がする。

 歴史文化センター運営協議会(2時~4時)

 一緒に比地を歩いてみた。比地の外間さんの説明を聞きながら、多くの膨らましができた。近々また比地を歩くことにする。何点か質問に答えたいこともあり。また、一過性の行事ではなく、関わったからには持続的にフォローしていく。多くのことを学ばせてもらったことへのお返し、というより、知れば知るほど好きになる。

 国頭村に宿泊したこともあり、15(日)は国頭村桃原と辺土名からスタートして奥まで。午後三時まで10の字(ムラ・シマ)を踏査する。各字数項目ずつ。

  国頭村桃原(新しい神アサギの建設あり)
   〃  辺土名(咸豊九年の香炉確認)
   〃  伊地
   〃  与那
   〃  謝敷
   〃  佐手
   〃  辺野喜
   〃  宜名真
   〃  辺戸
   〃  奥

 奥で昨日のメンバーと一緒になり奥村(ムラ)セミナーとなる。猪垣調査を終えたメンバーの報告会に参加させてもらった。それと資料館の展示から猪垣・ヒー(樋)・精米・秤・トゥブシ(松やに)・猪の頭骨など、島田氏にレクチャーしてもらう。奥にはシマの生き字引の島田氏。

国頭村与 那

 
          与那の大川                           与覇の神アサギ

国頭村謝 敷

 神アサギやイベの祠が新築されている。神道が残っている。

 
        新しくなった神アサギ           アサギナーから神アサギへの神道

国頭村佐手
 
        公民館側にある祠                   佐手小学校裏の島(墓あり)

国頭村辺 戸

 
        辺戸の集落とアスムイ                 辺戸の神アサギ
 
 
     ヒチョラウタキ麓の石灯籠(二基)

国頭村奥

 
             奥の集落                奥の石灯籠

 
         奥ノロドゥンチ跡               奥の資料館で(島田氏)

 奥は猪垣とシニグ(祭祀)と連続性を持たせて描くことが必要。猪の肉は近世、御殿や殿地への献上物の一品である。シニグに猪が登場するのは、山のものの豊狩猟を願っての祈願であったであろう。一方で、作物の被害を防ぐ施設でもある。

 猪垣の起源については未確認であるが、『琉球国由来記』(1713年)では海神祭や大折目(シニグ)などの祭祀が行われているので、祭祀でみる猪の出現は豊漁同様豊狩猟を願っての祈願だと見られる。一方の猪垣は作物を食い荒らすのを防ぐ施設である。猪が多く捕獲できますようにと、荒さないで欲しい、作物が豊作であって欲しいの両面を持っている。そのため、猪・猪垣・シニグ(海神祭)の祭祀と関連づけて見ていくと山原の歴史・文化の厚みのあるものとして捉えることがきそうである。

 『羽地仕置』の寛文九年(1669)の条に、三司官などへの歳暮の儀礼としての猪持参は禁止する条文があるが、実際はどうであったか。
   
一 前々者歳暮之為礼三司官物奉行三人同筆者六人代官五人江金武・名護・羽地・今帰仁・国頭よ里猪弐枝はしかミ
       壱手籠持参候処右調ニ付百姓被罷成由候間禁止申付候事


 国頭間切については未確認であるが、大宜味間切では猪の干肉は御殿や殿内への献上品の一つである。国頭間切も大宜味間切同様、上物があったのではないか。その中に猪肉も。

  歳暮上物  公儀へ間切より(干猪肉十八斤) 聞得大君殿へ間切ヨリ(干猪肉壱斤)
          佐敷殿へ間切より(干猪肉一斤) 両惣地頭へ間切ヨリ(猪シヽ十八斤ヅツ) 

 また、「大宜味間切内法」(第91条)に、猪垣の条文がある。
 
 猪垣の義廻人相立破れ所出来候時は期々主方へ申渡修繕致させ若再廻の時、修繕無之者科米二升づつ申付半分は
   廻入手間半分は村人民中惣揃を以て仕配方の事

 第86条には、・・・薑

 『間切公事帳』にも猪についての条文がある。
 一 歳暮御捧猪之儀 狩出来次第於番所ニ干拵格護仕置、はしかミ之儀者前日与相調申候事
 一 猪壱疋長三尺 但四枝手籠弐つ入り

 一 歳暮御捧物之内猪薑取納座与賦次第聞大君大君御殿江持参仕、取納奉行ニ而大親御取次差上御規式相済候得者、
   さはくり并持夫迄御酒被下候事

【猪猟り】
(沖縄風俗図会)(明治29年)

