2001年11月記録
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2001.11.28(水)

 
12月6日(木)の午後7時から「神人」の16mm映画(記録映画)を上映する予定である。9月16日に大阪の郷友会から贈呈されたフィルムである。1975年撮影の映画で東映の当時若手のメンバーの製作である。あれから25年の歳月がたつ。9月16日の大阪での映写会に私は立ち会った。故郷を離れ異郷で生活されている方々の胸の内には忘れることのできない熱い思いが流れていた。それは二世、三世になっても.......。映画の最初に「われわれは、何処からきて、何処へ行くのだろうか......」と流れる。

 今回の上映は、ムラと故郷を離れた方々との掛け橋になればと思う。また、25年前のムラの姿を脳裏に刻んでいただき、さらに25年先へ伝えてくれることを願っている。上映のためにチラシや看板づくりの一日でした。


   
  ▲「神人」の映画のチラシ
 

2001.11.27(火)

 23~25日まで久米島を訪ねた。「久米のきみはゑ五○○年」の展示会はどうしても自分の目で見ておきたかった。久米島をめざして空港についた。まだ飛んでいたのかと思うようなプロペラ機に乗るはめになった。その緊張もあって上空から久米島を眺める余裕など全くない。それにかこつけてしっかりと寝てしまった。いつの間にか久米島空港に到着。天気はまあまあ。お昼にはまだ早いのであるが、まずは腹ごしらえ。食事をしながら三日間の研究会やシンポジウムや展示会など予定、それと宿泊地の確認。

 一日目、研究会の開催まで島を回る時間がないので、空港から自然文化センターまでタクシーに乗る。途中、運転手さんに「鳥島の方々の気質はどうでしょうか?」と声をかけてみた。「う~ん、むかしは喧嘩していたが.....」と言葉を濁した。「喧嘩っ早いのですか?」と聞いてみたが返事がなかった。別の方にも同じような質問を投げかけてみた。どうも、私が問いかけた方々は鳥島の人の性格や気質をつかんでいないような返事。「気性は激しいですか?」と訪ねてみたのであるが「そうだね」とそっけない返答。もしからしたら、久米島の方々が鳥島の方々の性格を言いあてる言葉を持っていないのかもしれないと勝手に考えたりもした。鳥島が久米島と明らかに生活や言葉が違うということは充分認識している。久米島の方々は物事の良し悪しをはっきりと言わない性格なのかもしれない。

 「久米きみはゑ」の企画展は見事。職員の苦労がにじみ出ている感じ。資料の借り出しの苦労を知っているが故に、そんな思いにかられた。展示を観ながら「今帰仁あおりやえ」(今帰仁阿応理屋恵)の展示会のイメージを膨らませていた。君南風や今帰仁阿応理屋恵の継承を追いかけていくことは、まさにその地の歴史をたどることでもあることに気付かれた。久米島の二つの間切(具志川・中城)のノロ全体を統括する君南風、そして山原全体の祭祀を掌ったといわれる今帰仁阿応理屋恵。両者とも三十三君の一人である。もう一人伊是名のおおあむを含めて考えると祭祀を掌ったノロの役割がはっきり見えてくる。

 展示されているのは、櫃・君南風の勾玉・ミチブイ(頭冠)・系図・君南風之始祖伝記・胴衣などノロの祭祀道具など。遺された神衣装の数の多さと、祭祀を延々と引き継いできた神人とムラ人、そして首里王府との関わりを歴史の重さとして実感させられた。展示されたものと翌日のシンポジウムから久米島が果たしてきた役割や君南風の継承などから、山原における今帰仁阿応理屋恵が果たした役割について研究を深める手がかりをいくつも得ることができた。(そのことは近々まとめることにする)

 二日目、時間的にゆとりがあり久米島の村々を何度も回ることができた。特に仲地と山里は君南風の祭祀(六月ウマチー)が行われる君南風殿内・仲地蔵下・玉那覇蔵下・君南風カーなどの確認。そしてウマチーと密接に関わる水田を訪ねることができた。ウマチー(稲作)を通して、琉球という国の姿を投射することができるに違いない。そんな大それた仮説を思い描きながら久米島の水田のあぜ道を踏みしめていた。

