2002年の動き                     トップヘ


 10年前に記したことを振り返ることが多くなりました。「地域研究」に集約しつつありますが、いつどこに行ったのか、そこで何を考えたのか、「過去の動き」をみると周りの研究や調査や方法論など、温度差を感じつつ、独自の道を歩み続けていることに気づいています。論文らしきこと、何本も書いてきたが、過去の動きや調査記録をみると、それはまわりを見回した妥協の産物のようなものであるとの気がしています。そのようなことを考えつつ、過去のことを記憶から呼び起こすため、ここに再録します。


2002年1月4日(金)

 今年の歴文センターは、どんな動きをするのか。しばらくは、一つひとつ積み上げていく作業になるかと思います。昨年暮れに予告してありましたシリーズものは、これまで博物館づくりや企画展の調査で、あるいは研修会などで訪れた各地での調査記録ノートを公にしていくものです。すでに公にしたものもありますが、過去のメモ書きのノートを整理する形でまとめていきます(結構なボリュームになりそう。月に2本程度)。

 現在進行している調査ものは、この「動き」で報告する形になります。その時、その時のメモやノートから歴文センターが何を考え、何を目指しているのか。さらに将来に向けて、公の財産として何を引き継いでいこうとしているのか。渦中の中から飛び出して第三者的に見ていければと思います。

 さて、12月30日から元旦にかけて長崎・福岡を訪れた。家族全員揃っての旅は久しぶりである。ここでは歴文に関わる部分について、福岡・長崎の順で一部報告することにする。福岡では「蒙古(元寇)襲来の痕跡」、そして長崎訪問は琉球側にオランダ墓(1846年)と呼ばれている仏人の墓があり、その当時屋我地島と古宇利島を出島にする計画があった(実現しなかったが)。琉球にあるウタンダー(墓)や出島計画を「長崎の出島」を通して見ていきたい。

■博多(福岡県)を訪ねる
 1987年12月(15年前)に福岡県(特に北九州)を訪ねている。その時、10軒余の博物館などの施設を訪ねている。それは「福岡県内の博物館・資料館視察から」(上・下)として報告している(広報なきじん147、148号)。その前書きで「今回の視察の主な目的は、これまで積み重ねてきた(仮)歴史資料館設立準備委員会の調査研究を踏まえ、さらに県外の博物館や資料館を視察することで、広い視野から今帰仁村の今帰仁らしい特徴ある歴史資料館の建設に向けて反映」させたい。さらに「活動する・活動している資料館」を目指している(歴史資料館は現在の歴史文化センターのことである)。15年前の福岡ゆきは、資料館(現在の歴史文化センター)づくりのためであった。歴文センターは開館して足掛け8年目をむかえるが、どうだろうか。

■蒙古(元寇)襲来の痕跡
 今回の福岡県を訪れた目的の一つに蒙古襲来(元寇)の痕跡を確認しておきたかった。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の痕跡である。というのは、時代は違うが1609年に「琉球国」が薩摩軍の侵攻にあった時の琉球国側の対応があまりにも貧弱すぎる。国力や武力などの大差があったにしろ、琉球国の国情を知る手がかりになりはしないだろうか。そんな思いで福岡市博多区の東公園の一角にある「元寇史料館」を訪ねた。明治37年に「元寇記念館」として遺品が陳列されたようである。昭和61年に新たに「元寇史料館」(現在)として開館している。開館後の史料館の元寇の調査研究が進んで いるのであろうか。そうであればありがたい。

 薩摩軍の琉球侵攻との比較研究をしていくために長崎県の「鷹島町立歴史民俗資料館」まで足をのばしたかったが、その願いは、今回果たせなかった。弘安の役(1281年)の主戦場が鷹島で、近年周辺の海底から見つかった元軍の遺品の数々が展示されているという。元軍が遺していった石の砲弾や石臼、元船の大きなイカリなどなど。それらの展示物から元の兵力の規模、当時の日本の兵力、そして時代は下るが琉球の兵力の規模。その違いが体感できたにちがいない。薩摩軍の兵力、そして琉球国の兵力や国情などを視野に入れながら「薩摩軍の琉球侵攻」をみ、さらに今帰仁間切における薩摩軍の「今きじんの焼きうち」など、もう少し踏み込んで考える手がかりしていきたい。


2002年1月5日(土)

 長崎県は二度目である。4年前だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。今回はハウステンボスと長崎市内が中心。(一部紹介)

 ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。

 暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。

 もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろである。自然との折り合いについてもしかりである。

 出島計画。それは1846年6月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。

 ここで長崎の「出島」について述べないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる旅であった。(詳細については『なきじん研究11』の運天港部分で報告予定)


2002年1月6日(日)

 今帰仁村今泊にあるクボウヌウタキの後方にあるプトゥキヌイッピャとシニグンニ、さらに今帰仁グスクまで行ってみた。古宇利掟さまのご案内。プトゥキヌイッピャは洞窟になっていてウル(珊瑚)が置かれていた。子宝が授かるという拝所である。今でも旧5月29日と9月29日に御願が行われている。シニグンニ(今帰仁グスク前方のハタイ原にある)は、かつて今泊で行われていたシニグの行われる祭祀場ではなかったかと思われる。七月のウプユミの時、シニグンニから太鼓をならし棒を振りかざしながら家々を回ってお祓いをしていたという。古宇利掟さまのわけのわからないドスのきいた言葉(何弁でしょうかね)でいろいろ質問されたのですが.....。

 桜は正月の寒さでつぼみが大分膨らみがでてきたかと思ったら暖かくなったのでどうかな。例年より、みごろは早くなりそう。昨日今日と今帰仁グスクを訪れるお客さんが目立ちます。花見シーズンが到来です。咲き終わってからは遅いですよ。つぼみの時が旬......?グスクの桜もいいですが、歴史文化センターの展示をご覧になって出て行かれる方は、旬は過ぎてもいつも今帰仁ウカミ(超美人)にみえます。館長が口癖のようにいつも言っていますから........ほんと。

【上杉県令日誌】(12月16日より続く) 
 明治14年11月28日(午後1時40分)上杉県令の一行は屋我地島(済井出か運天原あたり)から舟で運天港にある今帰仁番所と首里警察分署の前の海岸に到着するが、番所と分署に立ち寄らず集落を抜けて坂道をいく。一つの洞窟があり、そこに鍛冶屋が設けられている。フイゴを据え、カナドコも置いてあるが人の気配がない。