 国頭八重山の山中は野猪多く夜々田圃に出て作物を害す然れども此辺は数里の山野に猪柴を繞らして之れを防ぐのみ間々猟人あるも之を銃殺sるう事とは知らずただ田犬を嗾して猪蹊の側らに伏さしめ其の突進し来るとき手槍を挙けて一撃す然れども時として豪猪に害せられて死するもの往々之れありと云ふ


2009年2月10日(火)

 
兼次小3年生18人がやってきた(担任:与那嶺先生)。今日は一年間の成果の披露である。テーマは「シマの宝さがし」である。公民館やカーやタンク、ヌルドゥンチ、勾玉、石切り場、石橋、神ハサギ、赤木の大木、与那嶺の長浜などが宝物。宝物にできるかは一人ひとりの発見と感動である。そして自信を持っての報告。発表する一人ひとりが、自分の屋号をもって自己紹介。一人ひとりの発表は大人顔前の報告でした。

 絵やプロジェクター、そしてムラのおじいやおばあなどから、聞いたことを大事にまとめての報告。おじいやおばあから聞いている子どもたちの表情が実にいい。また、話しているおじいやおばあの表情も嬉しそう。企画する側、話をする側、聞く側。どの立場も面白い。それが、ほんとの総合学習なり。

 クラス全員の60近いキーワードでの発表。顔を見ると、誰がどんなことを話すのかすぐわかる。一人が三つ四つではなく全員が60のことに関心を持ち、場所がわかったことになる。その体験と知識は一生の宝物になってくれたらと。来年は今帰仁グスクと関わる伝承で、また館と関わりますよ。みんなの成長ぶりが楽しみ! ごくろうさん。

 
      今泊グループ(親川の場面)         兼次グループ(タンクの場面)            

 
  諸志グループ(ヌルドゥンチの勾玉)        与那嶺グループ(赤木の老木の話)

 
仲尾次グループ(97歳の長栄翁と一緒の場面)         水くみも一緒にやったな!(諸志) 

 七枚の大きな絵がありました。みんな紹介しましょう。

 
              カメの産卵、与那嶺の長浜かな(与那嶺)

 
     大きなコバテイシ(今泊)               水道タンクと桜(兼次)

 
   四つのうち残った石橋(仲尾次)              今帰仁城跡(今泊)


2009年2月9日(月)

 「沖縄県国頭村南米比地移民誌」の所収の写真や絵を手がかりに比地の集落周辺を歩いてみた。下の写真の様子は戦後間もない頃である。集落の後方の山手は段々畑、集落の前方の比地川沿いは水田である。そのような風景は、近世の様子を色濃く引きずっていると考えている。そのような風景や生活を念頭に入れて歴史を読み取っていくことが必要である。

 この『移民誌』(昭和55年発刊)の中に挿絵が何枚もあり、徳芳(神山?)とあり、「やんばる 古里風俗図絵」(昭和59年発刊)を記した神山清政氏(大正10年生)と兄弟? ほぼ同時期に書かれている。『移民誌』の中に比地を出られた方々のシマへの思いがつづられている。シマに住む方々は、外からの目線でもう一度シマを見直す必要がありそう。

 山手から比地の集落に向けて、いく筋もの空掘がある。小玉森付近だけかと思っていたのだが、シマミーバンタへ続いている。その空掘は山への道筋のようである。山から木材や薪、あるい炭やカヤなどを運ぶ窪地の道筋が雨の日には水路となり、次第に窪みが大きくなったのであろう
(未確認)

 小玉杜の祠の一つに香炉が三基ある。その一つに「□□九年己 十一月吉日 奉寄進 神山仁屋」とある。読み取れる「九年己」と中の宮の石灯籠の神山仁屋は小玉杜の香炉の年号と一致することから「道光二十九年己酉年」(1849年)とみてよさそうである。その年、馬克仁国頭王子正秀は道光二十九年五月二十一日薩州に到着し、九月五日帰国している。国頭間切比地村の神山仁屋は国頭王子の御殿奉公人であったのか、それもと薩摩まで随行していった人物だったのか。国頭王子正秀は咸豊九年己未(1859年)にも薩摩へ派遣されている。

 
     ▲1948年(昭和23)の国頭村比地の様子   比地に田んぼがあった頃(稲刈り)


現在の比地のシマミーバンタ(小玉杜の後方の山)    奥間グスク(マングスク)から見た比地集落

 
   ▲小玉杜の中にある香炉三基のある拝所       ▲拝所内にある「道光二十九年」の香炉


2009年2月7日(土)

