2005年3月の記録
                                沖縄の地域研究(もくじ)

     
2005.03.31(木)

 
午前中本部町に関わる写真の選び出し。本部町で写真集を発刊するとのことで、歴史文化センターが所蔵している写真の借用に。友利館長直々に来館される。私の高校時代の恩師である。2000枚余りの写真から40枚ばかりピックアップ。1950年から1967年の間のもの。半世紀前のカラー写真。ついでに船に関わる写真も出してみました。

 こずが今日で退職。2年間ごくろうさんでした。来館者との対応、うまくつないでくれました。次の職場で頑張ってもらいましょう。この時期は気が重いもの。去るものやってくるもの。社会の流れではあるが・・・・。

 明日から4月、そして平成17年度にはいります。業務が大幅に変化する年度になりなりそう。しっかりと目的を見究め、間違わないよう舵をとらないといけません。今月の書き込みは本日で終了なり。



2005.03.30(水)

 そろそろ山原に軸を戻さないといけません。それで、今朝は諸志の港原や竹原、そして崎原あたりを流れるナハガーラに行ってみた。バン(留鳥)のつがいが三組、ナハガーラでエサをついばんでいる姿がみえた。野鳥の産卵の季節なのでしょうか。また、カワセミの姿もあった。山手は新緑に包まれる季節である。


     ▲諸志の竹原(川の左側)           ▲諸志の崎原(川筋の右側)


 ▲竹原あたりから見た兼次の集落       ▲ナハガーラに生息しているバン

2005.03.29(火)

 午後から歴史文化センターの運営協議委員会。一年間の報告、そして次年度の歴史文化センターの展示会(山原の津(港)と山原船:海事広報協会の補助)と周辺施設との関わりについての話し合い。一年間の事業を振り返ってみると、多彩なことをやってきたとの実感。職員はじめ、運営協議委員の先生方の支えがあってのこと。いつも有り難いと感謝。
 
 歴史文化センターの業務は多岐(11項目)に渡るが、その一つ「主な教育普及および調査・研究活動」の項から拾ってみる。

・主な教育普及および調査・研究活動


 ・今帰仁中学校1年「総合的な学習の講話」 5月25日(火)
 ・市町村文化行政に関する調査 5月17日
 ・全国大学博物館学講座協議会(見学研修) 6月4日(金) 北部コース
 ・かりゆし長寿大学校(宿泊研修)今帰仁グスク・歴史文化センター 6月9日(水)
 ・かりゆし長寿大学校(宿泊研修)今帰仁グスク・歴史文化センター 7月2日(金)
 ・沖縄県小学校社会科教育研究会地域巡検 今帰仁グスク  8月5日(木)
 ・辺土名高等学校郊外学習  3年生  9月17日(金)
 ・沖縄市中央公民館講座 山原のムラ・シマ 9月29日(水)
 ・栃木県日光市 世界遺産シンポジウム 9日5日~9日
 ・豊見城市豊寿大学 歴史文化センター・今帰仁グスク 10月7日(木)

 ・糸満市立米須小学校 歴史文化センター・今帰仁グスク 11月5日(金)
 ・宜野座村博物館講座 「本部大主と北山の歴史」11月13日(土)
 ・沖縄県金工品関係資料調査(沖縄県) 11月16日(火)
      今帰仁ノロ 中城ノロ 勢理客ノロ(不在)
 ・琉球大学史学会(於:琉球大学) 山原の御嶽(歴史) 11月20日(土)
 ・沖縄国際大学 シマ研究会 山原のムラ・シマ―神アサギ・祭祀―11月29日(土)
 ・新潟大学付属中学校 沖縄の歴史  2月
 ・沖縄県いきいきふれあい財団 沖縄の歴史探訪 2月17日(木)
 ・沖縄県いきいきふれあい財団 今帰仁グスク探訪 3月16日(水)
 ・名桜大学総合研究所シンポジウム 北山文化圏の研究 3月26日(土)
 ・村内小学校の総合的学習(随時)
 ・県内外の小・中・高・大学の学習・研修への対応
 ・県内外の諸団体の学習・研修への対応
   (その他いろいろ)


【石垣市街地をゆく】(与那国・竹富町・石垣市街地のメモ書きはひとまず終わり)
 3月23日(水)午後、小浜島から石垣の離島桟橋に着くと、さっそく石垣市街地をゆく。石垣市の公設市場を通り裏通りへと抜ける。以前より大部減っているが、まだ赤瓦屋根と石垣囲い福木の屋敷を見ることができる。

 今回歩いたのはゆいロードと4号線沿い。特に新川から石垣・大川にかけてである。市街地の地理感覚がつかめず、場所を特定するの精一杯。集落と御嶽などの関わりを知るには相当な情報を必要としそう。それと明和の津波の影響がマチの変遷に大きく影響を及ぼしていそう。今年の夏には、再度石垣のマチを歩くことにしたい。最後は棒になった足をひきずって八重山博物館の発掘調査展をみる。それと南方から漂着したという舟を何隻かも。

 事務所でコーヒーをいただき、博物館の近況を窺う。どの機関も財政的に厳しいようだ。博物館のT氏から八重山における土地制度や明和の大津波などの影響についても窺う。ここで、まとめができるほどの知識をもっていません。市街地の裏通りを通ってみると、まだしっかりつかんではいないが、マチの展開がなかなか面白い。これまで集落を中心に見てきたがマチの展開の事例として興味がある。


  ▲旧前石垣殿内の庭園の一部を・・・           ▲桃林寺の入口


   ▲桃林寺の隣にある拝所             ▲真乙姥御嶽(マイツバオン)


   ▲ウーニカー(別名:真乙姥井戸)       ▲宮鳥御嶽(メートゥリーオン)


       ▲宮良殿内            ▲唐真組近くにある大木(チンマーサー?)