 道は曲折盤回して登る。山の中腹に奥深い洞があり、白骨の髑髏があり、洞の中に堆積している。あるいは腐朽している。鎧櫃の中にあるのもある。地元の人は「百按司墓」と言っている。今では弔いや祭もされず、精魂はどこあるのだろうか。この髑髏は今より(明治14年)468年前に中山王の尚思紹が兵を起こし、北山王攀安知を滅ぼした時、北山の士が戦死した屍とも、あるは今から(明治14年)273年前、薩摩の島津義久、樺山久高を大将として琉球を攻めたときの戦死者の髑髏とも伝えられている。

 はっきりとした文献がまだないので両説のいずれが是なのかはっきりしない。近年本(県)庁では百按司の遺屍を埋める議論があるようだ。

 百按司墓から今帰仁分署に至る。門は南西に向いカジマルの木が陰をなし、四、五百年前のもの。傍らにはりっぱな福木がしげり、港の入口には日本型の船が二艘碇泊している。

【その後の様子】    
 運天は日常的に訪れる地であるが、12月20日の午前中、日本航空の写真撮影の案内があったので同行した。その時に番所(分署)跡から百按司墓まで散歩してみた。

 今では首里警察分署があった場所がどこか確認できていないが、番所内に置かれたようである。この首里警察分署は明治13年6月22日に羽地分署を運天の番所に移し今帰仁分署とし森寿蔵が分署長心得となった。所管は羽地・名護・今帰仁・本部・久志・大宜味・伊江・伊平屋・鳥島の広範囲に及ぶ。鳥島は明治14年10月に那覇署の管轄となる。明治15年1月に今帰仁分署は名護大兼久移し名護分署となる(『今帰仁村史』)。

 今帰仁番所は運天港の近くの福木の大木が数本ある場所である。運天に今帰仁番所が置かれたのはいつかはっきりしない。伊野波(本部)間切が分割した時には運天に番所があったとみていい(それ以前から運天にあった可能性もある)。番所が警察分署と同じ建物であれば、明治14年には門が南西に向かいガジマルの木が陰をなしたいた様子が記されている。また現在ある福木がりっぱに繁り、当時の様子が浮かんでくる。

 集落の中を通り、現在のトンネル近くに出たのであろう。その近くに鍛冶屋をした跡と見られる洞窟が今でも残っている。その洞窟は物入れに使われている。所々に焼けた跡や鍛冶屋があった雰囲気が今でも漂っている。鍛冶屋跡から登る道は現在遊歩道として整備されているが、草ぼうぼうである。大正13年に建てられた源為朝公上陸之跡碑にたどり着く。

 さらに行って百按司墓を訪れている。半洞窟に白骨の髑髏がたくさんあり、鎧櫃に人骨が堆積している様子が記している。人骨の多さから北山が滅ぼされた時の戦死者の屍であるとか、薩摩軍が琉球を攻めた時のものであろうとか議論があるが、まだどっちとも言いがたいとしている。

 本(県)庁で百按司の遺屍を埋める義ありと聞くとあるが、それは明治15年8月に「白骨埋エイ之儀ニ付伺」を太政大臣宛に伺っているが、それは県庁費の中から流用支弁するべしと判断が下されている。明治21年頃に百按司墓は第一墓所から三墓所まで石垣が積まれ現在に至っている。

 運天港周辺の集落はムラウチと呼ばれている。古宇利島への発着場所にはコバテイシの大木があり、またムラウチには大川や神アサギや地頭火神の祠などがある。また、東がわの森の麓に今帰仁(北山)監守を勤めた今帰仁按司とその一族を葬った大北墓、それと大和人の墓塔二基もある。 
  

2002年1月8日(火)

 昨日(7日)、沖縄県北部(山原)にある大宜味村の津波・塩屋・屋古・田港、そして白浜の順で回ってきた。一時、雨に降られたが調査に支障なし。今回の大宜味ゆきは、「大宜味村の神アサギ」をホームページで立ち上げるための撮影と確認調査でもある。過去の調査ノートもあるが、それは別にして報告する。山原のムラ・シマを歩いていると、その「土地」や「人」がいつも何か語りかけてくる。それがなんであるのか、まだしっかりとつかんでいるわけではないが、不思議と楽しいものがある。と、同時に厳しく、時には鋭くに胸に突き刺さる場合がある。楽しみと厳しさに誘われて大宜味村の南側の字(ムラ・シマ)歩いてみた。それは昨日のメモです(スケッチや図や写真は略)。

 ・津波......神アサギ(平成10年に新築)・旧県道・公民館・石垣のある屋敷・根神屋
       (オハイフ屋?)・原石(井 つは原)・山道・ウイバルガー・原石(ユ あさ
       加原)など。(津波は平成10年のムラ・シマ講座で訪ねたことがある)
       (まとまった報告をしたいが別に譲ることにする)
 ・塩屋.....神アサギ・アサギナー・鳥居のある祠など。
 ・屋古......神アサギ(タモト木あり)・ハーリー小屋(ハーリーは修理中か。小屋にナ
       シ)神アサギの後方に祠あり。アサギ庭に礎石らしい石あり。屋根裏に
       先の尖った棒が数多く置かれている(クムーを張るのに使う棒か)。
 ・田港......神アサギ・回りに桜の木あり。タモト木ナシ。屋根の棟木に「紫微鑾駕」
       (シビランカ)あり。神アサギの建立年1958年?タモト木、香炉ナシ。ヌルド
       ゥンチ・根神屋(平成12年6月改築)
 ・白浜......新しく神アサギが建立されている(1999年建立)戦後、渡野喜屋から白浜
       へ改称。『琉球国由来記』(1713年)には登場しない村。 

 大宜味ムラの南側の字(ムラ)を上に掲げたキーワードを手にムラの成り立ちをみてきた。まずはムラの方々の目の高さで。御嶽(ウタキ)―神アサギ―集落という軸線に歴史を噛み合わせ、さらに俯瞰的に見ていきたい。その一つ一つはシリーズで報告する。(写真や図も取り込みたいが、パソコンの容量が十分でないため、もうしばらくお待ち願いたい)



2002年1月9日(水)

 これから(午後7時から)「運天の字誌」歴史編の編集会議です。今日は前回の復習の意味も含めて、スライド上映です。資料は「なきじん研究3」の運天編を使用。明治14年の「上杉県令日誌」も「動き」でやっているのでいいタイミング。少しは頭が楽になるかな?
 運天の歴史を語るキーワードは、
   ・ムラウチ集落
   ・源為朝上陸跡碑
   ・テラガマ・トンネル
   ・番所・警察分署(役人の辞令書など)
   ・大北墓
   ・百按司墓
   ・大和墓
   ・オランダ墓
   ・神アサギ
   ・地頭火の神
   ・大きなコバテイシ
   ・仕上世(シノボセ)米
   ・四津口
   ・運天港が果たした役割
などなどだろうか。少し頭の整理をして「運天の歴史」を語ろう。資料とスライドの準備OKです。ギリギリじゃ。それ、行け〜。運天の公民館へ。
 


