2005年7月の調査
地域調査研究(もくじ)
2005.07.31(日)
旧暦の6月26日である。古宇利島では23日、24日、25日、そして26日と祭祀が続く。その中のサーザーウェーの二日目が今日である。そして神人のほとんどが参加するピロシー。
6月23日 カミサガイ
6月24日 ユーニゲー
6月25日 サーザーウェー
6月26日 サーザーウェー(ピロシー)
これから祭祀に参加。古宇利島までゆく。
古宇利島のサーザーウェーは何を中心とした祭祀なのか疑問であった。サーザーウェーの語義の解釈から紐解こうとしていたことに起因していないか。これまでもサーザーウェーで歌われている歌詞や所作や拝む場所から読み取ってきた。
・旧暦の6月23日~26日にかけての行事である
・建ててから3年内の家々を回る
・複数の神家をまわる
・イルカを捕獲する場面がある
たまたま古宇利島から帰り際、旧羽地村呉我で行なわれているヤーサグイの祭祀を見る機会に恵まれた。ヤーサグイとサーザーウェーと共通する場面がいくつも見られる。この祭祀もウンジャミ(海神祭)がそうであったように、いくつかの祭祀や要素が組み込まれているのではないか。そんな印象を持つ。つまり、ここではウンジャミ、あそこではシニグやウプユミなどと。
古宇利島で旧暦の6月26日に行われるサーザーウェーは呉我ではヤーサグイと呼ばれているのではないか。古宇利島の旧家や新築家回り部分はヤーサグイと言ってもよさそうである(他にいくつか共通部分がある。まとめて報告する)。
呉我ではかつて七件の家々を太鼓を打ちながらまわっていた。
古宇利ではウンナヤー→ウチ神ヤー→新築の家→フンシヤー(1日目)
ムラヤー→ヌルヤー→新築の家→しちやぐやー→お宮(2日目)
(省略されている部分がある。かつては鼓を打っていた)
同じ日に行なわれる他の地域の祭祀と比較検討すると、祭祀の名称は異なるが共通性が見えてくる。名称は祭祀の一面を示しているに過ぎないことがわかる。
▲サブセンターとしちやぐやーで(古宇利氏一人で)
▲ピロシーの前の祈り ▲ヒートゥを捕獲する場面
【旧羽地村呉我のヤーサグイ】(現在名護市)
古宇利島からの帰る途中、呉我のアサギミャーで祭祀が行われているのと出会う。車をUターンさせ、「通りすがりですが見ていいですか?」「どうぞ、どうぞ」ということで参加。
雨が降り出したので神アサギへ移動する。アサギミャーに御座を敷き、白い神衣装を着た女の神人は一人。数員の呉我の方々。区長さんと書記さんが加わっているようだ。
「今日の行事はなんでしょうか?」と訪ねると「ヤーサグイですよ」と。漢字を充てると「屋探い」だろうか。籠(バーキ?)を二人担いて回る所作がある。小太鼓あり、一升瓶の泡盛二本。「旧暦6月26日に男神人、女神人総員で字内の七戸の家々を順次まわり、その家に神徳を授け、それに応えて、その家は神人を接待する行事である」(『呉我誌』)と。
古宇利島のサーザーウェーと重ね見ると、旧暦6月26日の祭祀の姿が見えてきそうである。ウンジャミ(海神祭)でもそうであったが、祭祀の名称が必ずしも本質をついていないのではないか(そのことは別にまとめることに)。祭祀の名称の語義から紐解くことはあまり意味をなさないのではないか。かつて神アサギがあった場所やヤーサグイのこと、そして女の神人は現在一人になっているなど、興味深い話をきくことができた。

▲呉我のアサギミャーで。バーキに神酒をいれて奉納する所作か(呉我)

▲雨が降り出したので神アサギ内で直会をする(呉我)
2005.07.30(土)
『古宇利誌』の編集に没頭中なり。21編までの原稿は完了。そして第1編から第10編までの割付は先週、第11編からの編集にスパートかけています。ニ、三日でどこまで行けるか。兎に角、突っ走りましょう。挿絵は、m&mが頑張っています。
古宇利島ではサーザーウェーとピロシーがある。昨年から新築の家回りはできなくなっている。サーザーウェーはサブセンターで行なうだけになっているようだ。明日のサーザーウェーとピロシーは見て置きたい。字誌への画像も必要なので。
ということで、今日の書き込みは以上なり。
2005.07.29(金)
午後から今帰仁小学校まで。学校で集めた道具類を歴史文化センターで活用できないかとのこと。それは願ったりである。そう数があるわけではないが、小学生達の授業で使おうと考えている。
・荷車の車輪
・松の大木でつくられたタライ
・蚕の糸巻き
・田を耕す木の鍬
・消防用の取り壊し棒
・二段の木の臼
などである。何十年ぶりか、母校の周辺を散策してみた。校長住宅のあった場所に井戸があったり、ミカン畑になっていたり。また運動場が今の場所でなく正門への道の側にあったことなど。変わらず残っているのは、校庭周辺の松の大木、そして正門近くのガジマルの大木。東側の墓地など。さらに変らないのは校庭から見える乙羽岳の山並み。
余り気にせずきた母校であるが、何十年も経って自分を振り返ると、そこで培った感性が今の仕事につながっていると実感。感謝