 三日目、具志川グスク、宇江城グスク、蔵元跡、天后宮、太陽石、島尻のタカ墓などを訪ねた。具志川間切(村)は1757年に今帰仁按司(王子)が今帰仁間切に加えて久米具志川間切の総地頭職を授かったことがある。そういうことや君南風、さらにムラ移動など、久米島は今帰仁の歴史を紐解く上で様々な手がかりを得ることのできる重要な島である。鳥島の人の顔、そして久米島の人々の顔を見つけたいい旅でした。
 


    ▲久米島仲地の水田


2001.11.22(木)

 
12月6日(木)『神人』の16mm映画の上映決定。1975年に撮影された映画である。9月16日に大阪で上映、そして今帰仁に贈られたもの。10月上映の予定が次々と順延になってしまった。ここで手を打たないと来年の夏になりそう。体調が回復する春先までは待てない。手足が欲しいところだがここは辛抱のしどころ。映画については、来週あたり紹介する。

 明日から久米島。もちろん君南風(チンベー)の件もあるが、もう一つ楽しみにしているテーマがある。明治36年12月20日汽船寿丸で第一回目の久米島への渡島。そして仝7年2月11日に2回目の渡島をさせた。その日は鳥島の人々にとって記憶するべき日のようだ。鳥島の人々への関心は、琉球国の硫黄の産地であったこと、中国への朝貢品の中心となる品の一つに硫黄があった。1609年の薩摩の琉球侵攻のとき、与論以北を薩摩の領地に割譲したのに、与論より以北にある鳥島をなぜ琉球の領地として残したのか。それと三山鼎立時代、北山・中山・南山の三山とも硫黄と馬を明国に朝貢している。その時の硫黄の産地は鳥島に違いない。三山の時代から延々と硫黄を採掘してきた人々の顔が移住した久米島の鳥島にのこっていやしないだろうか。過去の歴史的な表情が鳥島の人々の生活に可視的な遺産としてありはしないだろうか。そんなことを期待しながら渡ることにする。楽しみに。


2001.11.21(水)

 「今帰仁が生み出した先人達」をテーマに講演。村内にある北山高校で。島袋源一郎・平良新助・島袋源七・霜多正次・仲宗根政善・新城徳祐・目取真俊などを中心に話した。高校の図書館に入るまでは別の話を考えていたのであったが、自分自身がどの人物とも関わりを持っていることに気付いた。それで自分と先人達との関わりについて話すことにした。

 仮設の図書館は武道館の大半を利用している。新館が出来るまでの仮住まいである。入って右側に先人達の展示がなされている。館内全体が一体となった展示にみえる。先人達のコーナーが落ち着いた雰囲気を作り出している。偉い方々が仰々しく偉ぶることなく、今帰仁の風土で私たちは育ち、そこをベースに研究や作品ができています。感謝といいたげ。そんな雰囲気である。私はその空間が好きだ。図書館が人物を作り出すと同時に、地域(風土)が人物を作り出していることを実感させられる。

 島袋源一郎が歴史を中心の書物。今帰仁グスクをバックに抱えた風土で育った人物。東側の島袋源七は勢理客、勢理客ノロの在地。おもろでせりかくのろの、あけしののろのと謡われる。それが島袋源七を言語や民俗の世界へ導いている。その職歴が琉大図書館の島袋源七文庫の資料群と重なってくる。西に歴史を背負った島袋源一郎と新城徳祐、東に民俗・言語を背負った島袋源七、そして中央部に言語とひめゆりの仲宗根政善と文学の霜多正次・目取真俊が生まれる。また中央部に移民や民権運動を背負った平良新助がいる。それらの人々の働きや作品や研究は、まさに今帰仁の風土が生み出した感がする。「風土と人物」を視点に、先人達の研究や考えなどを思いはせ、描きながら、展示をバックにしての講演であった。.......図書館を必要とする人は図書館がないからではなく、必要とする人は名護でも那覇の県の図書館にでもいく。それはシマチャビ(離島苦)を抱えるフイジマからの生の声。その通り........納得。


2001.11.20(火)

 
調査をする。調査をしよう。普段そのような意識が余りない。行って見たら調査をしていた。そんなことが多い。今朝もミーティングが終わると帰路平敷の原石の前に立っているし、また池城墓を眺めながら撮影をしている自分の姿がある。