2002年1月10日(木)

  「海の民俗と歴史」の原稿の締切が過ぎている。一夜漬けになるか。三山の時代の北山。北山の拠点となった今帰仁グスク。そこから出土した遺物を手がかりに明国(中国)との交易、そして日本・韓国・東南アジアとの関わりを述べ、さらに歴史・民俗を考えるのである。大筋はどうにかまとまった。一晩寝かせて、明日図版と写真をきめ、再校することにしようと。

 上杉県令一行は、まだ運天に滞在中である。早く本部間切へ送り出して次のことをやりたいのであるが、そうはいかない。積み残した今帰仁間切番所(警察分署)での問を掲げ、その答から今帰仁間切の様子が伺える。答えは掲げていないが、どんな答えなのだろうか。自分なりの答えを出してみるのものも面白いので答は省略してある。 

【上杉県令日誌】(明治14年11月28日午後)
 一行は百按司墓を視察した後、再び分署(番所)に戻る。番所で宿泊するのであるが、そこで県令が訪問の意を伝え、さらに今帰仁間切役人と問答をしている。その問答の一つ一つから当時の今帰仁間切の動きや間切番所の仕事の内容や様子が伺える。

 主な質問は、作物のでき、砂糖の生産高、台風の災害、財政について、人身売買、間切の村々の米の貯え、薪の売り出し、飢饉のときの分配の仕方、漁業、病人が出たとき、学校をつくる計画、どこにつくるのか、学校をつくる金、入学者は何名、村数、共進会への出品、博覧会に出京したもの、在京中当間切の為にと思ったことなどである。問答が終わると、上運天村平民仲村平八母ウタ93才、同村平民金城新緒母カマタ90才の者へ、目録の賞が与えられた。

 夜宴のとき、上杉県令公は地頭代を呼んで、学校新築の間切は、島尻の東風平を除くと今帰仁間切一ケ所である。その奮発尽力の程に感心したとのお褒めの詞あり、それで酒杯を振舞った。


2002年1月11日(金)

 「ふれあい少年の翼」(山形県酒田市)行きの事前研修が12日と13日にある。日本海側の山形県酒田市。まだ酒田市についての情報を手にしていない。これから準備。沖縄と山形県を結ぶには、今思いつくものに「貝の道」と「上杉県令」(上杉茂憲・ウエスギ・モチノリ)が浮かぶ。「貝の道」は沖縄から運ばれたゴホウラやイモガイが道の島・西九州・日本海を通り北海道まで運ばれていったという。それも弥生時代のこと。琉球のゴホウラやイモガイでつくられた貝輪の取引があった姿を思い浮かべると、暖かい(暑い)沖縄と寒い北陸や東北が貝で結ばれるとは。日本海ルートで北陸や東北行き着いた沖縄産の貝輪や貝の装飾品が博物館などで確認できれば、山形県がもっと親近感のある県の一つになるに違いない。また、このホームページで紹介している上杉茂憲(県令)が山形県の米沢(藩)の出身である。約二年間在職し、二ヶ月間で沖縄本島、久米島・宮古・八重山を巡回視察している。そういうことでも山形県とのつながりがある。その他にもあるでしょうが、これから子供達を山形県の酒田に引率していくのであるが、雪あり、スキーあり、白鳥、人との出会いありなど、いい旅ができればいいね。


2002年月15日(火)

 14日(月)本部町渡久地を回ってみた。少し汗ばむほどの天気。二分、三分咲の桜が見られる。18日から「本部町の桜まつり」が始まるようだ。渡久地は本部町の中心となるマチである。町役所・警察暑・郵便局、それに渡久地港があり、港マチとしての風情をまだ残している。近年まで伊江島や伊是名島・伊平屋島と船が往来する発着港であった。しかし、伊江島へは本部新港(健堅)から、伊是名・伊平屋へは今帰仁村上運天(運天新港)から発着するようになる。

 港マチを形成している渡久地は村としては近世(『琉球国由来記』1713年)になって登場してくる。どうも、具志川村が移動した祭に渡久地村に統合の形になったのではないか。渡久地村には『琉球国由来記』で「ヨケノ嶽」(神名カムシナノ御イベ)と「アカラ嶽」(神名センモリノ御イベ)と二つの御嶽(森)があるが、具志川村の御嶽名が見られない。現在グシチャーウガン(具志川ウガン)と呼んでいる御嶽は具志川村に因んだ御嶽とみてよかろう。具志川村(一部)と渡久地村が統合した痕跡として二つの神アサギの存在を考えてもよさそうである。ただし、近世末から登場してくる浜元村がある。その浜元村は具志川村が移動してきた村、さらに具志川村を改称(1781年以前)して浜元村になったとの見方がある。現在の浜元にも神アサギがあり、それは『琉球国由来記』の具志川村を継承した神アサギとみてもよかろう。(渡久地・具志川・浜元の神アサギと村の歴史を含めてもう少し検討を要する)。三ケ所(村・字)とも具志川ノロの管轄である。

 具志川村はグシチャーウガン一帯に集落があったとの伝承を持っている。移動伝承として、具志川ウガン→ウプジャチ→集落が合併(具志川村が渡久地村に吸収される?)の様子が見られる。また、浜元も同様な移動伝承を持ち、複雑な経過をたどっている。歴史を紐解くにもう少し史料を必要とする。現場での祭祀や集落の形態の確認が必要である。古琉球の「ぐしかわのろ」の辞令書(1607年)の内容(ムラ名・ハル)の検討も必要。神アサギは「本部の神アサギ」で報告予定。
  


2002年1月16日(水)

 15日(火)大宜味村の北寄りの根路銘・大宜味・大兼久・謝名城をゆく。拘束されずの調査は楽しいものがある。天気は曇。ときどき小雨。11時頃から国道58号線を北上する。大宜味村の安根(アンネ)のバス停に車を止め、今帰仁からの道筋を振り返ってみた。安根から名護方面を見て、まず左手に大宜味村の山、旧羽地、そして名護の山が幾重にと重なって見える。名護の市街地から伊差川に至る部分は低く平らとなっている。そこから右手に本部半島が伸びる。しばらく台地状の地形となっている。嵐山一帯である。嵐山の丘陵地の後方に嘉津宇岳と八重岳が一段と高くみえる。再び低い丘陵地があり、その右手に本部半島の満名川を挟んで本部町の今帰仁よりの山々と今帰仁村のパサンチヂやタキンチヂ・乙羽山の山並みへとつづく。さらに右側にいくとクボウの御嶽と馬鞍山(マンクラヤマ)の山並みが識別できる。クボウの御嶽の手前に今帰仁グスク、そして歴史文化センターがある。さらに右手に目をやると運天、手前の屋我地島の島がある。そして運古海峡(古宇利大橋の架設中)、古宇利島へと続く(写真の方が一目瞭然だが)。