    ▲マージィヤーの井戸         ▲人頭税廃止百周年碑(博物館前)

2005.03.27(

  
明日は休館です。あれこれ会議がはいています。館内の工事あり。

【竹富町小浜島をゆく】
 
3月23日(水)午前中小浜島へ。小浜島も竹富町の一島である。23日の夜中から未明にかけて稲光、そして大雨となる。そのため、小浜島ゆくはあきらめ石垣島内をまわる予定にした。午前7時過ぎ、宿から於茂登嶽を見ると、雨はあがっており真っ白な雲が帯状にたなびいていた。もしかしたら晴れるかも。8時の便。急ぐと間に合いそうだ。夕方の便で帰るので荷物をバックに入れ、港のロッカーに預けることに。宿の朝食を飲み込んで急げ!港で船を待っていると大雨。近くの店で傘を買い、おじい歩きの杖がわり。しめしめである。小浜島は二度目なり。

 船はちゅらさん。こはぐら家もあったが、あとで「テレビでやっていたな」と気づいた。そのため画像なし。ここでも御嶽を集落との関わりをみてみたいと拝所めぐりである。集落の景観を見るため、まずは大岳(標高99.4m)の展望台へ。海の向こうの島々(西表・石垣・竹富・黒島など)は見えるが集落の景観ははっきりと見えない。小浜島の集落は島の中央部にあり、北と南に分かれるようだ。1771年の明和の大津波で320人が移住させられたという。

 雨が降った後だったので、保水のよい地質のように見える。細崎への途中に広い面積の湿地帯の跡らしい畑地がある。かつて迫田として利用されていたのかもしれない。大岳の回りに水田(迫田)があり、田植えがなされたばかりの田があった。小浜島はタングン(田の国)の島のひとつである。水田が行なわれているため稲作にまつわる祭祀が根強く行われているようだ。

 御嶽を回っていると小浜島の区長さんがやってきて御嶽の説明をしてくれた。「御嶽を回るような観光客はいないからな」と。何カ所かの御嶽の場所を教えてもらう(感謝)。
 
 (工事中)


▲未明の雷と大雨がやみそうだ!(石垣市内)    ▲小浜島への船「ちゅらさん」なり




      ▲小浜島の公民館               ▲小浜島の民俗資料館


     ▲オヤケアカハチの森?              ▲小浜島の水田と大岳






     ▲嘉保根御嶽(カンドウラ)       ▲カンドウラ御嶽にある雷石と力石

2005.03.26(土)

 
午後から名桜大学で「山原の歴史文化」について報告があるので、これから準備にかかる。

【竹富町西表島をゆく】
 西表島報告は、途中まで(星立と租内については随時追加)。アルバムを見ると、西表島には1989年8月と1999年10月に訪れている(沖地協の研修会)。今回で3度目の西表入りである。数年ぶりの訪問では、記憶が定かではないことを実感。記憶を呼び起こすためにアルバムから何枚か(十数年前の皆さんの若いことよ)。

 租納の集落の展開は上村遺跡との関係で興味深いものがある。御嶽の領域に集落が形成され、御嶽の中枢部となるイベにあたる部分(二カ所)があること。それと上村とは別に大竹御嶽と呼ばれていること。上村(西租納)に対して下村(東租納)があるようだ。租納は上村遺跡を中心とした集落の展開、そして祭祀に関わる御嶽、さらに司を出す一門との関わりを整理してみる必要がありそう。

 その視点での研究が『沖縄祭祀の研究―西表島租納のシツ:武藤美也子・宮井由未子』と『沖縄の祭祀―西表島の租納プーリヨイ:武藤美也子』でなされている。山原の御嶽と集落の展開、そして神役との関係を推し進める上で手がかりとなる。


     ▲沖地協研修会(西表租納公民館:1989年)  鞴の口と鉄さい


             ▲西表星立の節祭(シチ)(1999年10月)


 ▲西表租納の節祭(シチ)前泊の浜 ▲黒麻の衣装の女性を先頭に踊るアンガー踊
              (1999年10月:沖地協の研修会)


 
3月22日(火)、一日西表島を予定にいれた。地図を見ると西表という島に10余の集落(字?区?)がある。一周線が開通しているわけではないので、白浜港にたどりついたら、同じ道筋を戻ることになる。行けなかったところは、帰り道寄ることができる(時間があれば)。まずは、白浜までゆくことである。

 竹富町は石垣島の南西にある島々からなり、人が住んでいる島は10である。その一つが西表島である。西表島に以下の集落がある。西表島は沖縄本島に次ぐ大きな島(面積289.27平方キロ)である。

  大原 大富 古見 美原 船浦(港) 上原(港) 中野 
  浦内 星立(干立)  祖納 白浜


   ▲後良川の橋      ▲サキシマスオウの群落のある森にある御嶽〈兼真嶽と三離嶽)

    ▲西表美原の集落              ▲高那手前の水田(田植え中)


      ▲西表の上原公民館          ▲デンサ節が行なわれる舞台(上原)


   ▲星立の祭が行なわれる御嶽          ▲星立の御嶽の前の鳥居


     ▲上村遺跡の遠景              ▲上村遺跡内にある旧道


▲上村遺跡にある建物(租納)ヨハタケ根所?    ▲同遺跡内にある碑


     ▲西表租納の前泊御嶽          ▲?屋敷跡の石垣の門

2005.03.25(金)

 
3月21日(月)11時の便で与那国空港から石垣空港へ。宿に荷物を置き、すぐ港へ。どの島にしようか?黒島は二年前に行っているし、小浜島への便は出ている。すぐ出航するのは竹富島か。ならば13時30分の便で竹富島へ渡ることに。船底の客席はほぼ満席。しかたなく後方部一段高い客席へ。眺めがいいだろうと。船が走り出すと、エンジンの音と跳ね上げていく潮しぶきが、激しくぶつかってゆく。また、車が石ころ道を猛スピードで走ってゆく様。イヤー後方部の上段には、二度と座るまい。所要時間10分ばかりであるが。

【竹富町竹富島をゆく】
 少し説明を入れておくと、竹富町は10数ヶ島からなる。その中で人が住んでいるのは10島である。大正3年にこれらの島々(大字)を竹富村とし、竹富島に役場を置いた。島々多く不便なので役場(当初は出張所)は現在の石垣市内に置いた。転々とし現在は竹富町役場は石垣市美崎町にある。

 西桟橋で船を下りると数名乗りの車(島内バス?)に乗り集落入口まで。「喜宝院近くで降りたいのですが」、もう一人の島の方でしょうか「やらぼまで」とさりげなく。最初にとまったバス停が「やらぼ」であり喜宝院前であった。島のことを知らないということはと、一人苦笑してしまった。

