2008年7月の調査記録

                                  沖縄の地域調査研究(もくじへ)



【元文検地(1737~50年)】200871日(火)


 元文検地(173750年)のとき、何種類もの竿入帳が作成されている。それぞれ竿入の目的があったとみられる。「原石」(印部石)と下に掲げた針竿図や針図や針竿帳や竿入帳などと、どんな関係にあるのか。原石は図根点(竿本)に使われているが、最初はある程度任意の場所に配置していったのか。どれか、最初に行う竿入の時に、随時設置していったのか。原石(印部土手)の設置は、複数ある竿入(あるいは針図)などとの関わりで見ていく必要がありそう。
【尚侯爵家『御蔵本目録』】より
 ・国頭方中上方杣山方境土手相立帳
 ・杣山御見合日記
 ・具志頭親方杣山見分日記
 ・……間切針図
 ・宮古島針図
 ・八重山針図
 ・首里惣廻針竿図帳
 ・……間切御支配日記
 ・……間切田畠組立帳
 ・……間切田畠山野屋敷竿入帳(宮古八重山のはナシ)

【『北谷町史』など】
 ・針図(旧城図針図)(乾隆7年:1742
 ・北谷間切桑江村竿入帳(173750年:元文検地)
 ・田畑竿入帳
 ・山野針竿帳
 ・田畑屋敷山野針竿帳
 ・惣方切并宿道針竿帳
 ・印土手帳
 ・羽地間切山野針帳
 ・伊平屋島杣山帳
 ・畠山野針竿帳(六冊)(伊江島)
 ・畠方竿入帳(三冊)(伊江島)

【『南嶋探検』笹森儀助】
 ・久志間切絵図(乾隆8年1743
 ・道路竿帳
 ・田畑竿帳
 ・河川溝渠竿帳
 ・山野竿帳

 「今帰旧城図」(針図)乾隆8年(1743)に描かれたものである(『具志川家家譜』所収)。この節の御支配(元文検地)の時に測量された図である。針本に「はんた原 フノ印」の原石(印部石)を使っている。今帰仁城を測量するために設置した原石なのか、それとも別測量のために設置された原石を利用したのかどうか。上に掲げたどの測量のために設置したのか。

 もう一枚の図は「杣山開墾地針竿帳」の図である。「大宜味間切屋嘉比村外二ケ村杣山字ウバシ又山弐万坪開墾許可地針図」とある。竿本は「久志間切山界ニアル第弐拾壱号土手ヲ以テ本ト定ム」とあり、この針竿帳は明治30年のものなので「竿本」の土手は以前からあったものである。「国頭方中上方杣山方境土手相立帳」(元文検地)のものであろうか。

 
 原石を竿本とした「今帰仁城旧城図」(針図)(1743年)    土手を竿本とした「杣山開墾地針竿帳」

 

●【古琉球の遺宝】200872日(水)

 昭和10年頃の新聞記事かと思います。数年前にいただいた記事。読みにくいので紹介しましょう(判読できない文字はで)。勾玉や水晶玉などへの、当時の評価がしれて興味深いです。また、今では失ってしまったものがあり、戦前どのような遺品があったのかしれ調査の手掛かりとなります。

   古琉球の遺宝
     県外流失を免がれ 郷土参考館へ所蔵
 県教育会郷土参考館では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎氏秘蔵の永良部阿応理屋恵の曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本品は元小禄御殿の伝宝にかかり同家大宗尚維衡(尚真大王長男)より四世に当る大具志頭王子朝盛の室永良部阿応理屋恵職の佩用したものとみられている。これに関し教育会主事島袋源一郎氏は語る。
   此曲玉は永良部阿応理屋恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上昌娟の女で

 童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理屋恵なる神職は小録御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其後廃官になったものと思われる。しかし同家では尚維衡が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えている中で、この曲玉は前年大に送うて調査の結果何れも曲玉の石の原産は南支地方であろうとのことで、曲玉は三個で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一個が一聯になってをり、又と得がたき宝物であるが松原氏は数個所より高価をもって所望せらるるにもかかはらず、その県外流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派なものだ(写真は得難き曲玉)。
 
  濱田博士絶讃
    本県最高の宝玉
     
 明日より郷土博物館に陳列
首里城内沖縄郷土博物館では来る二十日挙行される本県唯一の秋祭り沖縄神社祭を好機に明十

  五日より十一月十四日まで一ヶ月の予定で今帰仁村今泊向姓糸洲氏阿応理屋恵按司(涼傘をさす神職)所蔵の勾玉一聯(大形一、小形二十一、水晶玉一聯百十六個)の他左記数点を特別陳列することになっている。
 一、玉の草履一組、冠玉、玉の旨当等一式
 二、今帰仁村今泊。今帰仁のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金の簪一個。
 三、名護屋部のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金のかみさし一個
 四、永良部阿応理屋恵按司佩用勾玉一連(勾玉大形二個、水晶白個)
 五、地方のろくもい勾玉一連、今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵、勾玉は今から四百五十年

以前尚真王時代のもので京都帝大濱田常博士が同種勾玉として全国に類例なく本県最高の宝玉であると絶讃した逸品である。

 

 

【ミジュン】200873日(木)
 「ミジュン、いりませんか?」と麓から電話がかかってきた。「ミジュン?いります。いります。下さい」と。しばらくして、ミジュンが箱いっぱいにして届きました。小さい袋に分けて冷凍庫へ。あがったばかりなので、食べたくてしようがない。洗ってから「どうして食べようか?!」「刺身にしようか?」「フライにした方がよさそうだ」などと思案したが、結局、料理の仕方がわからず皿の上のも冷蔵庫へ。他はおすそ分けしました。明日あたりフライになって届くでしょう。

 冷凍庫にゼンザイのパックを目にしたので、早速食べることに。午後から歴史文化センターの運営委員会があったので、その説明や報告(今年度の事業の進捗状況など)で熱っぽくなっていましたので。ゼンザイで冷やすことに。委員の先生方には、それぞれ報告を願い、研究会のような会合でした。ごくろうさんでした。

 

 ミジュン(イワシの稚魚?)    沖縄のゼンザイです!