 さて、長くなったがその風景は国頭や大宜味の人達にとって今帰仁グスクがどう写るのか。国頭地方の人々の内面やその言葉にある時代を映していやしないだろうか。時々、そんなことを考えながら北のムラへ足を運ぶ。「沖縄の歴史」の三山鼎立時代の話をするのだが、具体的に今帰仁グスクを拠点にした12〜15世紀の北山(山北)王が国頭や羽地、名護、金武地方をどのように支配し統治していたのか。まだ、その姿が見えてこないのである。もし、国頭や羽地地方のムラやグスクが今帰仁グスクの北山王に物を献上したり、貢租を納めていたのか。あるいは今帰仁グスクへの勤めがあったのか。そういうことがあったとしたら国頭地方の役人(?)や人々は、今帰仁グスクへの勤めを果たしての帰路、大宜味の安根あたりから今帰仁グスクをあたりを振り向きながら、役目を果たして満足感を味わっていたのか、それとも重い貢租や暴君などに怒りや涙していたのか。

 普段、今帰仁グスクのすぐ側で業務していると、三山鼎立時代の今帰仁以外の人々の動きや今帰仁グスクをみる視点がどういうものであったのか気になるところである。そういうこともあって、大宜味や国頭地方へと調査の足を向けているのである。

 神アサギの調査は別に報告するので、大宜味村大宜味の「霊魂之塔」と「根謝銘グスク」について報告することにする。

 大宜味の「霊魂之塔」(戦後の建立)は前から気にしていた塔である。というのは、塔の石は今帰仁村運天にある「源為朝公上陸之跡」の碑と同質の花崗岩である。明治7年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス商船の船底に敷いたバラストだという。座礁したイギリス船員の墓地が宜名真にありオランダ墓と呼んでいる。霊魂之塔の向かって右横に「大正十年十一月大宜味村立之」とあり、忠魂碑建立の年である。裏面はセメントが塗られ「忠魂碑」の文字が刻まれていた跡がある。大正十一年に忠魂碑が建立され同年十二月十三日に忠魂碑の除幕式を行っている。向って左横に「元帥公爵山縣有朋」(下線部は埋まっている)とあり、揮毫は山形有朋である。因みに源為朝上陸之跡碑は元帥東郷平八郎である。その忠魂碑を利用して「霊魂之塔」を建立(戦後)してあるが、「忠魂碑」を再利用して「霊魂之塔」を。どんな議論がなされたのだろうか?
 根謝銘グスク..............(続)


2002年1月17日(木)

 (前日から続)大宜味村の役場のある大兼久から喜如嘉を通り、急ぎで謝名城へと車を走らせた。途中、国道沿いの芭蕉畑でウーハギ(粕高ャ)をしていた。剥いだウーを束ねたのが所々に置いてある。ウーを剥ぎ取る時期なのだろうか。夏場ウーを剥いでいる場面に立ち会ったことがあるので、必ずしもウーハギの時期は決まっているわけでもないのかもしれない。冬場が質のいい糸がとれるのかもしれない。そんな勝手なことを思い浮かべながら喜如嘉の集落を抜けて謝名城へと向った。

 かつての一名代と根謝銘もゆっくりと歩いてみたいのだが、天気と夕暮れの時間もあって根謝銘グスクへと急いだ。根謝銘グスクは大宜味村謝名城にある。根謝銘グスクは国頭地方(後の間切)の中心となったグスクである。謝名城は明治36年に根謝銘・一名代・城の三つの村から一字づつとって名付けた字名である。

 まず、ヌンドゥンチ(ノロ家)を訪ねた。とは言っても無人の建物である。各地から訪ねてくる人がいるのであろうか、お賽銭箱や芳名録が置いてあり、火神を祀ってある壁に親切に「のろ御神」と張り紙がしてある。

 根神人をなさっていた大城茂子さんが元気な頃、ヌンドゥンチで二、三度お会いしたことがある。また、歴史文化センターにも来館されたことが思い出された。ヌンドゥンチの側に「奉寄進」と彫られた香炉(二基)が置いてある。年号と寄進した人の名もある。しかし磨耗しているため判読しにくい。確か、その年号は『球陽』の記事と一致した人物と年号だったように記憶している。二、三の香炉の年号と『球陽』の記事と一致しているため「奉寄進」の香炉は旅をするときに御嶽などの拝所に寄進し、航海(旅)の安全を祈願したのではないか。帰ってきたら、無事に帰国できたことへの感謝で寄進したにちがいないと考えるようなった。その発想を授かった香炉であるため、いつも感謝している。

 ヌンドゥンチから細い道を通り、根謝銘グスクへ登った。途中に「ゑ くすく原」の原石があったが、二、三年前からその場所からなくなっている。(どこかに保管してあればいいのだが......)しばらく行くとコンクリートの祠がある。内部は二分され火神が祀られている。コンクリートの壁に「トンチニーズ」と「ウドンニーズ」とある。また「一九五二年八月改築」とある。そこから喜如嘉の集落とかつての水田地帯、その向うに大兼久の海岸が見通せる場所である。海神祭のとき、この場所から喜如嘉の海岸に向って両手をあげて御願(神送り?)をする場所でもある。

 さらにグスクの中心部への急な坂道を登っていくと神アサギへたどり着く。グスク内にある神アサギの一つである。山原には根謝銘グスクをはじめ、親川グスク(羽地)・名護グスク、そして今帰仁グスクなど代表的なグスクのいずれにもグスク内部に神アサギがある(あった)。それは神アサギやグスクを考える重要なキーワードの一つである。山原の村々の神アサギを追いかけている目的はそこにある。さらにグスクで行われている祭祀から国家成立後、国家成立以前について考える手がかりとなる(そのことについては別に述べる)。 

 さて、グスクや神アサギについては深く述べないが、根謝銘グスクは歴史文化センターの根幹に関わる考え方を生み出した場所である。「現在の祭祀や出来事を記録していくこと、その記録は歴史史料になりうる」ということ。「学問は物事をひもといていく目的ではなく、手段である」ということへつながっていくスタートの場所である。根謝銘グスクを訪れるたびに調査研究の原点に引き戻される。

 もう17年前なるだろうか。初めて謝名城の海神祭へ誘われた。調査や研究をするというものではなかった。当時、歴史を中心にまとめていたので自分自身の中で民俗学とは一線を画していた。そのため海神祭の参与観察記録をしようなど全く考えていなかったし、感心もなかったように思う。海神祭の祭祀を見学したのであるが、全く意味を解していなかったし、多分記録もとっていないであろう。根謝銘グスクでの祭祀を見学し、全く理解できなかったことがずっと頭にこびりついていた。そのことが平成元年四月からスタートした資料館(博物館)づくりへと連動していく。そのころまとめたのが「古宇利の海神祭―歴史的な視点から―」(1990年)、「今帰仁村今泊の海神祭」(1991年)である。

 17年前の根謝銘グスクでの海神祭(ウンガミ)の体験が後々の歴史文化センターの柱となる考え方や方針へと結びついていった。この頃、よく知る人は「そんなに急いで.....」と言ってくれる。有り難い言葉である。これまでいただいたものは、その地(ムラ)に人に一つ一つ返していく作業である。返すどころか、それ以上にいただくものが多い......