 喜宝院蒐集館(民俗資料館)へ。入口の大きな甕に「蒐集館」とあり、石垣に「報恩」と掘られた石版がはめ込まれている。その石垣の上に十二支が置かれている。来館者が産まれ年の十二支の前に小銭を置いていくのであろう。蒐集館のドアを開けると上勢頭芳徳氏が。何度か訪ねているが上勢頭氏が館にいたのははじめてある。

 与那国島を行ったことを告げ、久部良バリとトゥングダの話になると、館内のワラザンや秤や拷問道具、納税を示す板札、御用布箱など人頭税に関わる道具について、説明いただいた。人頭税の実態を知った思いである。山原とは異なる貯蔵や運搬用具。それと「嫁波伊津 孫加那思 母男子一會 乾隆三十六年三月十日」と彫られた甕の前に。「これは明和の津波の時のものです」と、いきさつを語ってくれた。どうも先島の人頭税は、山原における地割制における税の取立とは大部異なっているのかも。話は尽きず。有り難いものです。

 「昼食まだでしょう?」
 「どこか食事できるところありますか?」
 「すぐ隣、やらぼ」
車海老ソバまで御馳走になりました。車海老が数尾。おいしい車海老とソバでした。話題になった人頭税に関する最新の研究論文集『あさぱな』(人頭税廃止百年記念誌)の寄贈を受けた。感謝(早速、目を通しています。興味深いこと多し)。

 水田のない島であるが、西表島や石垣島に渡って稲作を行なっていたという。竹富島と黒島、そして新城島は隆起サンゴ礁からなる低い島で、水田のある島(高島:石垣島・西表島・小浜島など)などがタングン(田の国)と呼ばれるのに対してヌングン(野の国)と呼ばれているようだ。


       ▲なごみの塔                ▲なごみの塔から集落をみる


       ▲喜宝院蒐集館の舟               ▲喜宝院蒐集館の道具類


     ▲クスクモリ〈小城盛)               ▲盛の上部にある方位石


     ▲集落内にある西塘御嶽                   ▲清明御嶽

 
竹富島の集落は島のほぼ中央部に位置し、北側を玻座真(東屋敷・西屋敷)と仲筋に分かれている。島の中の村の歴史を辿ると、どうも御嶽を中心とした村が一つの集落(現在は集落内を三つに区分される)にまとまっている。そこで見えてくるのは御嶽を中心とした集落が行政村(島)にされるが、祭祀は一体化せず要(カナメ)となる御嶽が今でも形を残している。

 竹富島一島が一村になるのは崇禎元年(1628年)頃。集落の発祥とは別に西塘御嶽のような貢献した人物を祀った御嶽もある。
  ①新里村(移動→花城村)(竹富島へ発祥の村) 花城(パナツク)御嶽
  ②玻座真村 波座真(ハザマ)御嶽
  ③仲筋村(統合←幸本村) .仲筋(ナージ)御嶽
  ④幸本村 (幸本御嶽)
  ⑤波利若村(統合←花城・久間原村) 波利若(バイヤー)御嶽
  ⑥久間原村 久間原(クマーラ)御嶽

2005.03.24(木)

 
与那国島、竹富島、西表島、小浜島、そして石垣市内(登野城・大川・新川)を訪れた。三泊四日の山原を考える歴史の旅となった。まずは3月20日(日)の午後と21日(月)の午前中に訪れた与那国島から(ニ、三の印象のみ)。
 
 行く前から久部良バリとトゥングダ(人升田)が気になっていた。これまで見てきた山原の土地制度(地割)と矛盾を感じるからである。与那国島における人減らし(口減らし)。人減らしのため女性が久部良バリ、男性がトゥングダが手段として使われたという。与那国島ゆきの気が重かったのはそれである。

【与那国島をゆく】
 特に近世から明治にかけての土地制度の中で、山原では人口を増やせよである(一族の繁盛と村の繁栄と祈願する)。もう少し山原の地割制度や先島でいう人頭税について調べてみることにする。与那国島、竹富島、石垣市(博物館前)の三カ所に「人頭税廃止百年記念碑」が建立されていた。まだ目を通していないが、『あさぱな』(人頭税廃止百年記念)が出版されている。山原の土地制度を実態はどうか、何か手がかりをつかんだような気分でいる。 
   
 与那国島の水田にも関心がある。谷間などにある天水田、それとやはり田原川沿いが気になっていた。川沿いは湿地帯ではないか。予想通り、今でも手付かずの湿地帯(沼地)が広い面積を占めている。近世の絵図を見ると入江である。与那国島の稲作の盛衰は山原(特に今帰仁村)の水田の消滅とことは重なってきそうである。

 与那国島を二日足らずで駆け回っての土地制度と稲作についての印象である。集落の成立ちを知るには、山原とは異なった物差しを必要としそう。

 海底遺跡、その証明は陸上部のサンニヌ台や軍艦岩や久部良バリあたりの特殊な地形が「人工的なものだ」と言える程の説明が必要ではないか。それ程大変なことだ。全くの素人の印象。

【与那国島】
 ・沖縄最後に見える夕日が丘
 ・久部良バリ
 ・久部良の集落
 ・久部良漁港
 ・久部良公民館の後方の拝所(久部良御嶽)
 ・太陽の碑
 ・沖縄県最西端の地(碑)
 ・久部良ミトゥ(池:湿地帯)
 ・久部良岳
 ・比川の集落
 ・比川の浜
 ・比川の学校
 ・ハマシタンの群落
 ・立神岩
 ・立神岩展望台
 ・サンニヌ台
 ・軍艦岩
 ・サンニヌ展望台
 ・東崎展望台
 ・ダティクチヂイ(1664年)
 ・浦野墓地
 ・ナンタ浜(祖納港)
 ・祖納の集落
 ・田原川と湿地帯と水田
 ・水源地(田原水園 1952年7月竣工碑:コンクリート)
 ・与那国民俗資料館
 ・人頭税廃止100周年記念碑
 ・十山御嶽
 ・ティンダハナタ(サンアイ・イソバ、インガン、伊波南哲の詩碑、泉)
 ・トゥングダ(人升田)
 ・水田地帯
 ・人頭税廃止百周年碑
   (大和墓と各遺跡は行けず)