【琉球国を揺るがす出来事】200874日(金)
 安政の頃、琉球で日本国と琉球国を揺るがす出来事があった。安政5218日(1858)大湾親雲上から豊見城親雲上宛の文書がある。通弁官牧志親雲上と在留の仏人(フォルカード)との隠密の談判のようだ。市来四郎は薩摩藩主島津斉彬が密命を受けて仏人と交渉にあたっている(『那覇市史 資料篇第2巻中4』所収)。市来は軍艦購入の契約までしたが、斉彬の死去により、その契約を撤回して帰国を命じられている。その件は仏人に違約金1万ドルを支払うことで決着する。その舞台に運天港が出てくる。
 
  一 第一英米仏へ書生八、九名差出の儀
  一 第二蒸気船一二艘買入の儀
  一 第三琉球大島に於いて交易の儀

 長文なので運天港に関わる部分のみ抜粋することに。

  「仏人曰く那覇港は暗礁多し船の出入甚だ危し運天港に定むべし。先年提督の見込みも同所と定

め海の浅深をも測り館舎取建の場所迄も見定め巳に絵図も記したり。和欄人も果して同所と見定むるならんと云ふ。私共にも素より開市場は同所と考定罷在しかとも態と不案内の体にて曰く運天は港は好しと雖も山間の僻地人家少く万事不如意の地なり。……(略)……外国の人は無人の地にても開港すれば必ず繁昌の地なる。運天も人家少く不自由なりとも外国船来りて開市する時は直に人家も繁昌し、三四年も経ずして繁華の地となるべし、決して心配する事勿れと曰く…」

 

 運天港の対岸の屋我地島にオランダ墓(1846年)がある。フランス艦船が三隻やってきて琉球国と条約を結ぼうと一か月ばかり滞在した。その時二人のフランス人が亡くなり、葬ったのがオランダ墓である。それから11年後の1855年に琉仏通商条約を締結している。安政の出来事は後の「琉球処分」へと連動していく。

 
屋我地島にある仏人が葬られたオランダ墓     今帰仁間切番所や在番が置かれた運天港


【ウプユミ(大折目:ワラビミチ)】200875日(土)
 今では見なられないが、昭和40年代まで玉城のニーヤー(根屋)の火神に稲や藁算(ワラザン)が供えられている。今帰仁村勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋には、今でもワラザンが供えられている。勢理客では、ウプユミ(大折目:ワラビミチ)の時に新しいワラザンを供えている。玉城でもウプユミの時に供えられたのだろうか(確認してみることに。写真は琉大町田氏提供)。ワラザンが供えられていたのは今帰仁村では玉城、勢理客、羽地(現名護市)の親川、田井等、振慶名、呉我などである。

 稲穂が供えられる豊作祈願であろう、ワラザンが具体的にどう使われたのだろうか。出席者の数、あるいは出夫人数、あるいは日数などだろうか。

  
今帰仁村玉城の神アサギ(昭和43年)ニーヤーの火神に供えられたワラザン(藁算)


【山原の御嶽(ウタキ)と集落】200878日(火)

 「山原の御嶽(ウタキ)と集落」をテーマで総まとめをする。これまで「山原の御嶽」調査はほぼ終わっている。これまで部分的に、あるいは神アサギなどに含めて報告してきた(このHPでも)が、それらを「山原の御嶽(ウタキ)と集落」として一つにまとめる作業にはいる。
 
 リズムをつかむために羽地(現名護市)源河からスタートし、大宜味村津波、塩屋、根路銘、大宜味、国頭村の浜、比地、奥間、桃原までゆく。これまで調査してきた恩納村、金武町も含めてのまとめである。御嶽が何であるかの議論も重要であるが、それは御嶽の全体の一部にすぎないことに気づけば、もっと生産的な議論ができるし、また将来(100年あるいは200年)にむけての資料になると目論んでいるからである。

【源河の御嶽(ウタキ)】001(名護市)

 名護市源河は羽地間切の村(ムラ)であった。現在の源河域は源河村と瀬洲村とが合併している。『琉球国由来記』(1713年)に「源河之嶽」(瀬洲村)と「上城嶽」(源河村)と「野国ニヤ嶽」(源河村)とある。源河村と瀬洲村の両村にそれぞれ神アシアゲがある。祭祀は源河ノロの管轄である。『琉球国由来記』でいう源河之嶽(瀬洲村)は今で言うシーウタキ(瀬洲嶽)のことか。野国ニヤ嶽(源河村)は源河川の少し上流部にある集落で野国名の小字があり、そこのウタキ。上城嶽はウーグスクを指していると思われる。クーグスク(小城)はウーグスク(大城)に対する呼び方である。クーグスクにウーグシク(ウタキ)・ヌグナウタキ(野国ニヤ嶽)とシーウタキ(瀬洲嶽)が昭和3年にまとめられたという。源河は複数の集団(マク・マキヨ)から村(ムラ)は成り立っていたようである。

 ここでは、「上城嶽」について紹介する。「上城嶽」は現在のウーグシク(ウタキ)と想定していいと思う。『名護市史』ではウーグシクとウーグシクウタキと区別しているが、ウーグシクウタキとしている場所は、御嶽の中のイベ部分だと考えている。源河のウタキはウーグシクとも呼ばれている。源河の場合は昭和4年に祭祀場がまとめられているので、それ以前の位置に戻してみる必要がある。

 明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』に、以下の祭祀場が記されている。
  神アシアゲ一ヶ所  瀬洲内神火ノ神一ヶ所  上城嶽一ヶ所
  ノロクモイ火ノ神一ヶ所  シランメ嶽一ヶ所  根神火ノ神一ヶ所
  瀬洲嶽一ヶ所  野国ニヤ嶽一ヶ所

 源河ではウタキやグスクと呼ばれている。ウタキやグスクと呼ばれる杜に人工的などんなものがあるのか。つまりウタキやグスクと呼ばれている杜にどのような人工物があるかを拾ってみる。

 杜の斜面には旧家の源河ウェーキ、ヌンドゥンチ跡、ティラヤー跡(根神屋)などの旧家や付近の人たちが使ったカー跡があった。さらに、麓にはいくつか火神を祭っている拝所がある。昭和4年に統合されたが、都合によりもとの場所に祠をつったのではないか。ウタキやグスクと呼ばれる杜の頂上部から斜面、そして麓にかけて集落が形成されている事例である。

【源河のウタキを構成する要素】

 ・集落の後方に位置する杜である。
 ・その杜は上城嶽(ウーグスクタキ:クバヌウタキ)と呼ばれる。
 ・その杜はウタキともグスクとも呼ばれる。
 ・杜の頂上部に祠があり石が置かれている(火神ではない)
 ・石が安置されている祠はウタキのイビである。
 ・『琉球国由来記』(1713年)のイビの神名をコバウノ御イベとしている。
 ・杜にクバが散見できる。それに因んだ名称と見られる。
 ・杜の斜面に旧家跡や家敷のあとがみられる。
 ・杜の斜面から麓にかけて集落が展開している。
 ・源河村と瀬洲村に神アシアゲがあるが現在はない(明治17年頃にはある)。
 ・昭和4年に集落内にあった拝所をクーグスク(お宮)にまとめてある。

 
中央部の杜がウイグスク(ウチグスクウタキ)杜の斜面に旧家やカーなどがある(ウイグスク)。

 
 杜の頂上部にちかい所にあるイベ イベ内の香炉(火神ではない)

  
斜面にあるノロドゥンチ跡? 斜面にある源河ウェーキ 斜面にあるテーラヤー(根神ヤ跡?)