2002年1月19日(土)

 午前中、兼次小の子ども達が志慶真乙樽についての勉強。総合学習の内。なかなか手ごわいテーマ。昨日まで商工会で志慶真乙樽の肖像画の展示がしてあったので覗いてきたばっかし。「手ごわい」というのは、子ども達をうまく引き込んでいけるかである。すでに子ども達は、指導者が指導するのにしっぽを巻いていることを知っているのでなおさら具合がわるい。映画で時代をイメージさせ、ストーリーを話しながら、さらに絵にしていくのであるが、なかなか難しいようだ。それと、4年生では志慶真乙樽の心まで読み取っていく作業の展開は苦手のようだ。具体的な形のあるものには、スーとはいて行くのだが.......。議論の揺れているテーマを小学校に下ろしていくと、混乱を起こしてしまう。下ろしていくときには、しっかりと方針を持って臨む必要がありますね.....。今日の結果は???(もちろんOKですよ)

 ノロに関する興味をそそる資料がある。明治36年の土地整理でノロのノロクモイ地も処分されたが、そのかわり一種の年金で補償した。昭和10年でもまだ継承されていることが確認できる資料である。今帰仁村の玉城ノロや中城ノロ、岸本ノロ、それと羽地間切仲尾や真喜屋などにも同様な資料がある。ここでは大宜味村『塩屋・ウンガミ』所収の田港ノロの「ノロクモイ襲職届(写)」を掲げておく。いずれ詳細な解説を加えることにする。

      ノロクモイ襲職届(写)
        字田港六百八十七番地戸主
          前ノロクモイ(亡)当山ウシ
           安政六年一月一日生
        字田港六百七十二番地
          戸主勇三郎二女
        現ノロクモイ襲職者松本トヨ
          大正九年十一月二日生

    前ノロクモイ当山ウシ儀昭和八年一月丗
    一日死亡ニ付キ同人兄ノ孫トヨヘノロク
    モイ就職致シ候ニ付前ノロクモイウシノ
    死亡届旧ノロクモイノ戸籍謄本並ニ新
    旧ノロクモイ系図相添ヘ此段及御届候也
       
       昭和十年三月十二日
         字田港六八七番地同居者
         届人当山ウト
           明治二拾八年五月十九日生
       字田港六二七番地戸主勇三郎二女
       届出人ノロクモイ就職者松トヨ
          大正九年十一月二日生
 


2002年1月18日(金)

 上杉県令もやっと運天番所から本部間切へと腰をあげました。明治14年のことですから、今みたいに自動車があったわけではないのでノンビリと行きましょう(ホントは私が道草しているのだが)。気温は華氏の69度である。今帰仁番所・首里警察分署(運天)から上運天村・勢理客村・仲宗根村・謝名村・平敷村へ、東から西の渡久地番所(本部間切)へと向っている。途中、松並木や芋畑、藍畑、藍壺、水田、芭蕉畑、馬場などを眺めたり、側を通りながらの道中である。稲の苗が青々とした様子なども目にしている。藍壺に藍を漬して藍をつくっている場面、ノロなどが祭祀を行う空屋(仲宗根の神アサギだろうか?)などにも気を止めている。

 馬将は仲原馬場を指しているだろうし、道の傍らに90歳余の老人などが出迎えると上杉県令はわざわざ輿(車)を停めて賞与(褒美)を差し上げている。明治14年頃の今帰仁間切の宿道(スクミチ)沿いや村の様子が彷彿する。この日誌の記事を追いかけていると、120年前の時と場所へどれだけ深くはまり込んでいけるか、その感性が問われているような気してならない。往時の姿がどれほど確認でき、あるいは面影を見つけることができるであろうか。これから村人の記憶を拾っていく作業が待っている。それは大変だ。

【上杉県令日誌】(明治14年11月29日)

 朝の気温69度、午前8時40分に今帰仁番所、首里警察分署を出発する。
  ↓ 路を左に折れて小坂を登っていく。
  ↓ 巡査二名が護送する。村吏二人が纈袖(シボリソデ)して、
  ↓ 束竹を肩にして先駆けしていく。 
  ↓ 両側の松並木続き断えず
  ↓ 大道は高低があり、曲折しながら過ぎていく。
 右側の渓間に上運天村がある。
  ↓ 朝の煙が靄々(モヤモヤ)として棚引いている。
  ↓ 道端に一婦人あり、合掌して拝(イジギ)する。
 行くこと数丁、勢理客村に入ろうとする。
  ↓ 仲村豊次郎の母カマト90歳がきて、合掌して拝謁(ハイエツ)する。
  ↓ 桃花色の外出着を新製して穿(ハ)き、児孫を傍らに侍す。
 令公輿を停められる。
  ↓ 目録の賞与あり、スデガホウと言って拝謝する。既に
  ↓ 途(ミチ)につく。
  ↓ この辺りは薯圃と藍畑あり。
 行くこと数丁。
  ↓ 広漠の水田と薯圃あり。
  ↓ 秧針(オウシン)(稲の苗)が青々として秀発している。
  ↓ 両側に藍壺六、七あり、藍葉を漬して染料を醸(カモ)す。
 小さい流れを渡って仲宗根村に入る。   
  ↓ 村の南に沿っていき、村を離れる処で路を回って上りまた下る。
  ↓ 二箇の空屋あり、ノロクモイの祭典(祭祀)を行う所という。
 謝名村を過ぎる。
  ↓ 蕉(芭蕉)園多し。
 行くこと数丁、馬将(馬場)あり。
  ↓ 圃(畑)の中に岩石が突起している。
 既にして平敷村を過ぎる。 


2002年1月21日(月)