   ▲ティンダハナタから祖内集落を眺める         ▲ティンダハナタの崖


    ▲ダティクチデイの石積み             ▲石垣の内部にある方位石


     ▲久部良バリの様子               ▲下方から見た久部良バリ


 ▲田原川か流域からみたティンダハナタ       ▲トゥングダ近くにある水田


        ▲十山神社(御嶽)               ▲久部良御嶽 

2005.03.19(土)

      この頁、24日(木)まで留守なり。

 
明日から与那国島と石垣島へゆく。与那国島ははじめてである。これから与那国についての下調べ。地図を広げてみると、沖縄本島北部から直線距離にして与那国島までと、鹿児島県の開門岳あたりに相当する。そう見ると、沖縄県ではあるが与那国島は遠い。今回、与那国島に足を向けた理由の一つに、『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)や『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条、そして『具志川家家譜』の記事である。

 ○『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)
   右嘉慶弐拾四卯九月、与那国島江今帰仁按司様
   大和船より被成御漂着候付、諸事為見届渡海之時、
   西表村潮懸滞留ニ而先祖由来より書写、如斯御座
   候、以上
      辰二月          用庸
   右錦芳氏石垣親雲上用能御所持之写よ里写候也 
      用紙弐拾五枚    松茂氏
                     當整

 ○『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条に、与那国島へ漂着した概略が記されて
  いる。
   本年。為慶賀 太守様。陞中将位事。遣向氏玉城按司朝昆。六月十一日。
   到薩州。十一月二十三日。回国。(去年為此事。遣向氏今帰仁按司朝英。
   前赴薩州。但其所坐船隻。在洋遭風。漂到八重山。与那国島。不赶慶賀使
   之期。故今行改遣焉)

 ○『具志川家家譜』十二世鴻基(朝英)の嘉慶24年に詳細な記述がある(省略)。

 薩州の太守様が中将になったときに、向氏今帰仁按司朝英(鴻基)が派遣されたが、薩州に着く前に、船は逆風に逢い八重山の与那国島に流されてしまった。翌嘉慶25年向玉城按司(朝昆)を派遣した。今帰仁按司鴻基は1816年に琉球を訪れたバジル・ホールと交渉した人物である。那覇港を出航したが、逆風にあい運天港に乗り入れ風待ちをし、運天港から出航したが与那国島へ漂着する。漂着地である与那国へである。

 与那国のことを調べている(『与那国島』(町史第一巻参照)と、膨大な情報があるが頭に入れ込めず。島に行って島の人々の個性と接することができればと開き直っている。

 与那国のことを島の人々は「どぅなん」と呼び、石垣では「ゆのおん」と呼ぶという。そのこと確認できれば、それでいい・・・。ついでに言うなら音として確認できないが、『成宗実録』(1477年)に与那国島に漂着した朝鮮済州島民の見聞録では「閏伊是麼」(ゆいんしま)、おもろさうしでは「いにやくに」、『中山伝信録』(1719年)には「由那姑尼」とある。近世になると「与那国」と表記される。

 与那国島近海が黒潮の玄関口だという。大正13年に西表島の北方沖で起きた海底火山。そのときの軽石が黒潮に乗って日本海側と太平洋側の海岸に流れ着いた様子を気象庁に勤めていた正木譲氏が紹介されている。与那国島近海を北流する黒潮本流と、与那国島にぶち当たり反流する黒潮支流があるようだ。そのことが、与那国島の祭祀や言語などに影響及ぼしているのであろう。

 与那国島について、乏しい知識で渡ることになった。すでに多くの研究がなされているであろう。それらに目を通すことなく渡ることになるが、帰ってから学ぶことにする。まずは島に渡ることから。与那国島から石垣島に渡る予定。
 

 ▲今日の今帰仁グスクの遠景(屋上から)     ▲今日のクボウの御嶽(屋上から)

2005.03.18(金)

    館内のクン蒸日程(閉館のお知らせ)
       ・3月20日(日) 春分の日(公休日)閉館
       ・3月21日(月) 通常の閉館
       ・3月22日(火) 振り替えの閉館(
クン蒸入る終日閉館
       ・3月23日(水) 終日閉館(クン蒸中)
       ・3月24日(木) 午前中(
ガス抜き及び安全点検)
                (午後1時から開館)

 22日(火)から歴史文化センターの館内クン蒸ため、閉館となります。その準備で館内の飲食にかかわる食器や食べ物は、すでに館外へ避難させています。クン蒸は例年夏場にやるのですが、昨年は毎週のように台風がきて、今年になって2月、3月と寒い日が続き虫類は冬眠中。やっと暖かい日が続き、虫類が動きだしました。
 
 それに合わせてクン蒸を行ないます。できるだけ、来館者にご迷惑をかけないよう、クン蒸日を設定しています。館の都合だけではなく、業者さんの日程等も鑑みて調整しています。ご迷惑をかけますがご了承のほど、よろしくお願い致します。上記の日程で閉館となりますので、お知らせ致します。ご理解のほどよろしくお願い致します。


2005.03.17(木)

 
今帰仁村の各字(アザ)の概要をまとめる。今帰仁村の要覧原稿である。時々、他部署の仕事もはいてくる。それも歴史文化センター(役場)の業務の内と開き直っている。せっかく時間をかけたの、再度書き改めて使うことに。自分で書いた原稿が使えないことも度々ある。どこかで、使うことがあるでしょう。一石二鳥にします。ハイ

      【今帰仁村の字(アザ)の概要】(すでに校正がはいています)

①【今 泊】
 今帰仁と親泊が合併し今泊となる。そのため二つの神ハサギが統合されることなくある。今帰仁グスク(国指定)を抱えた字(アザ)である。親泊はりっぱな港に由来する名称であろう。今帰仁グスクは世界遺産に登録され、沖縄の歴史の北山・中山・南山が鼎立して時代の北山王の居城である。麓の今泊の集落は福木に囲まれ、落ち着きを見せている。集落のほぼ中央部を東西に走るプゥミチ(大道)は馬場跡である。その中央部にコバテイシ(県指定)の大木があり、付近は豊年祭の会場となる。麓に今帰仁ノロ殿内があり、今帰仁村・親泊村・志慶真村の祭祀を掌る。