 
麓に近い分教場跡近くにある火神の祠    源河の拝所は麓の丘にまとめられている

 午前中兼次小6年の歴史学習。今回まで全体の歴史。次回から、それぞれ分担の時代にはいる。前回は今泊のシルバマから集落内を通りぬけ、親川(エーガー)へ。そこからハンタ道を通り、グスク付近の旧家跡(火神の祠)をみながら今帰仁グスクの前まで。今回は今帰仁グスクの前方の集落から正門へ。カーザフをみて、旧道を通り大庭(ウミャー)、北殿・南殿、カラウカー。北殿跡の礎石にたってもらい建物の大きさを体験。基段のある正殿の建物の向きや大きさを。実感として伝わったかどうか心もとないのだが。・・・・本番はこれから。

 
 北殿跡で礎石の柱になって建物の大きさは?   ▲帰りはグスクのネコを抱いて・・・


200879日(水)

 今回の「ムラ・シマ講座」でいく今帰仁村勢理客へ。下調べである。山原の御嶽(ウタキ)についてまとめている最中なので、勢理客のウタキ(ウガンと呼んでいる)を整理のついてでに先に紹介することにする。

【勢理客の御嶽(ウタキ)】002(今帰仁村)

 勢理客は今帰仁村の東に位置する字である。「おもろ」で「せりかくのろの、あけしののろの・・・」と謡われ、勢理客ノロ(シマセンコノロ)は、古くから中央から知られている。『琉球国来記』(1713年)には御嶽は登場しないが、神アシアゲや島センク巫火神、勢理客巫は出てくる。

 ここで山原の御嶽(ウタキ)を整理するのは、ウタキについて十分認識されていないのではないか。御嶽(ウタキ)の語義にウタキの本質があるかのような議論が見受けられるからである。宮城真治は『山原その村と家と人と』で御嶽について構造を図で明快に示し、以下のような要素を掲げている。宮城真治が見ているように、その杜を御嶽(ウタキ)とするかどうかは、それをクサテとして住む人々である。御嶽と呼ばれる杜には、以下に掲げた要素だけではなく、墓やカーなどもある。また、集落と離れた場所にウタキを設けている集落(ムラではなく)もある。また、杜をグスクと呼ぶところもある。

 御嶽(宮城信治が掲げてある御嶽(杜)の要素)
  ・いべ(イビ) ・いべの前(イビヌ前) ・おびつな(帯綱) ・とのち(殿内) ・あしあげ(神アサギ)
  ・すそまわり(裾廻) ・いりくち(入口) ・いべぎ(神木) ・かみな(神名)

【勢理客の御嶽(ウタキ)を構成する要素】

 ・杜になっている。
 ・その杜はウガンと呼ばれる。
 ・杜の入口に鳥居がある(イビヌメー)。
 ・内部に祠があり香炉が置かれ、そこはウタキ(ウガン)のイビにあたる。
 ・二基の香炉に「奉寄進」と年号と寄進者の親川仁屋と上間仁屋の名が彫られている。
 ・祠の一段下の段に左縄が張られている。
 ・神木のクバの大木やクロツグなどが茂っている(イビギ:イベの木)。
 ・杜内に住居跡地などの拝所はみられない。
 ・旧暦4月15日タキヌウガンのとき、杜内でウガミがある。
 ・杜の下方に神アサギがある。
 ・神アサギの側にヌルドゥンチ跡の火神を祀った建物がある。
 ・神アサギでの祈りはウガンに向かってなされる。
 ・集落(小規模)はウガン(杜)の麓から下方に展開している。

 
 
  ▲左側の杜が勢理客のウガン            ▲ウガンの入口に鳥居が設置されている

 
 
   ▲ウガンの内部へ          ▲イビのメー?に張られている左縄(帯綱)

  
 ▲ウガンの内部にあるイベ。香炉が二基置かれている。 ▲内部のイビギ(神木)


2008710日(木)

【塩屋の御嶽(ウタキ)】
003(大宜味村)

 塩屋は大宜味村の字(アザ)で、ウンガミでよく知られている。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切を分割して創設された。田嘉里(親田・屋嘉比・見里が統合)は分割後、国頭間切に入っていたことがある(『琉球国由来記』(1713年)の頃は、まだ国頭間切)。また東海岸の平良村と川田村が大宜味間切の管轄下にあり、間切を創設したのであるが、按司の収入のアンバランス、あるいは祭祀に問題があったのか。それと惣地頭や按司地頭が関わる村が城村(謝名城)、喜如嘉村、屋古前田村など、他の間切とは異なっている。その理由ははっきりしないが、間切分割や祭祀、番所の移動などがあり、流動的な様子がうかがえる。それらのことは、まとめのところで述べることにする。

 塩屋の大川集落の後方の杜の入口に「中之山公園」とある。そこが塩屋のウタキではないかと前々から気になっていたところである。まずは、これまで方式で大川集落の後方の杜が御嶽かどうかである。その杜の入口は階段が造られていて「中之山公園」とある。階段の創設は大正12年である。登っていくと鳥居があり、さらに上部に碑が建立されている。

 下記の碑文から、そこが拝所であることがわかる。生活改善運動の先頭を切った地域でもあったこともあり、拝所などの簡略化が積極的に進められた村である。そのため祭祀などと関わる神アサギなどが消えている字が目立つ。碑文から公園地は御嶽(ウタキ)を公園化したことがわかる。『琉球国由来記』(1713)には「ヨリアゲ嶽 神名:オブツ大ツカサ」とある。