▲校庭の回りにある松の大木 ▲懐かしいガジマルの老木

▲荷車の車輪や木の臼など
2005.07.28(木)
国が地方を統治する手段として土地制度(地割)がある。つまり税金を納める、税金を納めてもらう関係である。その中で税は村(ムラ)単位で納める仕組みになっている。個人の負担は、さらに村の中で定める仕組みである。村の中で年齢や男女、貧富の差や頭割りなど村によって異なっている。税を取る立場からすれば、個人が支払うの税の不足は問題にしない。個人の不払いは村の中での問題である。国に向って税不足がないように村の構成員で責任をとる。
村全体の不足分は全員で補うことになる。国へは絶対量を払えばいいことにで、大量に生産できたなら村あるいは個人に余裕がでる計算である。もちろん、台風や飢饉などがあれば反対の状況が生じる。村の人口が増えて欲しい(繁盛)との神人の祈りは、村の頭数が増えることは一人あたりの負担(税)は少なくてすむことになる。神人が村の繁盛を祈っているのは、健康祈願もあるが土地制度や税とのかかわりでの祈りでもある。
そのことを示しているのが以下の文面である。
一個人を以て納税者と為さざること。百姓地の分配は村内の協議を以て之を行ふが
故に土地に対して賦課する租税は村を以て納税者とし各個人の負担は村内に於て
更に定むる所に任せり。而して村内に滞納者あるときは結局村に於て其責任を負は
さるべからざるか故に、村は租税負担力の多少に比例して土地を分配し、又滞納者
に分配したる土地を取り上げるの権を有するの必要あり。随て冨者は多分の分配を
受けて益々富々貧者は土地の分配を受けること少きか為益々貧なるの結果を生ずる
を免れず。要するに村を以て納税義務者とするの制度は百姓地分配の制度と関連す
るものにして、共に勤勉の念を沮喪せしめ多数抑圧の原子を養成するものと謂はざる
べからず。
2005.07.27(水)
報告や講演が続いているので立ち止まって頭の整理をしている。立ち止まるのは性格にあっていないのであるが・・・。
昨日は「運天のゆいまーる」の方々(20数名)。話の話題はスライドを見ながら今帰仁グスクと大北墓、運天のウタキ、運天の番所、いつもは話から外れるクンジャー(集落)など。
今日は午後から「山原の歴史と文化」で講演あり(於:名護市民会館)。200名近いメンバーのようだ。少し準備が必要だな。沖縄本島北部地域、伊是名・伊平屋からの参加者もいらっしゃるので、視野に入れた話をすることに。
2005.07.24(土)
日曜日は沖縄大学(那覇市)で「琉球国の統治と祭祀」で報告。そのため、一日館を留守にする。これからレジュメの印刷でも。話の仮の骨子は以下のように・・・。限られた時間なので、その程度の内容かな。
琉球国の統治と祭祀―山原の祭祀から―
はじめに
1.祭祀と関わる役人が意味するもの
2.置県後、補償された神人
3.休息日としての祭祀の位置づけ
4.王府への貢租の仕組みと祭祀
5.年中祭祀にみる神人の祈り
6.村移動から見えてくる祭祀とノロ管轄
まとめ
【今帰仁村運天のカンナミガマ】
昨日は古宇利島の西海岸を踏査したが、その帰り運天側の浜にボートをつけてくれた。浜に着くなり「そこ、見て見て」と声がかかる。小さな浜があり、崖の麓は半円の洞窟になっている。腰をかがめて入ると中央部あたりにドカンと筒状の穴があいている。「雷が落ちたそうだよ」と。
以前地名調査をしたことがある。その時、カンナミザチ(雷崎)があると教えてもらったことがある。その時、カンナミザチは落雷した岬だ考えていた。そこにガマがあることまでは確認していなかった。
落雷したという岬に落雷でできたというガマを確認できた。ガマを見上げた印象は自然の穴のようでもあり、あるいは井戸として掘った穴の下部分が波で削り取られ、今の形になった可能性もある。いずれにしろ、カンナミサキとカンナミガマの呼び方は面白い。
カンナミガマの呼称は、荒れた時の波が穴の下のガマにたたきつけられ、その音が筒状の穴から聞こえてくる音が雷のような音に聞こえたのかもしれない。台風に穴の上の方から聞いてみることにする。さて、どんな音の響きが聞こえてくるか。
▲上に抜けたカンナミガマ ▲洞窟の途中に上に抜けた穴がある
▲カンナミザキから古宇利島を望む
2005.07.23(金)
午前11時から諸喜田節子さん(古宇利島出身)親子(三名)と福保先生、歴文から私とうし丸が参加。ボートで島の西側のガマ(洞窟)をゆく。一度は行って見たいと思っていた場所である。島の西側は切り立った崖になっていて、崖の下にスルルガマやヤマトゥガマやパマイャーヤ(浜の岩屋)などの洞窟がある。他にサバアナやゼンシンヤーヌガマ(生け簀)などもある。サバアナはサバが入り込んだ穴、ゼンシンヤーのガマは海人(漁師)をしていたゼンシン氏が生け簀に使っていたガマに付いた呼称。ハマンシ(浜岩)は崖から崩れ落ちた石(岩)があちこちに転がっていることに因んだ地名なのであろう。
戦争の時、西側のスルルガマに逃げ延びたと、何度か聞かされていた。古宇利島の方々だけでなく運天の人たちにも。案内いただいたのは、スルルガマで米軍の「出て来い、出て来い」に応え、両手を挙げて出て行き、羽地の田井等の収容所に連れて行かれ、助かった方々である。スルルガマからグサブ(古宇利港)に連れていかれ、そこから米軍の舟艇で羽地の田井等に収容され(昭和20年3月)、そこは満杯だったため羽地の呉我の民家に移され、昭和20年の10月頃帰島を許されたという。
幸いなことに、古宇利島のスルルガマに隠れた人たちは助かり、死者は一人も出なかったという。今次大戦でスルルガマのような洞窟に多くの人たちが避難した。多くの犠牲者を出したガマもあるが、古宇利島のスルルガマでは全員が助かった。そこで生死を分けたのは何だったのか深く考えさせられる。
ガマ調査の後、大潮なので潮の引きがよく潮干狩りをする。サザエなどの貝や海草がよく取れる。それは海人の諸喜田節子さん(80歳)のこと。素人の私たちはタコの子を二匹と貝を一個見つけただけ。帰りには、諸喜田さんから貝や魚などお土産にたくさんいた。ガマ調査にボートを出していただき、さらに潮干狩りをし、私たちにたくさんの海の幸のお土産まで。謝謝