②【兼 次】
 国道505号線が兼次の集落を二分している。国道沿いに簡易水道のタンクがあり、お茶を沸かすのにいい水のようで水汲みをする人の姿がみられる。水源地はウイヌハーである。今泊地番に兼次小学校と幼稚園がある。兼次のもとの集落は山手の古島原あたりにあり、時代ははっきりしないが現在地に移動している。

③【諸 志】
 明治36年に諸喜田村と志慶真村が合併した村(現在のアザ)である。そのため二つの神ハサギがある。国道505号線を横切るように諸志御嶽の植物群落(国指定)がある。亜熱帯地域の石灰岩の上に形成された植物群落の極相状態にある森である。中城ノロ殿内があり、中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の五カ村の祭祀を掌るノロである。集落内に焚字炉(フンジロ)(村指定)があり、佐田浜には尚真王と関わる上間大親を葬った赤墓がある。

④【与那嶺】
 北側は海に面し与那嶺長浜(ユナーミナガハマ)がある。公民館の前方の広場に赤木の大木がある。付近には神ハサギがあり、その広場に舞台を設置し豊年祭が行なわれる。ハサギミャー回りには、松やアコウや福木、ユシギなどの老木が目立つ。集落前方の前田原は、かつて水田が広がり、ユナンガー(与那嶺泉)がある。

⑤【仲尾次】
 古くは中城と記され、近世中頃(18世紀)になると仲尾次と表記されるようになる。移動村してきた村で、もとの場所は平敷地番のスーガー御嶽(ウタキ)付近である。そこは仲尾次の御嶽となっている。公民館付近に神ハサギがあり、また一帯に松の大木やアコウなどがあり季節になるとアカショウビンやフクロウがやってくる。国道505号線沿いに県立北山高等学校がある。崎山の東側の海岸にウドゥイバンタ(踊崖)があり、そこで仲尾次の豊年祭のとき御願踊り(ウガンウドゥイ)が行われる。雨乞いの祈願でもあるようだ。

⑥【崎 山】
 今帰仁村で茅葺きの神ハサギは崎山だけである(村指定)。周辺に拝所がまとめられている。集落の北側をクシスクミチが走り、沿って松並木がある。港原があり炬港に面している。スイカの栽培が盛んで、戦後は清浄野菜の栽培で米軍向けに出荷していた。今でも野菜の栽培が盛んな字(アザ)である。海辺に宇佐バンタがあり、浜やリーフがいい。

⑦【平 敷】
 集落は国道505号線で分断されている。集落の北側に御嶽があり、その南側は遺跡になっている。御嶽の中に神アサギやイビなどの拝所がいくつもある。付近にはピシチガー(平敷泉)があり豊富に水が湧いている。平敷泉ぬ水や 石かみてぃ湧ちゅさ 平敷美童ぬ 思い深さ と謡われる。国道沿いに一本のガジマルがあり、ムラの風水(フンシー)になっているのだろうか。

⑧【謝 名】
 乙羽岳の麓にある字(アザ)である。古い集落は大島原にあり、御嶽や神アサギがある。御嶽を背にして集落が南斜面に展開する。その下方は前田原で、かつて水田が広がっていた場所である。現在はキクや砂糖キビなどが栽培されている。国道505号線沿いに診療所やJA沖縄今帰仁支店や歯科などがある。ところどころに蔡温松と呼ばれる大木の松並木がみられる。越地を分字したので海を持たない字(アザ)である。

⑨【越 地】
 昭和12年に謝名と仲宗根の一部を分割して創設された字(アザ)である。今帰仁小学校があり、また隣接して仲原馬場(県指定)がある。周辺の松並木は蔡温松と呼ばれ、見事な枝ぶりを見せている。越地浜は大井川の河口に位置し炬港(テーミナト)と呼ばれている。大正の頃まで港として機能していたところである。

⑩【仲宗根】
 大井川の流域に発達した今帰仁村内で唯一マチの風景をなしている。旧集落(ムラウチ)はグシクンチヂを背景に南斜面に形成される。人口が増えてくると、川向こうのターバルあたりに集落ができ、さらに明治31年頃大井川に橋が架かると、玉城のフルマチから仲宗根の前田原に質屋や市場がつくられマチができる。サンタキから大井川橋にかけての道路は今でもミーミチ(新道)と呼ばれている。大正5年に今帰仁村役場が運天から仲宗根に移転すると、仲宗根が今帰仁村の中心となる。昭和40年代まで映画館があった。統合された今帰仁中学校がある。

⑪【玉 城】
 岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である。その名残は三つの神アサギに見ることができる。三つの村が合併するが、もともとノロ管轄が異なるため、合併後100年になるが祭祀は一体化していない。玉城の山手にスムチナ御嶽があり、そこは玉城ノロ管轄の玉城・謝名・平敷・仲宗根の四カ字の御嶽である。因みに岸本と寒水は岸本ノロの管轄のムラである。寒水はパーマ(浜)と呼ばれ、明治31年頃までマチがあり、移転後一帯はフルマチと呼ばれる。仲宗根から呉我山へウイガーバンタを通っていたが、その崖を避けて乙羽トンネルがつくられた。今帰仁の道の駅「そーれ」がある。

⑫【呉我山】
 大正9年に玉城・湧川・天底の一部を分割してできた字(アザ)である。大井川の上流部に位置し、本部町伊豆味と接している。呉我山は山手にあり、寄留人の多い字(アザ)である。パインやミカンの栽培が盛んである。二つのトンネルがあるが、一つは呉我山トンネルである。

⑬【湧 川】
 湧川は今帰仁村の東側に位置し、1738年に創設されたムラである。羽地内海に面し、内海にはヤガンナ島とサガヤ島が浮かぶ。嵐山からの眺めはいい。海岸に塩田跡の石積がのこっている。ムラ内には御嶽や神アサギや新里ヤーなどの拝所がある。豊年祭には棒術や路次楽(県指定文化財)などが行なわれる。湧川小学校があり一区一校である。