 平敷というムラは小字(コアザ)研究の裾野を広げ、そして深下させたところである。平敷と崎山との境をジニンサガーラが流れ、下流域はヒチョシナガーラと呼ばれる川が炬港(テーミナト)に注いでいる。ムラの境界がいびつになっているところである。普通は道路や谷間や川筋がムラとムラとの境界になるが、途中まで川筋を境にしているが、スガー御嶽(中城)は、川を越えた御嶽まで平敷の地番になっている。川を越え隣接しているのは崎山であるが、そこは崎山の御嶽(ウタキ)ではなく仲尾次(中城)の御嶽である。小字だけでなく、ムラの境界の線引きがどう行われたのか、その部分の線引きの決定はどう行われたのか興味深いものがある。

  話題はもどすが、明治の「平敷村略図」(明治32年以前)が小字研究の大きな手がかりになったのであるが、また現存する原石が実証的な研究の後押しをしてくれた。その一つが「井 □□さく原」(外サク原のことか)と「大こふ原」の原石である。この原石は平敷の御嶽の西側にあるマチヌヘイ(小さな杜)にある。かつて大きな松が生えていたみえ、松クイ虫で枯れて処分された根が残っている。かつて研究の対象にした地に立つと鳥肌がたつ。しかと自分の手でつかんだ成果が、もう一度力になってくれそうである。近く確認する古文書へと繋がっていくような気がしている。その時期がやってきたのだと、「井 □□さく原」の原石は語りかけているような気がしてならない。(原石の写真は省略)
                         
   
      上空から見た平敷付近
(画面をクリックすると大きな画面で見れます)


2001.11.18(日)

 ノロ関係資料の整理に没頭した一日でした。その成果の一部を提供しましょう。今帰仁間切には今帰仁ノロ・中城ノロ・玉城ノロ・岸本ノロ・勢理客ノロ・湧川ノロ・天底ノロ、そして古宇利ノロが知られています。現在、祭祀に出てくるノロは今帰仁ノロ(代理)・中城ノロ・勢理客ノロ(代理)・湧川ノロ・古宇利ノロ(現在出していない)がいます。ノロ関係資料の一つ「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年)があります。その内容を紹介しましょう。

 玉城ノロの継承についての願書です。玉城ノロクモイ職は、先々わが先祖に下命されたようであるが、数百年前ことはわかりません。また、口伝や記録などもありませんので、中古の六代前から陳述しましょう。

 先祖の武太平良(六代目)の妹ウトが継承。平良筑親雲上(五代)の姉は玉城村松田方へ嫁いたマカへ継承。平良筑雲上(四代目)の妹カナへ継承。その後、本家内に継承すべき人物がなく五代の先祖平良筑親雲上姉マカの嫁ぎ先の松田方の外孫与那嶺村の内間方から養女なったナベに仮の継承をさせた。その後も血統内に継承する人物がなく、前職のナベの養妹、松田方の次女マツに継承させた。このマツの在職中にわが血統に相当の人物が出てきたので、その際交代してもとに帰すよう協議がなされた。その時、関係する(ノロ管轄村)玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ケ村、並びに松田方へ申入れをし、返すことになった。明治27年5月から見習として本職同様に勤めた。ノロ継承の移動によりノロ殿内は玉城村内に設置されるのが慣例、従ってノロの住む家も必ずノロ殿内の敷地内にあるべきです。前職者の松田マツは自分の血統が継承すべきではないこと悟り住家を去って仲宗根村山城方へ引っ越した(明治31年)。その跡に新しく家を建て、跡職と定めたツルを住まわせたノロ殿内(神社)の管掌させた。前職の松田方では親類中より撰挙しようと考えているようです。そのため、ここから提出した採用願に署名(連署)しないのです。そのようなことですが、前件のことを御洞察してツルへ下命下されたく、ここで理由を開陳するものです。平良一門ののみの連署がなされています(明治35年5月)。

 玉城ノロの継承についての古文書ですが、中城ノロの継承について同様な古文書が残っています。ノロの継承ははっきりしているようで、実はそう単純なものではないです。この古文書からノロの継承が複雑極まっていることを思い知らされました。


2001.11.16(金) 

 久米島自然文化センターで「久米のきみはゑ五○○年―祭祀用具にみる神女の世界―」(11月3日~12月9日)が開催されています。「きみはゑ」はチンベーと呼ばれ、君南風と表記されています。高級女官の三十三君の一人です。今帰仁阿応理屋恵(ナチヂンアオリヤエ)も三十三君の一人です。チンベーへの関心は、今帰仁村にも同格の今帰仁阿応理屋恵の存在があるからです。オーレーやアットーメーなどと呼ばれています。この展示会に今帰仁阿応理屋恵の勾玉(今帰仁村歴史文化センター所蔵)も展示されています。