       記
  当所ハ狭隘ニシテ腐朽甚ダシキニヨリ改築拡張ノ計ヲ定メ大正十一年十一月二十八日在郷軍人
  塩屋班員ノ起工ヲ手始メニ戸主青年会青年団婦女会処女会各員ノ一致協力ト有志ノ後援ニヨリ
  六十有余日ノ口子ヲ費シ大正十二年一月二十八日竣工  
  塩屋中之山拝所 中之山公園 

    (工事中)

【塩屋の御嶽(ウタキ)を構成する要素】

 ・集落後方の杜
 ・大正時代まで拝所であった。
 ・場所が狭いので整備し公園化する。
 ・途中に鳥居が設けられている(大正12年)
 ・イベ部分に祠が置かれている。


  
  ▲手前は塩屋の大川集落、後方の杜がウタキ     ▲杜への入口         ▲途中に鳥居がある


2008711日(金)

 昨日の今帰仁グスク前の草刈りで、今日は一日体のあちこちが痛く安静状態。あまり動けないので「監守(今帰仁按司)と阿応理屋恵」をテーマでまとめることに。これまで、断片的に書き綴ってきたものをテーマに沿った部分を集めてみた。かき集めてみると結構な分量になっているので三分の一に(ほぼ整理終わり)。二、三年ばかり振り返ってみると、よくもそれだけ書いてきたものだと感心したりあきれたり。

 【北山監守(今帰仁按司)と阿応理屋恵】(仮称)
  ・はじめに
 一、北山監守(一世~六世)と今帰仁に残る遺跡
   ・大北墓 ・津屋口墓 ・グスク内の火神 ・オーレーウドゥンに祀られている六世の位牌
   ・二つの御殿屋敷跡 ・大北墓の移葬
 二、今帰仁阿応理屋恵とウドゥン跡と遺品
   ・大北墓に葬られた阿応理屋恵 ・監守一族と阿応理屋恵
   ・二つのオーレウドゥン火神の祠 ・勾玉などの伝世品
 三、集落移動と北山監守一族
 四、18世紀初頭と明治の拝所と二つの村
 五、今帰仁ノロ祭祀とグスク内の拝所
  ・おわりに

【国頭村奥間のウタキ(グスク)】004(国頭村)

 奥間の集落後方にある杜がウタキである。そこはアマングスクとも呼び、ウタキをグスクと呼ぶ例の一つである。ウタキあるいはグスクは集落後方の杜である。ウタキやグスクと呼ばれる杜はどのようになっているかである。杜への登り口は奥間ノロ家近くからである。ウタキ(グスク)に登る人がいないので草木でふさがれている。杜の麓に奥間小学校がある。かつて国頭番所があった場所である。

 番所との関わりで置かれたと見られる土帝君の祠、隣りの杜には金剛山の碑をまつった祠があるが、それらはウタキとは別の信仰によるものである。頂上部へ結構きつい坂道を登っていくと途中に香炉と石灯籠(一部)がある。頂上部への遥拝所のような祠がある。

【奥間のウタキ(グスク)を構成する要素】

 ・集落後方の杜である。
 ・その杜はアマングスクとも呼ばれる。
 ・杜の中腹あたりの、さらに頂上部のイベにあがる手前に置かれている。イビヌメーか?
 ・フェーヌウドゥンとニシヌウドゥンと呼ばれる祠がある。
 ・アマグスクに集落発祥の伝承がある。
 ・二つのトゥンあたりに家々があったという。
 ・イビノメー?の右手に頂上部に向けた祠がある(火神ではない)。遥拝所か。
 ・杜の頂上部はアマンチヂと呼んでいる。
 ・さらに登っていくと祠がある。そこはイベにあたる場所である。
 ・奥間の集落は二つの杜の谷間から麓へと展開している。

 
   中央部の杜がウタキ(アマングスク)        杜の中腹にある石積み(石灯籠?)

 
   中腹にある祠(フェーヌウドゥン)     頂上部にある祠(イビ)(ニシヌウドゥン)

 

 


【山原の御嶽(ウタキ)】2008712日(土)
 山原の御嶽(ウタキ)調査をしているとウタキの呼び方がいくつもある。特に、杜をウタキともウガン、そしてグスクと呼ぶこともある。そのような呼び方は、近年のことではなく『琉球国由来記』(1713年)のころからすでに見られる。『琉球国由来記』に山原では8件みられる。それは杜がウタキであり、グスクでもあることを示している。今でも二つの呼び方するところがある。

 ウガンやウガミと呼び地域があり、それが本質をついた呼び方ではないか。いずれにしろ拝む(ウガン・ウガミ)聖域であることで共通性がみいだせる。ウタキを集落との関わりでみると、人が住むと杜(ウタキ)を信仰の対象とする習俗をもつ集団ではないか(後に報告するが王府レベルのウタキとは区別する必要あり)。

   ・森城嶽(恩納間切安富祖村)
   ・上城嶽(羽地間切源河村)
   ・嘉陽城嶽(久志間切嘉陽村)
   ・小城嶽(大宜味間切城村)
   ・津波城嶽(大宜味間切津波村)
   ・石城嶽(大宜味間切津波村)
   ・中城之嶽(国頭間切見里村、後に大宜味間切)
   ・イチフク森城嶽(国頭間切辺土名村)

 ウタキと城(グスク)の両呼び方をしていたとみられるウタキ(グスク)の事例として、大宜味村津波の津波城をあげることに。
 『国頭郡志』(大正8年)では「津波城」について、以下のように記してある。当時の様子がわかる。 源河川を渡り浪の花咲く礒路を辿ること一里にして津波に至る。村の入口に俗に津波城と称ふる所あり。雑雑木繁茂せる高台にして別に累塞の構へなしと雖も往昔津波村の始祖イチャヒシフンシー(板干瀬大主)の籠居せし所なりと云ふ。城は同字の氏神御嶽なり。

【津波城(グスク)を構成する要素】005(大宜味村)

 ・大宜味村津波にある杜である。現集落とは離れている。
 ・『琉球国由来記』(1713年)の頃にはウタキとグスクの両呼び方がなされている。
 ・ウタキでありグスクである例
 ・現在は津波グスクと呼んでいる。
 ・大正の頃、有力な人物が住んでいたという伝説。
 ・大正の頃には津波のウタキとなっている。
 ・神木とみられるクバが繁茂している。
 ・ウタキのイビと見られる場所に祠が建立されている(現在のは平成2年に新築)。