 久高島に渡る。沖縄本島の南部、知念半島の東海上に浮かぶ島。早朝の西の海上は大分荒れ模様。高速(自動車道)から東の海上を眺めるといたって静か。渡れそうだ。三年前、馬天港から小さい船で波に揺られて、貧血状態の船酔いのことを思い出していた。それで安座真港(知念村)から9時の高速艇(ニュー久高)に乗船して渡ることを決意。早朝の名護出発となった。月曜日の予定であったが、二つの予定が入り、急きょ繰り上げとなってしまった。曇り時々晴。まあまあの天気。海上は比較的穏やか。船には島へ帰る人。釣り人。そして観光客などなどであった。20人ほど乗っているだろうか。胸中、舟の中の人に久高島の顔を見つけだそうとしていた。

  徳仁(トクジン)港に到着。20分程か。港から診療所を過ぎたところに自転車を貸し出している玉城さんのお宅がある。以前にもペダルの壊れた自転車を借りて往生したことがある。「今日は、いい自転車を貸してください」。「空気、はいているかね」と親切に確認してくれた。「ムーチーの日ですが、久高ではどうですか」「? そうね。みんな家庭でやってるさ」とのこと。「イザイホーはやれそうですか?」「できるかね?」と自信のなさと不安そうな返事であった。今回の久高への渡島は、祭祀の調査を目的とするものではない。ムーチー(旧12月8日)の日であるが、個人や家庭の行事として行われていることを確認する程度にとどめた。以下の順で島を回ったが、いたって素朴に島の雰囲気と集落の成り立ちについてみた。もちろん、祭祀に関わるアシヤギやノロについての感心もある。ここでは、わずかであるが集落について印象を述べておきたい。

 久高島について『琉球国由来記』(1713年)は、伊敷泊(ギライ大主・カナイ真司)、コバウノ森(コバヅカサ・ワカツカサ・スデヅカサ・ヤクロ河)、中森ノ嶽とあり、「年中祭祀」で久高巫火神(久高村)と外間巫火神(外間村)について明記してある。18世紀初頭の久高島には、久高村と外間村の二つの村があり、同村名の二人の巫(ノロ)がいたことがしれる。18世紀の初頭島には二つの村があり、それから300年という歳月がたったのであるが、どんな歴史を刻み、その痕跡がどのように残っているのか.....。

 港から集落に入ると、石垣囲いと福木の屋敷が島の歴史を物語ってくれる。しばらく行くと久高殿庭(西側)と外間殿とその広場がある。その後方にクサティムイに相当する杜がある。ムイ(杜)→ナー(庭)→集落と対になっている。それは二つの村の痕跡とみてもよさそうである。(続く)(館長)
 ・徳仁港
 ・玉城自転車屋
 ・外間殿
 ・久高殿
 ・アシャギ
 ・アンプシ山
 ・イシキ浜
 ・久高クボー御嶽
 ・アガルガー
 ・ミガー(新川)
 ・イザイガー
 ・ヤマガー(山川)
 ・集落内のアタイ
の順で回ってみた。 

2002年1月22日(火)

 久高島に久高村と外間村があった。久高殿のある西側が久高村、そして外間殿のある東側が外間村であった。二つの村は明治36年に合併したという。その認識は今でも島の人たちにはあるようだ。外間ノロと久高ノロがいるので、二つの村の存在もかぶせることができるが、東西の人の気質や言葉などで、その違いを認識しているかもしれない(今では二つの村が混在しているであろうが)。集落の核は久高村が久高殿御殿庭、外間村が外間殿あたりに違いない。現在は徳仁港が使われているが、かつては徳仁港から北よりの旧港が舟の発着場として使われていたようだ。そうではあるが、旧港から久高殿、旧港から外間殿を結んだとしても集落の軸線とはならない。

 二つの村の集落の軸線は、どうも旧暦の4月と9月に行われるハンザァナシー(ハンは神様、ザァナシーは敬称。親愛なる神さまという意味か)の動きに見ることができそうである。この祭祀は「神々が来訪して島の清めと健康祈願」。祭祀の流れをみると、神々は外間殿からユーウラヌ浜へと向う。浜での祭祀が終わり、戻るときに久高村側と外間村側の二手に分かれて、それぞれの集落の道筋を通って外間殿で合流する(『神々の古層A』比嘉康雄著)。その祭祀の流れに二つの村の名残りを遺しているにちがいない。今回、実際にその道筋を意識しながら歩いたわけではないので、まだ実感しているわけではない。それは次の渡島の楽しみに取っておくことにする。

 久高島の集落を歩いていると、不思議に思うことがある。集落内の道筋の塀は海石(サンゴ石灰岩)で積まれている。丁寧に積んだ「あいかた積み」(亀甲積み)や「布積み」、あるいは「野面積み」とバラエティに富んでいる。曲がり角は丸くしてあり、島の人達の性格を象徴しているかのようである。その通りかもしれない。不思議さというのは、集落内を何度でも歩いて回りたくなるし、その場を離れるのがもったいない。そんな気持ちにさせられる。また、赤瓦の古めかしい家、福木の並木。久高殿とバイカンヤー、アシャギ、それと外間殿の庭など、その配置がなんともいえない。歴史を含めたバランスの保った集落景観を見せてくれる。

 久高島の集落から外れた畑地をみると、今でも畑と畑の土手がなく、石ころやハッポースチロールなどを使って境にしている。土手をもおしむ程土地の割り当てが少なかったことを示している。土地が非常に少ないのであるが、石積みの屋敷が目立つのは、土地から生産される経済力でなく、もっと別の理由があるにちがいない。「神の島」であるに違いないが.......。『地方経済史料』に「住民は渡唐船・楷船・馬艦(マーラン)船や飛船などの水夫として働き、貢租が免除された」という。なるほど、集落の石垣や赤瓦の家などは、久高島の男衆は船を操る海の男だったことによるものだったのだ。納得、納得させられた。島を訪れ、そのように自分自身の目のウロコがはげ落ちる場面と、自分の常識がひっくり返るときがある。そのことを味わせてくれた久高島であった。久高島はいい島だ。

2002年1月23日(水)

 明日は勝連城跡・中城城跡・座喜味城跡、そして恩納村の博物館へ。歴文の運営協議会である。今、「なきじん研究11号」の編集にとりかかっている最中である。レイアウトが決まると、出稿となる。さて、来週から出稿だと公言したとたん、思わぬハプニングあり。それは、発刊してからの笑い話にとっておこう。ここ一週間歯を食いしばって頑張らなければ。ハイ。また、寿命が縮まりそう。「動き」もストップするなり?かな?