▲運天港からボートが出た ▲スルルガマは古宇利島の西側〈左)にある

▲まずは生け簀に使っていたガマへ ▲崩れ落ち岩があちこちにある

▲ガマの入口から外をみる ▲崖のあちこちにガマがある

▲スルルガマの前に大きな岩がある ▲スルルガマの中にさらに穴がある
2005.07.21(木)
ちょっと余裕のある一日。午前中会合あり。天気がいいので、途中乙羽岳まであがる。頂上から伊平屋や伊是名島、そして与論島がはっきりと見える。もちろん、眼下に古宇利島も。
館に戻ると「スルルガマに舟を出すが行かないか?」との誘いあり。それは有り難いことである。早速参加するとの返事。明日は古宇利島の西側のスルルガマ?へ舟でゆくことに。タイミングがいい。福康先生ありがとうございます。戦争の時、古宇利島や運天の人たちが避難したガマ(洞窟)でもある。伊江島のニャティヤ洞(千人洞)をイメージするがどうだろうか。
▲スルル洞は古宇利島の西側にある。干潮時でないと入れないとか?
2005.07.20(水)
少し厳しい日程が続いている。三、四時間の睡眠時間が数日続くと気力で体を支えているようなもの。それでも頭の回転は休むことをしらない。それには感心してしまう。昨日は二時間ばかり仮眠。『古宇利誌』の写真や表の割付を三分の一程出稿する。いよいよ攻めに入れそう。途中、講演やレファレンスなど、飛び込みがあるので油断は禁物なり。これから一週、間隔の自転車操業に入るなり!
割付原稿の出稿の準備が終ったとたん、名桜大学の学生達90名余のレファレンス(孫講師の授業)。徹夜状態の体で歴史文化センターと今帰仁グスクまでの一時間半の講座。関心の薄い多人数をまとめていくのは大変であるが大丈夫。次第にこっちのペースに巻き込んでゆく。最後は眺めのいい大内原でギュと。
懐かしい場面に出会う。生徒達は出席カードを孫講師に提出している。その風景を見ると大学で教鞭をとっていた時代が懐かしい。今の若者を前にしていると息子や娘に授業しているようなものである。真面目に授業を受けている学生や留学生が目立つ。単位をとって卒業するだけでなく、大学の場が人生の糧となる学び舎であって欲しいものだ。
昨日、古宇利島をゆく。『古宇利誌』用の画像をとるため。ため池(クムイ)を数ヶ所まわる。地下水のない島なのでため池をこしらえ雨水をたくわえて灌漑用水に使っている。かつては灌漑用水もあるがイモや農具を洗い、馬などの家畜を浴びせるのにも利用したようだ。もちろん、旱魃への備えでもあった。
一方、今年の梅雨は雨続き。大量の雨が続くとせっかくのスイカも水腐れ状態。そのため商品にならず放置されている。自然はなかなかバランスをとってくれない。知恵くらべだが、ほんとにまいてしまう。島人がんばろう!