 1667年に三十三君の多くは廃止されたようですが、伊平屋のあむがなしと久米島の君南風、そして今帰仁阿応理屋恵の三職が残ります。今帰仁阿応理屋恵はスムーズに継承されてきたわではありません。

 第二尚氏系統の北山監守を勤めた監守の夫人や娘や一族ゆかりの女性がその職についています。北山監守を勤めた監守(今帰仁按司)一族の墓が運天港付近にあります。大北墓、別名按司墓と呼んでいます。その墓に「アヲリヤイアンシ」とあり、そこに三名葬られています。大正末期に鎌倉芳太郎氏がウォーレウドゥンの遺品調査を行っています。『鎌倉芳太郎氏ノート』によると曲玉・玉草履・胸当などがあったことがわかります。歴史文化センターで所蔵しているのは勾玉と草履(破損状態)、水晶玉の三点です。

 今帰仁阿応理屋恵は国頭地方の最高位の神女と言われていますが、どんな役割を果たしていたのか、北山監守と表裏一体の今帰仁阿応理屋恵についても、この機会にもう少し研究を深めてみたいものです。そのために久米島のチンベーのシンポジウムに参加する予定。


2001.11.15(木)

 第4回目(5回シリーズ)の公民館講座。古宇利島がテーマ。古宇利島が郡島と記される時代があるが、「郡」と書いて「こおり」と読んだのでしょう。
すると、音韻は以下のように変化する傾向にあります(三母音)。
   こ→く
   お→う
   り→い
 「こおり」は「くうい」となります。つまり「こおり」は、クゥイと発音された可能性が大です。古宇利島のことは、古くは郡と書いたのですが、発音としてはクゥイと呼ばれていたのでしょう。現在でも古宇利島のことをクゥイ島と呼びますが、古くからの呼び方だったのでしょう。また、クゥイのクはフに変化もありますので、クゥイもフィも十分可能です。ですから郡島(古宇利島)のことをクゥイジマ、あるいはフィジマの両方の呼び方があっても不思議ではありません。語義としては、越える(クィルンあるいはフィルン)(海を越えた島)に因んだ呼び方とみていいと思います。近世になって古宇利村と表記されるようになります。

 18世紀中頃になると、今帰仁間切の地頭代(今の村長)は古宇利親雲上を名乗り、屋号はフイヤーやメーフイヤーがつくようになります。現在でも地頭代のでた家にはメーフイヤーの屋号が残っています。歴史の可視的な遺産なのです。今日の講座は、井戸やポットホール(化木林?)など不思議不思議な古宇利島の紹介でした。詳細については『なきじん研究』1や7号を参照のこと。 
 

2001.11.14(水)

 運天の字誌講座は、やはり地名で盛り上がりました。運天という字(アザ)は明治41年まで運天村(ムラ)と呼ばれ、その後から字(アザ)運天と呼ばれるようになります。因みに村(ソン)のことは間切(マギリ)といいます。

 運天にはマーウイ(馬場のこと)がクンジャーやムラウチ、そして公民館(ムラヤー)の前を通る松並木の通りがマーウイだっといいます。戦前産まれの先輩方は、記憶にありました。ムラウチ(運天港付近)のマーウイは運動会や学校の卒業式などで利用されたようです。一つの字で三つも馬場があったのは面白い。間切(ムラ)全体には東の天底馬場、中央部の仲原馬場、そして西側の親泊(現在の今泊)馬場が知られています。

 ピータチモーがあがりました。ムラ出身者が紡績や出稼ぎに向かう船を運天のモーから見送りをした場所です。生木に火をつけて煙で合図し別れを告げたといいます。また、字出身の出征兵士を見送る場所でもありました。ピータティモー(火立森)に時代が反映しています。黄金森(クガニムイ)には人骨が多い場所が多いが、運天の黄金森は6尺ばかりの穴になっていて黄金が埋められていたとかなんとか........イヤ、兎に角話題が次から次へと出てきます。それが面白い。字誌の醍醐味です。(欠席すると損した気分のようです。)来月は要となる「運天の歴史」をスライドで学びます。
 

2001.11.13(火)