 
 
      中央部の杜が津波グスク                  杜の中にあるイベへの道

 
         平成2年に新築された祠(ウタキのイビか)


2008713日(日)
 「北山(山原)の歴史と文化」の講演あり。


2008715日(火)
  (午後から「操り獅子調査委員会」(中間報告)へ出席:県埋蔵文化センター)

 14日に今帰仁村今泊の津屋口墓、平敷のウタキ(御嶽)、名護市の振慶名(移動村)、我祖河、そして屋我地島の饒平名、我部(移動村)などのウタキを踏査する。いずれも別のテーマで足を運んでいるが、やはり講演や報告が近付いてくると、現場まで行かないと、自分自身が納得できないこと、それと説得力をもった報告ができないため、近づいてくると現場確認を含めて足を運んでいる。

【津屋口墓】(今帰仁村今泊)

 津屋口墓は今帰仁村今泊にあるが、北山監守(三世和賢)の墓である。運天の大北墓に入れず、親泊の津屋口原に墓をつくり葬っている。墓の庭に「墳墓記」(1678年)が建立されている。その墓を扱うのは今帰仁グスクに住んでいた北山監守(今帰仁按司)一族と麓に移った集落、それと監守一族が移りすんだ集落内の二つのウドゥン(御殿)跡との関係を知る手掛かりとなりそうである。

 まだ、十分確認しているわけではないが、系図座への家譜の提出の際、先祖の履歴を整理していると、先祖の墓が粗末にされていたり崩壊したりしており、家譜の編集と墓の修復と無縁ではなさそうでる(果たしてどうだろうか?)。

 三世和賢は嘉靖36年(1557)に産まれ万暦19年(1591)に亡くなっているので、その頃に墓は造られたであろう。「墳墓記」(碑文)から、
  ・墓の修築
  ・監守の引き上げ(碑文では、康煕丙午(1666年)となっている)
  ・尚真王第四(三か)王子宗仁は尚韶威のこと
  ・高祖今帰仁按司宗真は三世和賢のこと
  ・殿閣近くに墓を築く
  ・津屋口に葬るのは便利であること
  ・三世和賢は万暦辛卯(1591)に亡くなる
  ・葬った墓の地は津屋口
  ・「墳墓記」の建立は康煕17年(1678年)
など、いくらか読み取ることができる(詳細については別に報告)。

 現在墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫? 仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。

 
   碑の拓本         三世和賢が葬られた津口墓           「墳墓記」(1678年建立)

 
     大正元年奉納の香炉           墓口のない墓(アカン墓)

【平敷の御嶽(ウタキ)】006(今帰仁村)

 今帰仁村平敷にある拝所のある杜はタキ(ウタキのこと)と呼ばれる。ウタキは平敷の現在の集落の北側に位置し、杜の中に散在してあった拝所を杜の中に集めている。杜周辺からグスク土器や青磁器などの遺物が散在している。かつての集落はウタキの南側に展開していた様子がうかがえる。ウタキの中にイビがある。そのイビに四基の古い石の香炉が置かれている。その内の二基に「奉寄進」と刻まれている。その一つに「道光二拾五年乙已上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋」と刻まれている。道光25年の上国した人物に今帰仁里主親雲上がある。同行していった一人ではなかったか。

【平敷の御嶽(ウタキ)の構成要素】

 ・集落北側にある杜である。
 ・その杜をタキという(ウタキのこと)
 ・入口に鳥居が建立されている。
 ・杜に近い所、あるいは杜内に集落(家々)が入り込んであった痕跡が見られる。
 ・杜内に一段高い所にイビがあり、四基の石の香炉が置かれている。
 ・香炉の二基に銘があり、その一基に「上国」と刻まれている。
 ・杜内に神アサギがある。
 ・水のないカーがある。
 ・タキヌウガンの時にスムチナウタキに遙拝する場所がある。

 
           杜が平敷のウタキ                  ウタキの入口に鳥居がある

  
杜(ウタキ)の内部の一段高い所がイビ       イビに四基の古い香炉      「上国之時」とある香炉

  
    杜(ウタキ)内にある神アサギ           いくつの拝所を統合       杜(ウタキ)内にあるカー


【屋我地島の我部の御嶽(ウタキ)】2008716日(水)

 我部は屋我地島にある村(ムラ)である。現在名護市の字(アザ)である。この我部は間切の組替えや村移動、さらに松田村との合併があった村(ムラ)である。ここでは移動した村が移動先でどうウタキを置いたかを知ることで、ウタキに対する人々の神観念や祭祀をしなければならない事情が理解できそうである。

 我部村は1600年中頃の『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』では、「がふ村」「がぶ村」と表記され、今帰仁間切の村の一つである。その後延宝2(1674)に方切が行われている。その後は「がぶ村」「まつだ村」「ごが村」「ふれきな村」は羽地間切の村となる。ただし、方切によって人口や土地の広さ、貢納の多寡が生じ入地と戻地の調整が行われている。延宝9年(天和元:1681)の諸間切御検見の時、振慶名と天底村でも調整が行われている。延宝2年以前の康煕10年(1671)には、まだ方切が行われていないため「今帰仁間切松田」と出てくる。

 方切で羽地間切の村となった我部村は1736年に現在の湧川地内(羽地間切地内)から屋我地島へ村そのものを移動する。我部村のあった地は1738年に湧川村を創設し今帰仁間切とした。湧川地内から屋我地島に移動した我部村はウタキをどうしたのかが、そこでのテーマである。移動村の一つが我部村で、他に振慶名村、呉我村などがある。今帰仁村では1719年に本部間切から今帰仁間切へ移動した天底村がある。ここでは我部村を事例として紹介する。

【我部村の御嶽(ウタキ)を構成する要素】

 ・湧川地内から屋我地島へ村を移動
 ・移動したが新地にウタキを置いてある。
 ・ウタキは杜をなしている。ウガンと呼んでいる。
 ・イビの前があり、そこからイビへの遥拝の香炉が置かれている。
 ・イビヌメーにあたる部分をシチャウタキとも呼び、イビ部分をウイウガンと呼んでいる。
 ・イビ前で左右に左縄(帯綱)が巡らされている。
 ・杜(ウタキ)の頂上部に祠をつくり(イビ)祀っている。
 ・イビの祠は昭和121月に建設されている。祠内に「喜」と記されている。
 ・イビヌメーからイビに向かっての線は故地には向かっていない。
 ・故地に移動前のウタキがあり、そこも拝んでいる。
 ・故地の湧川でのウプユミの祭祀は一部一緒に行っている。
 ・『琉球国由来記』(1713年)の我部村は移動前である。
 ・『琉球国由来記』に出てくる「我部之嶽」は湧川地内にあるウタキである(スイヌピジにある)。
 ・故地での神アシアゲは、移動地に移してある。松田村が統合されるが松田村神アシアゲもある。
 ・『琉球国由来記』(1713年)での我部ノロが管轄する村は我部村・振慶名村・松田村・呉我村
  であるが移動後も変わらない。海を越えての管轄であるが、変わらない。