 国頭村比地を整理している。このムラは語らせるのに、いかに豊富な情報を持っているか、改めて認識させられている。手元に比地出身の神山清政氏(大正10年生)が書かれた絵と文章がある。「やんばる 古里風俗図絵」である。サブタイトルとして「古き往き時代への憧憬」とある。長年言い続けてきた「裸足の時代から宇宙の時代を体験した人々の体験を100年、あるいは200年先へ届けたい」と。そのような思いで書かれている。比地を語るには、どうしても避けることのできない資料である。それなくして、比地は語れない程の内容を持っている。神山氏とは電話でのやり取りしかやっていないので、ここに絵や文章の紹介は控え「目次」のみ掲げることに(区では了解を得ているようだが)。それを見るだけでも、比地に行きたくなるものだ。

 私が比地の方々から聞きたいキーワードのほとんどが絵と文にある。これまで比地は何度も訪れているが、下のキーワードを手がかりに何度も足を運びたくなる。もくじをキーワードにして、シマの方々が誇りをもって語ってくれることができればと。語ってくれる方々が一人でも多くでてくることが、ムラの活性化だと考えている。その力添えはいくらでもするのだが。。。

  ・一年の行事
  ・ランプ
  ・囲炉裏(ジフ又はジールともいう)
  ・同年会
  ・製糖小屋(サーターヤー)
  ・通学
  ・畦払い(アブシバレー)
  ・稲刈り(メーハイ)
  ・部落入口のがじゅまる
  ・泉(アナガー)
  ・蝦獲り(タナガートゥイ)
  ・川のほとり
  ・台風(テーフー)
  ・比地共同店
  ・水拝み(ミジハミー)
  ・海神祭(ウンジャミ)
  ・柴差し小屋(シバサシヤルイ)
  ・豊年踊(ホーネンウルイ)
  ・島見坂(シマミーバンタ)
  ・炭焼き小屋(タンヤマヤルイ)
  ・鍛冶屋(カンジャヤー)
  ・火廻り(ヒィーマーイ)
  ・鬼餅(ウニムッチー)
  ・共同風呂(ユーフルヤー)
  ・今昔雑記
  ・自画像
  ・比地鳥俯瞰図


 明日は、「古里風俗図絵」を持って国頭村比地ゆきかな!


20092月5日(木)

 来館者への対応で一日が終わりました。午前中、大先輩方へ二時間ばかりのレクチャー。今泊集落は第二展示室で腰かけて。現場は自分たちで。午後一番は沖大・琉大のメンバー。幼稚園教育から社会教育全般に渡って、二時間近く。それ以外にも。

 小学生達から学校で発表したとの報告。学校での発表会に参加できなかったので、ぜひ見てほしいとのことで、月曜日に館で発表会してくれることに。その成果を見ることは楽しみ。月曜日はマスコミの取材もはいていますね。どうにかなるでしょう。

 300頁余の初校原稿がドッサ。それとは別に来週から600頁原稿の出稿。13日の講演のレジュメ(概要)は国頭村比地(山原のムラ・シマ)
(タイトルが次々と変わります)の頭部分にコピー貼り付け。一石二鳥というより怠けです!

 今日も1000人余りの入館者。学芸業務に専念できます。窓口業務や晩9時までの開館。みなさん御苦労さん。さて、頭の切り替えを。


2009年2月4日(水)

【久米島具志川グスクと具志川村】(グスクと移動集落)

 現在の久米島具志川間切具志川村は、具志川グスクから離れた場所にある。古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。字仲村渠のクシメ原にある。字具志川は具志川グスクとの間に字仲村渠を挟んでいる。具志川村(集落部分)が、現在地に移動していく過程は、他のグスクでもグスクの機能と集落の移動の関係を見ていく手がかりを与えてくれそうである。

 昭和30年代の具志川グスク一帯の写真をみると、棚田がありグスクが機能していた時代の地形を保っている。それからすると、グスクの手前の斜面に集落があったのではないか。