2002年1.24日(木)

 中山のグスク(勝連・中城・座喜味)の三ヶ所のグスクを行く。世界遺産だから回るという発想はない。先日、久高島の帰り知念城跡と玉城跡に足を延ばしてみた。すると、これまでグスクを何ケ所も踏査してきたが、最近これまでとは違ったグスクとの関わり方(見方)をしていることに気づいた。どのような関わり方(見方)をしているかは、いくつかのグスクを踏査してからにする。それは、さておいて今日訪れた勝連城跡・中城城跡・座喜味城跡の三ヶグスクについての報告である。天気良好。パカポカ陽気。中城城跡では桜がチラホラ咲いていた。まず、勝連城跡から。

■勝連グスク(勝連町)

 沖縄のグスクを呼ぶ場合、あるいは表記する時、面倒くさいことがある。世界遺産では勝連城跡(かつれんじょうあと)、国指定の文化財では勝連城跡(かつれんじょうせき)である。どれが正しいのかとしつこく質問してくるお方がいらっしゃるが、寛容さをもって勝連グスクと呼びたいものである。

 沖縄のグスクはどうも大和の古墳時代に相当する感覚がある。もちろん沖縄に古墳時代がないので、奈良時代が11.12世紀のグスク時代に相当すると考えた方がよさそうである。日本とは異なった歴史を歩むということもあるが、日本と沖縄の時代区分の対応を500年ほど斜めにずらして考えざるえない。各地のグスクが隆盛を極めた時代は、記録がほとんど残されていないためドラマにもなりやすい(「野史」に記さる時代)。勝連グスクも例にもれず、君臨した王代や文字に記録された文献がない。そのため石積や石畳道、礎石・拝所・井戸などの遺構や発掘された遺物、あるいはオモロや後世に記された記録、野史などから引っぱって歴史を描いているのが現状である(それはまだまだ続くであろう)。

 1429年に南山が滅ぼされ(北山は1416か22年)、琉球は統一国家となるが、その後も勢力を温存していたのが阿麻和利(あまわり)や護佐丸などであった。勝連グスクの阿麻和利は1458年に中城の護佐丸を滅ぼし、さらに首里城まで攻めたが大敗したという。阿麻和利や護佐丸など按司の登場は、統一国家が成立した直後の琉球国の様子を伺わしめている。統一国家が成立したものの、まだ各地のグスクに住む按司達が勢力を持ち機能していることを物語っている。そのような社会情勢は、尚真王が1525年に各地の按司を首里に集居させるという中央集権政策へつながっていった。また、グスクが防御的機能を失ってしまうきっかけになったにちがいない。例外的に、その後も機能する今帰仁グスクなどの例はある。 
 
  勝連グスクは勝連(与勝)半島の先よりに位置する。半島の丘陵上に築かれたグスクは四つの郭に区分しているようで、四の郭が駐車場となっている。一帯に井戸(カー)の跡がある。車で登っていくと両側が高くなっていて四の郭は窪地となっている。四の郭へ登っていく途中に門があったのであろう。南風原(南)門(はえばるじょう)と西(北)原門(にしばるじょう)の痕跡が地名に残っているようだ。そこから凹凸のある石畳道を登って三の郭へ。さらに二の郭、一の郭へと。

 一の郭は約98mあり、そこから360度眺望することができる。眼下に見下ろせる今日のような穏やかな海から、発掘された中国・日本、そして朝鮮、南蛮などの遺物を思い浮かべていると勝連グスクが隆盛を究め時代の交易していた姿が彷彿する。もう一方で積み上げられた石積みに耐え偲んだ人々のうめきも聞こえてきそうだ。
 次は中城..........(続く)

2002年1.26日(土)

 今日は綱渡りの案内役。約束のお客さんにも迷惑をかけてしまった。館内での説明も来館者にあわせての説明となるので大変じゃ。公の仕事ですから、グチなんて言っているとヤメロと言われそう。一気に300名余りもやってくると館内は大変。館内と今帰仁城跡までの案内は、体力を必要とする。体を鍛えていると思えば一石二鳥か。今日は、おじいとおばあが多かったな。でもグスクや出土品や歴史に感心を持った方々が多かったので、まあ楽しい案内。それとは別に、陶磁器の研究会も開催されていて、専門家に陶磁器を観覧いただき、今帰仁グスクから出土した展示遺物は満足したはず。

■中城グスク(中城村泊)

 中城グスクの呼び方は、ダブルグスクなので時々どうしようか迷うことがある。中のグスクという意味に違いないのであるが、周辺にいくつかグスクがあり、その中央部にあるグスクなのか。それとも中規模のグスクのことなのか。あるいは中城間切の村名にある大城村と中城村(後に伊舎堂村改称)があり、その中城と関わりで名付けられたのであろうか。そんなことが頭をよぎる。1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に「中具足城」、「おもろさうし」に「なかくすく」とあり、古くから「ナカグスク」であったことに変わりはない。標高約155〜165mの琉球石灰岩の丘陵にある。入城したところは、どうも裏門らしい。裏門が正門といった感じ。一帯はあまりにも出来すぎた感がしてならない。三の郭は別名新城とも呼ばれ、一〜二の郭とは築城年代が異なるのであろう。

 正門の方に回り、そこから再度入城する気持ちに切り換えるとグスクが機能していた時代が、凸凹の石畳道や曲がりくねった正殿までの道筋やいくつかの門、そして首里と久高への遥拝所、雨乞いの御嶽などがあり、グスクが機能していた時代を感じさせてくれる。中城グスクの王統に関わる歴史的な史料が非常に乏しい。そのため『毛氏先祖由来伝』や「おもろさうし」や『球陽』の記事で歴史が描かれている。(他のグスクも大方そうである)

 中城グスクはもとの道路や集落跡などとの関わりで見ると理解しやすいに違いない。裏門から入いていくと本来のグスクとして違和感がある。今帰仁グスクの鳥居や七・五・三の階段と同様な違和感である。後で確認してみたら、裏門あたりは学校や馬場に使われている。違和感はグスクと関係ない後世の建物があったことに起因しているようだ。

 中城グスクは正門から入り、そこから出て行く感覚、その視点でみていく必要があることを実感。正門から入城してみると、やはりグスクが機能していた時代が不思議と体感することができる。今回、その視点で中城グスクを回る余裕がなかった。もう一度、正門から入り第三の郭まで踏査してみたい。中城グスクは、沖縄のグスクで桁違いに大きなグスクの印象を受けた。何故だろうか。単なる規模の問題ではなかろう。

 三の郭(新城)部分が護佐丸の築城(拡幅)の可能性が大きいようである。三山統一後も各地のグスクに按司達が居住していた時代である。勝連グスクもしかりである。その当時のグスクが機能していたの証であると同時に、護佐丸と阿麻和利という勢力を持った按司の存在が、1523年に各地の按司を首里に住まわせるという、中央集権国家を形成することにつながっていったであろう。