▲雨続きで出荷できず放置されたスイカ ▲上原にあるクムイ(ため池)
【第二監守時代」(後期)】(1609~1665年)
その後、さらに小学校6年生の総合学習。今日は「第二監守時代」(後期)のグループ。わざわざ、やってくる生徒とは真剣勝負である。さあ、いくぞ。この時代は、なかなか大きな出来事がいくつもあるぞ!
前の時代からのつなぎでいくと、まず1609年の薩摩軍の今帰仁グスクの焼き討ちあり。その後、しばらくグスクの中で生活していた一族が、麓の親泊(現今泊)に移り住む。きっと焼き討ちと関係あるのだろうね。その時代の監守(今帰仁按司)に縄祖と従憲がいる。
グスクの麓に移り住んだ屋敷跡が確認できます。そこには縄祖の位牌があり、首里に引き揚げるが火神の祠やウドゥンガー(井戸)が今でもあるぞ。確認してください。1665年に首里に引き揚げた後の今帰仁グスクは廃城になってしまう。その時、これまでの今帰仁間切の領域は本部半島の大半から、本部間切と今帰仁間切に分割され、今帰仁間切(今の村:ソン)は現在規模になってしまうのだ。見方によっては今帰仁グスクの歴史は逆三角形のように尻しぼみである。しかし、・・・
【第二監守時代】(後期)のグループ。 学ぶ姿勢は真剣そのものだ!
2005.07.17(日)
月、火と
休館となります。その間に片付けなければならないのがたくさんあり。休日返上になりそうだ。
台風の余波で風あり。先島(宮古・八重山)は暴風域に入るようだ。沖縄本島は避けられそう。ホッ
「琉球国の統治と祭祀」を報告する予定(沖縄大学)。中身はこれから詰めてゆくことに。デジュメは明日にでも。頭の中は、あれもこれもでグチャグチャなり。
【第一監守時代】(1416~1469年)のグループ
1416年北山王の攀安知が滅ぼされ、1422年に尚忠が北山監守として派遣され、1440年に尚忠は中山王になる。そのため北山監守は弟の具志頭王子が引き継いだ。監守一族は今帰仁グスクの中で監守の役目を果たした時代。北山監守の役目として、山原の国頭(根謝銘)・羽地(親川)・名護・金武などのグスクの按司(豪族)たちを統括した。
北山の領域は、首里から派遣された監守のもとに統括された。北山は監守を派遣しなければ統治できない状況にあったのである。なるほどと・・・皆をうならせよう!
【第一監守時代】のグループ
2005.07.16(土)
古宇利島の陸上と海岸沿い、そして島周辺の海の中の小地名を図に落としてみた。『古宇利誌』の「小字と小地名」の編に入れる図である。「陸上と海岸沿いの小地名」の図は作成中なり。
海岸沿いに小地名が多く見られるのは、島の人々の生活が海(海岸)と密接に結びついていたことによるのであろう。それと海中のイノーやリーフにも小地名がみられる。それは、漁や舟の航行との関わりがあるからに違いない。小地名の呼称を分類してみると面白い(意味の解せない地名も多い)。
【陸上と海岸沿いの小地名】
・イワ(岩)・・・・・・・・・・・・・・ジャンジャイワ(ザンの岩)
・イャーヤ(岩屋)・・・・・・・・・パマイャーヤ(浜の岩屋)
・ガマ(洞窟)・・・・・・・・・・・マークーグガマ・パマガマ(浜の洞窟)・ヤマトゥガマ
(大和洞窟)
・シー(石)・・・・・・・・・・・・・・シーバイ(石のある方)・ハマンシ(浜の石)
・ハマ(浜)・・・・・・・・・・・・・パマガマ(浜の洞窟)・チグヌハマ(壷の浜?)・トクフバマ
(トクフ浜)・テーヌパマ(テーの浜)
・ソー(迫)・・・・・・・・・・・・・ソーヌパマ(迫のある浜)
・サチ(崎)・・・・・・・・・・・・ダキヤマヌマサチ(竹山の崎)・シルマサチ(白い所の崎)・アラサチ(荒崎)
サバヌマサチ(サバヌマ崎)
・トゥンヂ(とび出た)・・・・・トゥンヂバマ(とび出たところの浜)
・ピザー(山羊)・・・・・・・・・ピーザーアナ(山羊の穴)
・ミナ(貝)・・・・・・・・・・・・・・ミナワイ(貝を割)
・ホー(陰部)・・・・・・・・・・ハイホーワラ・ホーヌサチ・ホー
・タンメー(おじいさん)・・・タンメーガマ(叔父の洞窟)
・ハカ(墓)・・・・・・・・・・・・パカヌメー(墓の前)
・ウプ(大)・・・・・・・・・・・・ウプドゥマイ(大きな泊)・ウプトゥケー(大きな渡海)・
ウプタールムイ(大きなタール森)
・グヮー(小)・・・・・・・・・・トケーグヮー(渡海小)・シルヌハマグヮー(白い浜小)
・アガリ(東)・・・・・・・・・・アガリウセールクマグヮー(東のイジメ場所)
・イリ(西)・・・・・・・・・・・イリウセールクマグヮー(西のイジメ場所)
・ヤマトゥ(大和)・・・・・・ヤマトゥガマ(大和洞窟)
・その他・・・・・・・・・・・・シラサ(白砂浜)・ウプルマイ(ウプドゥマイ:大きな泊)・アミヌアシ(雨の脚)
・ソーバタキ・グサブー・クヤミ・ハンゼー・アタフヂー・ハヤハンシチ・アザキ
タチバナ・サヤゲーケジ・オーグムイ(青い小堀)・クンヂヌタナ・ターチバナヒ
など地形や物の名などに因んだ地名が見られる。大小を表すウプ(大)やグヮー(小)、方向を表すアガリ〈東〉やヤマトゥ(大和)やハカ(墓)やダキ(竹)などの付いた小地名もある。 アラサチ(荒崎)は島の北側の岩場の地名で、荒波の打ち寄せる場所に付けられた地名である。現在の小字にはないが、原石に「あらさき原」があり、一帯の原名としてあったことが伺え、原名は消えたが小地名として残っている。
【古宇利島周辺の海中の小地名】
海図に海の中の小地名を落としてみました。小地名の分類は字誌へ。