 ・旧具志川部落(集落)は具志川グスクの南側の窪地(前兼久・後兼久)にあった。
 ・具志川グスクの麓の海岸(大和泊)
 ・『琉球国由来記』(1713年)に「具志川城内御イベ」は具志川村(城内に三つのイベ)(具志川ノロ)
      (仲村渠村はでてこないが仲村渠掟と仲村渠目指は出てくる。1700年代には具志川城は具志川村地内)
 ・仲村渠村は具志川城の東側の米須原に上村渠・仲村渠・前村渠の集落があった。それらが一つになって中村渠村となるか。
    (具志川村だけでなく、仲村渠村も具志川グスクと密接にかかわっていた集落ではないか)
 ・具志川グスクは元はウタキ
 ・グスクは青名崎に造りかける。
 ・按司の入った棺に「正徳元年丙寅」(1506年)とあり。 
 ・築城者は他からきた者
 ・城内に転がっている切石に「天正八年」(1580年?)とある。.
 ・今帰仁按司十世宣謨は乾隆22年(1757)に久米具志川間切総地頭職を賜る。
 ・1750年に具志川集落は「松の口」(現在の字具志川地内)に移動する。
   
  
    現在の久米島具志川グスクの様子           昭和30年代の具志川グスクの様子

 
  ▲グスク内にある「天正九年」と掘られた石          ▲修復されている外壁の様子


2009年2月3日(火)

 『琉球国由来記』(1713年)から「ヲヒヤ」や「ヒヤ」を拾ってもらった。ヒヤが出てくるのは沖縄本島では少なく、伊是名・伊平屋島、久米島、さらには与論島や沖永良部島で多く登場する。ヒヤは役職や住居の跡(火神や殿)、村の当主、あるいは尊称として使われている。分布や与論島以北に根強く残っているのは、近世の行政村となる以前の、古琉球の集落形態の痕跡が反映しているのではないか。1700年代の『琉球国由来記』の頃にはヒヤ制度(?)が希薄になっていたのであろう。ここでヒヤ制度に視点をあてているのは、古琉球の首里王府と地方との関わり、地方を統治する制度としてヒヤ制度があったのではないか。

 山ノオヒヤは山を取り締まる役人、惣山当の次の役。

 「久米具志川間切例帳」にも、嘉手刈のひや火神、仲地村俣江田のひや火の神の前、西銘のひや火の神の前、兼城のひや火の神の前、山里のひや火の神の前、西平のひや火の神の前、玉那覇のひや火神、新垣のひや火の神の前と、具志川間切に七名の「ひや」が登場する。「火の神の前」とあるのでヒヤの住居もあるであろうが、ヒヤそのものはいなく、拝所として祀っているのであろう。ヒヤが役人として、あるいは一門の頭として王府と関わる役目をしていたのが、廃止となり祭祀場として遺されているのではないか。
(詳細については別にまとめることに。寄り道する時間あがありませんネ)

【島尻】

 ・當間之ヒヤ火神  知念間切久手堅村
 ・ヲヒヤクメイ(玉城間切:玉城村・奥武村・百名村・安次富村・中村渠村・垣花村・當山村・宮里村・志堅原村・糸数村・屋嘉部村・
      前川村・富名腰村・上間村でのウタに出てくる)

【中頭】
 ・安謝之大ヒヤノ殿(浦添間切内間村)
 ・キチラセノ大ヒヤ(宜野湾間切宜野湾村)
 ・大里ノ大ヒヤ(  〃  ) 
 ・大川ノ大ヒヤ殿(宜野湾間切真志喜村)
 ・奥間ノ大ヒヤ殿(  〃  )
 ・石川ノ大ヒヤ殿(  〃  )
 ・小国ノ大ヒヤ殿(  〃  )
 ・中間大ヒヤ殿(宜野湾間切大山村)
 ・新里大ヒヤ殿(  〃  )
 ・上具志川大ヒヤ殿(  〃  )
 ・大山大ヒヤ殿(  〃  )

【伊江島】
 ・ヲヒヤタ(伊江島)

【伊是名島・伊平屋島】
 ・セサンノヲヒヤ火神(伊是名島伊是名村)
 ・首見ノヲヒヤ火神(伊是名島諸見村)
 ・マウノヲヒヤ火神(伊是名島勢理客村)
 ・野保ノヲヒヤ火神(伊平屋島野甫村)
 ・我喜屋ノヲヒヤ火神(伊平屋島我喜屋村)
 ・田名ノヲヒヤ火神(伊平屋島田名村)
 ・玉城ヒヤ(伊是名島:俗にオヤ田) 
 ・泊大比屋(馬氏国頭親方正胤)
 ・村々ヲヒヤ家(伊是名島)
 ・具志川ヲヒヤ・ヤブノヒヤ(祈りに出てくる)
 ・アンジヲソヒヤ・テニギヤヲソヒ