 
         中央の杜がウタキ(公民館から)           杜(ウタキ)への入口

 
      ウタキの途中にあるイビヌメーの香炉          イビヌメーから左右に帯綱

 
          頂上部の祠(イビ)                  中に置かれた石と文字 


【北山監守(1世~7世:今帰仁按司)】2008717日(木)

 北山監守(1世~7世:今帰仁按司)について、残してくれた少ない痕跡や資料を手掛かりに整理してみた。断片的に紹介してきたのであるが、祭祀を司ってきた今帰仁阿応理屋恵と一緒にまとめて報告することに。
 午前中小学3年生の授業である。これまで担任の先生と各地(今泊・兼次・諸志・与那嶺)を踏査してきている。その報告会の形をとってみた。「行ってきたよ」で終わるのではなく、行ってきたところをみんなに伝えることを目的にした。行ったことは行ったのであるが、言葉にして皆に伝えることができない。それで、今日はみんなに伝えることができるようなノートの取り方、そしてノートを見ながら報告できるような授業とした。各字で行った場所をあげてもらう。今泊は? 兼次は? 諸志は? 与那嶺は? 仲尾次は?仲尾次は行きませんでしたと。数個所づつ行っているが、その場所の名前がしっかり頭に入れていないので、そこで詰まってしまう。まずは行った場所の特定から。

 ・今 泊・・・公園?広場?ときたので、はい、その場所はハサギンクヮーとします。
        そこで見たものをあげてみましょう。ハサギンクヮー・大きなコバテイシ
       ・シーサ
ー・なになにさんのオバーの家・獅子小屋・シーソーなど。それら
        の言葉をつないで発表します。

 ・兼 次・・・何にしようか? 第五タンク。それにしましょう。
        第五タンクだから、あと四つはあるんじゃない。どこどこにあるでしょうか。
        今度、
探してみましょう。タンクの水はどこから引いているのでしょうか。
        ウイヌハー。

このタンクは今でも水を汲む人たちがいるが何故でしょうか。おいしいみたいよ。遠くからも来るからね。その秘密をみつけよう。などなど。

 ・諸 志・・焚字炉(フンジロ)
       焚字炉なにするもの? 紙を燃やすところ。みんなはいらなくなった紙どうしてい

  る。昔は書いた文字や神を大事にする教えがありました。今日書いたこれまでのもの

大事にしておいて。それが宝物になるからね。そのフンジロはトゥルー(石灯籠)と

もいいます。それを番する役目の家をトゥルバンヤーと屋号がついています。トゥル

バイヤーではなくトゥルバンヤーですよ。
 ・与那嶺・・・公民館前の大きな赤木
        どのくらいの大きさあましたか??みなさん、何名でかかえることができたで

           すか。8人でした。すると、木の大きさがわかるでしょう。そのために先生は
       みん
なに抱えさせたのですよ。

 子どもたちは次第に場所の名前をきっちと言えないと伝えきれないことに気づいてきます。そして一つのものを見るだけでなく回りのこともしっかり見ないと表現できないことにも気づいてきます。それが何かの答えを求めているのではなく、見たもの、聞いたこと、わかったことを言葉にして人に伝えることが目的だとわかってきます。三回くらいで、身についてきます。子供達を見ていると一気に大人になった気分を味わっている様子が見えてきます。三年生の頭も大事だが、一気に大人に飛躍することも大事。そこから次へと進みます。しばらく子供と大人の世界を行ったり来たり。

 
       これまで行ってきた場所の報告とまとめ、そして発表の仕方の勉強でした。

 午後から4年生。4つの今帰仁グスクにまつわる伝承をグスクでやる。前回は館内でやったので、まとまりのある発表ができた。それで野外で一度は空中分解させることに。伝承に出てくる場面場面を、現場で確認しながら。空想の場面を描くのではなく、現場を踏まえて物語を考えることに。北谷菜切で切った岩を見てみようか。一瞬、「あっ、ほんとだ!」の表情。

 志慶真乙樽の碑の前に座らせて、そのグループの発表。志慶真乙樽とその碑との関係は全くしりません。最後に「今帰仁の城 しも成りの九年母 志慶真乙樽が ぬきやいはきやい」と歌を詠む場面がある。皆後ろ向いてください。石に文字が刻まれています。読んでみましょうか。読みにくいミミズ文字だな。でもみんなはその歌覚えているでしょう。なぞってごらん!

 そのような具合にあと二つの物語も。夏休みにグループごとにもう一度やり、場面の絵も書くことに。それができると発表の工夫へ。


  
    さあ、これから今帰仁グスクで勉強します!よろしく!

      
茶谷ナーチラーで切った石。黒?          志慶真乙樽が後ろに控えていますよ!

     
北山騒動の誕生祝いをした場所か?           千代金丸でたたき切った石は?


【羽地の我部祖河の御嶽(ウタキ)】008(名護市)2008719日(土)

 我部祖河は羽地間切の村であった。現在名護市の字である。中央の杜がウタキである。ウタキ一帯の集落をウンバーリと呼んでいる。ウタキの中央部に窪み(空堀?)があり、左右に分けられている。画像でも窪みラインがわかる。ウタキに向かってゆくと鳥居がある。これは近年寄贈を受けて建てられている印象。ウタキは中央部の窪みで左右に分かれている。
 向かって左側にもう一つ鳥居があり、その奥に祠がある。その内部に香炉が一基置かれているのみである。杜全体がウタキで、内部にある鳥居がイブヌメー、奥の祠の香炉のある部分がイビである。その後ろにもう一つ祠があり、同じく祠に香炉が一基置かれている。鳥居の近くから帯綱が左右に巡らされている。