(海中の小地名)
【第二監守時代(前期)】グループ
【第二監守時代(前期)】グループ
2005.07.15(金)
古宇利誌の編集と表や作図(位置図や地名図など)、それと写真の割付などで多忙をきたしています。しばらく真っ赤な目、フラフラ状態、そしてあれこれ頭の中を駆け巡る日々が続きます。
それに今月の24日、26日、27日と講演があります。アキサミヨーなり。ちょっと、一服してから・・・。
小学生の総合学習(半分のグループは終了したかな?)もまだ続きます。明日もあったような!今日は「間切時代」(前期)と「北山王の時代」の二つのグループ。それぞれ3名のグループなり。小学生達も一生懸命なのでノーとは言えませんね。クラスみんなで形にしていきましょう。
【間切時代(前期)】(1666年~明治12年)(3名)
この時代は今帰仁グスクの住んでた監守一族が首里に引き揚げた後の時代。今帰仁間切が分割され、これまで本部地域まで含んでいた今帰仁間切は半分の面積なった。監守は首里に引き揚げるし寂しい時代か。
首里に引き揚げた後、今帰仁グスクの処分問題がおきる。蔡温の命で今帰仁グスクの測量がなされ、首里に引き揚げて80年近くもたつのでグスクは荒れた状態。今帰仁間切にあげるか、それともグスクは一族のものだと主張したのか。その答えは「山北今帰仁城監守来歴碑記」にあるのだ。その碑は県指定の文化財だぞ。建立した人物は10世の今帰仁王子宣謨なり。いくつかの村が移動させれ、湧川村を創設した時代でもあるのだ。
【北山王の時代】(12世紀頃から15世紀初頭)(3名)
・北山王の三名
・沖縄本島が北山・中山・南山が対立していた時代
・北山は今帰仁グスクを拠点に北部を統治
・山王は明国と交易を行なっていた。
・北山の隆盛の時代
・発掘された遺物の大半が中国のもの
・今帰仁グスクの城壁を拡張していった時代かも
・今帰仁グスクへの道筋はハンタ道
・世界遺産に登録されたのも、この時代が中心か?
などなどのことをまとめと。それぞれ分担し、どんな絵にするところまで頑張る。みんなヤルキまんまんだな!楽しみだ。
みんなねらいもわかってきたし、三回のフィールドもやっているから。これから自分の考えも引き出していきます。自分のができたら、両隣の時代とつないでいきます。最後は8グループをリンクさせ北山の800年の歴史を紹介します。それは社会に出てからの財産なり。

▲「間切時代」(前期)のグループ

▲「北山王の時代」のグループ
2005.07.14(木)
運天港の編集に入る。運天港は20頁近いスペースの予定。運天という場所が沖縄の歴史と関わっている場面がいくつかある。それと今回のテーマである「山原の津(港)と山原船」の要となる場所だと位置づけている。m&mが運天港周辺を「まとめ」てあるので入れ込むことに。「運天港」はもりたくさんの内容になりそう。画像を取り込んで一部割付をしてみた。
●
兼次小6年の「村政時代」(戦前)のメンバー2名。
2005.07.13(水)
今帰仁村の炬港(大井川の河口)の編集に入ろうと、今朝画像とりにゆく。炬港は大井川の下流域にあり、大正の頃まで船の出入りがあったようだ。炬港に入るには、リーフが切れた口から内海に入る。口から炬港に入るには、船持ちは潮の流れや風向きを読むなど高度の技術が必要ではなかったのでは。波静かな海上をみていると、そんな気はしないのだが・・・。
炬港(テーミナト)は歴史でどう登場してくるか、また1846年に運天港を訪れたフランス艦船の乗組員の一行が大井川流域を訪れて、描写をしている。明治30年代に一本の橋の架設で大井川沿いに仲宗根のマチが展開する。そして消え去ったフルマチ。なかなか面白そう。大雑把な割付まで。
こんないい環境で仕事をしているのは贅沢だ!と東京からのメール。ほんと!

▲炬港にあるキノコ岩 ▲河口の湾になった炬港

▲明治30年代からマチとして発達 ▲満潮時になると海水が遡ってくる

▲上流まで舟が・・・(プルマチ付近) ▲「今帰仁村炬港」の割付
「村政時代」(戦後)のメンバー2名
午後3時頃、兼次小6年生が二人戦後の今帰仁グスクの歴史を学びに。5分くらいの説明となるので、ポイントを5つくらいに絞って。担当以外のみんなに自分の時代を聞かせるような形でのまとめ。
今帰仁グスクの昭和34年にできた階段と、同37年に出来た正門、そして昭和48年に国指定、そして2000年に世界遺産。最後の歴史のまとめの組なので、今帰仁グスクの歴史を見ていくと誇りに思えてくるし、多くの方々に今帰仁グスクから学んで欲しいと、締めくくってもらう。そして二つの絵を描くことに。
夏休み明けに今帰仁グスクで発表会をするぞ!ニコニコしてグスクに行った二人。なかなかいいまとめをしてくれました。歴史の面白さを見つけたかな?
2005.07.12(火)
ボツボツ展示会(「山原の津(港)と山原船」)の準備にかかる。それと8月下旬から学芸員実習は「山原の津(港)と山原船」の調査や展示に関わらせる予定である。このテーマの調査はすでにスタートしていて、一部はHPの「山原の津(港)と山原船」で紹介してある。しばらく足踏みして図録(120頁の冊子)の編集と展示に向けて整理にかかる。今日は「図録」のレイアウトしたモデル原稿の出稿。オールカラーの120頁予定なり。
モデル原稿作成のため、昨日は名護市仲尾の勘手納港と集落、そして勘手納港と関わる親川(羽地)グスクに足を運んでみた。大正8年に開通した仲尾トンネルを通るたびに運天トンネルや港のこと。そして集落移動やバジル・ホールが訪ねるなど。四津口(運天・勘手納・湖辺底・那覇)の一つであること。さらに地形的に共通点を見出すことができるなど、運天港ほど歴史の表舞台に出てこないが、果たして登場させることができるか。