 明日は運天(字誌)、明後日は古宇利島(公民館講座)。そのために、午前中は資料の準備に追われました。

 運天は村名の移り変わり(?→雲見→うむてん→運天)からはじまり、概要・集落の形態・人口の動態・先人達・小字・小地名などについて、みんなで考える。つまり勉強会でしょうか。特に地図を広げて小字や小地名について参加者に語ってもらう予定です。自分たちが住んでいる足元を掘り起こしていくわけですから、真剣そのものかも......。脱線も度々でしょうが脱線からいい知恵やヒントが得られると思います。因みに小字名をあげると、運天原・大川原・水溜原・寺原・喜屋原・大地原・松堂原・山東原・白間原・狭間原の10の小字があります。この「・・・原」が1743年頃に図根点に使われた原石につながるのです。参加者からどんな話が飛び出してくるか楽しみです。「寺原にお寺でもあったのか??」などなど(『なきじん研究』1・7参照)。

 古宇利島は島の案内。スライドを使います。もちろん、島の呼び方や歴史や祭祀など。島の歴史の重みを知ってもらう予定。港・井戸・溜池・ムラヤー・御嶽(七森七嶽)・ポットホール・学校・原石・海神祭・桟橋・人々など。ここにあげたキーワードは、古宇利島のホームページや『なきじん研究』にありますが、必ずしも知識を与えるような話をするものではありません。ここに掲げたキーワードから一人ひとりが生き方を見つけ出していく、あるいは目からウロコが何枚も落ちるような気持ちになる。そんな講座になればと考えています。古宇利島でもやってみたいですね。
 

2001.11.10(土)

 ムラ・シマ講座「玉城をゆく」でした。今回は明治36年に合併した村(ムラ)の痕跡を見ていくことをテーマにしてみた。小学生達の参加があれば、別の方法も考えるのだが.......。
 午後から歴史文化センターと今帰仁グスクの説明。どうにか終わることができました。その後、とうとうダウン。みんなに迷惑かけています。悪しからず。
 

2001.11.9(金)

 次々と押寄せてくる仕事に己を振り返る時間がない........もう少しの我慢と、思っているが予定表のあっちこっちに予約メモが入っています。それはいいことかもしれません。

 さて、昨日は大学で講義。スライドを使って学生達に過去に遡ってもらいました。100年前、あるいはグスクが活発にうごめいていた時代。古琉球の時代を辞令書で。中国へは陶磁器で。いろいろなキーワードで東アジアを動きまわってみました。大学が中山の地にありますので、わたしは北山の地の者だと........。そこには北山の歴史と文化が俄然とあるのだと。激しさや厳しさだけの歴史ではなく、心を洗い清めるような人との出会いや集落や風景があると力説してきました。学生達が山原(北山)に歴史文化がきちっとあるのだと、それに気付いた表情をみることだけでも講義の意義あり。講義中、生徒の出入りが少しありましたが、静かに見たり聞いたりしてくれましたので、帰路は爽快な気持ちでした。

 今日は明日のムラ・シマ講座の下見に。スムチナ御嶽・玉城・岸本・寒水の神アサギの確認。そしてフルマチの跡まで。スムチナ御嶽のイベに三つの香炉。そこは神の降臨の場、三つの香炉が置かれていて磨耗して文字の判読は難しいが「奉寄進」とあり、旅立つときの安全祈願や無事帰ってきたことへの感謝をこめて報告をしたにちがいない。

 三つの村(明治36年)の合併の痕跡を求めるのであるが、それは三つの神アサギにそれを見ることができます。玉城神アサギの近くに「玉城殿内建設記念碑」(昭和6年)があり、昭和の初期にウペフ殿内や内神殿内などの祠がまとめて建設したようです。「玉城ハ元古嶋ニアリテ紀元二千六百年.......外間原ニ移転ス」とあり村移動の痕跡を碑に刻んでいます。また、近くに玉城野呂(ノロ)殿内の祠があり、位牌に「玉城野呂丑の人 帰真 野呂平良カメ」と記してあります。

 二つの神アサギやフルジマ跡からどんな歴史の痕跡を見つけ出すことができるだろうか。明日のムラ・シマ講座が楽しみ。


2001.11.8(木)

 すっかり秋らしくなってきましたね。朝夕はひんやりして肌寒いので、長袖を着てる日が多くなってきましたね。ここ南の沖縄は日中は暑い日もあるので、半袖を着てる人も多いですが、北の北海道でもう雪が降ってるそうです(半袖なんか着れませんね、コートにマフラー・手袋が必要になりますね・・・)。
 

2001.11.7(水)

 今日は小学校の修学旅行生達が朝早く来館するという事で、いつもより30分早く開館しました。み