⑭【天 底】
 天底は今帰仁村の東側に位置し、1719年に現在の本部町伊豆味付近から移動してきた村(ムラ)である。天底にはアミスガーがあり、淡水のシマチスジノリが自生している(県指定天然記念物)。当初、集落は神アサギや御嶽(ウタキ)あたりに移動するが、明治以降になると、さらに天底小学校から山岳(サンタキ)あたりに移動する。天底から屋我地に向けて道路ができ、屋我地島と天底との間に橋が架かり、そこから古宇利大橋へとつながる予定である。

⑮【勢理客】
 勢理客は今帰仁村の東側に位置し、「せりかくのろの あけしののろの」とオモロで謡われるムラである。公民館の近くにヌルドゥンチ跡や神アサギがある。その後方にウタキもある。勢理客ノロ殿内には祭祀の時に使うカンザシが二本のこっている。勢理客・上運天・運天・湧川の祭祀を掌る。ノロ家から今帰仁間切役人を何人も出している。面積としては一番小さな字(アザ)である。

⑯【渡喜仁】
 昭和15年に勢理客・仲宗根・運天・上運天の一部を割いて分字した。渡喜仁一帯は台地上になっていて本村から離れた場所にある。首里や那覇、久米などから寄留してきた人で形成されたヤードゥイ集落である。北側は海に面し、美しいウッパマ(大浜)があり、崖の下にヒージャーガー(樋泉)がある。

⑰【上運天】
 伊是名島と伊平屋島を往来するフェリーが発着する運天港(浮田港ともいう)ある。対岸の屋我地島の岬にオランダ墓がある。1846年にフランス艦船がきて一月ほど碇泊する。そのとき二人の乗組員が亡くなり葬られている。上運天はウンシマとも呼ばれ、古くは運天(ヒチャンシマともいう)と一つだったのを分離したようである。タキヌウガンは運天と一緒に行なっている。

⑱【運 天】
 運天の港は源為朝公渡来伝説でよく知られている。大正5年まで今帰仁村の役場があった場所である。また、近世の四津口の一つが運天港であった。今では海岸沿いに道路が通っているが、運天のムラウチ集落や港へは大正11年に開通したトンネル(運天随道)を抜けていった。運天港周辺には百按司墓や大北墓や大和人墓などがある。運天森から眺めた運天の集落や屋我地内海は美しい。クンジャーに運天漁港があり、ウッパマにつながるクンジャーバマがある。

⑲【古宇利】
 人類発祥伝承をもつ古宇利島。お碗を伏せたような形をし、島の南側に集落が発達している。架橋以前は古宇利島と運天港をフェリーが運航していた。平成17年2月に古宇利大橋が架かり開通する。タキヌウガンや海神祭(ウンジャミ)やサーザーウェーなどの祭祀が今でも行われ、「神の島」とも呼ばれている。島の一番高い標高約107mの地点に烽火制度に使われた遠見台がある。橋詰広場のテナントでは島の特産物が売られている。


2005.03.15(火)

 
3月になって天気に恵まれなかった。久しぶりに沖縄らしい天気となる。館内はまだ冷えるので、虫干しも兼ねてちょっと運天港まで。これから運天港をどう歴史的に位置づけるか。そして運天港が果たした役割を史料を踏まえながらどう描くか思案中。これまで、数多くの歴史的な出来事を拾ってきた。それらを歴史的にどう組み立てていくか楽しみである。

 戦後古宇利島と運天港を結んでいた船やフェリーの発着が、古宇利大橋の開通で平成17年2月9日でなくなった。運天港付近にあった200台近い車は、古宇利島に移動したのであろう。今では数台の車が駐車しているにすぎない。運天港の一つの歴史に幕を閉じた。これから、新しい歴史を刻むことになる。

 運天港一帯は、歴史的な地区として、もう一度流れをつっていかなければならない。そのために再度、運天を描き出すキーワードをいくつも鮮明にする必要がある。10月頃に発刊する『山原の津(港)と山原船』で、運天港が大きな柱になるので、そこで歴史的な港として骨太に描き出す予定。

 久しぶりの沖縄らしい風景なので、今日は画像のみでよさそう!
 

   ▲運天港のコバテイシの大木      ▲フェリーの発着場跡からみた古宇利大橋


    ▲運天森にある源為朝公上陸の跡碑     ▲運天森からながめた屋我地内海


               ▲久しぶりの美しい砂浜、海、そして空

2005.03.13(

 
ちょっと書き進めることを躊躇していたテーマがある。個々に書き進めていたのであるが、先日久米島のグスクや君南風(チンベー)を訪れたことで一筋の見通しがついたような気がしている。今月の26日(土)に「山原学の可能性」をテーマでシンポジウムが開催されるので、そこで報告できるようにまとめるが、とり急ぎ頭にあるものを忘れる前にメモしておきましょう(詳細は改めてまとめることに)。

 ・北山への監守と阿応理屋恵の派遣と首里への引きあげ
 ・伊平屋島への尚円王の叔父と姉の派遣、そして銘刈家(夫地頭の世襲)の存続
 ・久米島のグスク崩壊と君南風(チンベー)の派遣と存続

 まだ大雑把な図式であるが首里王府の地方支配とみる。各地のグスクの按司を首里に集めて住まわせる中央集権国家を目指す一方で、今帰仁や伊平屋や久米島に按司や三十三君の神女を派遣し祭祀をつかさどらせた。それだけでなく、按司や神女の派遣は首里王府の統治と首里文化の地方への直接の注入とみることができる。

 そこで地方に足場を置いて見ると、首里文化へ同化していったもの。しかし同化しないもの。同化せず、同化し難いもの。そらが首里文化が被さる前からの地域の文化としてとらえることができる。

 そこで首里王府の役人の流れと、地方の人々の動きは区別してみていく必要がある。特に近世になると首里王府役人は現在の県の職員同様、県内各地(間切)への異動がある。ところが地方の役人は間切内での動きである。村(ムラ:現在の字)レベルになると、同村(ムラ)内で一生終わってしまう人々が多い。その視点は、首里文化の被さりと三山統一国家以前の根強く残る地域文化ではないか。