 後に中城グスク内に中城間切番所が置かれ、明治15年に間切番所の一室を教室にして中城小学校が開設されている。同19年に城外に学校が移されている。大正9年に同校が屋宜に移されると跡地は馬場となる。グスク内にあった番所(役場)は昭和21年に奥間に移されグスクは無人化してしまう。

 機能していたグスクが、本来のグスクとしての機能を失っていった。その後、番所や学校などとして使われていく。グスクそのものの姿や現在に至る歴史を読みとっていく作業も興味がつきない。

 座喜味城跡へ(続く)

2002年1.27日(日)

 石川市立博物館友の会の皆さんが「沖縄の世界遺産めぐり」(北部編)ということで訪ねてきた。歴文(展示)・今帰仁グスク・今帰仁ノロ家・崎山の神アサギ・池城墓・仲原馬場・ティラガマ・源為朝公上陸の碑・百按司墓・大北墓をゆく。贅沢な中身のゴールドコースである。今帰仁グスクの桜が満開である。しかし、風の冷たい一日でした。予定通りまわることができた。ラッキーだったのは、今帰仁ノロ家の簪(カンザシ)と勾玉を実際に見ることができたことであろう。中には私の講演を聞いたり、スライドで見たりしている方も何名かいたが、「やはり現場で、現物を見ながら話を伺うことに魅了されました」とのお礼の言葉。嬉しいですね。

 「ノロや神人は公務員です」と話しはじめると??とけげんな表情する方が必ずいる。しめたものである。そこから祭祀について、神人の役割、神人の祈り、祭り。そして祭祀を通して琉球という国をみていく。今帰仁グスクのテンチヂアマチヂ(別名カナヒヤブ)で御嶽・イビ、ノロの祈り、ムラ人の関わりを説明。神アサギでは御嶽・神アサギ・集落、そして神アサギ文化圏(北山文化圏)について、池城墓では近世初期の琉球の文字文化、運天では、琉球の県民性をつくりあげた港、さらにオランダ墓を通して長崎の出島、屋我地島と古宇利島の出島計画。大北墓では今帰仁グスクで君臨した監守とその一族の墓であること。源為朝と琉球の大和化など。そして沖縄の人々の神観念........へと。

 今帰仁や山原をフィールドにしながら14年近い歳月、地域調査や研究をしてきた。現場で物を考え、言葉を発すること。その姿勢を貫いてきたし、これからもそうしていくだろう。現場に行くたび新しい発見があり、新鮮な思いを抱いている。何回行っても飽きることなく迎えいれてくれるムラ・シマ、そして人がいる。それは人々が積み重ねてきた歴史・文化の厚みだと実感している。地域調査を広め、そして深めていけばいくほど、人間としての寛容さが問われている。そんな思いにかられている。


2002.1.28日(月)

 本日休館日。桜見にでも行ってこうようか? 行くなり!


2002.1.29日(火)

 今帰仁城跡周辺整備計画策定委員会と国頭郡小・中学校長研修会があった。二つが重なって、時差で出席。校長研修会は2時から4時半まで。講話と説明が入っている。90名余の参加者なので、どうしようか? 一昨年と同じテーマではな!手抜きはないかと考えたあげく、「神人」の映画を上映することに決定。校長研、昨日から難しいテーマでの研修会だ。それならば、気分がさわやかになる話とサクラ見のグスクまわりと相成りました。サクラは満開。サクラの下で花見する方はゼロ。沖縄では敷物を敷いて酒やご馳走を食べる姿はほとんど見かけない。今帰仁グスクでもしかり。

 話は戻って「神人」の映画。解説は少しばかりして、前回上映の時のチラシが余っていたので配布。解説と新聞記事を読んでいただければいいかなと略。ここでは「神人」の役割について。ノロをはじめ神人は「公務員です」。ノロは首里王府から辞令書を賜わり、そして御嶽における神人の祈りは「五穀豊穣」「ムラの繁盛」「航海安全」の三つが柱。神の祈りから国家の仕組みを見出すことができる。祭祀は「神遊び」ともいい、まさに人々の休日である。詳細については触れないが、支配する側と支配される側の攻めあいが祭祀や神人を通して見えてる。国とは何か? そんな話題を提供した校長研修会だった。



2002年1月31日(木)

 天底小学校6年生(亜耶・千鶴・千夏)から、思いがけない賞をいただいた。「ありがとう賞」である。
    「私たちは館長さんにインタビューをして、答がかえってきてとても
    助かりました。そのおかげで中間発表もうまくいけて、うれしかった
    です。私たちは、歴史のことが、あまりわからないけど、次くるときも
    よろしくおねがいします。お世話になりました。ありがとうございまし
    た。」
 学習発表会の招待状をもっての来館。どんなインタビューを受けたか、しかと覚えています。発表会に参加できないのが残念。きっと報告があると思う。楽しみです。
 「ムラ・シマ講座に参加した○○ですが、留学するので今帰仁のまつりなどのアルバムをつくって持っていきたいのですが、写真を貸して下さい」との電話。「じゃ、準備しておきましょう」と。これまで普段着で関わってきた子どもたちが、歴文からもらったものを、また返してくれる。ありがたいですね。子どもたちが大きく育っていく姿をみる。こういう、仕事をしていての満足感。感謝である。

 「なきじん研究11号」の出稿。初回は割り付け編集のモデル出し。それが決まると200ページ分一気に出す予定(最終ページ約280頁予定)。内容は写真資料で今帰仁を俯瞰的に眺めていこうとするもの。「写真にみる今帰仁」を平成2年から12年まで100回シリーズで報告した原稿と写真をベースに、それに含まれていない写真や原稿も追加していく。また、「上杉県令日誌」(明治14年)の羽地間切から今帰仁間切、そして本部間切具志堅村までの道筋(スクミチ)を踏査してみる。ところどころにコラムをいれ、ムラ・シマを歴史や神アサギや御嶽など、通りすがら立ち寄ってみようと考えている。編集作業で今帰仁の歴史や文化、そして風土がどれだけ描けるか。苦労もあるが、楽しみも盛りだくさんある。

 今帰仁グスクの桜満開です。今週あたりまでが見ごろでしょうね。訪れる人も多し。
 1月の最終回、よう動いた月でした。そんな印象。目的は違うが、2月も大きく動きそう。このPCの容量が大きければ、写真や図を入れて分かりやすい画面にできるのであるが。それは4月以降かな?

 昨日は、十文字学園女子大学(埼玉県)の大友ゼミのメンバー来館(大友助教授、学生8名)。昼食も食べずに1時間半。ご苦労様。初めての学生がほとんど。大和に比べれば小さな島かもしれないが、この島が琉球国、そして一国としての歴史・文化を持っていること。日本の一地方では片付けられない国の存在に気づいてくれただろうか。一人でも沖縄に取り付かれる人がいたら嬉しいですね。