 その反対側に神社風の建物がある。そこは神アサギのあった場所である。建物の前の方は神アサギと見立てている。奥には「後ノ屋火神」「底屋(スクヤ)火神」「仲ノ屋火神」「区長(脇j地頭)火神」がまとめられている。

【羽地の我部祖河の御嶽(ウタキ)の要素】

 ・杜がウタキである。
 ・ウタキヌムイと呼ばれている(ウイヌバーリタキ)。
 ・鳥居があり、そこはイビヌメーにあたる。
 ・鳥居の奥の祠には香炉のみ置かれ、イビに相当する。
 ・それでは足りなかったのか、奥にさらに祠が建てられている。
 ・鳥居の近くから左右に帯綱が巡らされている。
 ・杜の中に神アサギがある。
 ・地頭火神があった。
 ・カーの跡がある。
 ・杜に向かって神道がある。
 ・以前、神アサギの軒裏に獅子を入れた箱が置かれた。

 

中央部の杜が我部祖河のウタキ            ここは便宜上の入口か。明確な神道あり。

  
   鳥居があり、奥の祠がイビ              イビには香炉のみ       帯綱が張り巡らされている。

  
   手前が神アサギ、合祀してある。         中に四ヶ所の火神を合祀してある。


【沖永良部島】2008722日(火)

 沖永良部島までゆく。以前「沖永良部島」で触れたが、「正保国絵図」(1644年頃)や1857年以前の沖永良部島の間切が領域とする村の様相(は、古琉球の「まきり」(間切)とムラの領域の様子を示しているのではないかと考えている。間切内に村が収まるのは近世なってからではないか(近世なっても境界あたりでは線引きが混在地域がある)。1857年に沖永良部島で「間切」制度から「方」制度に変わる。

 間切制の時、村が混在した分布を示しているが、「方」制(和泊方・東方・西方)になると、それぞれの「方」に村が連続し、あるいは固まった形となっている。つまり「方」制が敷かれる以前の沖永良部島(与論島・徳之島・喜界島・奄美大島)の間切と村との関係が、古琉球の間切とムラの関係を示しているのではないか。そのことの確認が一つ。古琉球の「辞令書」で「…まきり」(間切)と出てくるが、その下の村名でてくるが「…村」とは出てこないことから。「みやきせんまきり へなちのめさしハ」(今帰仁間切辺名地は)のように。

 もう一つは「城とつく六つの村」、そして「世之主神社(ウチグスク)」から見える麓の村々、そして設定されている「世之主ロード」に、知名町部分がないことの理由を確かめたくて。単なる現在の行政が別だということか。それとも「しにぐ」の前半部の世之主が内城(世之主神社:世之主城跡:ウチグスク)に登る前の話だからか?

 
       ウチグスク(世之主神社:城とも)          グスクは麓が見渡せる場所に位置

【「…城」とつく六つの村】


 沖永良部島に「城」のつく大字が六つある。「城」のつくムラがどのような場所に位置しているかの確認である。「城」と記し、シロと呼んでいる。沖縄ではグスクであるが。新城はシンジョウと呼び昭和25年に上城から分離独立した大字である。古くは上城村と下城村とで「しにぐ祭の由来」では西目村と呼んでいる。また、ヒャー(百)と呼ばれる組長が三名(余多・屋子母・西見)のひや(百)がいて、西見のひやはその一人。西見には「しにぐ」があったようで、全島の人たちが集まり、ウツタハチブル(面かぶりの踊り)があり、四人(二人女装)をし舟漕ぎや太鼓に合わせて踊りを舞うという。

   大城(おおじろ) 玉城(たまじろ) 内城(うちじろ) 上城(かみしろ)
   下城(しもじろ) 新城(しんじょう)(昭和25年に分離独立)

 沖縄本島ではグスク、それを抱かえる集落は高い所に位置していた。例えば今帰仁グスクの場合も、現在ではグスクの麓の低地にあるが、グスク周辺から集落が移動したものである。沖永良部島の城のつく村は山手に位置している。新城は山手の上城から分割したようである。玉城・大城・内城も山手に位置している。今回上城と下城へは、まず新城へゆきそこから山手を目指して上がっていくと二つの集落へ辿りつく。上・下の城の集落は連続している。

 下城に「世之主神社」があり、世之主の生誕地の伝承がある。世の主の四天王の家臣の一人ニシミクニウチベーサの屋敷跡があるようだが、今回確認することができなかった(あのりっぱな石垣の屋敷かな?)。

 
 
   世之主神社と生誕地(知名町下城)          世之主神社の鳥居

 シニグもうだが、もう一つ「のろ米」(ぬるくむい)に関する地名や伝承についての確認。根折(和泊町畦布)の「ぬるばんとうの力石」や後蘭のノロ墓など。そして三十三君に一人「永良部あおりやえ」職を出した島だからである。永良部阿応理屋恵の曲玉の戦前記事を紹介したこともある。ここで全部紹介する余裕はないので一部のみ紹介。
  
「ぬるばんとうの力石」(和泊町畦布)   窪み石のような?      石が置かれている後ろの屋敷は? 


【今帰仁グスク周辺のかつての風景と現在】2008724日(木)

 2000枚余りの画像から講座のテーマ(今帰仁グスク周辺のかつての風景と現在)に沿った画像を選びだしている。その全て紹介することはできないので、今帰仁グスクから麓の集落にかけての画像100枚ばかり。まだ、ストーリーが決まらず(決まったようだ!)。

 今帰仁グスクの麓の大川原と親田原には昭和40年頃まで水田があった。近世に親川から約1.5㎞の水路をひき水田に水を引き潤していた。今帰仁グスクの麓に水田が広がっている風景は、近世の姿でもある。その風景は稲作を中心とした年中祭祀はムラの豊年祭や今帰仁グスクでの祭祀とも結びつく。シマの人々が今帰仁グスクを崇めたてるのは、北山王や北山監守(今帰仁按司)や今帰仁阿応理屋恵などの一族の居住地だということもあるが、シマ(今帰仁・親泊)の人たちにとっての御嶽(ウタキ)であるとの認識が根底に流れている(忘れかけているが)。

 そのようなシマ(今泊)の集落や祭祀、かつての風景を通して今帰仁グスクをみた場合、ムラ・シマの人々と祭祀と御嶽(ウタキ)、さらにグスク(北山王など)、後の派遣された北山監守と今帰仁阿応理屋恵の一族とシマの祭祀との関係。そのように今帰仁グスクは複層的な視点で捉えていく必要がありそう。