 琉球国として北山・中山・南山が統一され琉球国が成立するが、中山を中心とした統治となるが、中山を中心とした動き(仮に首里文化という)が、統治という意味合いで、今帰仁や伊平屋や久米島へ信頼おける人物(按司や神女)を派遣し、首里王府を要とした制度や文化を浸透させていったと言えそうである。

 各地の首里文化に抵抗して、あるいは反発し同化しなかったのは何か。首里文化へ同化せず今に伝えているのを拾っていくことを目指していく。山原では、それは十分可能だと考えている。その視点で進めていく、あるいは目指していけば「山原学」は十分成り立つし、成立させたいと考えている。

2005.03.12(土)

 
第12期ムラ・シマ講座が無事終わる。今日の出来事は「山原のムラ・シマ講座」(琉球新報の南風)へ。宣伝兼ねて。

山原のムラ・シマ講座

    





2005.03.11(金)

 二本の原稿締め切りと「ムラ・シマ講座」の修了式の準備に追われています。予定していた「久米島のグスク」は次回へ。急きょ、歴史文化センターの柱の一つである「ムラ・シマ講座」の原稿で宣伝でも。明日の午前中に原稿は送付します(一晩寝かせて)。宮城県からの来客もありますが、こんな状態ですので十分対応できません(すみません)。

 「ムラ・シマ講座」の修了式の準備に助っ人(照屋)が。助かります。開場づくりは結構たくさんの展示物の移動があり、それと展示の一部入れ替えもしました。それだけでなくサバニ(17m)を海上ではなく陸上を走らせました。中馬、真栄田と三人で。大丈夫でしょう。明日は中学校の卒業式など行事が重なり参加者は・・・どうだろうか。


          ▲「ムラ・シマ講座」の修了式の開場準備中です。

2005.03.10(木)

 午前中、K大学歴史民俗資料学研究科の中村教授が来館。R大学法文学部の川平教授が案内で。沖縄の農具についての調査のようである。話題になったのは三歯の鍬、平鍬、開墾鍬。豆や麦などの脱穀に用いるクルマンボー(短い方を持つようだ)、沖縄の斧、脱穀に使う管(クダ)、千歯、脱穀機、そしてトーミ。農具を通してみた環境がテーマのようでした。環境が農具を作り出すということか。その他にもいろいろと。今では斧というと鉄ですが、縄文や弥生の時代は石斧が使われている。古宇利島の中原遺跡の石斧との比較。

 午後からは「ムラ・シマ講座」の冊子の製本と裁断。参加者への贈り物ができあがりました。土曜日の修了式で配布です。今回は120部しか製本していません。必要な方は、早めに。


2005.03.09(水)

 
一日目は風がつよく、真冬並みのまれな寒さ(7、8度)。そして雨。久米島のグスクを訪ねてきた。久米島自然文化センターのグスク展をみた。二日と三日目は天気に恵まれた。久米島空港に降り立つと車を借り、まずは兼城港から入った。港付近で島のリズムをゆっくりとつかむことから。

 兼城港は久米島の南側に位置し、トーシングムイ(唐船小堀)と呼ばれる。久米島全体がサンゴ礁で囲まれ、白瀬川が注ぎ込む兼城あたりはリーフが切れ、船の出入りできる口があき良港としての条件が備わっている。

 白瀬川の中流部に伊敷索グスクがあり、グスクが機能していた時代の重要な津(港)であったのであろう。この港が注目されるのは琉球から中国へ渡航する中継地であり、首里王府が宮古・八重山への渡航口でもあったようだ。



 まずは今回の目的の伊敷索グスク、具志川グスク、そして宇江グスクへと足を運ぶ。

①伊敷索グスク




②久米島具志川グスク




③宇江グスク



2005.03.05(土)

 
明日からの天気がどうなるか心配だが久米島までゆく予定。1月から久米島にゆきたいとノートをつくってきた(2月のHP)。今回は特に久米島のグスクが目的(グスクの展示会もしているはず)。それと今帰仁阿応理屋恵や伊平屋大あむがなしクラスの久米島の君南風(チンベー)が祭祀を通して村々を統治する視点でとらえたとき、どんな姿に見えてくるのか。その確認。そして久米島が果たした那覇港の外港としての役割など。どんなお土産をもって帰れるか!ポワーンとした調査の旅にしたいのだが・・・。ノートを確認したら久米島は近年では2000年3月と2001年11月に訪れている。

(久米島調査のメモ書き)
 宮城栄昌氏が「政治組織上のノロは国家的祭祀を掌る神職として任命されたおえか人=官人であ」(『沖縄ノロの研究』30頁)で述べているが、私が「神人は公務員である」(神人は個人的な祈りではなくムラに関わる五穀豊穣やムラの繁盛、航海安全の祈り)というのは、そのことである。また宮城氏は「御嶽の神」で、御嶽を考える上で示唆に富んだまとめ(整理)がなされている。

 私は御嶽(ウタキ)は岳(タケ)からきていると考えている。ただし、岳や杜が人為的な要素を持つことで御嶽と呼ばれてきたのではないかと。その杜が御嶽を構成するための要素は以下の条件である(その全てを兼ね備える必要はない)。小高い杜や岳が、御嶽(ウタキ)というには以下のような要素が備わっているかどうか。

  ・イビ(イベ)がある
  ・イビヌメー(イビの前)
  ・杜やイビを囲むように左縄をめぐらす
  ・小高い杜である
  ・杜の中に集落後の痕跡がある
  ・杜の中に神アサギがある(山原)
  ・ムラや集落と関わる
  ・ムラの人達によって漠然とした神の存在がある
  ・神のいるところなので立ち入ると神罰があたる
  ・御嶽の神は集団(行政ムラより、小さな一門や一族)の創成神の認識がある
  ・祭祀空間や集落を抱えるように石囲いをしたグスクになる場合がある

 そのようなことを念頭に入れて、久米島のグスクを訪れる予定。久米島のグスクから、山原のグスクの成り立ちが見えてくるか。さらに御嶽と集落との関係なども。

 
久辺小学校(名護市)の3年生と父母の方々(68名)が来館。今帰仁グスクの学習。学校で発表会があったのかマツケンサンバを踊ってくれた。これからワークシートをもって今帰仁グスクへ。