▲勘手納港と仲尾の集落(現名護市) ▲勘手納港のモデル原稿のレイアウト
2005.07.10(日)
月曜日は
休館です。休めるかな? いい休日を!
「上り口説」は琉球の役人が首里城を出て薩摩まで船旅をする道程を唄ったものである。薩摩から琉球へ下る道行きの口説は「下り口説」である。薩摩と琉球との間を船旅する様子が伺えるので取り上げてみた。
【上り口説】
旅の出で立ち
観音堂
千手観音 伏し拝で
黄金酌とて 立別る
袖に降る露 おし払ひ
大道松原 歩み行く
行けば
八幡 崇元寺
美栄地高橋 打渡て
袖を連ねて 諸人の
行くも帰るも
中の橋
沖の側まで 親子兄弟
連れて別ゆる 旅衣
袖と袖とに露涙
船のとも綱 涙く解くと
船子勇みて 真帆引けば
風や真艪に 午未
復も巡り合ふ 御縁とて
招く扇や
三重城
残波岬も 後に見て
伊平屋渡立つ波 押し添えて
道の島々 見渡せば
七島渡中も 宥安く
もゆる煙や
硫黄ケ島
佐多の岬も 走り並でぃ(エイ)
あれに見ゆるは
御開聞
富士に見粉ふ
桜島
【下り口説】
さても旅寝の 仮枕
夢の覚めたる 心地して
昨日今日とは 思へども
早や九十月 なりぬれば
やがて御暇 下されて
使者の面々 皆揃て
弁財天堂 伏し拝で
いざや
御仮屋 立出でて
滞在の人々 引連れて
行屋の浜にて 立別る
名残り惜し気の 船子ども
喜び勇みて 帆を上げぬ
祝の盃 巡る間に
山川港に 走り入れて
船の検め 済んでまた
いかり引き乗せ 真帆引けば
風や真艪に 子丑の方
佐田の岬も 後に見て
七島渡中も 宥安く
波路遥かに 眺むれば
後や先にも 伴船の
帆引き連れとて 走りゆく
道の島々 早や過ぎて
伊平屋渡立つ波 押添へて
残波岬も 走り並で
あれあれ拝め
お城元
弁の御嶽も 打ち続き エイ
袖を連らねて 諸人の
迎に出でたや
三重城
2005.07.09(土)
午前中、「ムラ・シマ講座」運天港周辺である。晴天の中、数ヶ所踏査する(詳細は明日にでも)。
昨日(7月8日)は読谷村で地域史協議会の研修会。以前から気になっていた尚巴志や丘春(岳春)の墓と遭遇。そして気になっていた読谷村の渡具知港(比謝川の下流域)もコースにはいており、しめしめ。座喜味城跡は時間の都合で略されたので研修会後に登ってきた。
午前中の巡見は予期していなかったが北山(今帰仁)の興亡と関わる人物の墓が読谷村にあるのに気づかされる。尚巴志の墓や丘春について記されたものは、私には理解し難い、納得し難いものである。もう少し資料を丁寧に追いかけてみる(資料批判)必要がありそうだ。史実かどうかの吟味なので、なかなか手強いノー!(今回の巡見は戦争と関わる場所が主である(戦争は真剣に向かい合う必要があるので改めて)。
もう一つ、地域史の発刊に関わっているいると「個人情報保護法」と「情報公開条例」の判断を求められる場合が多々ある。今回は、その研修会。具体的な事例を持ち合わせ検討が必要。
【尚巴志の墓とサシジャー】(読谷村伊良皆)
読谷村伊良皆のサシジャームイ(佐敷森)にある墓で尚巴志の墓だと伝えられている。墓口に「尚巴志王・尚忠王・尚思達王の墓」とある。伝承をみると、尚巴王が亡くなると北山王と南山王が尚巴志王の遺骨を粉々にしてしまおうとの企てがあり、それを知った平田子と屋比久子が叔父の尚巴志王の遺骨を首里の墓から運び出し、読谷の伊良皆に移したと言う。
森の麓から流れ出る湧泉をサシジャー(佐敷湧泉:イーヌカーともいう)と呼ばれているようで、サシジャーは尚巴志王の別名佐敷小按司に因んだ呼称だという。サシジャーの後方には尚巴志王の遺骨を運んだという屋比久子と平田子の墓がある。
【中昔今帰仁城主丘(岳)春の墓】
読谷村渡久知に「仲昔今帰仁城主岳春・臣下・真□津之墓 合葬」と記された墓がある。丘原は北山の興亡で登場する伝説の人物である。
【読谷村渡具知】
渡具知は渡口のことでワタイグチと呼ばれている。渡口村から渡具知村を表記されるようになったという。「渡具知の港には県内外から帆船(山原船)、ポンポン船、汽船などが入港し、牛・馬などが陸揚げされ、比謝矼の牛市場に運ばれて売買された。このように渡具知港は産業の発展に寄与した港である」(『読谷村史第4巻資料編3』。
「ヤンバル船の、主に国頭村あたりから建築用材や薪炭材などを運搬してきた山原船は、比謝港で一部荷揚げし、読谷山からは黒糖を積み込んで那覇へ運んだ。山原船主は貨物を那覇ですべて荷掲げした後、国頭や読谷山などで注文を受けた日用雑貨品などを仕入れて船に積載し、帰りにそれぞれの地で卸した。このように山原と那覇の中継地点であったため、比謝川河口には絶えず山原船が、二、三艘繋留されていた」(『読谷村史』同上)。
▲尚巴志王等の墓 ▲サシジャー(佐敷湧泉)

▲今帰仁城主丘春の墓 ▲比謝川の下流域(渡具知港?)