 「今帰仁グスク周辺のかつての風景と現在」のテーマは、シマの人々と祭祀とウタキ(グスク内にある二つのイビ)、さらには北山王と一族と周辺の集落(今帰仁・親泊・志慶真)、後に首里から派遣された北山監守と今帰仁阿応理屋恵の一族とシマの祭祀との関係を歴史的に見究めていく作業でもある(その視点での研究が欠落しているのではないか)。

 
          今帰仁グスクの麓はかつて水田が広がっていた!(昭和2845月)

 
            台風と大雨で親田原の水田地帯は水浸し!(昭和36年)

 午前・午後と小学生達がグループでやってきます。それぞれ与えられたテーマを持って。どの学年も、一人ひとり異なったテーマや分担で「まとめ」、それを絵にしていきます。そして発表をします。今のところまとめが終わり、時分の分担を絵にしていくところに来ています。絵にすることは、おぼえるだけでなく理解させためです。そこで、いくつもの質問をなげかけてきました。質問に文章で答える仕組み。それを声にして他人に伝えることまで。まとめたことを絵にしていく段階まで来ています。文章にまとめたことを一人ひとり声にして発表していると、友達が手助けをしています。自分の分担だけでなく、友達のも自然と自分のものにしています。

 そこでは、ワークシートの枠に言葉(答え)をはめ込む方式ではなく、一人ひとりが聞いたことや見た場面を文章にしていくコツを。まとめた文章を言葉にして発表したらどんな感じ。伝える工夫もします。想像した場面を描くのではなく、現実にある場所や場面を文章や絵にして伝えていくことに。

 夏休みに、入ったとたん、午前・午後と館長はひっぱりだっこ。その時期は、いつものことながら人気もの。一ランド終わったのは、まだ三分の一位かな。今朝やったグループが「明日も行っていいですか?」と電話。「ウウウゥ!!」 なかなか楽しいようだ。館長はいくつもの顔もたないといけません。終わったグループはメモしておかないと忘れます!

  ・北山王時代(6年)
  ・間切時代(前期)(6年)
  ・第二監守時代(後期)(6年)
  ・北谷菜切(チャタンナーチラー)(4年)
  ・今帰仁御神志慶真乙樽(4年)
  ・今泊の豊年祭(豊年祭とは/行う場所/道ジュネー/獅子舞/棒術/
       長者の大主/プログラムなど)(5年)

 
    チャタンナーチラー組(4年)                今泊の豊年祭組(5年)


2008726日(金)

 昨日は先日やってきた二つの歴史グループがまたやってきた。それと兼次グループも。5年生の兼次グループは兼次の屋号である。まずは、自分の家の屋号については、みなに紹介することから。祖父の名前が屋号になっているのが多いようだ。また、間切時代の役職が屋号になったのもいくつかあり。

 兼次にはフイヤーがある。間切時代の地頭代(今の村長)になる古宇利島(フイジマ)を監督することになり古宇利親雲上となる。そしてフイヤーの屋号を名乗っている。フイヤーやメーフイヤーやアガリヌメーフイヤーなどの屋号のつく家は先祖に地頭代をした人物がでたことがわかるなどなど。名護市宇茂佐から寄留したというウンサヤーもあり。位階からきた筑登之(チクドン)やー、や親雲上(ペーチンヤー)などもあり。屋号調べも、面白い。


【初任者研修会】2008729日(火)

 午前中、高校の初任者研修会(100余人)で「沖縄の世界遺産今帰仁城跡を中心に」で講演。教育現場の若い先生方の研修会なので、今のところ教科書を教えていくことで精一杯でしょうが、生徒達を指導していくと同時に、教科書の枠を越えて大きく成長していって欲しいとの願いをこめての話。20余の項目をあげて。
  沖縄の世界遺産の位置 今帰仁城跡 座喜味城跡 中城跡 勝連城跡
  首里城跡 園比屋武御嶽石門 玉陵 識名園 斉場御嶽
の概略を説明し、北山の世界へ。山原の5つのグスクを紹介し、その5グループが後の行政区画の間切へ展開していく過程。そして今帰仁城跡へ。今帰仁グスクと関わる北山監守、大北墓、今帰仁阿応理屋恵。近世の沖縄の歴史の一面を担った運天港。会場(多野岳)から見える風景は、沖縄の歴史を語る絶好の場所である。次のような島や場所が見渡すことができる。与論島・伊平屋島・伊是名島・国頭・古宇利島・屋我地島・勘手納港・羽地大川・親川グスク・羽地内海・運天港・今帰仁グスク付近・伊江島・八重岳・嘉津宇岳・名護湾・名護グスク・読谷・粟国島・勝連半島・与那城の島々など。

 
    多野岳からの眺めは歴史を語るにもってこいの場所。高校の若い先生方。頑張っています!

 午後から「第一監守時代」のグループが参上である。資料がほとんどない時代である。1416年に北山王(攀安知)が亡ぼされた後の時代である。何故北山に監守が派遣されたのだろうか。監守をどこに住んでいたのだろうか。グスクの周辺にあった集落は? 尚忠が首里の王様になったのでだれが監守になったのだろうか。などなど質問をしながら、歴史をみていく。

 1469年に首里で尚徳王が亡ぼされると、第一尚氏王統の北山監守一族も終わりをつげる。この時代の監守は首里から派遣された按司であることなどなど。どんな一人ひとりどんな場面を描こうかの相談まで。三名(石野・大城・野中)で「第一監守時代」を征服し、北山監守の尚忠、そして弟の具志頭王子の時代を他のグループに伝える役目です。


 
▲「第一監守時代」グループの三名


【今帰仁城周辺のかつての風景と今】2008730日(水)


 
10時前になるとグループごとに小学生達がやってくる。今朝は3グループ。午後からガイド講座のレジュメづくり。頭は回転しているが、言葉(しゃべり)がついていかない。レジュメの印刷ができたようなので、しゃべるために頭の整理でも。「今帰仁城周辺のかつての風景と今」をテーマに話すことに。かつての風景を通して以下の話ができるか?
   ・稲作がおこなわれていた風景と祭祀
   ・今帰仁城と今泊の人々
   ・城内での祭祀とシマ人
   ・城周辺に残る拝所と集落移動
   ・北山監守と今帰仁阿応理屋恵と集落内の殿内(トゥンチ)

【間切時代】(後期)(6年)  【第二監守時代】(前期)(6年)

  

【北山騒動】(4年)