 
午後から沖国大の藤波ゼミのメンバーがやってきた。教職のメンバーなので指導する立場での話。



2005.03.04(金)

 
今日一日、歴文にとっていい日ではないようだ。逆らわず、流しましょう。ハハハ。
  (歴史文化センターはユタ世界の場ではないのです。ユタ殿 悪しからず)

       (ということで、本日の書き込みなしです)


2005.03.03(木)

 
午前中兼次小学校3年生がやってきた。1年間「大きな木」をテーマにして学習発表会をしたという。「大きな木」に自分たちが拾ってきた話題をつるし、何百年も沈黙していた大木に語らせるのがねらい。大木に語らすことで、赤木の大木は大きな大きな木に成長させたようだ(残念ながら、学校での発表は見ることできませんでした)。写真を持ってきてありました。上等でした。

 今日は古宇利島の展示室で海の道具を使っての話。ユートゥイ・ウミカガン(タマカガミ)・サバニなど使っての話。大半が島に渡ったようだ。
    「古宇利島の人たちは何故声が大きいのでしょうか?」
    「なぜ、荒っぽいのでしょうか?」
    「ハーリーに使う舟(サバニ)ですが、東・中・西の三つが競争するが、
     一方だけが勝ち続けることを好まないのはなぜでしょうか?」
など、投げかけて道具や島という生活の場から答えを見つけ出していく。そして使われた道具や生活と木との関わりで説明。松・福木・センダン木・黒木・デイゴ・桜など。

  午後から護佐丸の末裔という一門の方々が来館。今帰仁上り(ナチヂンヌブイ)や建立する石碑についての談議。二時間ばかり。

 拓本の裏打ち作業。5枚完了。

 これから(午後7時)もう一件あり。


 ▲古宇利島の展示室で海の道具の話         ▲ミーちゃんも一緒に・・・


 ▲裏打ち作業(ガラス台で水の噴く付け)   ▲裏打ちが終わり乾かしている最中

2005.03.02(水)

 今帰仁村の字(アザ:ムラ)は山手から海岸に向けて短冊状に細長く伸びている。その中で短冊状になっていないムラがある。その一つに天底がある。それが何故だろうか。そんな疑問をもっている。その理由づけができそうである。

 
天底は1719年に本部間切の伊豆味村付近から、間切を越えて今帰仁間切地内へ移動している(1665年以前は今帰仁間切内の村)。集落は台地上の外田原一帯に移動する。そこにはアミスガーや神アサギ・御嶽・ニガミヤー跡・ノロ殿内跡がある。集落はそこから、さらに天底地内の後原(天底小学校付近)へ移動している。

 天底村移動について『球陽』(尚敬王7年:1719)に「本部間切ノ天底村、還シテ今帰仁間切ニ入ル」としか記されていない。勢理客と仲宗根との間に入り込んだ「中福原」は、移動してきた天底村の土地が入り込んだ形になっている。中福原一帯は戦後昭和40年頃まで水田地帯であった。天底村が今帰仁間切地内への移動は、大井川流域(勢理客村と仲宗根村との間)の開拓が主目的だったに違いない。それが、現在の天底地番(中福原)が挟み込まれた形となっているとみている。

 『球陽』(尚敬18条:1733)に、以下のようにあり、天底村が移動してきた後であるが、隣接した勢理客から仲宗根にかけての開鑿が行なわれている。

   「今帰仁郡ノ真喜屋ニ、モト一田畝アリ。其田米五百石ヲ出ス。旱魃ノ時ニ遭フゴトニ、泉注
   アルコトナクシテ田地乾涸ス。五穀登ナラズシテ民甚ダ之レヲ憂フ。勢理客邑ノ地頭代諸喜
   田、夫地頭湧川等、相共ニ商議シテ、水溝八百余歩ヲ鑿開シ、即チ与志古土川ノ水ヲ引イテ
   真喜屋ノ田ニ潅乳入ス。此レヨリノ後、恒ニ満田ノ水、漫々容々トシテ旱魃ヲ憂ヘズ。稲穀豊登
   セリ。

 
近世の村移動で「風水がよくない」ことを理由にされているが、それは首里王府に認めてもらうための右へ習えの理由であって、本来は開拓を目的とした移動だとみている。それは、1736年の羽地大川流域へ移動した呉我村・振慶名村、屋我地島への我部村・松田村などの移動もそうである。もっと早い時期に移動した今帰仁間切の志慶真村が諸喜田村を流れるナハガーラ沿いに移動したのも同様な理由だと考えている。


  ▲吉事につながるカー(ヨシコトガー)        ▲突き当たりで大井川と合流する


             ▲天底の小字図(左側に突き出たところが中福原)

2005.03.01(火)

 3月となりました。平成16年度最後の月です。久しぶりの晴れ。それでも冷え冷えした気温なり。インターシップの学生(真栄田さん)に仕事させるのに動けません。ハハハ

 原石(ハルイシ)の実測図とスケッチ。そして拓本とり。調査項目にあわせてまとめるのはめんどうくさいものだ。しかし、沖縄本島と周辺離島の集約とまとめは20年近い沖縄県地域史協議会の懸案である。辛抱して調査表にあわせてまとめましょう(わたしは指示するのみ)。
  



          ▲原石の拓本7枚とる。裏打ちは一度乾かしてから。



【南 風】(琉球新報)原稿出稿

  山原の歴史散歩(1月17日掲載)山原の歴史散歩
  今帰仁グスクに立つ(1月31日掲載)今帰仁グスクに立つ
  島に橋が架かる(2月14日掲載)島に橋が架かる
  名護は和(ナグ)?(2月28日掲載)名護は和(ナグ)?
   
山原のムラ・シマ講座(3月14日掲載)山原のムラ・シマ講座
      (4月以降は掲載日未定)
  
⑥久米島のグスク(下書き済み)
  ⑦塩屋湾岸のムラ(下書き済み)
  ⑧奥・辺戸と与論島(下書き済み)
  ⑨羽地大川と移動村
  ⑩間切の分割と山原
  ⑪根謝銘グスクと国頭地方
  ⑫運天港(下書き済み)