2005.07.07(木)
月曜日予定の人間ドックが、どういうわけか今朝に。午前中、人間ドックで検査。詳細な結果は一カ月後なり。
「今日の結果をいうなら、一つ問題がありますね」(医師)
「はい、わかっています。先生、それは全ての検査の結果と
一緒にお願いします。さしあたり気になっていることは一月の
手術の結果なんですが・・・」(わたし)
「ああ、あれね! また、はえてくると思っていますか?」(医師)
「はい、いや~?!年なのではえてくるとは思っていませんが・・・・」(わたし)
「胆石と胆嚢のポリープ、ともども切り取りましたので、もうありません。
チョンなり。それ、レントゲンを見てもありませんね」(医師)
「ありがとうございました。バンザイですね。先生」(わたし)
「イヤ、酒は呑まないし、タバコも・・・。何をやめましょうかね」(医師)
「先生、検査の全てのデータを見ながらにしましょう。七夕ですので・・・」
と、ふっとんで職場へ。下剤を飲んでいましたからね。ハイ
夕刻から土曜日の「ムラ・シマ講座」のコースの確認で運天まで。別の目的もあったが、上間商店はもう閉まっていました。残念!
・港のコバテイシ(番所跡地・馬場跡地)
・運天の神アサギ
・運天の大川(湧泉)
・トンネル
・源為朝公上陸跡之碑
・テラガマ(運天の御嶽・為朝公が一時住んだという洞窟)
・百按司(ムムジャナ)墓
・大北(ウーニシ)墓/崖の中腹の墓群
「ムラ・シマ講座」のコースをざっと回ってくる。明日は沖縄県地域史協議会の研修会が読谷村で開催。それに参加するため出張なり。お二人さん留守番よろしく。
2005.07.06(水)
午後から本部町のガイド養成講座のメンバーがやってきた。80枚の本部町を中心としたスライドで。1時間30分の講演と30分の質疑応答となった。現場を踏まえた質問なので、手ごたえのある回答をしなければならない。
・健堅の集落の形態
・伊豆味の藍づくりと寄留人
・具志堅と今帰仁グスクとの関わり
・伊野波の北谷真牛(城間家)の衣装と永楽□年の青磁
・嘉津宇の古い衣装(仲村家)
・満名川沿いの水田開拓と土地所有者
・各ムラの言葉の違いと地割制度
・仲村家の古琉球の辞令書と北山監守と大北墓
・具志川ノロと浜元のヌルドゥンチと土帝君
・瀬底ウェーキと地頭代
・健堅と瀬底タナカ
・今帰仁グスク
など、話題はつきない。