【久米島】
 ・世ナフシオヒヤトフ者(久米島具志川間切)
 ・ヲヒヤニ向テ云(久米島具志川間切)
 ・ヘドノヲヒヤ三兄弟
 ・俣枝ヲヒヤ(久米島具志川間切仲地村)
 ・西目ヲヒヤ(久米島具志川間切西目村)
 ・西平ヲヒヤ(  〃  )
 ・新垣ヲヒヤ(  〃  )
 ・兼城ヲヒヤ(久米島具志川間切兼城村)
 ・山城ヲヒヤ(久米島具志川間切山城村)
 ・久根城ヲヒヤ(久米島具志川間切山城村)
 ・堂ノ比屋(久米島仲里間切宇江城村)
 ・ヘドノヒヤ、ヘドノヒヤ一族(久米島仲里間切宇根村)
 ・堂之大比屋
 ・健堅之大比屋(今帰仁間切、後の本部間切健堅村)


【沖永良部島】
  ・大親(ウフヤ)
  ・大親役(ウフヤ)
  ・大屋(オホヤ)
  ・屋屋子(大屋子なる官吏、俗に按司)
  ・百(ヒヤ)
  ・大城村川内のヒヤ
  ・西原村あがりヒヤ
  ・ 「百(ヒヤ)と申候は往古は百家部の頭取仕申候村役の役名にて候由」
  ・沖永良部島の各村に屋号としてウヒヤ・ヒヤ屋・川内の百などがある。
  ・シニグに百(ヒヤ)が登場する。 

【与論島】

  (工事中)


2009年2月2日(月)

 久米島の西銘に「上江洲御嶽」(あらかきの杜)の標柱と出会う。標柱に「あらかき村のコシアテ(腰当)、あらかきのもり、あらかきのみや、あらかきのいなみね、などと謡われているとある。「あらかき」も「いなみね」も西銘村内にある地名(マキヨ)のようである。
 『琉球国由来記』(1713年)の西目村に、
   ・上江洲御嶽 神名:コシアテ森大ツカサ若ツカサガナシ
   ・富祖古御嶽 神名:ソノキヤジノ大ツカサ若ツカサガナシ
   ・シラシ御嶽  神名:ヨキノタケ大ツカサ若ツカサガナシ
   ・ヲルヽ御嶽  神名:セノク森ヲモヒ君ガナシ
   ・西目ノロ   火神名:ヲシワキノアカゴチヤガナシ
   ・西目ヲヒヤ 火神名:ヲモヤケノアカゴチヤガナシ
   ・西平ヲヒヤ 火神名:ヲモヤケノアカゴチヤガナシ
   ・新垣ヲヒヤ 火神名:ミヤカノ森アカゴチヤガナシ

とある。

 そこでの関心は、西目村に複数の御嶽があること。それと三人のヲヒヤの存在である。西銘だけでなく、久米島では俣枝ヲヒヤ(仲地村か)、兼城ヲヒヤ(兼城村)、山城ヲヒヤ(山城村)、久根城ヲヒヤ(山城村)がいる。火の神が祭られているので「ヲヒヤ」の住居あるいは住居跡の拝所とみられる。山原ではヲヒヤは見られないが、与論島や沖永良部島、伊是名・伊平屋島で見られる。ヲヒヤについて確認していないが、根人(ムラあるいは一門の男神人)と同様な役割を担っていたのだろうか。

 これまで山原のウタキと集落との関係で何度も触れてきたが、複数のウタキがあることは、行政村になる以前のいくつかのマキ・マキヨクラスの集落を行政村にした痕跡だとみている。久米島にも同様な、マキ・マキヨクラスの集落を行政村にしたが、それの以前の姿の痕跡ではないか。古琉球から近世の村へ移行するが、行政村になる以前の集落形態と近世の神人との関わりが見えてきそうである。もう少し、久米島の村を丁寧に見ていく必要がありそうだ。そこでも神名は神の存在というより、ウタキのイベの名称(地名)ととらえた方がよさそうである。

 
▲上江洲御嶽(あらかき杜)と記した標柱        ▲ウタキの内部(イベは未確認)

 
             ▲上江洲御嶽(あらかき杜)をクサテとした現在の集落


20092月1日(日)

 数枚の写真が届いていた。一枚は戦前の郵便局員の家族の集合写真(昭和14年頃)。中央の男の子(故諸喜田峯夫氏が4歳の時)。それと昭和34年の役場職員の写真。郵便局員の郵便局は兼次にあった時代のもの。「兼次に郵便局があった?」と記憶にある方は、わずかとなった。役場は現在の庁舎の前の赤瓦屋根の建物。健在な方は何人いるだろうか?

 
    郵便局が兼次にあった頃。郵便局員の家族           今帰仁村役所(役所職員)(1954年元旦)