▲現在の名護市宮里〈昭和26年) ▲本部町東(昭和27年頃)
2005.07.05(火)
昨日は午後から草刈作業。体力づくりなり。そのため足腰がガタガタ。それでも気分は爽快。歴史文化センターの前面と裏口。そして実家の庭。実家の方は近々、学芸員実習のメンバーが使うので草刈をしておかないと。これまでと違い、沖縄の民家体験にでもなるか。ただし、自炊が条件。どんな民家に住まわされるのか、心配のようなので画像を入れておくことに(一番下に↓)。
『古宇利誌』の第一編と第二編の編集と原稿だし。あれこれ多忙が続く。明日も二つの予定あり。アキサミヨー
2005.07.03(日)
月曜日は休館です。人間ドッグ入りなり。一月摘出した結果は? その結末は?
津(港)や山原船の調査をしていると、明治中ごろの山原船の品々ついて、資料を見ているのだが、大和や清国(中国)との貿易品はなんだろうか。品目を見ることで、船に積まれた品物の様子がイメージできるのではないか。それで、明治7年頃の品目を掲げてみた(『沖縄県史 雑纂1』資料編4)。(工事中)
【輸入品】(大唐船輸出品)
琉フカノヘリ/和フカノヘリ/昆布/切昆布/干イカ/縮緬イリク/琉球
イリク/板良貝/茯苓/ナカラメ/生子/シュク□物/芋葛/百田紙/
梅の露/同中茶碗
【輸入品】(小唐船輸出品)
琉フカノヘリ/和フカノヘリ/昆布/干イカ/縮緬イリク/琉球イリク/
板良貝/茯苓/シュク□物/芋葛/百田紙/梅の露
【輸出品】(大唐船輸出品)
桐板カス貫/阿南斉/同蚊屋/官香/短香
【輸出品】(小唐船輸出品)
桐板カス貫/阿南斉/同蚊屋/中官香/短香/正延紫/朱粉/山帰来
/清明茶/粉茶/白唐紙/棉紙/氷砂糖/白砂糖/桔餅/黒雨笠
/黒日笠/黒日笠/青日笠/藍形 寒/正延紫/朱粉/山帰来/
清明茶/粉茶/白唐紙
2005.07.02(土)
合間を見ながら『古宇利誌』の第一編の「古宇利島の概要」の編集作業。ほぼ完了。これで目次作成ができる。これから攻めの作業に入る。人口の推移を整理するだけでも、戦後60年の島の様子がよくわかる。
それと、フェリーの発着場ができる前の写真を見ると、かつての島への入口の浜がいくつかあることがわかる。それらの入口は、今でも行なわれているプーチウガンの海岸で祈る場所(チグヌ浜・ウパルマイ・グサブ(港:フェリーの発着場)・ターチバナシ・ティンジバマ)と一致する。なるほどである。本文の400頁余の原稿を一気に目を通すのは大変じゃ!ハハハ
午前中豊見城市からやってきたグループへのレファレンス。那覇港と豊見城グスクについての話。世界遺産の今帰仁グスクや発掘されて遺物についてなど。
午前、午後と兼次小4年生と原稿の読みあわせ(北山騒動と志慶真乙樽物語)、これからの作業の具体的な相談。今日の二組で、クラス全員の足並みがそろったので、次のステップへ進み予定。
志慶真乙樽の場面で、王子の誕生などの場面があるので、赤ん坊の着物も持ってきていました。その着物を着た王子を絵にすることに。一人ひとりの発表場面の大きな絵の指導。どんな絵を描くのかを相談。ほぼイメージできたようだ。先が見えてきたので生徒はホッする頃。しばらく、持分を考えてもらうことに。少し時間を置くことに。冷めかけた頃、一気に絵を描かすことに。
歴史文化センターでやったことは、担任の先生に報告すること。どんな報告をするのかな。ただ、受身で知識を得るだけでなく、それを伝えること。見たり聞いたり、思ったことなどを友達や回りに伝えることができるか。それがねらいなり。
次回は一斉に今帰仁グスクで中間発表会ができるかな?「劇にしたいけど、いいの?」ときた。「いいよ」 さて、このグループはどんな形の劇にしようか(グループで思案中)。
▲北山騒動のグループ、お客さんも一緒に! ▲乙樽物語のグループの三人
2005.07.01(金)
7月となりました。午前中古宇利島へ渡る。梅雨があけ夏の陽射しは膚に痛いが、やはり海と空の青さはいいものだ。法政大学の学生達と「かりゆし長寿大学校」の皆さんへ話をする。島の祭祀と架橋後の現状を古宇利区長さんが、それを補足する形で古宇利島をはじめ、山原、さらには沖縄の歴史について。終了後も質問あり。時間切れですみませんでした。
7月に入ると古宇利島近海のウニの解禁の時期であるが、今年は禁漁にすることを決定したようである。海のことはわからないが、作物にもよく実る年と裏年があるように、海にもそれがあるのかもしれない。31年前のウニについての興味深い記事があるので紹介することに。
【ウニの採取・・・】(昭和51年8月の「広報なきじん」より)
今はなつの盛り。夏になると子供づれの、つり愛好家たちが、海に出かけ、海水浴を楽しみながらつりを楽しみ、新鮮な海産物が食卓を飾るシーズンです。このように暑い夏の中、今帰仁漁業共同組合では9年前(昭和42年頃)からウニの移植や投石をつづけ、ウニの増殖、漁業水域の拡大に努めてきたものをさる8月13日に、ウニ採取の解禁をしました。
解禁が出た―とあって漁民たちは、夏休み中の生徒たちは、夏休み中の生徒たちをくりだし、海の幸を喜び、猫の手を借りたいほどに連日大忙し。何回となく、素もぐりをくり返し、サバニにいっぱいつめ砂浜まで運ぶ。
砂浜では、婦人や子供たちの手で解体。ウニムシがチクリチクリと手をさし少々痛かゆいものですが、子供たちは、親の手伝いに一生懸命のため、さほど気にする様子もなく、せっせと働いていました。
採取している場所は、主に古宇利南東の沖合いで、ウッパマ沖などから移植をしたものが繁殖し大きくなったものです。採取を始めた当初は、採取量も多く一日当り70キログラムほどとれ、約10万円の水揚げをした漁民も多かったようです。まさに、漁民にとっては、夏のボーナスと言いたいようにホクホク顔であった。日が経つにつれ、量もしだいに減少。今では四十から50キログラム程度だという。今回採取しているのは、三年前に移植したものが主です。
採取したウニを個人で名護市場に持っていき、直接さかなやさんに販売する漁民もありますが、ほとんどは共同で名護の仮加工場に出荷。仮加工場から山口県下関市の小川ウニ株式会社に引き取られることになっています。
このように漁民たちの生活の糧となっている古宇利島の沖合いは、もともとウニは少なく、ウニの漁場としては不適なものでありした。ところがその場所はプランクトンが多い―ということで、漁民が一致団結し、数回にわたる投石と移植を実施。その成果が実り、このような魚場をつくり上げたものです。採るだけの漁業から養う漁業の方式に変えることにより、計画的に、より豊かな漁業が営めるようになってきたもの。
今帰仁・本部・羽地・名護の四漁協が共同し、昭和49年11月1日に施工した漁業権行使規則をみると、6月から9月までの四ヶ月間は、ウニ採取ができることになっています。そこで問題となっているのは、「今漁協のみでつくった魚場で採取したり、漁協外の方が採取したり」というケースが多く、せっかく汗水流して作った魚場が、他人に荒されることが悩みのタネのようです。
▲屋我地島側から見た古宇利大橋 ▲かつてのフェリーの発着場から見たナカムイ
▲かりゆし長寿大学のみなさん ▲シラサの小さな岬
【兼次小4年の総合学習】
午後から兼次小4年生の一グループがやってきた。「北谷菜切」(チャタンナーチラー)の話。4名でそのドラマを演じるという。今日も、まずは一人ひとりの原稿の読み合わせから。どんな場面を絵にして友達やお父さんやお母さんや先生方に見せようかとの打ち合わせ。
登場する「おかあさんは担任の大城先生にしようか」、「校歌に出てくるクボウヌウタキもバックに描こうか」など。アイデアを出し合う。夏休み中で絵を仕上げて、今帰仁グスクでお客さんに見せようということに。
まずは、行き着くところをしっかりと定めて、それに向って現場に足を運んだり、場面を今帰仁グスクのどこにしようか決め、最後は、一人一人の分担分を連続させて一つの物語をつくることに。チームプレーが大事なことも気づかせる。
▲兼次小4年の「北谷菜切」(チャタンナーチラー)のグループ
【学芸員実習で使う民家】
▲屋上から眺めた前方の山 ▲屋上からみた後方の森はウタキ